新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

激しい思い込みの損!?

2018-11-11 12:01:31 | 想いのままに…




以下が、その「激しい思い込み」コメントである。


…………引用開始…………

(前略)


それより何より天寿堂さんの言っている「唯物論は事実を起点に論理を展開、観念論は本質を起点に論理を展開」って、「帰納と演繹」のことですよ。

論理学の本の帰納と演繹のところを唯物論と観念論にすり替えただけのモザイクと言ってよいのか何と言ってよいのか、とにかくデタラメで、これでは観念論だとか唯物論だとかいった概念が出てきた所以も失われてしまいますしね。


…………引用終了…………



上記のような言い切りは、とてもスッキリして気持ちいいのだろう。

でも、言葉は認識の表現であるから、天寿堂氏が「帰納(法)・演繹(法)」知っていて、
敢えて、上記のような書き方をしたのなら、それはそれで「帰納法・演繹法」とは違うのだろう。
とは考えないのだろうか?

例えば、
私を「今は青年だ!」と書くなら、間違いである。
でも、「過去の私は青年だった」なら正しい。

ここを心中で『過去は』と思いつつ「青年だ!」と言ったら、
聞いた人には間違い、
でも、当人には本当である。

だから、ここは決めつけではなく、
「帰納法・演繹法」の事実を彼に突き付けて、
彼の認識を問うのが筋であろう。

私には、それが不可能である。
それは、過去から現在も天寿堂ではアク禁だから…

それに、絶対的観念論者の彼は、
多くの人が分かるように、誤解がないように、
誤読がないように…

表現しようとする意志がないのだろう。
と言うか、その必要性を認識していない。


それは、
「俺は正しい!」
「正しいモノを正しいと書いて何が悪い!」
「正しいモノを分からない者達が悪いのだ!」

「絶対的真理はある!」
「それをない!とする者達には、俺の言説は理解不能だ!」
てな感じかな…


まあ~私が思うには、言葉・表現には、そのレベルがある。

例えば、「今の時間は?」は、日常生活なら間違いではない。
しかし、「今の時刻は?」が、正しい言葉の使い方である。

「時間」とは、連続している時と時の間の長さであり、
「時刻」とは、連続している時を刻んだ瞬間である

天寿堂氏の唯物論・観念論は、帰納法・演繹法とはレベルが違うのかも?
と思うなら、それはそれで気持ちが落ち着けられる。
そして、そのレベルの違いは?と先へも進めるだろうに…

結局、奴はいつも奴のまま、最後は自己正当化の「決めつけ」で終わっている。
と言うか…そのまま去って行っている…

もっともっと!突っ込みを入れて、
天寿堂氏の認識を解明して頂けると、
もっともっと私も安らげるのに…

あ~あ~
他力本願はマザコンだね!
自力本願が自力コンだよ!





以下は参考です。



えん‐えき【演繹】推論の一種、一定の前提から論理規則に基づいて必然的に結論を導き出すこと。通常は普遍的命題(公理)から個別的命題(定理)を導く形をとる。数学の証明はその典型。演繹法。


き‐のう【帰納】推理及び思考の手続の一つ。個々の具体的事実から一般的な命題ないし法則を導き出すこと。特殊から普遍を導き出すこと。導かれた結論は必然的ではなく、蓋然的にとどまる。


帰納の例
「昨日、彼女と会った。今日も彼女と会った。→帰納的推論→ならば、明日も彼女に会うだろう」
つまり帰納とは、手持ちの「情報」から、ある「理論」をつくって、新たな「予想」をたてる形の推論方法です。

演繹の例
「人間は死ぬ。ところでソクラテスは人間だ。→演繹的推論→ならば、ソクラテスは死ぬだろう」
つまり演繹とは、手持ちの「理論」から、ある「情報」を加味して、新たな「予想」をたてる形の推論方法です。

ついでに書き加えると、帰納と推論を完全にわけることはできないと思われます。
簡単に言うと、理論と情報は、にわとりと卵のように、どちらが先かを断言できないからです。

以上、ちらほらと固い言葉を使いました。




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本質って?

