続・「対立物の統一」的に考えるなら~
以下のようなコメントを頂いた。
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
「対立物の統一」的に考えるなら~
・コメントを書いた人
一村隆滝
・コメント
この自由びとさんのコメントは既にある程度は出来上がっている玄◯会や各派の空手流派の「体系」を無視ないし等閑視したものだと理解できます。
すなわち玄◯会の教科書の「土台、攻撃技、防御技、運足、約束組手、自由組手」だったかな?曖昧な記憶に基づくものですけどね。
つまりは「回し蹴り」は「攻撃技」それも「手技、足技」に区別された「足による攻撃技」であり、「後屈立ち」というのは「土台」という技を支える根幹となるものだ、という区別を無視して「他の基本技の応用、変化技として位置づける」という「言語的な文言」から唐突に「回し蹴りと後屈立ち」とを共通するものとして?横並びにしています。
ですが、実際にやってみれば体で分かるように、後屈立ちで困難なのは「長時間、それを維持する」ことです。重力負荷に対する後ろ足の筋持久力ですよ。
回し蹴りの場合は「土台」たる軸足も勿論のこと重要ですが、それ以上に「上部構造」たる蹴り足、その膝を横に高く上げてから蹴るところが難しく、それは前蹴りで膝を高く上げる筋肉・神経と回し蹴りで膝を横に高く上げる筋肉・神経とが違うものだからでしょう。だから「別の技」として「別の基本技」を反復することには身体運動としての合理性があります。
その後に自由びとさんが書いている「体を真っ直ぐに立てて前蹴り」だとか「横に倒して回し蹴り」だとかは、最初は「何を書いているんだ?」と特別な稽古法でもあるのかと考えてみたんですが、それ以前に私が述べた「日本武道の姿勢における規定」という文言から適当に発想した発言だと得心しました。
私は思いますけど「学問」って何よりも「誠実さ」が求められるもので、狡猾な騙し合いでは学問の出発点に立てないように思いますね。
↑~
このコメント主は分かっていない。
何故に私が「廻し蹴りと後屈立」を対立物としたかを~
確かに、後屈立ちは立ち方・土台のであり、廻し蹴りは蹴り技・攻撃技である。
後屈立ちを、前屈立ちの変化(技)と捉える事も出来るし、
逆に、前屈立ちを後屈立ちの変化(技)と捉える事もできる。
前屈立ちを先に学んだら、後屈立ちが「前屈立ちの変化」となるだろうし…
後屈立ちを先に学んだら、前屈立ちが「後屈立の変化」となるのだろう。
仮に双方を同時に学んだなら、前屈立ちも後屈立ちも同じ土台となり得て…
その相互間の共通性を見失ってしまう事態も起こり得る、のだろう。
この二つを「変化技」という共通性で対立物として捉えた理由は、
同じ変化技であるにも関わらず…
廻し蹴りは、蹴り技として練習・訓練をするのに…
後屈立ちは、型で練習する程度で基本の立ち方として採用していない…
その理由の明確化の為である。
これを、「後屈立ちは土台・立ち方技」であり、「廻し蹴りは蹴り技・攻撃技」だから、
二つは別物・対立物にはなり得ない…と考える事も可能である。
前蹴りと廻し蹴りの区別と連関を考え、
前屈立ちと後屈立ちの区別と連関を考え、
そして、土台技と攻撃技の区別と連関を考えるなら…
技を創る時の土台、技を使う時の土台…
土台は一つの方が安定している。
後屈立ちに比して前屈立ちの方が少々優れているから…
前から攻撃に有効な前蹴り、横からの攻撃に有効な廻し蹴り…
攻撃技は多角的に攻撃可能の方が勝負に有利…
基本の蹴りを前蹴りとして、廻し蹴りを変化技として位置付ける理由は、
双方の技を認識的に関連性で持って、一体的に修得・体得する為である。
そもそも…前蹴りができる者から、必ずしも廻し蹴りを、その変化技して使用できる訳ではない。
それでも…技を変化させるのも、一つの技と言えよう。
私の息子は小3から近くの体育館で空手教室に通い始めた。
初めに基本の蹴りとして、前蹴りを学んでいたが…
ある時、同学年の従兄弟と喧嘩をしていて、息子が綺麗な廻し蹴りを決めたのを見かけた。
身体の認識も幼く柔軟な小3には、前蹴りも廻し蹴りも…ただの「蹴り」なのだろう。
基本の蹴り技に、前蹴りと同様に、廻し蹴りを採用する理由は、
一般的な普通の成人男子(身体の柔軟性に乏しい者)には、
廻し蹴りを、前蹴りの変化技して使用し難いから…である
最後の以下の一言には笑えてしまう♪♪♪
>私は思いますけど「学問」って何よりも「誠実さ」が求められるもので、狡猾な騙し合いでは学問の出発点に立てないように思いますね。
私は、以下のような事を思う~
この者の「学問とは?」
この者の「誠実さとは?」
この者の「狡猾な騙し合いとは?」
この者の「学問の出発点とは?」
学問とは、世界を一つとして、世界にについて学び、
その学んだ己の中の観念・認識の世界から現実の世界を問うモノ、
私の記述を「狡猾な騙し合い」として思えてしまう…
この御仁には、ネットでの記述は、「騙し合い」と認識しているのだろう。
私の記述を「狡猾…」と思えてしまうのも…この御仁の中に「狡猾」の存在があるからなのだろう…
学問の出発点とは?
