新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「死後の人生」の話

2024-09-07 14:54:18 | 「わたし事・学」

「死後の人生」の話


人間に死後の人生があるか?・否か?

普通に考えるなら機能である認識は、実体である人体の機能であるから…
実体である身体が消滅したなら機能である認識も消滅してしまうだろう。
そのような事は、他人の死という現実から見て取れている。

それでも…自分の死が他人と同じだろうか?
自分の死後…自分が消滅しても世界の存在はあり続ける…という事実。
自分にとって、自分は他人とは違う、特別な存在なのだから…
他人と同じとは限らない…と信じたいモノだから…

以前に、このブログのどこかの記事に、
「自分の死後も世界はありつづけるが…」
「自分だけが、この世界から消滅してしまう…」
そんな事実を思う事に違和感・不思議感を感じた…
という内容の記事を書いた覚えがある。


この違和感・不思議感の解消の為に、死後の「あの世」の存在を肯定し信じてみてみたら…
今度は、不思議な安心感が、生じ始めている…


私の死後、この世界での私は消滅しても、新たなあの世での私の誕生…
そこには、今のこの世界には、もう存在しない母・父・親戚・知人…の存在がある。
そんな、あの世では、この世では、別れたくないのに別れてしまった人々に会える喜び…


そんな事が、本当の事だと、信じられるなら…
それは、それで幸せなのだろう。


両方ともを事実だと信じたら、それはそれで矛盾であるが…
しかし…自分の死後の「この世」事も、死後の「あの世」の事も…正しく知り得る術がないなら……
自分が安心感を得られるほうを信じたほうが幸せだろう。

これは、私の「この世での死」が「あの世での生誕」という事なら整合性が…取り得るかも…
まあ~どっちにしても…
悲しいかな「自分の死後」を思ってしまう年齢になってしまった…
という事実の存在があり得ている…


宗教を信じようとしなかった私…
でも、宗教的な「あの世」の存在は、信じてみてもいいかな…











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40 コメント

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間違いだらけのブッタお宅へ (自由びと)
2024-09-23 16:55:23
Unknown (ブッタ)

>「マネる事でマナブ」ですね。
>人の姿形をマネする事で、その認識をマナブ、という事です。

>それは、おそらく玄◯空手の王道の学びではないのでしょうね。大体が、教えていないことを周りの様子を見てみよう見真似でやれ!なんてやり方を玄◯会ではやってないと思いますし、歌は合宿の事前に歌詞を渡されて覚えてくるように言われてましたね。そうそう、私は青◯塾近くの陸橋で歌っていて通りかかった中学生の集団に拍手されたのを思い出しましたよ。


「人の姿形」とは、「周りの様子」ではなく、指導者や先輩ですよ!
先輩・指導者も「人」ですよ!

ただ、「他山の石」の教えがあるように、
ダメな人の姿形は、ダメ見本して、反面教師して学ぶ、です。


>突きにしろ蹴りにしろ歌にしろ五段だとか六段だとかの先生が直接に見本を見せて指導するのに、周囲の下位の修行者の様子をうかがって修正するなんてのは精神力や集中力がない証拠でしょうね。入門する以前の育ちの問題ですよ。

「周囲の下位の修行者」だけが、「人」ですか?
お宅の「人」より、私の「人」の方が、多いいですね!


しかも「様子をうかがって修正」ですか?
なんで「様子をうかがう」必要があるの?
テストのカンニングではあるまいし…
練習・授業中なら、堂々と自分の間違いを訂正すればいいだけ!でしょう。
[
「人の振り見て我が振り直せ」ですよ!
本当に、間違いだらけのブッダお宅ですね!



◯熊氏の書いている守破離の破の段階でしょうね。そんな指導された以外のことをやろうとするのは。

>四六時中緊張し続けて

>少なくとも当時の南郷先生の講義では、そんなことはないはずでしたね。リラックスできずに眠れない、なんてのは現代社会のデスクワーク中心の身体を動かさない生活をしているからで、身体をしっかりと動かせば動物だから自然に眠ってしまうという話しで、精神病だとかは身体を動かしていない者がなるもので、だから戸塚ヨットスクールのシゴキが治癒効果を発揮した、なんて話しだったと思いますよ。


お宅には、人間の極限状態の緊張経験がないしょ!
疲れ果てている人間でも、死にそうになれば、パット目が覚める。
幼子・子供…認識が未熟な者なら、身体の疲労で眠りに落ちますが…
大人ならどんなに疲労して眠くても、その認識状態によっては眠れない事もありえる。




>お宅の話しはリラックスして眠れないなら心理カウンセリングを受けろ、みたいな方向ですが、南郷先生の話しは「だったら狩猟生活に戻れ!不眠の原始人なんかいない!」みたいな方向ですよ。


「リラックス」して眠れないのは、その「リラックスの方法」がマズイ、自分に合っていない。
だから、カウンセラーから、自分にあう方法を学べ!ですね…

この南郷氏の方向は、ブッダお宅の中の「南郷氏の方法」であり、
本物の南郷氏の方向ではありません。

これらも「間違っている!」



>海の中の波の刺激がマッサージ効果

>嘘八百でしょうね。水中では重力から解放されるので陸上で重力に逆らって立つための筋力は要らなくなりますが、水の質量に逆らって動かなければならないので別の筋肉が使われます。だから水泳選手は立派な筋骨をしてるわけですし、競技前後のマッサージを必要とするのです。



波の振動が、筋肉が、止まっていようが動いていようが、
それに対しての表面からの振動マッサージ効果ですかね…

走っていて疲れた時に、足の筋肉をバタバタ叩くでしょう。
波も振動も、そんな効果があるのでしょうね…

あと…海の中の全身運動のバランスがいいのでしようね。
地上では下半身の筋肉を強く使いますが、海中だと下半身が楽になります。
返信する
間違っている! (自由びと)
2024-09-23 16:24:05
以下のコメントは、間違っている!

「生即死」も「死即生」も、
必死に命懸けで生きた時代の先人・先達が、残した「極意」。
そんな「極意」を、平和な現代の空手に当て嵌めるとは…間が違ている!





>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>>死ぬ気で闘えるのだろうか?
>何を考えているのかも私には分からないですね。自由びとお宅が何を問うているのか?も。
>防具をつけて思う存分に暴れて回る練習を繰り返していれば、防具をはずして場合によったなら死ぬような場合でも余り代わりはないと思いますね。
>それぐらい、やり合うときには後先のことなど冷静に考えてる余裕なんかありませんから闘いに歯止めをかけている精神のブレーキが吹き飛んで、後はやるかやられるかだけでしょうね。
>ですが、正常な精神の持ち主ならば、そんな己れの人生に何らの利益ももたらさない動物のような闘いはしないでしょう。
>第一、他流派との闘いなどせずに自流の中だけで活動している南郷先生が90歳を超えて「死ぬ気で闘う」なんて必要もないでしょう。



私は、<「死ぬ気」と「死ぬ覚悟」は、違う>と書いたつもりですが…
ブッダお宅には、読み取って頂けなかったようですね。

死ぬ気で、相手に向かっていく!
死ぬ覚悟で、相手を迎え撃つ。


師範の「音無の構え」とは、自分からは向かって行かない」…ただ待つ。
しかし、相手が向かって来たら、死を覚悟して、
その相手が攻撃してきて(決まったと確信した)一瞬のスキを逃さず一撃。

90歳を越えた高齢(死が目前)だから「死の覚悟」がなの可能です。

それは、「死ぬ気」で闘う事ではありません。
「死ぬ気」とは、死なない確信があるから、「死ぬ気」なのです。

正しく分かっていないのに…
よくもまあ、自信タップリの間違いコメントできますね!
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-23 05:49:26
>「マネる事でマナブ」ですね。
>人の姿形をマネする事で、その認識をマナブ、という事です。

