割り算について…
小学校で習う文章題の割り算は、
初めは、(一)16本の鉛筆を4本ずつに分けたら、何セットに分けられるか?
次に、(二)16本の鉛筆を4人で同じ数ずつ分けたら、1人何本ずつ?
そして、 後は、16㎝は4㎝の何個分?16は4の何倍?
(一) の16本の鉛筆を4本ずつに分けたら、何セットに分けられるか?
4本で1セットだから、
16本÷4本/セット=4セット
この除法は、シンプルで子供達も理解し易い。
(二)の 16本の鉛筆を4人で同じ数ずつ分けたら、1人何本?
16÷4=4 であるが…
この「4」とは…そもそも何なのだろか?
16本÷4人=4本/人 だから、4本なのだろうか?
本来は以下のような意味である…と私は考えた。
16本を、一人に一本ずつ配るなら、四人で一巡だから、
一巡では、1本/人×4人=4本
一巡で4本だから、16本配るには、16本÷4本/巡=4巡、
「16÷4」は、
16本の鉛筆を、一巡一本ずつ、4巡で配り終えたから、の計算式である。
一人一巡で分けられる鉛筆は一本だから、
一人分は、1本/巡×4巡=4本……もっとも、この部分は省略されているが…
しかし、これを一人一回に2本ずつ配るなら、
一つ巡は、四人なので、 一巡に配られる合計は、2本/人×4人=8本/巡
一巡が8本なので、総数16本なら、16本÷8本/巡=2巡、で配り終わる。
一人当たり、二巡で、一巡に2本だから、合計は、2本/巡×2巡=4本。
(一)と(二)を比較すると…見てみて分かるように…
(二)の方が、一手間かかっている分~色々な分け方があり得る…
「一巡一人ずつ一回一本だから、一巡四人で四本、16÷4=4(巡)」、四巡即ち4本」
「一回二本で2巡ならば、一巡8本となり、除法は16÷8=二巡となり、2本/巡×2巡=4本」。
(二)の文章題は、一回の配る本数によって、除法の式が異なってくる。
ここで問題を、
16本の鉛筆を4人に一回に4本ずつ配るなら、何回で配りきるか?
四人に一回に配られるのは、「4本/人×4人=16本」。
また、鉛筆は16本だから、16÷16本=1(回)
または、16-16=0…一回の減法で終わったので、1回。
以上の事から思った事は~
過程的な展開・像で考えれば、考える程に、言語表現が難しくなる。
どんな人間も決して「言葉で考えてはいない」。
言葉を「自己の具体的な体験像・経験・運動像」に変換して、考える…か、
言葉を「自分の言葉・知識・非運動像」に変換して、考える…か、であろう。
「言葉で考える」ではなく、考えている像の中身が、
「言葉に近い・言葉的な像になっている」という事なのだろう。
真の像とは、五感情像であり、
言葉的な像とは、単感or二・三感的な像…という事なのだろう。
ちなみに…今回の記事を書いた結果、私は以下のような事に気付く事が出来た。
私の「0÷0」と「0×0」の記述での像とは、
決して「0÷0」像でも「0×0」像ではなく…
授業中の子供達が、黒板の計算式~
「15÷15=1」といった、「同数÷同数=1」の除法や
「0×8」や「6×0」のような、「0の入る乗法=0」…の結果から、
「0÷0」と「0×0」の計算を如何に考えるか…
という像を描いていた…という気付きを得られた。
像のない言葉ではなく、言葉とは異なった像を描いていた…という事だろう。
私は、客観的な現実像を主観的な内界像に変換して、言葉にしていた…
現実に対しての主観的な問い掛け…だった~という事だろうか?!
小学校で習う文章題の割り算は、
初めは、(一)16本の鉛筆を4本ずつに分けたら、何セットに分けられるか?
次に、(二)16本の鉛筆を4人で同じ数ずつ分けたら、1人何本ずつ?
そして、 後は、16㎝は4㎝の何個分?16は4の何倍?
(一) の16本の鉛筆を4本ずつに分けたら、何セットに分けられるか?
4本で1セットだから、
16本÷4本/セット=4セット
この除法は、シンプルで子供達も理解し易い。
(二)の 16本の鉛筆を4人で同じ数ずつ分けたら、1人何本?
16÷4=4 であるが…
この「4」とは…そもそも何なのだろか?
16本÷4人=4本/人 だから、4本なのだろうか?
本来は以下のような意味である…と私は考えた。
16本を、一人に一本ずつ配るなら、四人で一巡だから、
一巡では、1本/人×4人=4本
一巡で4本だから、16本配るには、16本÷4本/巡=4巡、
「16÷4」は、
16本の鉛筆を、一巡一本ずつ、4巡で配り終えたから、の計算式である。
一人一巡で分けられる鉛筆は一本だから、
一人分は、1本/巡×4巡=4本……もっとも、この部分は省略されているが…
しかし、これを一人一回に2本ずつ配るなら、
一つ巡は、四人なので、 一巡に配られる合計は、2本/人×4人=8本/巡
一巡が8本なので、総数16本なら、16本÷8本/巡=2巡、で配り終わる。
一人当たり、二巡で、一巡に2本だから、合計は、2本/巡×2巡=4本。
(一)と(二)を比較すると…見てみて分かるように…
(二)の方が、一手間かかっている分~色々な分け方があり得る…
「一巡一人ずつ一回一本だから、一巡四人で四本、16÷4=4(巡)」、四巡即ち4本」
「一回二本で2巡ならば、一巡8本となり、除法は16÷8=二巡となり、2本/巡×2巡=4本」。
(二)の文章題は、一回の配る本数によって、除法の式が異なってくる。
ここで問題を、
16本の鉛筆を4人に一回に4本ずつ配るなら、何回で配りきるか?
四人に一回に配られるのは、「4本/人×4人=16本」。
また、鉛筆は16本だから、16÷16本=1(回)
または、16-16=0…一回の減法で終わったので、1回。
以上の事から思った事は~
過程的な展開・像で考えれば、考える程に、言語表現が難しくなる。
どんな人間も決して「言葉で考えてはいない」。
言葉を「自己の具体的な体験像・経験・運動像」に変換して、考える…か、
言葉を「自分の言葉・知識・非運動像」に変換して、考える…か、であろう。
「言葉で考える」ではなく、考えている像の中身が、
「言葉に近い・言葉的な像になっている」という事なのだろう。
真の像とは、五感情像であり、
言葉的な像とは、単感or二・三感的な像…という事なのだろう。
ちなみに…今回の記事を書いた結果、私は以下のような事に気付く事が出来た。
私の「0÷0」と「0×0」の記述での像とは、
決して「0÷0」像でも「0×0」像ではなく…
授業中の子供達が、黒板の計算式~
「15÷15=1」といった、「同数÷同数=1」の除法や
「0×8」や「6×0」のような、「0の入る乗法=0」…の結果から、
「0÷0」と「0×0」の計算を如何に考えるか…
という像を描いていた…という気付きを得られた。
像のない言葉ではなく、言葉とは異なった像を描いていた…という事だろう。
私は、客観的な現実像を主観的な内界像に変換して、言葉にしていた…
現実に対しての主観的な問い掛け…だった~という事だろうか?!