「死後の人生」の話
人間に死後の人生があるか?・否か?
普通に考えるなら機能である認識は、実体である人体の機能であるから…
実体である身体が消滅したなら機能である認識も消滅してしまうだろう。
そのような事は、他人の死という現実から見て取れている。
それでも…自分の死が他人と同じだろうか?
自分の死後…自分が消滅しても世界の存在はあり続ける…という事実。
自分にとって、自分は他人とは違う、特別な存在なのだから…
他人と同じとは限らない…と信じたいモノだから…
以前に、このブログのどこかの記事に、
「自分の死後も世界はありつづけるが…」
「自分だけが、この世界から消滅してしまう…」
そんな事実を思う事に違和感・不思議感を感じた…
という内容の記事を書いた覚えがある。
この違和感・不思議感の解消の為に、死後の「あの世」の存在を肯定し信じてみてみたら…
今度は、不思議な安心感が、生じ始めている…
私の死後、この世界での私は消滅しても、新たなあの世での私の誕生…
そこには、今のこの世界には、もう存在しない母・父・親戚・知人…の存在がある。
そんな、あの世では、この世では、別れたくないのに別れてしまった人々に会える喜び…
そんな事が、本当の事だと、信じられるなら…
それは、それで幸せなのだろう。
両方ともを事実だと信じたら、それはそれで矛盾であるが…
しかし…自分の死後の「この世」事も、死後の「あの世」の事も…正しく知り得る術がないなら……
自分が安心感を得られるほうを信じたほうが幸せだろう。
これは、私の「この世での死」が「あの世での生誕」という事なら整合性が…取り得るかも…
まあ~どっちにしても…
悲しいかな「自分の死後」を思ってしまう年齢になってしまった…
という事実の存在があり得ている…
宗教を信じようとしなかった私…
でも、宗教的な「あの世」の存在は、信じてみてもいいかな…
枯れ木も山の賑わいで私も少しだけコメントすれば自由びとさんの気分も変わるかも知れませんね。
「死後の世界」について考えるようになったのは自由びとさんが既に救われているのだと思います。あるいは「同じように死後の世界を信じる人たちとの共生・コミュニケーションの準備が出来ている」と言ったら良いのかも知れませんけど。
人間は一人では生きていけませんから唯物論にしろ観念論にしろ、科学的理論にしろ宗教的思想にしろ同じ考えを持つ者たちが集まって共生していくのだと思います。
まー、昔日ほどの身体運動能力は失ったとはいえ五体満足で何不自由なく生活できるくらいにお元気な自由びとさんが過去に仲の良かった人のことばかり振り返って黄昏れるにはまだ早い気もしますから、どちらかと言ったら「Change of Place, Change of Brain!」という行動主義的な考えを持つほうがスピリチュアルケアになると思いますけどね、私からすれば。
私の場合は南郷先生が書いていた「全人類の叡智をアウフヘーベンする!」という自由びとさんには想像も出来ない活動もしていますから仏教ひいてはインド哲学の輪廻転生(生まれ変わり)という思想は現実世界の食物連鎖という他の動植物の餌となって虫や犬らの肉体として生まれ変わることだと思われますし、火葬して灰になることによって食物連鎖の外に出ることが「解脱」なのだとも思います。
いずれにしろ行動主義というか「業」というか、新しい仲間ができないで過去への追慕ばかりあるのは行動力がないのでしょうね。
「死後の人生」の話
>コメントを書いた人
>ギルガメシュあらためブッダ
>・コメント
>お久しぶりです、相変わらず閑散としたコメント欄ですね(笑)。
↑
本当に久しぶりですね♪
「閑散」とは…時には、いいものですよ!
ただ…最近よく思っているのは、家内も元気で息子が幼い時、
二人とも外出して、私独りで留守番の時は、とても楽で落ち着いていられた記憶が…
でも…現在、家内なく、息子も仕事で不在…
在宅時は、殆ど私独りなので…とても物足りない感があります。
ただブログとしては~
神戸だいすきブログのように、いつも繁忙していても…
その寄せられた多くのコメントが、記事の本筋から大きく外れてしまっていては…どうなのでしょうね…?