それは、おそらく玄◯空手の王道の学びではないのでしょうね。大体が、教えていないことを周りの様子を見てみよう見真似でやれ!なんてやり方を玄◯会ではやってないと思いますし、歌は合宿の事前に歌詞を渡されて覚えてくるように言われてましたね。そうそう、私は青◯塾近くの陸橋で歌っていて通りかかった中学生の集団に拍手されたのを思い出しましたよ。

突きにしろ蹴りにしろ歌にしろ五段だとか六段だとかの先生が直接に見本を見せて指導するのに、周囲の下位の修行者の様子をうかがって修正するなんてのは精神力や集中力がない証拠でしょうね。入門する以前の育ちの問題ですよ。

◯熊氏の書いている守破離の破の段階でしょうね。そんな指導された以外のことをやろうとするのは。

>四六時中緊張し続けて

少なくとも当時の南郷先生の講義では、そんなことはないはずでしたね。リラックスできずに眠れない、なんてのは現代社会のデスクワーク中心の身体を動かさない生活をしているからで、身体をしっかりと動かせば動物だから自然に眠ってしまうという話しで、精神病だとかは身体を動かしていない者がなるもので、だから戸塚ヨットスクールのシゴキが治癒効果を発揮した、なんて話しだったと思いますよ。

お宅の話しはリラックスして眠れないなら心理カウンセリングを受けろ、みたいな方向ですが、南郷先生の話しは「だったら狩猟生活に戻れ!不眠の原始人なんかいない!」みたいな方向ですよ。

>海の中の波の刺激がマッサージ効果

嘘八百でしょうね。水中では重力から解放されるので陸上で重力に逆らって立つための筋力は要らなくなりますが、水の質量に逆らって動かなければならないので別の筋肉が使われます。だから水泳選手は立派な筋骨をしてるわけですし、競技前後のマッサージを必要とするのです。
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-22 11:52:59
>死ぬ気で闘えるのだろうか?

何を考えているのかも私には分からないですね。自由びとお宅が何を問うているのか?も。

防具をつけて思う存分に暴れて回る練習を繰り返していれば、防具をはずして場合によったなら死ぬような場合でも余り代わりはないと思いますね。

それぐらい、やり合うときには後先のことなど冷静に考えてる余裕なんかありませんから闘いに歯止めをかけている精神のブレーキが吹き飛んで、後はやるかやられるかだけでしょうね。

ですが、正常な精神の持ち主ならば、そんな己れの人生に何らの利益ももたらさない動物のような闘いはしないでしょう。
第一、他流派との闘いなどせずに自流の中だけで活動している南郷先生が90歳を超えて「死ぬ気で闘う」なんて必要もないでしょう。

ほとんどの玄◯の道場が所在地を隠している状況から争いは避けられていると思いますし、私には「死ぬ気で」よりも「見事な人生とは?」のほうが関心がありますね。

これから仕事なので、また。
返信する
初めから決まっていない (自由びと)
2024-09-22 11:25:00
>・コメント
>自由びとお宅が合宿歌の話しを持ち出したんで思い出したんですが、合宿では最初に「歌いながらの行進」から始まるんでしたよ。

>だから、自由びとお宅が言っている最後の最後の「さらば合宿」に繋がる合唱以外に、合宿中は結構な時間を歌っているんですよね。


行進が終わって練習中は歌いません。
全員で輪になっての合唱が…午前or午後の最後あって…
その最後の合唱が長々とエンドレスに思えて…


>それで、まー、南郷学派は「脳の機能局在」を否定しているわけなんですが、私の立場からだとペンフィールドの脳地図で非常に面積が広いのが「顔と手と口」なんですよね。



>「…局在」を否定でしたかね…
私の記憶では、初めから脳のその部分にあるのではなく、
成長過程で、結果的に、その部分に機能が位置ついた…かな、
広い狭い…の広さは、人それぞれなのでは?






>脳の面積が広いということは、その部位に行っている神経繊維の数が多いということで、感覚も敏感なら動きも複雑だということですよ。




>手の動きや発声は、他の猿だとかとは大きく違う人間の特徴だとされてますから、循環器系を主眼に筋肉の大きな部位を運動させようというのとは全く違う(ある意味、対立関係の)稽古法だとも言えますね。

>南郷先生の練習法は「歌う」とか「帯の結び解き」だとか全く空手には関係ないかのものも少なくなかったですが、それは大元の脳の働きを良くするためだったかも知れませんね。

>そうした過程を重ねることが、いわゆる「重層的弁証法」なのかもね。


それらは「人間体力」「神経体力」の養成でしょうね…

重層的弁証法は、それら部分部分の変化・運動(強化・上達)の過程を弁証法的に捉えた時でしょうね。
返信する
「死ぬ覚悟と死ぬ気の違い (自由びと)
2024-09-22 11:09:03
>・コメントを書いた人
>ブッタ

・コメント
>>真の苦しみの中で「真似しよう!」と思って簡単にマネできたら、それは「マネする必要なし!」ですね。

>何を言っているのか理解できませんね。海保さんが『武道の復権』で書いていた通りに、あと少しで出口である状況でも、それが見えない・分からない人間には何倍もの精神的な苦痛となって諦めてしまうときでも、それが見える人間ならあと少しの辛抱だと頑張ることが出来る、そのための理論なんだ、と。


「真の苦しみの中」という事は、苦しみで手一杯で、他人にマネする余裕がない!という事です。
また「他人のマネほする」事は、その他人に二重化する事。

そんな二重化が可能なら、目の前の他人のマネではなく、自己の中の最強な認識に二重化するばOK!



「…その為の理論」は、合宿では使えませんね!

確かに、あの夏合宿での、あの合唱が「あと少しで終了」だと予想可能ならば…頑張れるでしょうが…
しかし…あの合唱、あの仲間を背負っての歩行、あの炎天下の行進…は、
「あと少し」ではなく、「いつかは終わる」…でもいつかは分からない!
その「終わるいつか」を迎えられる為に、現状の頑張りを続ける為の「マネ」てす。
それは、表情は「喜び」ですが…心は、頑張り続け自分への喜び、です、。




>仕事でも何でもそうですが、できる人間のマネをするということは大きいですよ。全てを自分独りで独自に編み出すなんて出来るものではありません。そして、自分では考えつかないからといってマネすることは容易いことも多々ありますね。正にコロンブスの卵というように。


「マルる事でマナブ」ですね。
人の姿形をマネする事で、その認識をマナブ、という事です。




>ただ「見よう見まね」というように真似しているつもりで全然違うことやってる場合もありますから、それが違うという点でオリジナルだと評価される場合と、正確に同じことをやって貰わないと困ると詳細に指導され直す場合とがあるでしょうね。


「見よう見まね…全然違うこと…」になり得るのは、まだまだマネ不足です。
姿形マネする理由が、その認識をマナブ事でもありますから、
姿形のマネでできないなら、その認識もマナベない…ので、
「学習」と目的なら、「オリジナル」評価はNG!

