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鳥海山の頂上を!

2022年11月09日 04時13分00秒 | 霊場
木境大物忌神社(きざかいおおものいみじんじゃ)は、矢島の花立牧場から祓川にむかってすぐのところにあります。鳥海山方面に(西へ)約1.2km。県道に面しているが、木立に隠れていて、見逃しやすいですが、駐車場もあります。



「木境大物忌神社」は、いくつかある「鳥海山」登山口の1つ、「矢島口」の本拠地となった神社です。

伝承によれば、嘉祥3年(850年)に美濃国土田から来た比良衛・多良衛という兄弟が鳥海山を開山し、貞観12年(870年)には修験道当山派を開創した醍醐寺の聖宝(後の理源大師)が鳥海修験を興したとされています。比良衛・多良衛は赤鬼・青鬼と呼ばれるようになり神社の向かい側付近にある「開山神社」に祀られています。





なお、開山後、比良衛・多良衛は麓に下りて土田氏を名乗って土着し、現在も善童鬼の家系という土田家の氏神として祀られいます。


「木境大物忌神社」は、鳥海山の北麓、二合目に位置していて、建長6年(1254年)に改めて出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請して、遥拝所として整備されました。江戸時代には、本山堂には役行者像、新山堂には薬師如来像が祀られ、女性の参拝も許されていたため、別名「女人堂」とも言われていました。
元禄14年(1701年)、「鳥海山」山頂御堂(現・「鳥海山大物忌神社山頂御本社」)の建替えの際に山上の支配権を掌握しようとしましたが、従来から建替えを行ってきた「蕨岡」にかないませんでした。
元禄16年(1703年)には「鳥海山」の峰境についても「蕨岡」との間で争いを起こしましたが、政治上の問題にもなったことから、最終的には宝永元年(1704年)に江戸幕府の裁定によって蕨岡の支配下という事になりました。
実際問題として、1万石に満たない小藩である矢島藩と庄内平野を領して豊かな庄内藩(14万石)との争いともなったので1その経済力の差で敗れたとも言われています。
なお、この採定により由利郡側の山腹七合目から以南は飽海郡に属するとされ、これが現在に至るまで秋田・山形県境が「鳥海山」では北側に突き出した形になった原因にもなっているのです。

更ににかほ市自体が酒田県に組み込まれていた事もあって、通常分水嶺で区切られる県境が歪な形になっています。

最近県境を分水嶺で区切るよう変更させたいグループがいますが、宗教的にも難しいと思いますね。

更に山形県側には現在も修験者のグループがいて修験の姿で遊佐から登山しています。

我が由利本荘市が頂上を獲得するためには、修験者の育成から始めないと無料かも。エセ真言宗や天台宗でも良いので矢島周辺のお寺の力を借りて修験体験ツアーなどを企画するのも良いかも。

2合目からホラ吹きながら山頂目指すツアーをみんなでやりませんか?もちろん白装束で!


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