以下が、その「激しい思い込み」コメントである。
…………引用開始…………
(前略)
それより何より天寿堂さんの言っている「唯物論は事実を起点に論理を展開、観念論は本質を起点に論理を展開」って、「帰納と演繹」のことですよ。
論理学の本の帰納と演繹のところを唯物論と観念論にすり替えただけのモザイクと言ってよいのか何と言ってよいのか、とにかくデタラメで、これでは観念論だとか唯物論だとかいった概念が出てきた所以も失われてしまいますしね。
…………引用終了…………
上記のような言い切りは、とてもスッキリして気持ちいいのだろう。
でも、言葉は認識の表現であるから、天寿堂氏が「帰納(法)・演繹(法)」知っていて、
敢えて、上記のような書き方をしたのなら、それはそれで「帰納法・演繹法」とは違うのだろう。
とは考えないのだろうか?
例えば、
私を「今は青年だ!」と書くなら、間違いである。
でも、「過去の私は青年だった」なら正しい。
ここを心中で『過去は』と思いつつ「青年だ!」と言ったら、
聞いた人には間違い、
でも、当人には本当である。
だから、ここは決めつけではなく、
「帰納法・演繹法」の事実を彼に突き付けて、
彼の認識を問うのが筋であろう。
私には、それが不可能である。
それは、過去から現在も天寿堂ではアク禁だから…
それに、絶対的観念論者の彼は、
多くの人が分かるように、誤解がないように、
誤読がないように…
表現しようとする意志がないのだろう。
と言うか、その必要性を認識していない。
それは、
「俺は正しい!」
「正しいモノを正しいと書いて何が悪い!」
「正しいモノを分からない者達が悪いのだ!」
「絶対的真理はある!」
「それをない!とする者達には、俺の言説は理解不能だ!」
てな感じかな…
まあ~私が思うには、言葉・表現には、そのレベルがある。
例えば、「今の時間は?」は、日常生活なら間違いではない。
しかし、「今の時刻は?」が、正しい言葉の使い方である。
「時間」とは、連続している時と時の間の長さであり、
「時刻」とは、連続している時を刻んだ瞬間である
天寿堂氏の唯物論・観念論は、帰納法・演繹法とはレベルが違うのかも?
と思うなら、それはそれで気持ちが落ち着けられる。
そして、そのレベルの違いは?と先へも進めるだろうに…
結局、奴はいつも奴のまま、最後は自己正当化の「決めつけ」で終わっている。
と言うか…そのまま去って行っている…
もっともっと!突っ込みを入れて、
天寿堂氏の認識を解明して頂けると、
もっともっと私も安らげるのに…
あ~あ~
他力本願はマザコンだね!
自力本願が自力コンだよ!
以下は参考です。
えん‐えき【演繹】推論の一種、一定の前提から論理規則に基づいて必然的に結論を導き出すこと。通常は普遍的命題(公理)から個別的命題(定理)を導く形をとる。数学の証明はその典型。演繹法。
き‐のう【帰納】推理及び思考の手続の一つ。個々の具体的事実から一般的な命題ないし法則を導き出すこと。特殊から普遍を導き出すこと。導かれた結論は必然的ではなく、蓋然的にとどまる。
帰納の例
「昨日、彼女と会った。今日も彼女と会った。→帰納的推論→ならば、明日も彼女に会うだろう」
つまり帰納とは、手持ちの「情報」から、ある「理論」をつくって、新たな「予想」をたてる形の推論方法です。
演繹の例
「人間は死ぬ。ところでソクラテスは人間だ。→演繹的推論→ならば、ソクラテスは死ぬだろう」
つまり演繹とは、手持ちの「理論」から、ある「情報」を加味して、新たな「予想」をたてる形の推論方法です。
ついでに書き加えると、帰納と推論を完全にわけることはできないと思われます。
簡単に言うと、理論と情報は、にわとりと卵のように、どちらが先かを断言できないからです。
以上、ちらほらと固い言葉を使いました。