ただ、相手をからかう為のマネなら、全く違っていても、面白いのでしょうね…




>とにかく困難なのはマネすることよりも考えつくことのほうですから。


この台詞からして~
お宅には「真似るとは学ぶ」という先人の教えが真似できない、という事ですね…
そんなだから、ここで私の思考に即して、その対象を見て取れない!のですね。
もっとも…見て取れたからといって、何の意味もないでしょうね…







>>合唱は…楽しくない苦しい「武道修業・修行」の苦しみに耐えられる気力・精神力の養成の為なのです。

>それは人それぞれの意味や目的をつけて行うことも出来るのでしょう。歌うということは、手足の筋肉を休めることが出来ますからね。それに大きく呼吸をすることで脳を活性化して疲労回復の効果もありますから、さんざっぱらの移動稽古で疲れた手足を休めながらも別のところを鍛えるように指導者がメニューを組んでいるのでしょうね。


そうそう~別言するなら、「人間体の養成」ですね。
厳しい武道・空手修業・修行に耐えられるような「人間体」(体力・精神力・気力…)の養成。


>歌を歌ってぶったおれるなんてのは余程の体力がない者でしょう。それよりも、夏合宿でぶっ倒れるなんてのは指導者側としては気が抜けないでしょうね。熱中症は死にも繋がるものですから、死人なんか出したら次は行けませんからね。


観点・視点が違いますね。
確かに他の者達に比べて「体力がない者」である事は間違いない…
しかし、その無い体力をぶっ倒れるという極限まで継続的に使えたという事で
「気力・精神力」の養成という目的は十分は達せられた。




>>空手着を着たら「平常心」??空手着を脱いだら「日常心」

>やはりお宅は実際には合宿に行ってなかったのですね。私も複数の団体・流派の合宿に行ってますけど、確かに稽古が終わったら宴会で仲間と楽しく酒を飲み交わした流派もありますね。それも素敵な楽しい思い出ですよ。

>ですが、玄◯の合宿は「常在戦場」というか練習が終わってからのシャワーだとか風呂だとかも時間だとかが決まっていて、確か風呂は5分間だったかな?非常に短い時間で体を洗い湯船に浸かってカラスの行水で出るわけで、食事も会話しながらゆっくり食べるなんてものではなく、左手で15分間で食べた記憶がありますね。健康には絶対に良くないのでしょうけれど、「闘う」ということで構成されていたのだと思います。


「常在戦場」を想像するなら、四六時中緊張し続けて、
毎夜・毎夜ちゃんと眠れず、風呂・シャワーでリラックスの出来ず…
身体・精神の疲れが取れないなら…戦い続けられますか?

短い時間なら、なおさら「苦しみを感じて苦しい顔」で行動するより、
「さあ~気持ちを切り替えて、さっさとやるぞ!」の方が効率がようでしょう。

「入浴」ですか!
確か、夏合宿は、海の中の稽古が多くあるので、
その波の刺激がマッサージ効果になるので、「入浴は短く五分?」
でも、海の無い猿ヶ京合宿は、もと長くゆっくり温泉で疲れを取る…でした。
食事の場合、だらだら時間かけて食べるのではなく、集中して短く・素早く食べる訓練。









>おそらく、実際には合宿に行っていない自由びとお宅は典型的な弱い「正に弱者」だったんだと思いますよ。人間は鏡というか似た者同士で集まっていきますから、私の入門して最初の指導はN川さんという弱者そのものみたいな感じの人でしたが、その後は当時玄◯最強と言われていた日本大学の主将だとか元主将だとかの指導で学生と一緒に稽古していましたし、
>合宿では◯郷さんが近づいてきて野太い手足を間近に見たし、普段の稽古でも特◯科の佐◯や山◯と会うことが多かったです。

>もしかしたら私もあの大学生のように人殺しの顔をしていたのかも知れませんけど、「意気に感ず」というか、当時の私が望んでいた文武両道の環境を南郷先生は嘘偽りなく用意してくれたのだと振り返って思いますね。


ここで「人殺しの顔」と「人生意気に感ず」という表現に違和感を感じています。
空手を使って人を殺してしまったら…普通の人なら「落ち込んだ反省・後悔の顔」の筈。
その顔が、何で「人生意気に感ず」…?

これが、これから「決闘するぞ」という顔なら納得可能ですが…
それでも、「シャワーを浴びてから決闘」とは…
身体を清めて「死の覚悟」なのかも…です。

そんな、人を殺した後悔・反省の顔に、「人生意気に感ず」る、
ブッタお宅って、どんな性格?





>この「死即生」とは認識の問題です。


>そうですか、私はお宅の文章を見ただけで南郷先生の原文を見てませんからね。中国の「死中求活」みたいな心構えなんでしょうかね?



え?
一冊ではなく、何冊かの南郷氏の著書ので~

普通に「生即死」…とは、生き為の極意・真理。
それを南郷氏は彼の修業・修行体験から「死即生」を極意とした。

それは、闘いで生き残るために、先ずは己の死を覚悟して、闘う。

「生即死」では、「死ぬ気で頑張る」、
自己の死を知らないから「死ぬ気」。

南郷氏の「死即生」では、「死を覚悟して闘う」。
過去に数回、死にそうになった体験をもった南郷氏の「死の覚悟」。

現実に死の一歩手前の体験・経験があるから可能な「死の覚悟」。
そのような体験・経験験なしでも「死ぬ気」なら誰でも、その人レベルでなれる。

果たして「死ぬ気」になれても、現実の死を目前としたら、「死ぬ気」で闘えるだろうか?
現実の死を知らない・死の一歩手前を知らない…「死ぬ気」で、死ぬ気で闘えのだろうか?
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-22 07:26:20
自由びとお宅が合宿歌の話しを持ち出したんで思い出したんですが、合宿では最初に「歌いながらの行進」から始まるんでしたよ。

だから、自由びとお宅が言っている最後の最後の「さらば合宿」に繋がる合唱以外に、合宿中は結構な時間を歌っているんですよね。

それで、まー、南郷学派は「脳の機能局在」を否定しているわけなんですが、私の立場からだとペンフィールドの脳地図で非常に面積が広いのが「顔と手と口」なんですよね。

脳の面積が広いということは、その部位に行っている神経繊維の数が多いということで、感覚も敏感なら動きも複雑だということですよ。

手の動きや発声は、他の猿だとかとは大きく違う人間の特徴だとされてますから、循環器系を主眼に筋肉の大きな部位を運動させようというのとは全く違う(ある意味、対立関係の)稽古法だとも言えますね。

南郷先生の練習法は「歌う」とか「帯の結び解き」だとか全く空手には関係ないかのものも少なくなかったですが、それは大元の脳の働きを良くするためだったかも知れませんね。

そうした過程を重ねることが、いわゆる「重層的弁証法」なのかもね。
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-22 05:42:48
>真の苦しみの中で「真似しよう!」と思って簡単にマネできたら、それは「マネする必要なし!」ですね。

何を言っているのか理解できませんね。海保さんが『武道の復権』で書いていた通りに、あと少しで出口である状況でも、それが見えない・分からない人間には何倍もの精神的な苦痛となって諦めてしまうときでも、それが見える人間ならあと少しの辛抱だと頑張ることが出来る、そのための理論なんだ、と。

仕事でも何でもそうですが、できる人間のマネをするということは大きいですよ。全てを自分独りで独自に編み出すなんて出来るものではありません。そして、自分では考えつかないからといってマネすることは容易いことも多々ありますね。正にコロンブスの卵というように。

ただ「見よう見まね」というように真似しているつもりで全然違うことやってる場合もありますから、それが違うという点でオリジナルだと評価される場合と、正確に同じことをやって貰わないと困ると詳細に指導され直す場合とがあるでしょうね。

とにかく困難なのはマネすることよりも考えつくことのほうですから。

>合唱は…楽しくない苦しい「武道修業・修行」の苦しみに耐えられる気力・精神力の養成の為なのです。

それは人それぞれの意味や目的をつけて行うことも出来るのでしょう。歌うということは、手足の筋肉を休めることが出来ますからね。それに大きく呼吸をすることで脳を活性化して疲労回復の効果もありますから、さんざっぱらの移動稽古で疲れた手足を休めながらも別のところを鍛えるように指導者がメニューを組んでいるのでしょうね。

歌を歌ってぶったおれるなんてのは余程の体力がない者でしょう。それよりも、夏合宿でぶっ倒れるなんてのは指導者側としては気が抜けないでしょうね。熱中症は死にも繋がるものですから、死人なんか出したら次は行けませんからね。

>空手着を着たら「平常心」↔︎空手着を脱いだら「日常心」

やはりお宅は実際には合宿に行ってなかったのですね。私も複数の団体・流派の合宿に行ってますけど、確かに稽古が終わったら宴会で仲間と楽しく酒を飲み交わした流派もありますね。それも素敵な楽しい思い出ですよ。