2018-11-11 11:28:19 | 言葉・概念

「本質」と書いたら、本質が分かった気になった。
でも…
本質は何なのだろう?
この本質という言葉は、何を表現したモノなのだろう?

例解新国語辞典[第二版]には、
「本質―もののもつほんとうの性質」
「本質的―いちばん根本的で、重要である」と書かれている。
これで分かった気になる。

でも…
「本当の性質」って?
「もの」って?

私の本質、
一人っ子の本質、
父親の本質、
男性の本質、
老人の本質、
人間の本質、
哺乳類の本質、
生物の本質、
生命体の本質、
物質の本質、、
地球の本質、
宇宙の本質、
「もの自体」の本質、
……
全てのモノ・コトに本質が考えられる。
ならば、本質の本質である。
本質的な本質とは何なのだろう?

それが、ヘーゲルの云わんとする「絶対精神の自己発展」なのだろう。
しかし、「絶対精神の自己発展」と一言で表現した所で、その具体的内容は?

上記の場合の「私の本質」と、
一番下の宇宙の性質から一番上へ登れた時、
それが私の本質。

個々の本質に到達できずとも、個々の性質を重ね合わせれば、
私の本質へと近づけるのだろう。

以上から私が思うは~
人間が、対象の本質を識る事・到達する事は不可能である。
それでも、上記のように、個々の性質を求め、
重ね合わせる事で、そのモノの本質へ近づけられる。

だから科学である。
科学の使命、個々の事実から、ある纏まりを構成し、その纏まりの性質を識る事。
または、ある事実を一枚また一枚と順番に剥がして、その個々の性質を追求する事。

私の事なら、
一人っ子、男性、父親…と一つ一つ剥がして、その個々の性質を調べ、
最終的には、宇宙の性質へ…

性質を求めるには、本質の追及が必要なのだろう。
本質の追及がない限り、正確な性質は分かり得ない、だろう。
これが、本質を求める筋道なのだろう。









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昨日の出来事から~

2018-11-11 10:49:01 | 想い思い考える

昨日、夕食は外食にすると決めた。
場所は、家から歩いて15分位の所である。
以下は、その時の家内と私のやり取りである。

家内「○○(私の事)!自転車で行く?」

○○「いいけど…………」
○○「一台ライトが壊れていて…
○○「以前に買ったダイソーのライトのあるか?ないか?」
家内「何で自転車のライトの話になるの?」
○○「だって、三人(息子・家内・私)だと、古のもいるでしょ!」
家内「何を言っての!私は歩き!」
○○「そっちこそ何を言っての!」
○○「だったら初めから、『私は歩くけど』と言えよ!」
家内「そっちこそ!三人が自転車か、どうか?聞けばいいでしょ!」
○○「言い出しっぺが、誤解のないよう言うのが筋だろ!」

以後も、同じような会話が続いた……

そこで私が息子の意見を聞こうと事の経緯を息子に説明している時、
机の上に置いた閉じたパソコンの上に、
話を聞こうとした息子がオレンジジュースの入ったコップを置いた。

私は、『濡れたらパソコンが危ない!』と思い、
私は、息子に家内との話をしながら、コップを横にどかした。

そしてパソコンを移動しようとした時、その手がコップに触れて、
倒れて中のジュースが零れ、息子のジーパンを濡らしてしまった。


息子「濡れたでしょう!」と怒って言った。
私「パソコンの上に置くから…」
息子「話ながら動かすから…」
私「お前が置かなければ零さない!」
………
私は、息子の非を言い立て…
息子は、私の非を言い立て…

結局…そのまま、ウヤムヤになった…
その後は、私は思った『一体全体!誰が原因なのか?』

そして、考えた

コップが、パソコンの横でも、私は移動させた。
パソコンが、机の上にあれば、私は移動させた。
私が話しながらでも気を付けていれば、零さなかっただろう。
パソコンが机の上になければ、私のコップ移動はなかった。
コップの移動がなければ、話ながらでも問題の発生はなかった。
ジュースが零れた地点に息子の足・ズボンがなければ問題もなかった。


結論として、今回の問題が発生するには色々な要因がある。
それでも、今回の問題のスタートは、私が机の上にパソコンを置いた事である。
これは、今回の原因は、私にある、という事が判明したのである。










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