>枯れ木も山の賑わいで私も少しだけコメントすれば自由びとさんの気分も変わるかも知れませんね。
↑
ほ~お宅の事を見直しましたね♪♪♪「枯木自覚」があるとは…
お宅は、自分のコメントが枯木レベルだという自覚の元に書いているのですね♪♪♪
上記は、この「新・悟りを求めて~」ブログを全体「山」として…
お宅コメントを「枯れ木」としての記述。
しかし、ネット界を全体として、このブログを「枯れ木」とするなら…別ですがね…
まあ~どっちにしても比喩的表現なので、私の都合のよい理解にしましょうね♪♪♪
。
>「死後の世界」について考えるようになったのは自由びとさんが既に救われているのだと思います。あるいは「同じように死後の世界を信じる人たちとの共生・コミュニケーションの準備が出来ている」と言ったら良いのかも知れませんけど。
↑
私的には、死後の世界を信じる人達との交流はパスですかね…
私の場合は、死後の世界を信じる事が重要ではなく…
それを信じる事で、少し楽になれる感がいいのです。
だって…死後の世界なんてありえないモノですから…
それでも…あり得ると思える事が、救われる…のですね。
なので…このブログ記事としては、書いていますが…
一般社会で、私は死後の世界の話を語る事は避けます。
ただ、それを信じる事で「楽になる」という事は語れます。
>人間は一人では生きていけませんから唯物論にしろ観念論にしろ、科学的理論にしろ宗教的思想にしろ同じ考えを持つ者たちが集まって共生していくのだと思います。
↑
この「同じ考えを持つ…」の判断に、実際に難しいモノがあります。
今回の私の場合のように…死後世界があるから信じるのではなく、
それが無くても、「ある」と信じる事で、楽になれるから信じる。
その「信じる」の中身の相違が、
同じ「死後の世界を信じる」という考えでも…実は同じではないモノ…
これは言わば~
金を儲けたいから、人の儲け話を信じるか?
その話を信じた結果、金が儲かった!?の相違ですかね…
>まー、昔日ほどの身体運動能力は失ったとはいえ五体満足で何不自由なく生活できるくらいにお元気な自由びとさんが過去に仲の良かった人のことばかり振り返って黄昏れるにはまだ早い気もしますから、どちらかと言ったら「Change of Place, Change of Brain!」という行動主義的な考えを持つほうがスピリチュアルケアになると思いますけどね、私からすれば。
↑
そうですね…「黄昏」ですかね…
でも…仕事中や忙しい時には、それはそれで張り切っているのですが…
どうしても…独りで暇している時には、黄昏れてしまっていますね……
特に、ここ最近は、右足が少々痛んでいるので…なおさらですかね…
>私の場合は南郷先生が書いていた「全人類の叡智をアウフヘーベンする!」という自由びとさんには想像も出来ない活動もしていますから仏教ひいてはインド哲学の輪廻転生(生まれ変わり)という思想は現実世界の食物連鎖という他の動植物の餌となって虫や犬らの肉体として生まれ変わることだと思われますし、火葬して灰になることによって食物連鎖の外に出ることが「解脱」なのだとも思います。
↑
「輪廻転生」に「解脱」ですか?
何の為の「解脱」ですかね…
「輪廻転生」からの「解脱」で何を得られるだろうか?