ですが、玄◯の合宿は「常在戦場」というか練習が終わってからのシャワーだとか風呂だとかも時間だとかが決まっていて、確か風呂は5分間だったかな?非常に短い時間で体を洗い湯船に浸かってカラスの行水で出るわけで、食事も会話しながらゆっくり食べるなんてものではなく、左手で15分間で食べた記憶がありますね。健康には絶対に良くないのでしょうけれど、「闘う」ということで構成されていたのだと思います。

おそらく、実際には合宿に行っていない自由びとお宅は典型的な弱い「正に弱者」だったんだと思いますよ。人間は鏡というか似た者同士で集まっていきますから、私の入門して最初の指導はN川さんという弱者そのものみたいな感じの人でしたが、その後は当時玄◯最強と言われていた日本大学の主将だとか元主将だとかの指導で学生と一緒に稽古していましたし、
合宿では◯郷さんが近づいてきて野太い手足を間近に見たし、普段の稽古でも特◯科の佐◯や山◯と会うことが多かったです。

もしかしたら私もあの大学生のように人殺しの顔をしていたのかも知れませんけど、「意気に感ず」というか、当時の私が望んでいた文武両道の環境を南郷先生は嘘偽りなく用意してくれたのだと振り返って思いますね。

>この「死即生」とは認識の問題です。

そうですか、私はお宅の文章を見ただけで南郷先生の原文を見てませんからね。中国の「死中求活」みたいな心構えなんでしょうかね?
返信する
間違っていますよ! (自由びと)
2024-09-21 14:48:55
>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>仕事に行かなければならなかったのでコメントを書いている途中で投稿してしまいました。

>>例えば南郷の「死即生」という真理がある。
>>それは、「死即生」を体得している者の真理であり、他人には「真理」ではない。

>どうして「死即生」が「体得するもの」だと何の前提もなく書けるのか私には理解できませんね。
素朴に普通に考えたなら「死即生」とは人間が生きるためには動物や植物といった生き物を殺して食べないといけないという事実ですよ。だから己れの「生」は必ず他者の「死」によって成り立っているという認識で、仏教の「不殺生」という戒律は本気で厳密に守ろうとしたなら生きていけないという理解でしょうね。


>何の前提もなくない<ですか?

確りと前提は書いてあるでしょう!

それは、『例えば南郷の「死即生」という真理がある』という前提ですよ!

真理も一つの認識技と捉えるなら、
それは、知って分かっただけでは、使えません。
真理が使えるようになるには、習得・修得・体得が不可欠です






>さらに体内の細胞レベルで見たならばそれぞれの細胞は特定の周期で死ぬようになっていますから、その細胞レベルの正常死によって個体全体の「生」が成り立っているという理解で、それを生物学的に大きくは「代謝」というわけです。


「生即死」も「死即生」も悟り・認識論レベルの話で、
人体・生物体・実体レベルではありません!




>南郷学派の瀬江千史さんが内臓を「代謝器官」と呼んだのは、生活習慣病だとかの「病態」からの対立的な認識で、それは病態にならないために常態を維持するために細胞レベルの正常死や正常新生をコントロールするには健康的な食生活が必要だということでしょう。


しかも…認識は認識でも武道の勝負・生死を賭けた勝負での認識の問題なのですよ。



>南郷先生が実際に91歳でお元気なことが細胞レベルの生死を目的意識的にコントロールしている証明なのだろうな、と想像しますね。


>生死を目的意識的コントロールしている<ではなく、
人間体の能力・寿命を最大限に持続・維持する為に日々の生活・習慣・態度・言動・思考…をコントロールしている。のですね。


>「体得していない者には真理ではない」なんて言っている自由びとお宅は何も理解していないタワケだと私には映りますし、それはガンだとかの生活習慣病にならないために看護師だとかの医療従事者が一次予防として生理学的な説明とともに「こんな食生活をして下さい」などと活動していることとの連関も理解していない阿呆だと感じますね。



「死即生」も「生即死」も真理は真理でも
「生死を賭けた勝負」で、生き残る為の真理です。

これが、日常なら~

普通の人の日常生活は、、死なない為でも、生きる為でもなく、健康に生活できる為の認識。
病人なら、健康回復の為の認識・生活。
瀕死の重病人なら、先ずは、死なない為の医師の処置。

医者や看護師が癌で死んでしまうのは…
彼らが、癌化の原因・理由を明確に分かっていないからでしょう。



>何も理解していないのに偉そうに知ったかぶりするような性格に、成長期のどこかで条件づけられたのでしょうね。


「何も理解していない…」とは、明らかに嘘・間違いです!
確かに、私は分かっていない事は、分かりません…
それでも、分かっている事は、分かります!

お宅は、分かっては、いるようでも…その適用はレベル間違いですね!
分かっていても、その使用法が、レベル違いの間違いでは、勝負には勝てませんよ!
返信する
苦しみ耐えている自分を楽しむ (自由びと)
2024-09-21 11:11:22
>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>自由びとお宅のコメント、ひいては自由びとお宅の新・頭脳(ぷっw)から紡ぎ出される言葉の数々は、本当に私には何の意味をももたらさない文字の羅列に過ぎませんね(嘆息)。


お宅にとって私の言説が「本当に」お宅には「何の意味ももたらさない文字の羅列…」であれば…
当然、このブログ記事の記述内容の理解・把握もできてない筈!
なのに、何故に、ここにコメントを寄越せているのか?!

お宅にとって、自由びとの記事が意味のない言葉の羅列なら、
自由びとにとって、そのお宅のコメント内容も支離滅裂な意味のない言葉の羅列であろう!
または、お宅の独りよがりのコメント内容になり得ているのだろう。

それを、私は、そのようなお宅コメントを、
私の記事内容と関係性のある範囲で、読み取ってレスしている!

その言う意味では私には、私の思いもしなかったお宅のコメント内容(記事を理解できないから当然)…
それと私の記事内容との関係の模索は、ナゾナゾノ解きのようで面白い!




>まー、それも私個人の価値観からくるものかも知れませんから自由びとお宅を責める理由もないのかも知れませんけどね。

そうですね!
私だったら、他人の「文字の羅列」のように思えるブログ記事にコメントを書こうなんて思いもしません。
そんな私と大きく違って「文字の羅列ブログ記事に」に
コメントを寄越せるブッタお宅を、私も「責めたりしません」よ!

そう私には、お宅を責める理由(理解できない他人のブログに頓珍漢なコメントを書くな!)があっても、私は「責めません」。



>私は現在でも空手とは別に論研関係者の先生と時々のお付き合いがありますけど、その時に「◯◯のこと、覚えているかい?」だとか「◯◯先生は…」と嘗て道場で顔を合わせていた人の名前が出てくると「はい、はい」と非常に親近感が湧くというか、共感する感じがあるんですよね。


>ところが自由びとお宅のコメントは「あの夏の合宿は辛かったなぁ」みたいな感情の共有ではなく「周りの大学生の楽しそうな表情で頑張り抜けた」みたいな「どうすればやり抜けるか?」みたいなノウハウを語っているイメージで私は共感できないし、ましてや私の記憶では合宿中は隣でシャワーを浴びていた日大の学生が今しがた人一人殺してきたかのような表情をしていて南郷先生の「武道は楽しくてはダメ」だという発言を裏づけるような体験をしていたから自由びとお宅とは全く共感できないわけですよ。


ハ!ハ!ハ!

「ノウハウ…」レベルですか?
なんと浅はかな理解でしょうか!