「学問への道」の出発点と「学問の道」の出発点があり得る、のだろう。
学問への道は、初めに世界・事実・現実…世界観あり…
学問の道とは、初めに論理・科学あり…弁証法あり…
これも、この御仁にとっては、「狡猾な騙し合い」なのだろが…
以下のようなコメントを頂いた。
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
「対立物の統一」的に考えるなら~
・コメントを書いた人
一村隆滝
・コメント
この自由びとさんのコメントは既にある程度は出来上がっている玄◯会や各派の空手流派の「体系」を無視ないし等閑視したものだと理解できます。
すなわち玄◯会の教科書の「土台、攻撃技、防御技、運足、約束組手、自由組手」だったかな?曖昧な記憶に基づくものですけどね。
つまりは「回し蹴り」は「攻撃技」それも「手技、足技」に区別された「足による攻撃技」であり、「後屈立ち」というのは「土台」という技を支える根幹となるものだ、という区別を無視して「他の基本技の応用、変化技として位置づける」という「言語的な文言」から唐突に「回し蹴りと後屈立ち」とを共通するものとして?横並びにしています。
ですが、実際にやってみれば体で分かるように、後屈立ちで困難なのは「長時間、それを維持する」ことです。重力負荷に対する後ろ足の筋持久力ですよ。
回し蹴りの場合は「土台」たる軸足も勿論のこと重要ですが、それ以上に「上部構造」たる蹴り足、その膝を横に高く上げてから蹴るところが難しく、それは前蹴りで膝を高く上げる筋肉・神経と回し蹴りで膝を横に高く上げる筋肉・神経とが違うものだからでしょう。だから「別の技」として「別の基本技」を反復することには身体運動としての合理性があります。
その後に自由びとさんが書いている「体を真っ直ぐに立てて前蹴り」だとか「横に倒して回し蹴り」だとかは、最初は「何を書いているんだ?」と特別な稽古法でもあるのかと考えてみたんですが、それ以前に私が述べた「日本武道の姿勢における規定」という文言から適当に発想した発言だと得心しました。
私は思いますけど「学問」って何よりも「誠実さ」が求められるもので、狡猾な騙し合いでは学問の出発点に立てないように思いますね。
↑~
このコメント主は分かっていない。
何故に私が「廻し蹴りと後屈立」を対立物としたかを~
確かに、後屈立ちは立ち方・土台のであり、廻し蹴りは蹴り技・攻撃技である。
後屈立ちを、前屈立ちの変化(技)と捉える事も出来るし、
逆に、前屈立ちを後屈立ちの変化(技)と捉える事もできる。
前屈立ちを先に学んだら、後屈立ちが「前屈立ちの変化」となるだろうし…
後屈立ちを先に学んだら、前屈立ちが「後屈立の変化」となるのだろう。
仮に双方を同時に学んだなら、前屈立ちも後屈立ちも同じ土台となり得て…
その相互間の共通性を見失ってしまう事態も起こり得る、のだろう。
この二つを「変化技」という共通性で対立物として捉えた理由は、
同じ変化技であるにも関わらず…
廻し蹴りは、蹴り技として練習・訓練をするのに…
後屈立ちは、型で練習する程度で基本の立ち方として採用していない…
その理由の明確化の為である。
これを、「後屈立ちは土台・立ち方技」であり、「廻し蹴りは蹴り技・攻撃技」だから、
二つは別物・対立物にはなり得ない…と考える事も可能である。
前蹴りと廻し蹴りの区別と連関を考え、
前屈立ちと後屈立ちの区別と連関を考え、
そして、土台技と攻撃技の区別と連関を考えるなら…
技を創る時の土台、技を使う時の土台…
土台は一つの方が安定している。
後屈立ちに比して前屈立ちの方が少々優れているから…
前から攻撃に有効な前蹴り、横からの攻撃に有効な廻し蹴り…
攻撃技は多角的に攻撃可能の方が勝負に有利…
基本の蹴りを前蹴りとして、廻し蹴りを変化技として位置付ける理由は、
双方の技を認識的に関連性で持って、一体的に修得・体得する為である。
そもそも…前蹴りができる者から、必ずしも廻し蹴りを、その変化技して使用できる訳ではない。
それでも…技を変化させるのも、一つの技と言えよう。
私の息子は小3から近くの体育館で空手教室に通い始めた。
初めに基本の蹴りとして、前蹴りを学んでいたが…
ある時、同学年の従兄弟と喧嘩をしていて、息子が綺麗な廻し蹴りを決めたのを見かけた。
身体の認識も幼く柔軟な小3には、前蹴りも廻し蹴りも…ただの「蹴り」なのだろう。
基本の蹴り技に、前蹴りと同様に、廻し蹴りを採用する理由は、
一般的な普通の成人男子(身体の柔軟性に乏しい者)には、
廻し蹴りを、前蹴りの変化技して使用し難いから…である
最後の以下の一言には笑えてしまう♪♪♪
>私は思いますけど「学問」って何よりも「誠実さ」が求められるもので、狡猾な騙し合いでは学問の出発点に立てないように思いますね。
私は、以下のような事を思う~
この者の「学問とは?」
この者の「誠実さとは?」
この者の「狡猾な騙し合いとは?」
この者の「学問の出発点とは?」
学問とは、世界を一つとして、世界にについて学び、
その学んだ己の中の観念・認識の世界から現実の世界を問うモノ、
私の記述を「狡猾な騙し合い」として思えてしまう…
この御仁には、ネットでの記述は、「騙し合い」と認識しているのだろう。
私の記述を「狡猾…」と思えてしまうのも…この御仁の中に「狡猾」の存在があるからなのだろう…
学問の出発点とは?
「学問への道」の出発点と「学問の道」の出発点があり得る、のだろう。
学問への道は、初めに世界・事実・現実…世界観あり…
学問の道とは、初めに論理・科学あり…弁証法あり…
これも、この御仁にとっては、「狡猾な騙し合い」なのだろが…