それは、言わば~
「地球から宇宙船で大気圏外の宇宙空間へ」(解脱)、
そして地球を眺めて「青かった!」的感動が得られるのでしょう。
それでも…その宇宙飛行士は、再び地球へ帰還せねば…生きて行けません。
う~ん…
師範的な表現なら、認識内に観念的な世界・帝国を創り、
自らの認識で、その観念内の世界帝国を眺めつつ、現実世界を生きる。
肉体は「輪廻転生」を続けても、精神が「解脱」の状態で生き続けている。
こんな感じですかね…
灰になって、輪廻転生からの解脱は、別物への変化ですかね…
解脱して眺めているだけの人生?より、輪廻転生し続ける人生?の方が楽しいでしょうね…
>いずれにしろ行動主義というか「業」というか、新しい仲間ができないで過去への追慕ばかりあるのは行動力がないのでしょうね。
↑
「新しい仲間」とは、その通りですね…
その為ではないのでしようが…
七月からⅯ市立Ⅿ学園の日本語学級の助手の仕事を週一木曜日で始めました。
それは、M市が、隣接していた中学校と小学校を合併して「市立の小中一貫校の中の日本語学級で、
主に、日本語が話せない帰国子女の為の日本語指導です。
七月に三回、八月に二回、今月に一回…になります。
その学校・校舎のバカでかい事、廊下の端から端までが、二百メートルはありそうです。
そこでの新たな出会い…緊張してしまいますね…
本当は、玄和会M支部への復帰や京都弁証法論理学研究会への参加…をなんて考えいいましたが…
何分…今の体力・気力が…どうも今一つで、躊躇しています…
私は「このブログのコメント欄が」と述べたのに相変わらずの「自由びと思考」が炸裂ですねw
>息子氏「今日は「君の名は」の公開日」
>自由びと「偶然とは私の場合、30年前の家内との出会い。」
>息子氏「おいおい、「君の名は」はどこいった?」
>自由びと「私に大事なのは事象でなくカテゴリー」
>三文禅師「過去を生きる!」
>一流禅師「今を生きない!」
>神戸だいすきブログのように
あの老婆の記事に本筋などありませんよ。皆が好きなことを書くことで全体のバランスが取れているのでは?
>「枯木自覚」があるとは…
「枯れる…多年の修練の結果、なまなましい鋭気がとれ、深みのある味をもつようになること」
ほほう、まったく無自覚でしたが「わび」や「さび」の味わいが滲み出る年齢なのかも知れませんね、私も。
>それを信じることで、少し楽になれる感がいいのです。
そうですか、何を好きか、何を楽だと感じるかは人それぞれの、成育期の条件つけられ方によるのだと思いますが、「ああ、あの時は嫁さんと楽しかったな」なんて思い出すだけで楽になる人もいれば、他の世界で生きていると夢想しなければ楽になれない人もいるのかも知れませんね。私の場合は大切な人が亡くなっても時間が解決してくれていつしか諦観というか仕方がないと受け止められるようになりますから、なくなっていることは正面から受け止められつつ想い出だけ楽しむことができるので、色々な神経構造の人がいるのですね。
>何のための解脱ですかね
生前の業などという理由づけからの生まれながらの被差別を回避するためでしょうね、仏教の歴史にあるように。それと日本の宗教観にあるような死体遺棄が違法の、生きていた人間を死んだからといって蠅や犬や虎のタンパク源にすることの否定でしょうね。
ブッダ
・コメント
>>「閑散」とは…時には、いいものですよ!
>私は「このブログのコメント欄が」と述べたのに相変わらずの「自由びと思考」が炸裂ですねw
↑
確かに「コメント欄」と書かれていますね…
いや~失敬しました!読み飛ばしましたね!
初めの前提をミスれば、その結果、正しい論理的筋道でも結論は間違いですね。
ただ…以下のお宅の記述は間違っていますよ!
↓
>>息子氏「今日は「君の名は」の公開日」
>>自由びと「偶然とは私の場合、30年前の家内との出会い。」
>息子氏「おいおい、「君の名は」はどこいった?」
↑
おいおいブッタお宅よ!
これは違っている!
息子が「君の名を」を「再度見たい!」と思って見た日が「君の名の」の公開日という偶然。
息子は、その「両日の一致」の偶然に驚き、感動していたのです。
だから、>「おいおい、「君の名は」はどこいった?」という問い・認識はあり得ない。
そんな息子に対して私の場合は、
そのような偶然は、>ブッダお宅の書いている>家内との三十年前の出会いではなく!
家内との初めてのデート・交際の始まりが「私の誕生日」。
そして家内との永遠の別れも「私の誕生日」
という「始まりと終わりの一致」の偶然を具体例にして、
私は息子に「このよう偶然は、数十年生きていれば、一度はあり得る」と伝えたかった。
>自由びと「私に大事なのは事象でなくカテゴリー」
>三文禅師「過去を生きる!」
>一流禅師「今を生きない!」
>神戸だいすきブログのように
あの老婆の記事に本筋などありませんよ。皆が好きなことを書くことで全体のバランスが取れているのでは?