そもそも、真の苦しみの中で「真似しよう!」と思って簡単にマネできたら、それは「マネする必要なし」ですね。
苦しみに耐えられなくなるのは、「もうダメ!」と気力・精神力を、自分でダメと決めつけるからです。





確かに「武道の技」は「楽しく使うモノ」ではありません。
武道技は「楽しく習練・修練するモノ」ではありません。

それで、合宿での炎天下での延々との合唱は、武道技ではなく、
楽しくない苦しい「武道修業・修行」の苦しみに耐えられる気力・精神力の養成の為なのです。
この過程で、途中で苦しいから「もうダメアウト!」と気力・精神力が持たない!なら、
他人が、苦しみながらも、その苦しみに耐えて楽しくやろう!としている大学生のマネをして何がマズイか?
私は、その彼の喜び・楽しみの中に、「その苦しみに耐えて歌っている姿」を見ました。


彼は、己の「苦しみを苦しみ」と分かった上で、その苦しみに耐えて歌い続ける己の姿が嬉しい・楽しい!かったでしょう。
実際に、そんな彼は歌い終わった時、倒れてしまった…と記憶しています。


薄笑いを浮かべて「こんな延々の合唱なんて軽い・軽い」的に平然としている彼だったら…
私は、そんな「薄笑い」認識のマネは無かったでしょう。

>私の記憶では合宿中は隣でシャワーを浴びていた日大の学生が今しがた人一人殺してきたかのような表情をしていて南郷先生の「武道は楽しくてはダメ」だという発言を裏づけるような体験…


武道・空手の稽古・練習は…「楽しんではダメ」でも、
そんな激しい・苦しい稽古・練習に耐え続けて…それが終わった!時には~
そんな苦しみ・激しさに耐え続けられた己に喜び・楽しみを感じても問題なし!です。

そもそも~
空手着を来たら「非常心」⇔空手着を脱いだら「日常心」
そんな簡単な修業過程が分からないなんて…

この大学生って、心の切り替えが出来ていませんね。




>それで、南郷先生の「生即死」というのは私が個人的に考えるのは本田克也さんの論文に「細胞死と細胞増殖」というのがありますが、海保さんはガンだったわけで、死ぬべき細胞が死なないから個体としての死を迎えたわけで

この「生即死」とは、認識の問題です。
これを細胞レベルで説くなら、死ぬべき細胞が、癌化して死ななくなるから、全身に悪影響を与えてしまう。
しかし、武道の決闘レベルで説くなら、「生を求めて死を恐れる」から恐怖心で全力が発揮できず死ぬ・負ける。

癌細胞は、寿命で死ぬべき普通細胞が癌化して、その寿命が延びて死ななくなり、全身のバランスを崩すから死!
お宅の説は、論理的に何か不足しているようですね。





>>例えば南郷の「死即生」
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-19 12:34:01
仕事に行かなければならなかったのでコメントを書いている途中で投稿してしまいました。

>例えば南郷の「死即生」という真理がある。
>それは、「死即生」を体得している者の真理であり、他人には「真理」ではない。

どうして「死即生」が「体得するもの」だと何の前提もなく書けるのか私には理解できませんね。
素朴に普通に考えたなら「死即生」とは人間が生きるためには動物や植物といった生き物を殺して食べないといけないという事実ですよ。だから己れの「生」は必ず他者の「死」によって成り立っているという認識で、仏教の「不殺生」という戒律は本気で厳密に守ろうとしたなら生きていけないという理解でしょうね。

さらに体内の細胞レベルで見たならばそれぞれの細胞は特定の周期で死ぬようになっていますから、その細胞レベルの正常死によって個体全体の「生」が成り立っているという理解で、それを生物学的に大きくは「代謝」というわけです。

南郷学派の瀬江千史さんが内臓を「代謝器官」と呼んだのは、生活習慣病だとかの「病態」からの対立的な認識で、それは病態にならないために常態を維持するために細胞レベルの正常死や正常新生をコントロールするには健康的な食生活が必要だということでしょう。

南郷先生が実際に91歳でお元気なことが細胞レベルの生死を目的意識的にコントロールしている証明なのだろうな、と想像しますね。

「体得していない者には真理ではない」なんて言っている自由びとお宅は何も理解していないタワケだと私には映りますし、それはガンだとかの生活習慣病にならないために看護師だとかの医療従事者が一次予防として生理学的な説明とともに「こんな食生活をして下さい」などと活動していることとの連関も理解していない阿呆だと感じますね。

何も理解していないのに偉そうに知ったかぶりするような性格に、成長期のどこかで条件づけられたのでしょうね。
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-19 07:50:25
自由びとお宅のコメント、ひいては自由びとお宅の新・頭脳(ぷっw)から紡ぎ出される言葉の数々は、本当に私には何の意味をももたらさない文字の羅列に過ぎませんね(嘆息)。

まー、それも私個人の価値観からくるものかも知れませんから自由びとお宅を責める理由もないのかも知れませんけどね。

私は現在でも空手とは別に論研関係者の先生と時々のお付き合いがありますけど、その時に「◯◯のこと、覚えているかい?」だとか「◯◯先生は…」と嘗て道場で顔を合わせていた人の名前が出てくると「はい、はい」と非常に親近感が湧くというか、共感する感じがあるんですよね。

ところが自由びとお宅のコメントは「あの夏の合宿は辛かったなぁ」みたいな感情の共有ではなく「周りの大学生の楽しそうな表情で頑張り抜けた」みたいな「どうすればやり抜けるか?」みたいなノウハウを語っているイメージで私は共感できないし、ましてや私の記憶では合宿中は隣でシャワーを浴びていた日大の学生が今しがた人一人殺してきたかのような表情をしていて南郷先生の「武道は楽しくてはダメ」だという発言を裏づけるような体験をしていたから自由びとお宅とは全く共感できないわけですよ。

それで、南郷先生の「生即死」というのは私が個人的に考えるのは本田克也さんの論文に「細胞死と細胞増殖」というのがありますが、海保さんはガンだったわけで、死ぬべき細胞が死なないから個体としての死を迎えたわけで

>例えば南郷の「死即生」
返信する
Unknown (自由びと)
2024-09-18 15:21:55
>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>>たとえば「犬」の話しを

>つまらん、何というつまらん記述だ。
>よくこんなの書いて「南郷継正の弟子」だと平気で言えるよw




「つまる・つまらん」は、その人の感性の問題。
他人に、ブッタお宅の「つまらん」感性を押し付けるな!


ところで…「犬」の話ってどん内容だったけ?
返信する
真理は一つ・言語表現は無限 (自由びと)
2024-09-18 15:13:41
>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>まあ、自由びとお宅の考えるような「南郷先生と同一化する」というのは「真理は我らを自由にする!」という學藝の本質から逸脱しますから私にとっては論外ですが、


対象との同一化を、どんなに欲しても、決して「同一」になり得ないのも事実。
ならば、そんな同一化なんか求めずに自由を!とも思いたいのですが…

確かに「真理は我らを自由にする!」
しかし、その真理を求め・真理に到達するまでには、大いな不自由の存在がありえる。
また、真理は言葉で書けば「真理・ひとつ」…
その「真理・認識はひとつ」でも…その真理を言語表現したなら~
十人十色・個性的・千差万別(大袈裟)。

同じ真理なのに、同じ言語表現になり難いのが真理!
他人の語る真理は、その人の真理であり、
他人が同じ言葉で真理を語っても真理(の体得)ではない。


例えば南郷の「死即生」という真理がある。
それは、死即生を体得している者の真理であり、
他人には「真理」ではない。

真理を言葉で表現可能でも、その真理を技・生き方…として体得していなければ…

「真理を知っていても、我らの真の自由は得られない!」
真の自由の中身は、他人のモノマネをする事無く、自分自身が創れ出すモノ…なのだろう。


今の私が思う「南郷継正との同一化」とは、
南郷継正の言説を元に「私の真理を南郷真理と同一化」!

さすれば~
「真理は我を自由にする!」と言うように、
「自由学藝」と一致するでしょうが…
返信する
Unknown (自由びと)
2024-09-18 14:47:24
>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>>何故に、>玄和会から「お前はスパイか?」<なの?

>それは京都弁証法認識論研究会の愛読者の発言とは思えませんね。寄筆さんご自身が書いていた過去のエピソードであったでしょ?



へ~そのようなエピソードを私は読んだ事ありません!





