▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
一村コメントへの私コメント
・コメントを書いた人
・コメント
>何かまた色々と言葉を書いてますね。
↑
そうですね…
ネットで言葉ではない絵で描ける私だったら、
今よりもっと自由に表現できて、嬉しいのに…
>ネットからの引用でなく自由びとさん自身の言葉に戻ったことで自由びとさん本来の空虚な発言に帰りましたね。
↑~
お宅が「空虚」と感じるのは、私の言葉の内容内実を感覚不能で空虚と認識・像化するから
言うなれば、全てがお宅の誤解・錯覚…ですね、
>自由びとさんが書いているのは確かに文字であり言葉です。
>「ふーん、何か書いてるな」ぐらいが私の自由びとさんの記載を読んだ感想ですけどね。
↑
この感想が、お宅の現在の認識能力ですね。
まあ~それは、それで、良いんじゃない…
>>「全面教育」でなく「全人教育」
>確かに「全人教育」という言葉はありますね。ですが、私が「全面教育」と記述したのは「庄司和晃の全面教育」を想起してですし、南郷先生が「子どもの理科教育としての仮説実験授業を宗教学を専攻していた庄司和晃が認識の3段階連関理論を構築しながら推進した凄さ」と述べ、薄井坦子先生の看護師教育の現場に庄司さんが招かれて認識論の手解きをした」という事実を想定しての「全面教育」という発言であり、小原國芳の「全人教育」ではありません。
↑
そうそう大正解です>小原國芳の「全人教育」<!
だから、おこれは、宅と私の教育観の相違なのです。
私の教育を「全面教育」という言葉では、表現不能たからの「全人教育」なのです。
お宅って…このような、他人と自分の相違が理解不能なの?
>お宅は相手の発言を相手の立場に二重化して読み取る能力を持ってないようですね。
↑
ここは私の個人ブログです。
お宅のコメントと私の記事に向かってのモノです。
お宅のコメントを求めていない私が!
何故に「お宅のコメント」と二重化する必要があるの?!
そんな事は、ここては、不要で無用なモノだと私は思っています。
私は、私の考えたい事の参考に「お宅の言葉」を利用している…です。
私が、お宅のコメントに二重化したら、私の書きたい事から乖離してしまう危険が大なのです。
>お宅は私がお宅の発言をお宅が伝えようと意図したとおりに読み取れていないと言う。ならば、お宅も私の発言を私の真意を理解せずに文字面だけで読んでるとは何故に思えない?
↑
私は、お宅に、そんな思い・二重化は致しません!
何故に、私が「お宅が文面だけで読んでる」と思う必要があるのですか…
私に、私が「お宅が文面だけで読んでる」と思えない事に、お宅が不満を感がるなら、
コメントを寄越すのを止めれば、いいだけ…てしょう。
私は、個々では、私の自由に理解して、自由に書くだけです。
私の自由な言説が不満なら、お宅の自由・意志でコメント止めればいいだけです。
私は、お宅のコメントを「他山の石」として、使えるのでコメントを書いているだけです。
お宅が、私コメントを糞だと思えるなら、
こんなクソ臭いブログから避難・離れればいいだけでしょうが…
お宅は、お宅の自由意志で、ここへコメントを書き込んでするのです。
私は、そのお宅のコメントを廃品として利用させて頂いているだけです。
>私と言語の概念が違うお宅が、どうして私の言葉や文章を理解できるはずもないでしょう。
従って、私たちは互いに理解し合うことのない言葉の羅列をしているだけのことで、それにしてはお宅の文章は心の乱れがありありと読み取れるのは、お宅は私の書いていることを自分を偽り誤魔化しながらも理解できているということですよ。
↑~
私のコメントから、私に理解出来ない・理解しようとしてない…なんて思えるなら…
私に理解してもらえないお宅コメントを寄越し続けるのをやめれば…
糞は糞と理解して、トイレ・水に流す事も自己決定・自由意志。
自分の肥しとして、利用するのも自由意志・自己意志。
>私は理解できるように書いているのだから当然のことですけどね。
↑
子供が、自分は大人に理解できるいる…と確信して話していても、大人が理解できない事は多々あります。
当然に、この逆もありますが…
>>南郷氏の言葉を人生で再確認して
>それはそれは、結構なことです。ですが、私はあらためて南郷先生という人は凄い人だと思っています。それは「一流の人生を生きる」というテーマで還暦すぎて若人に熱く語りかけて導くなんてことは生半可なエネルギーでは出来ないからですよ。
だから、その南郷先生の文章に応えるには「自身の人生を一流たらんとして頑張ること」だとも思えるのですが、私は嘗て自由びとさんが書いた「南郷氏は一流の人生とは書いたが、一流になれとは書いていない」という何とも阿呆らしき発言が記憶から消えませんし、そんな阿呆を放言しながら南郷先生が推薦した国語辞典に拘泥するくらいなら、「男は黙ってサッポロビール」で自分の人生の構築に努めることが「南郷先生の弟子」を公称できる条件だと思えますけどね。
↑~
「人生を一流たらんと…」という理解はお宅の誤解ですね。
私は、南郷弁証法を私のこれまでの「人生のその時々の仕事の変化」の内容から、
弁証法的な変化・運動を再措定しているのです。
>薄井坦子さんだとか本田克也さんだとか、紛れもなく「一流の人物」だと言って恥ずかしくない方々ですし、私も日暮れて道遠し、ではあってもと心中深く考えているんですけどね。
↑
30年前私なら兎も角…
今の私は「一流」なんて求めていませんよ。
私が、今求めているのは、南郷弁証法の体感・体得ですかね…。
お宅は、最後の最後まで、馬と鹿の区別と連関が出来ずに、
知識を皇帝の言葉だと思い込んで、知識・現代学問の結果が全て正しい…
モノだと思い込んでの大馬鹿者ですね…
科学の歴史は、過去の仮説の否定・覆しからの新仮説の誕生の連続…だそうです。
これは私の恩師であるW先生が自力で科学の歴史から措定した科学観…ですが…
>自然科学へと向かうときに大事なことは「定説」が先ずもって正しいと信じることだと思います。
↑
もっとも…↑なんて思い込んで言語化しているお宅には、
W先生の言葉は信じられない、でしょうが…~
可哀そうに…お宅は書けば書く程に、
真理から遠ざかっているように…私には思えますが…
もっとも…存在・実存しない「真理なんてない…、求めても無駄!」思っている人もいるようですが…