新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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割り算について…

2022-06-05 15:59:56 | 悟得びと算数・数学
割り算について…

小学校で習う文章題の割り算は、

初めは、(一)16本の鉛筆を4本ずつに分けたら、何セットに分けられるか?
次に、(二)16本の鉛筆を4人で同じ数ずつ分けたら、1人何本ずつ?
そして、 後は、16㎝は4㎝の何個分?16は4の何倍?

(一) の16本の鉛筆を4本ずつに分けたら、何セットに分けられるか?

 4本で1セットだから、
16本÷4本/セット=4セット 

この除法は、シンプルで子供達も理解し易い。



(二)の 16本の鉛筆を4人で同じ数ずつ分けたら、1人何本?

16÷4=4 であるが…
この「4」とは…そもそも何なのだろか?
16本÷4人=4本/人 だから、4本なのだろうか?

本来は以下のような意味である…と私は考えた。

16本を、一人に一本ずつ配るなら、四人で一巡だから、
一巡では、1本/人×4人=4本 

一巡で4本だから、16本配るには、16本÷4本/巡=4巡、

「16÷4」は、
16本の鉛筆を、一巡一本ずつ、4巡で配り終えたから、の計算式である。


一人一巡で分けられる鉛筆は一本だから、
一人分は、1本/巡×4巡=4本……もっとも、この部分は省略されているが…


しかし、これを一人一回に2本ずつ配るなら、
一つ巡は、四人なので、 一巡に配られる合計は、2本/人×4人=8本/巡
一巡が8本なので、総数16本なら、16本÷8本/巡=2巡、で配り終わる。

一人当たり、二巡で、一巡に2本だから、合計は、2本/巡×2巡=4本。





(一)と(二)を比較すると…見てみて分かるように…
(二)の方が、一手間かかっている分~色々な分け方があり得る…
「一巡一人ずつ一回一本だから、一巡四人で四本、16÷4=4(巡)」、四巡即ち4本」
「一回二本で2巡ならば、一巡8本となり、除法は16÷8=二巡となり、2本/巡×2巡=4本」。

(二)の文章題は、一回の配る本数によって、除法の式が異なってくる。



ここで問題を、

16本の鉛筆を4人に一回に4本ずつ配るなら、何回で配りきるか?

四人に一回に配られるのは、「4本/人×4人=16本」。
また、鉛筆は16本だから、16÷16本=1(回)
または、16-16=0…一回の減法で終わったので、1回。


以上の事から思った事は~
過程的な展開・像で考えれば、考える程に、言語表現が難しくなる。

どんな人間も決して「言葉で考えてはいない」。
言葉を「自己の具体的な体験像・経験・運動像」に変換して、考える…か、
言葉を「自分の言葉・知識・非運動像」に変換して、考える…か、であろう。

「言葉で考える」ではなく、考えている像の中身が、
「言葉に近い・言葉的な像になっている」という事なのだろう。


真の像とは、五感情像であり、
言葉的な像とは、単感or二・三感的な像…という事なのだろう。


ちなみに…今回の記事を書いた結果、私は以下のような事に気付く事が出来た。

私の「0÷0」と「0×0」の記述での像とは、
決して「0÷0」像でも「0×0」像ではなく…

授業中の子供達が、黒板の計算式~
「15÷15=1」といった、「同数÷同数=1」の除法や
「0×8」や「6×0」のような、「0の入る乗法=0」…の結果から、

「0÷0」と「0×0」の計算を如何に考えるか…
という像を描いていた…という気付きを得られた。

像のない言葉ではなく、言葉とは異なった像を描いていた…という事だろう。
私は、客観的な現実像を主観的な内界像に変換して、言葉にしていた…

現実に対しての主観的な問い掛け…だった~という事だろうか?!
















コメント (3)
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「像」で考えるなら~

2022-06-05 11:04:38 | 悟得びと認識論



以下のようなコメントから~



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
算数の計算は何の為~


・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
私がここで思ったのは、自由びとさんが私の「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」だというコメントを読んで新たに書いた記事に
「同じ数字」ということから「では0×0は?」とか「0÷0は?」という方向にいった自由びとさんと「像で考えるのと言葉で考える(文字や数字という記号で考える)のと」という区別なんですよね。

まあ、そんなところなんですけどね。



↑~
私は、上記の記述を読んで思った!
『このお宅は、本当に… 』
『>像で考えるのと言葉で考える(文字や数字という記号で考える)のと」という区別<が…』
『分かっているのだろうか?』と…

そもそも
>「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」<…
この記述自体が像ではなく、
言葉で考えている事に、気付けているのだろうか?

例えば以下のような「像」で考えるなら…

ミカン3個とリンゴ3個、全部で何個? 

式は、  3個+3個=6個   (答え) 6個

これを、同じ数の3だから「3×2=6」で、正しい式と言えるだろうか?



では、ミカン三個とミカン三個、全部で何個? 
これなら、3×2=6で、よいと言えるだろうか?
掛け算で、計算するのは、正しいのだろうか?

掛け算を用いる場合とは、
一袋にミカンが3個、2袋では何個?

これなら
一袋+一袋⇒一袋×2⇒ 3個/袋×2袋=6個  6個~正解であろう。



以上のように…
「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」という事にはならない。
確かに「九九表」は、「1から9までの同じ数の足し算」と言えるだろうが…

掛け算の計算である「九九(表)」と「掛け算の適用場面」とを区別すべき…であろう。
この区別には、現実・場面の像で考える必要があるが…



またコメントの記述である~
>「同じ数字」ということから「では0×0は?」とか「0÷0は?」という方向にいった自由びとさん<

↑これは、間違いである。


算数の授業で黒板に書かれていたのが、
「同じ数の同士の割り算」と「0の入った掛け算」であり~

子供達が、「同じ数の割り算の答え=1」で、
「0の入った掛け算の答え=0」…  と記憶していたので…

「同じ数字」だからではなく、
「0」の特殊性から、0と0の計算を考えた…なら。


「0÷0」と「0×0」なら…子供達ならなんと、答えるだろうか…と、
想像してみたのである。


そもそも…算数の「0」とは?

人が3人で、腕は何本?  2本/人3人=6本
魚が三匹で、腕は何本?  0本/匹×3匹=0本

ミカンが三個入っている袋がない、ミカンは何個ある? 3個/袋×0袋=0




ならば…「0×0」とは?
初めの「0」とは、何もない「0」なら、
後ろの「0」とは、何もないモノが「0」個ある。

何もないモノを数える事は、不能である。
何もいないのに…それが人間(腕二本)か魚(腕0本)か、
どのように判断するのだろうか?

従って…「0×0」も数学的には兎も角…
算数問題・計算としては、可笑しい事になる…のだろう。


「0÷0」とは?

そもそも…a÷0とは、
a個のミカンを0人で分けると何個?

分ける人数が0人という事は、
全く分ける必要がない・分けられない…のに~
「割り算」で計算しようとしている…これは可笑しい!!!


これが、「引き算」で考えるならば、
8÷2⇒

8-2=6
6-2=4
4-2=2
2-2=0

8÷2=4(回)

8÷0=
8-0=8
8-0=8…
……永久に
「8-0」が、「0」になる事はない…

だから…割る数が「0」の割り算は、出来ない(割り算ではない)という事にもなろう。






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