>南郷学派に心酔していた寄筆さん兄弟は大学生のときに当時は大阪大学助教授だった本田克也さんに入門したのだ、と。ところが、寄筆さんらはその当時に別の団体(唯物論研究会ですかね?投稿しているみたいですから)にも所属していることが本田さんに知れて「お前はスパイか!」みたいな感じで破門というか、指導を受けれなくなったということでしたよ。



それは、本田氏の団体名を出さずに、他の団体に投稿したからでしょうね。
この場合、本田氏の団体で学んだ成果を自分のモノのように発表…みたいに取られるのでしょう。


>私個人は別に唯物論研究会に所属していても構わないだろうとは思いますけど、それぞれの団体だとか指導者の考えもあるのでしょうから本田さんが論研とは別に唯物論研究会に所属していることは利益相反だと考えるのなら、本田さんの指導を受けるためにはそっちを止めないといけないでしょうね。


私も個人的にどちらの団体に所属していても構わない…と思います。
ただ…公に論文・投稿…という場合に、問題が生じてしまうのでしょう。



>まー、唯物論研究会を止めて「先生、あちらは退会しましたからお許し下さい。またご指導お願い致します」と謝罪すれば指導再開となったでしょうから、寄筆さんたちは玄◯空手を選ばなかったんでしょうね。


その代わり…とても良い指導者の元で頑張っているようですね…


>自由びとお宅は初段なわけですから、自分を磨こうと思えば論研に入れるわけでしょ?どうしてそちらを選ばないの?
>自分を磨く気なんかないからでしょ?


「自分を磨く気」はあります!
ただ、現在の私の体力・気力では、ダメ!付いて行けないだろう…という心配が…
また「論研」より、「京研」の方か、自由な雰囲気・指導者(指導レポート記録を読んだ限り)の雰囲気が…なんとなく気に入っていて、入るなら「京研」と思ったのです。
返信する
??? (自由びと)
2024-09-18 14:28:13
どうして、私の言説⇒「共感とは相手の感覚・感情に一致した自己の感覚・感情…」の意味が、
ブッダお宅には>「共感」という言葉の意味だとか概念はそのようなモノなんですかw<

普通、感覚・感情とは、「相手のとの話し合いの中で生じるモノ」…なのに~…




長文感想感謝!
残念ながら…私は「『ヘーゲル哲学の道』第二巻」まだ読んでいません。
お宅のコメントで初めて知って昨日、蔦屋書店に取り寄せお願いしましたばかりです…
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-17 07:50:22
>たとえば「犬」の話しを

つまらん、何というつまらん記述だ。
よくこんなの書いて「南郷継正の弟子」だと平気で言えるよw
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-17 07:40:28
まあ、自由びとお宅の考えるような「南郷先生と同一化する」というのは「真理は我らを自由にする!」という學藝の本質から逸脱しますから私にとっては論外ですが、
南郷先生の本を理解するというか楽しむには、やはりヘーゲルを理解するべきで、その『エンチクロペディ』の理解にはフィヒテの『知識学』の理解が必要だと私は個人的に考えてますね。

識者の書いたものを読むとフィヒテはカントの『批判』書が純粋理性と実践理性とを別々に並列して説いていると批判していたみたいですから、それがヘーゲルの『大論理学』の「概念論」に繋がったのだと思いますよ。

人間の「自由性」というか、例えば旧石器時代に人類は狩猟採集で生きていたわけですよね。食べられる動物だとか植物だとかが偶然に見つかるのを探してたわけで。
それを「植物の種を蒔く」とか「動物を飼って増やす」とかの方法を知って、それらを生かすには人間自身と同じように「水と食べ物」が必要だと理解した。

その植物のための飲み水は自然に降ってくる雨に任せていたのでしょう。「雨(あめ)」というのは「天(あめ)」と同音で最初は未分化な「天(あめ)から落ちてくるモノ」ぐらいの認識だったかも知れません。

それが日照りで旱魃が続けば植物は育たずに人間自身も食糧が無い。だから「雨乞い」だとかをやって雨が降るのを待つわけです。その段階では「天(あめ)から落ちてくる」という具象性から離れられないわけですが、「天(あめ)」という具象から「水」という概念に移行することで「灌漑」という川の水を人工的に栽培作物のところまで持ってくる、それが世界史における四大河文明の実践だ!みたいな解釈ですよ。

ですから「概念」というのは正に「おおむね」「だいたい」というところが大事なことで、同じ「概ね」さを持つ別の具体・別の具象と実践的に入れ替えられるということでしょうね。

自由びとお宅が大好きな「犬、いぬ」という言葉の語源は家を意味する「い」に助詞の「ぬ」がくっついたものらしいですから元々は「家の」ぐらいの意味だったんでしょう。「家の何?」と敢えて言うならば、野生の狼が家畜化されて犬になったらしいから「野生の狼」に対立する「家の狼」ということ(概念)なんでしょう?
つまりは「ブルドッグ」だとか「シェパード」だとかの生物学的な犬種よりも「猟犬」だとか「番犬」だとか、最近だったら「ペットとして人心を癒す」といった人間との関わりという社会学的なところが「犬、イヌ」の本質を踏まえた概念だったのだと考えますね。

だがしかし、「本質」というのも「概念」というのも一つではない!そこが大事だと思っています。

こんな感じに考えが浮かんでくるのも歴史の学習を続けているのとは別に若い頃から親の影響で音楽をしていたのが効いていると思います。

南郷先生は『弁証法・認識論への道』で三浦さんの『弁証法はどういう科学か』の記述を「それ自体は間違っていないが、それがそのままではやがて間違いになる」みたいなことを書いて「三浦の『弁証法はどういう科学か』からの卒業」を述べた。それは大略は「書物からの勉強の量質転化・相互浸透・否定の否定」といった単層(一重)の弁証法ではダメで、そこに「武道(ないしは身体運動)という別の弁証法的な過程との二重(重層)性」だとか、空手なら「基本技の繰り返しによる量質転化」だけではなしに筋力トレーニングやら神経トレーニングやらの別の弁証法的な過程との重層性だとかを言ったわけだと思いますよ。

もしも私が書いていることが面白かったなら、それは「言葉というものが面白い」のではなく、「私(ブッタ)という人間が面白味のある人間」だということで、自由びとお宅の記述がクソつまらないのは自由びとお宅がつまらん人間だということだと考えますよ。
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-17 06:13:04
>何故に、>玄和会から「お前はスパイか?」<なの?

それは京都弁証法認識論研究会の愛読者の発言とは思えませんね。寄筆さんご自身が書いていた過去のエピソードであったでしょ?
南郷学派に心酔していた寄筆さん兄弟は大学生のときに当時は大阪大学助教授だった本田克也さんに入門したのだ、と。ところが、寄筆さんらはその当時に別の団体(唯物論研究会ですかね?投稿しているみたいですから)にも所属していることが本田さんに知れて「お前はスパイか!」みたいな感じで破門というか、指導を受けれなくなったということでしたよ。

私個人は別に唯物論研究会に所属していても構わないだろうとは思いますけど、それぞれの団体だとか指導者の考えもあるのでしょうから本田さんが論研とは別に唯物論研究会に所属していることは利益相反だと考えるのなら、本田さんの指導を受けるためにはそっちを止めないといけないでしょうね。

まー、唯物論研究会を止めて「先生、あちらは退会しましたからお許し下さい。またご指導お願い致します」と謝罪すれば指導再開となったでしょうから、寄筆さんたちは玄◯空手を選ばなかったんでしょうね。

自由びとお宅は初段なわけですから、自分を磨こうと思えば論研に入れるわけでしょ?どうしてそちらを選ばないの?
自分を磨く気なんかないからでしょ?
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-17 03:49:39
>共感とは相手の感覚・感情に一致した自己の感覚・感情…
>この場合の「幻共感」とは、自分には、その相手のような感覚・感情がないのに…幻覚の如くあると信じている状態

wそーですかw、自由びとお宅にとっての「共感」という言葉の意味だとか概念はそのようなモノなんですかw
その「特異な共感概念」は他者(普通の常識的な人たち)の迷惑にならないようにご自分の中だけで大事にしまっておくといいとアドバイスさせていただきますよ。