>>「枯木自覚」があるとは…
>「枯れる…多年の修練の結果、なまなましい鋭気がとれ、深みのある味をもつようになること」
>ほほう、まったく無自覚でしたが「わび」や「さび」の味わいが滲み出る年齢なのかも知れませんね、私も。
↑
そのような枯れ木もありえるてしょうが…
ても、「枯れ木も山の賑わい」の場合の「かれきは」とは以下ですよ!
「枯れ木も山の賑わい」は、つまらないものでも、ないよりはましであることを意味するたとえです。枯れ木でも山に風情を添えるのに役立つことからきています。
年寄りが若い者の仲間に入るときなどに、謙遜して使う言葉です。
ただし、パーティなどたくさん人が集まる場所で「枯れ木も山のにぎわいだね」などと使うのは失礼にあたります。参加を促している相手を枯れ木にたとえることになるためです。
ただ…お宅コメントを、私は「ないよりまし」とは思っていませんよ。
結構、叩き甲斐があって、張り合いになっています…から。

>>それを信じることで、少し楽になれる感がいいのです。
>そうですか、何を好きか、何を楽だと感じるかは人それぞれの、成育期の条件つけられ方によるのだと思いますが、「ああ、あの時は嫁さんと楽しかったな」なんて思い出すだけで楽になる人もいれば、他の世界で生きていると夢想しなければ楽になれない人もいるのかも知れませんね。私の場合は大切な人が亡くなっても時間が解決してくれていつしか諦観というか仕方がないと受け止められるようになりますから、なくなっていることは正面から受け止められつつ想い出だけ楽しむことができるので、色々な神経構造の人がいるのですね。
↑
人間色々で、「楽な感じ」も、十人十色てすかね…
>何のための解脱ですかね
>
>生前の業などという理由づけからの生まれながらの被差別を回避するためでしょうね、仏教の歴史にあるように。それと日本の宗教観にあるような死体遺棄が違法の、生きていた人間を死んだからといって蠅や犬や虎のタンパク源にすることの否定でしょうね。
↑
私が思うに「解脱できる」という希望が、その人に、生きる喜び、生き甲斐を産むのでしょうね。
だって…元々「輪廻転生」なんて、人類の想像・妄想でしょう。
そんなモノはない!あるのは、生まれて死んで消えて行く事だけ、生々生成・発展・衰退・消滅…
輪廻転生がなければ、解脱もない!
苦しみ続けている人々に、解脱という「逃げ道」希望を与えたのでしょうね…
その「解脱」という希望を求める事で、現実の苦痛から気持ちを逸らせられるのてじょうね…
そうでしたか、自由びとお宅には「叩きたい」という欲求があるのですね。それが生活の上での「張り合い」になっているという、ある意味で何とも不思議な心、心理的な現象というか、ある意味では良くある話しなのかも知れませんけどね。
>元々「輪廻転生」なんて、人類の想像・妄想でしょう。
>そんなモノはない!あるのは、生まれて死んで消えて行く事だけ、生々生成・発展・衰退・消滅…
まー、そんな風に考えることも出来るのでしょうね。自由びとお宅の奥さんも生まれて死んで消えていっただけだ、と。その「淀みに浮かんだ泡沫」みたいな存在を「死後のあの世で生きている」と考えたなら心が楽になる、なんて頑張って?考えてみたりして。
私は「あの世」というのを信じてはいませんから好きだった誰かが死後の世界で生きているなんて考えても少しも気持ちが楽になったりはしませんね。三浦つとむだか南郷先生だかの言い方を借りるなら「理性的?なアタマの働きと心情的なココロの働きとが《あの世》というキーワードでは神経的な繋がりを持っていない」、パブロフ的には「条件づけられていない」ということだと思いますよ。
その上で、私自身は自由びとお宅とは違って「輪廻転生」というのを歴史を遡って理解したい欲求がありますから、それは「世界地図の上でのインド半島において生じてきた、アーリア人という一部族?民族?が、他の民族・部族を征服・支配した所に成立した国家的なカースト制という身分制を正当化するイデオロギー教育」なんてところにインド思想・インド哲学を位置づけてみたり考えますね。
だから「輪廻転生」というのは、私からすると、「雷=神鳴り」の「神さまが怒っている」みたいな迷信一般に解消することができなくて(まあ、この喩え自体が自然力kraftの心的支配に繋がっていくものかも知れませんけど)、日本の天皇の「天孫降臨」だとかヨーロッパの「王権神授」なんかと一緒で「現実的な強制力=Gewalt」と切り離しがたく一体化した「Macht=心的支配力(権力)」を構成したものだとも考え得るんですね。吉本隆明の「共同幻想」みたいな。
そう考えることも可能ですね。
ですが、「解脱」というのは、そんな遠くにある何か特別なものなんでしょうかね?