>相手が本質レベルの感覚・感情なのに…
>自分が具体的事実レベルの感覚・感情なら「共感と言い難い」

非常に特異的で宗教的な個性的極まる考えですね(笑)。まず私が南郷先生の『ヘーゲル哲学の道』第二巻の話しを持ち出したのは南郷先生を信奉している自由びとお宅との共通の話題となるかと思ったからです。
ですが、私には自由びとお宅とは違って南郷先生への宗教心だとか信仰心だとかがありませんから「あー、確かに三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』を基本にしたなら、そこでそっちの方向に行くよな」といった思考過程の一部に対して「分かる、分かる、私もそう考える!」という感情を持ったことを「共感」と表現することを他者から何ら非難される筋合いは無いと思っていますね。

例えば、この第二巻の冒頭で南郷先生とヘーゲルの考えを対比させる形で「学問とは」なんてことの概念規定を綴っていますが、この「学問」という言葉は元々が中国の古典に由来する言葉で、日本では聖徳太子の時代から使われていた語彙で、近代においては福沢諭吉の『学問のすすめ』なんかにも使われていた言葉で、仮説実験授業の板倉聖宣さんなんかは「学問というのは科学以前の古い言葉」だと書いていた記憶がありますね。

それで、南郷先生がどうして「学問」なんて言葉の概念規定を頑張って書いているのかといったなら、ヘーゲルの『大論理学』に書いてある「哲学・形而上学を学問の名に相応しいものとする」という言わば「目的地点」「到達地点」だからだと思うのですが、この「学問」という日本語で翻訳されている元々のドイツ語は「Wissenschaft」で直訳すると「知識の集合体」「知識体系」「知識学」といったあたりじゃないかと思いますよ。

ですから「愛知、智慧を愛すること」からスタートして人類の2000年の歴史で獲得されてきた知識を踏まえてディドロやダランベールが『エンサイクロペディア(百科全書)』を作ったことが重要で、そこから考えたならヘーゲルの『エンチクロペディ(学の円環)』を言語化するなら「学問」よりは西周の「百学連環」の方が相応しいと私には思えますね。

まー、南郷先生はヘーゲルの「自然哲学と精神哲学の2本柱」から南郷流の「社会哲学を加えた3本柱」に変わるとエンチクロペディの小論理学の記載(内容)が変わると考えているみたいですけど、
今回の私の共感はそこではなく、第二巻の最初の方で三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』の基本に忠実に史実に適用しようとしている記述があったからですね。神庭さんの弁証法に関する記載に基本が全くないと述べた私ですから、南郷先生がそこをあらためて書いているのに感じるところがあったわけですよ。

何しろ南郷流だと「自然、社会、精神」の「三科」ですけど、西周だとかディドロだとかは「百科」なわけで、「学問とは何か?」と「百学連環とは何か?」では全然「新・頭脳(ぷっ、失敬)」に想起されるイメージが違いますからね。

それが「百科」→現代の数多の専門家たちによる学際協力と、
「学問」→南郷流の一つの新・頭脳(ぷっ)による形而上学的な支配との違いかも知れませんね。  

だから南郷先生は「帝国」なのかもと思いますよ。
返信する
サンキュー・トゥ・ユー (自由びと)
2024-09-16 15:56:52
>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>>そんな事どこに書きましたか?

>自由びとお宅はコメントした直後に全然反対のことを述べたりしたことがありますから、正しく筋道を通して語るというよりも面白がって矛盾したことを故意に書くところも持っている性格だと私は思っていますね。いや、実際にそうなのかどうなのかは別にして「私がそう思っている」ということが「私にとって」は重要ですよ。


そうですか「矛盾」です?
そうなのかも…

記憶している事を書く場合、
過去に思った事を書く場合、
今思っている事を書く場合、
今の次の思った事を書く場合、
想像した事を書く場合。
想像しながら書く場合、

それぞれに矛盾が生じているのかも…





>それで、自由びとお宅と神戸の老婆との対話を読んだ私の感想は「2ちゃんねるに書き込まれた玄◯や南郷先生への悪評を懸命に嘘にしようと弁護を考えた」形跡が見てとれました。いや、それも実際にそうかどうかは別にして「私にはそうイメージされた」ということが重要で、それはある意味「常軌を逸したキチ◯イ的な性格」とも映りましたよ。


「嘘にしよう!」ですか…
私は、思った事を書いていただけで、「嘘にしよう」とはお宅の思った事。
お宅の思った事が重要なように、私の思った事も重要ですね。
特に、ここは私の自由びとブログ~
だから、ここでも「お宅の思いなどどうでもよい事」…
なので、自由びとの思いを中心に展開していきます!
もっとも…そのお宅の思いの重要性の主張は、お宅の自由です!




>面倒くさいので探して指摘することはしませんが、私が「人によって同じ言葉でも概念が違う」と自由びとお宅が考えていると判断したのは「日本語の《手紙(てがみ)》と中国語の《手紙(シォゥジィー)》は同じ字を書いても郵便物とトイレットペーパーとで概念・指示対象が違うではないか!」だとか「中年以上の年代の《やばい》と若者の《やばい》とは意味が違うではないか!」といった例を挙げて南郷先生の文章の言葉は他の人、あるいは普通の人の同じ言葉・語彙とは意味・概念が違う」といった趣旨の発言をしていたと記憶していますね。



いいね!確りと覚えているじゃん!

そう「人によって、同じ言葉でも、その概念が違う」って事実でしょう。
う~ん…微妙に違う事を発見!
以下のように言い換えます!

「同じ文字・漢字・音声・記号を使っていても、人(言語)によって、その言葉の意味・示す・対象が違う。」
「言葉の概念ではなく、言葉の意味・示すモノが違う」ですね。


いや~ブッタ殿に感謝ですね!「サンキュー・トゥー・ユー」
ここで「概念」という表現は不適切ですね。
私の「概念」の理解が不十分でしたね!




>その自由びとお宅の主張を裏づけるように例えば南郷先生にとって「学問」というのは「自然、社会、精神」の3分野(全分野)に渡っていなければ学問ではなく、現在の常識とされている社会科だけ、理科だけ、数学だけ、といった個別専門分野は学問ではない、となるわけですよ、著書を読む限りでは。



そうですね!

この場合は、「学問」の概念の時代的な変化ですかね…
または、哲学者・学者・専門家…認識的・職業的…区別・違い…

時代と共に~
人類の認識が変化、その時代の使用言語・表現も変化…


言葉・言語表現って、面白いですね♪♪♪




>仕事の休憩時間が終わるので、また後でコメントします。
返信する
ホンモノの共感?! (自由びと)
2024-09-16 15:26:53
・コメントが届いた記事
「死後の人生」の話


>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>>お宅の思い込み的な「幻共感覚・感情」でない事を祈っていますよ!

>どうして幻だとダメなんですかね?自分がお金を出して買った本をどのように読もうと当人の自由であり勝手だというのが世間の常識では?


幻がダメなのではない!

共感とは相手の感覚・感情に一致した自己の感覚・感情…
この場合の「幻共感」とは、自分には、その相手のような感覚・感情がないのに…幻覚の如くあると信じている状態。
自分は知識として知識レベルでの感覚・感情であり、相手は智慧的・本質的共感の幻覚。

例えば、
相手が本質レベルの感覚・感情なのに…
自分が具体的事実レベルの感覚・感情なら「共感と言い難い」。


共感という事で思い出した事があります。
息子の「君の名は」と公開日の一致の感動・喜び…について、
一つの事実の書き漏れがあります。

それは、息子は『アニメ・君の名は』を、ロードショー・映画館で一度見ているのです。
その事を知った上での、私の息子への共感なのでした。

でも、ブッダお宅には、書いていなかった、この事実を知りません。
ブッダお宅は、初めて見た「君の名の」の内容(日時の偶然一致)に感動・感激してのでしょう…
見るのが二回目の息子が、その内容に二度目の感動・感激をする筈がないのです。

あった事・見た事・話した事のない息子が見た「君の名は」に対する感情・喜びを…
ブッタお宅が想像するには、そのアニメの内容にたいする、お宅的感情・感覚から類推するしかないのでしょう。

だから…まあ~お宅の「共感」が共感ではなくてもしょうがないモノですね。
しかし、それでも、お宅自身の「共感」が、相手と一致しているという、その思い込みはアウト!…




>取り敢えず自由びとお宅のコメントから「幻覚」と「共感覚」という公認心理士の試験問題にも出てくる専門用語を知ることができましたので京都の寄筆さんのことが想起されるのですが、自由びとお宅の発言から獨◯大学で初心者に自由組手の練習からやらせる映像に繋がった過去もありますから「自由びと=獨◯関係者」説も捨てがたい。↑


「幻覚」・「共感覚」が、「公認心理士の試験問題にも出てくる専門用語」なのですか?
初めて知りました!