確かに、おっしゃるように「解脱」というのは「苦しみから解き放たれ脱け出ること」だと思いますし、それが藝術作品化されたものが京都の広隆寺や奈良の宮中寺の弥勒菩薩の微笑みだと思うんですよ。
それって、どこか遠い世界にあるものではなく、私たち日本人の幼少期からの躾けだとか日常生活の中に普通にあるものではないか?とも思いますね。
南郷先生の本の中の言い方でいったなら「平常心」だとか「不動心」だとか、あるいは「心の闇を極める」だとかでしょうか?あるいは「ビックリと仲良くなる」だとか、かな?
日常生活のご飯を食べたときの「美味しい」といった笑顔の中にも「解脱」というものはあるように思いますね、私は。
小児が「あれ買って、買って、買って、ギャー」と泣き叫ぶ苦しみから脱け出て解き放たれるのが「解脱」ということで、それには社会的な法の上での他者への束縛からの解放をも必要としたという、単なる「心の中だけのお話し」ではなく、
変温動物が外界の温度に同調して体温が上下するのに対し恒温動物が外界からある意味で切り離されて一定の体温のままでいることを「平常身」というならば、それが心的なところまで浸透するほど進化したものを「平常心」という、みたいなことかも知れませんけどね。
自由びとお宅自身がやりたいことをやるのが望ましい。
ほー、M市の小中学生の日本語教育を、確かに私の周りにも海外からの人が増えましたね。
その人たちが日本に住んで日本で働いて、何よりも先ずは役所の収入源になるのでしょう。住民税や所得税の。
日本も少子高齢化で嘗ては廃校になった小学校や中学校が少なからずあったようですが海外の人たちが入ってきて復活するんですかね?
自由びとお宅は本当に義務教育に関する仕事が好きなんでしょうね。小中学生みたいな年頃の子供が好きなのか、まー、強制的に取り立てる税金を収入源とした公務員が適職、みたいな南郷先生の考えにも沿っているのかも知れませんけど。
玄◯の◯鷹支部に行きたいのなら先ずは問い合わせたら如何ですか?責任者さんに。
それで「年齢的に体力に不安があるのですが、見学も兼ねてご相談に伺えませんか?」と。おそらく、高齢者にそんな激しい稽古なんかさせないでしょうが、そうした事前の相談にも乗ってくれない道場だったら止めてもいいでしょうし。
たぶん、自由びとお宅は年齢的にそんなに沢山仕事はさせてもらえないのでしょうから時間は余ってるんでしょう。
そんなに行動力に欠けるのは初段まで行ったというのが疑わしく感じますけど、たしか玄◯はブランクがあっても一旦は得た段級位から再スタートでしたから黒帯してやるんでしょうね。
私は玄◯会に全然興味がありませんから、道場所在地を知りたいとも思いませんけど、自由びとお宅も健康を害しない程度にやったらいいと思いますよ。
>これは違っている!
確かに私が誤解したようですね。自由びとお宅の記載の中に文字化されていない情報を知らなかったがための勘違いでした。
昔の実写の「君の名は」の岸惠子さんの強烈な美しさばかりが印象に残っている私には近年、同名のアニメが公開されたらしいぐらいの知識しかなく、息子氏の「スマホで君の名を見てる」という発言が、スマホで映画を無料配信しているサイトで映画そのものを見ているということだとは自由びとお宅から指摘されて知ったところですよ。
それでも「映画を見ている今日が劇場公開された日と同じ8月26日」なんてところに大学を卒業して社会人になっている20代の若者の喜ぶところか?なんて疑問は残りましたね。
それが氷解したのは、映画の中で違う男女が入れ替わり始めた月日が同じだという布石があって、それが反映してのものかと納得いった次第。
ブッダ
>・コメント
>>結構、叩き甲斐があって、張り合いになっています…から。
>そうでしたか、自由びとお宅には「叩きたい」という欲求があるのですね。それが生活の上での「張り合い」になっているという、ある意味で何とも不思議な心、心理的な現象というか、ある意味では良くある話しなのかも知れませんけどね。
↑~
そう~言うなれば「叩きたい欲求」でしょうかね…
たた゛その「欲求」は、私が、お宅の言説を正確に理解(二重化)できた時、
その私のお宅的認識を、私自身の私的認識で「叩きたい」…そんな感じなので…
なので…たぶん…
このコメントの中のお宅の思う「叩きたい」とは違っていますね…
>元々「輪廻転生」なんて、人類の想像・妄想でしょう。
>そんなモノはない!あるのは、生まれて死んで消えて行く事だけ、生々生成・発展・衰退・消滅…
>まー、そんな風に考えることも出来るのでしょうね。自由びとお宅の奥さんも生まれて死んで消えていっただけだ、と。その「淀みに浮かんだ泡沫」みたいな存在を「死後のあの世で生きている」と考えたなら心が楽になる、なんて頑張って?考えてみたりして。
↑
この私の「輪廻転生」の思考の際には、「家内の生死は無関係」です。
何故なら、私は「輪廻転生」も「解脱」も信じていません。
当然に死後の世界の存在を否定しています。
ただ…その「自己の死後の世界の存在」の否定を、私自ら自身で一時的に否定して「死後の世界」が信じられた時~
「信じる者は救われる」的な感じで、心が楽になった!とい話ですよ。
なので私が頑張る事は~
「私の確信(死後の世界は無し)の一時的な否定」であり、
「死後の世界の存在を信じ事」の頑張りではありません。
その否定が続いている限りの「楽」感であり、
日々の疲れで、頭脳が疲れ「否定不能な時には…」無理・無理ですね…
そんな時に、家内を想い出したら、切ない・悲しいモノがありますね…
>私は「あの世」というのを信じてはいませんから好きだった誰かが死後の世界で生きているなんて考えても少しも気持ちが楽になったりはしませんね。三浦つとむだか南郷先生だかの言い方を借りるなら「理性的?なアタマの働きと心情的なココロの働きとが《あの世》というキーワードでは神経的な繋がりを持っていない」、パブロフ的には「条件づけられていない」ということだと思いますよ。
↑
当然!私も信じていませんよ!
お宅の「信じ・信じない」と私の「信じる・信じない」の中身が違っていますね
例えば「苦しみ・悲しみを時間が解決してくれる」事も事実では、ありません。
何故なら、死ぬまで一生、苦しみ悲しみが消えない人もいれば、
また同じ人でも、時間が解決してくれる悲しみ・苦しみもあれば、解決不能なモノもあり得ます。
なので、お宅の思っている「…時間が解決してくれる…」とは事実ではなく、
お宅が「そのように信じている」という事なのです。
>「理性的?なアタマの働きと心情的なココロの働きとが《あの世》というキーワードでは神経的な繋がりを持っていない」、
↑
「神経的なく繋がり」があるでしょう!
私は、感情的には信じられない死の世界を、
その否定的感情を、否定して、「死後の世界」を信じてみたら「楽になった・救われた」という事実。
自己の肯定的な感情(死後の世界ない!事の肯定観情)の否定を事実(死後の世界は実際にない事実)ではなく、
自己の認識で観念的に実行する時、そこには肯定感情を否定可能な強烈な理性力が必要なのです。
お宅には、私が体験して、この心情的・理性的の関係は、理解不能でしょうね…
>その上で、私自身は自由びとお宅とは違って「輪廻転生」というのを歴史を遡って理解したい欲求がありますから、それは「世界地図の上でのインド半島において生じてきた、アーリア人という一部族?民族?が、他の民族・部族を征服・支配した所に成立した国家的なカースト制という身分制を正当化するイデオロギー教育」なんてところにインド思想・インド哲学を位置づけてみたり考えますね。
↑
そもそも「輪廻転生」的思考は、世界の運動を一つの円循環として捉えたものでしょう。
そして、たぶんですが…。
人間の今の苦しみ・悲しみの原因を「輪廻転生」に押し付け、
そこからの「解脱」が苦しみ・悲しみの解決!と意味づけたのでしょうね…
>だから「輪廻転生」というのは、私からすると、「雷=神鳴り」の「神さまが怒っている」みたいな迷信一般に解消することができなくて(まあ、この喩え自体が自然力kraftの心的支配に繋がっていくものかも知れませんけど)、日本の天皇の「天孫降臨」だとかヨーロッパの「王権神授」なんかと一緒で「現実的な強制力=Gewalt」と切り離しがたく一体化した「Macht=心的支配力(権力)」を構成したものだとも考え得るんですね。吉本隆明の「共同幻想」みたいな。
↑
苦しみの原因は、「外力・自然力…」ではなく、人間・生物の輪廻転生だと位置づけたのでしようね。
それは、「禅的発想」です。
苦しみがあるのは「自分・人間・生物の輪廻転生」であり、自分を変える・解脱する必要がある的なモノ。
ブッダ
・コメント
>>解脱という「逃げ道」希望を与えたのでしょうね…
>そう考えることも可能ですね。
>ですが、「解脱」というのは、そんな遠くにある何か特別なものなんでしょうかね?
確かに、おっしゃるように「解脱」というのは「苦しみから解き放たれ脱け出ること」だと思いますし、それが藝術作品化されたものが京都の広隆寺や奈良の宮中寺の弥勒菩薩の微笑みだと思うんですよ。
↑
遠くか近くかは、その人次第であり、
そのの悲しみ・苦しみの深さレベルの問題であり「業の深さ」なのでしょうね…
バカだね!
弥勒菩薩・仏像の微笑みを生身の人間が常に「浮かべ続けられる」モノでしょうか?
オリンピック選手の世界記録を、出し続けられるでしょうか?
>それって、どこか遠い世界にあるものではなく、私たち日本人の幼少期からの躾けだとか日常生活の中に普通にあるものではないか?とも思いますね。
↑
人間が生きいるのは普通でも、そこの不幸・幸福があり、それぞれにレベルがある…という事ですね。
「解脱」も然り!その解脱のレベルの問題ですね。
>南郷先生の本の中の言い方でいったなら「平常心」だとか「不動心」だとか、あるいは「心の闇を極める」だとかでしょうか?あるいは「ビックリと仲良くなる」だとか、かな?
↑
それもレベルの問題!
平常心のレベル・中身。
不動心のレベル・中身。
>日常生活のご飯を食べたときの「美味しい」といった笑顔の中にも「解脱」というものはあるように思いますね、私は。
>小児が「あれ買って、買って、買って、ギャー」と泣き叫ぶ苦しみから脱け出て解き放たれるのが「解脱」ということで、それには社会的な法の上での他者への束縛からの解放をも必要としたという、単なる「心の中だけのお話し」ではなく、
>変温動物が外界の温度に同調して体温が上下するのに対し恒温動物が外界からある意味で切り離されて一定の体温のままでいることを「平常身」というならば、それが心的なところまで浸透するほど進化したものを「平常心」という、みたいなことかも知れませんけどね。
↑
「自然成長的」な平常心と「目的意識的」な平常心の相違ですね!
恒温動物・人間は北極では、裸では生きられません。
だから、生活する為に衣服を開発したのですよ。
平常心の然り、
その個人の平常心のレベルも、それまでの生活の中身で決められてしまっている。
これが自然成長的な平常心!
↑
そんな風に御思っているお宅なら~
お宅の学問・哲学も先生からの文化遺産の学びなしで、
どうぞ日常生活から習得すれば如何ですか!?