>いずれにしても自由びとお宅が何処の誰だか分からないことが根本的なところで信じることのできないということは自由びとお宅にも納得いくことだとは思いますけども。


「根本的なところ」の信憑性は、その根本へ至る一つ一つの過程が信じられるか・否かの問題ですね!
私なら、一つ一つの過程的言説が、合理的だと思えたなら、
根本的なところ・結論が「その通り(ほんとう)」思えなくても…信じようと努力しますがね…


>以前も私のSNSに国際連合から派遣されてアフガニスタンの病院で働いている外科医だと写真つきの身分証明書まで送ってきて、さらにSNSの電話機能を使って電話をかけてきて英語で喋っていた人物がいましたが、国際連合に問い合わせたら偽の身分証明書だと分かったことがありましたよ。
>劇場型詐欺というか、ホントに世の中そんな時代ですね。


一つ一つの手順が合理的でも、写真・書類…が偽物では、結果は「ニセモノ」ですかね。



>だったら素性の知らない自由びとお宅と関わらなければいいではないか!というのが常識的な判断でしょうが、自由びとお宅が丁度私が青◯塾にいた当時に玄◯にいた先輩だという話しに一抹の興味が残っているのは確かですね。


私の常識・判断とは、少々違いますね!
まず、ここはネット界で、その関わり方は、間接的な記述・言語表現が中心です。
現実界なら、直接面接・会話・人物確認が可能です…

ならば、「ここでは書かれた事が全て」…
その言説が、直接私に不利益を与えないなら、関わり続けてもOKだと私は考えます。
しかし、その言説が、何らかの形で、私に不利益を及ぼすならNG!

>これから仕事ですから、また後でコメントします。
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-16 13:07:20
>そんな事どこに書きましたか?

自由びとお宅はコメントした直後に全然反対のことを述べたりしたことがありますから、正しく筋道を通して語るというよりも面白がって矛盾したことを故意に書くところも持っている性格だと私は思っていますね。いや、実際にそうなのかどうなのかは別にして「私がそう思っている」ということが「私にとって」は重要ですよ。

それで、自由びとお宅と神戸の老婆との対話を読んだ私の感想は「2ちゃんねるに書き込まれた玄◯や南郷先生への悪評を懸命に嘘にしようと弁護を考えた」形跡が見てとれました。いや、それも実際にそうかどうかは別にして「私にはそうイメージされた」ということが重要で、それはある意味「常軌を逸したキチ◯イ的な性格」とも映りましたよ。

面倒くさいので探して指摘することはしませんが、私が「人によって同じ言葉でも概念が違う」と自由びとお宅が考えていると判断したのは「日本語の《手紙(てがみ)》と中国語の《手紙(シォゥジィー)》は同じ字を書いても郵便物とトイレットペーパーとで概念・指示対象が違うではないか!」だとか「中年以上の年代の《やばい》と若者の《やばい》とは意味が違うではないか!」といった例を挙げて南郷先生の文章の言葉は他の人、あるいは普通の人の同じ言葉・語彙とは意味・概念が違う」といった趣旨の発言をしていたと記憶していますね。

その自由びとお宅の主張を裏づけるように例えば南郷先生にとって「学問」というのは「自然、社会、精神」の3分野(全分野)に渡っていなければ学問ではなく、現在の常識とされている社会科だけ、理科だけ、数学だけ、といった個別専門分野は学問ではない、となるわけですよ、著書を読む限りでは。

仕事の休憩時間が終わるので、また後でコメントします。
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-16 07:49:20
>お宅の思い込み的な「幻共感覚・感情」でない事を祈っていますよ!

どうして幻だとダメなんですかね?自分がお金を出して買った本をどのように読もうと当人の自由であり勝手だというのが世間の常識では?
取り敢えず自由びとお宅のコメントから「幻覚」と「共感覚」という公認心理士の試験問題にも出てくる専門用語を知ることができましたので京都の寄筆さんのことが想起されるのですが、自由びとお宅の発言から獨◯大学で初心者に自由組手の練習からやらせる映像に繋がった過去もありますから「自由びと=獨◯関係者」説も捨てがたい。

いずれにしても自由びとお宅が何処の誰だか分からないことが根本的なところで信じることのできないということは自由びとお宅にも納得いくことだとは思いますけども。
以前も私のSNSに国際連合から派遣されてアフガニスタンの病院で働いている外科医だと写真つきの身分証明書まで送ってきて、さらにSNSの電話機能を使って電話をかけてきて英語で喋っていた人物がいましたが、国際連合に問い合わせたら偽の身分証明書だと分かったことがありましたよ。
劇場型詐欺というか、ホントに世の中そんな時代ですね。

だったら素性の知らない自由びとお宅と関わらなければいいではないか!というのが常識的な判断でしょうが、自由びとお宅が丁度私が青◯塾にいた当時に玄◯にいた先輩だという話しに一抹の興味が残っているのは確かですね。

これから仕事ですから、また後でコメントします。
返信する
訂正! (自由びと)
2024-09-14 16:49:18
✕「「視た人ある?」
〇「見た事ある?
返信する
誤解釈ですね! (自由びと)
2024-09-14 16:44:28
>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>なるほど、共感とはそのように意味づけられている言葉でしたか。それならば、私は今、南郷先生に共感している部分が多々ありますね。

>『ヘーゲル哲学の道』第二巻が届きましてね、読んでいるわけなんですが非常に感じるところ大なりなんですね。具体的な対象がピッタリと一致していて正に共感しているところが大きくあります。


ほ~ほ~!共感ですか?
その「共感」が、お宅の思い込み的な「幻共感覚・感情」でない事を祈っていますよ!






>まあ、自由びとお宅の持論であった「人それぞれに言葉の概念が違う」わけですから、自由びとお宅には私が書いている文章の意味も、語彙の意味も逐一私に確認しなければ分からないで独り善がりの「自由びと言葉」として理解してしまうはずですから、私としては自由びとお宅がバカとかトンマとか書き殴っても何とも感じないようなんですね。


私・自由びとには、>「人それぞれに言葉の概念が違う」という持論はありません。
そんな事どこに書きましたか?
お宅は何か誤解している、ようですね!

多分~私の言いたかった事は~
「人それぞれ、ある対象に対する概念は同じでも、その言語・表現が違う」ですね。
そもそも…「言葉の概念が違う」という表現に違和感を感じますよ。

言葉・言語の概念とは、「言葉・言語とは人間の認識の表現」という事でしょう。
なので、言葉の概念が違うとなると…「…人間の認識の表現ではない」事になってしまいます」よ。
でも…私は「言語は人間の認識の表現」だと認識しています。

言語化された対象の概念(対象の概ね像・認識)は同じでも…その言語表現が異なっている場合。
例えは、「犬の話」を、自分の飼い犬の「具体的な話」でする場合とイヌ一般の「抽象的な話」でする場合。
それぞれ…概念レベルが異なっています。

または、言語表現は同じでも、その表現されている対象の概念が違う。
同じ「犬」という言語で、ある人は柴犬の事、別の人はゴールデン・レトリバーの事……



 
>それに、私としてはあの「偶然」の記事は自由びとお宅が「引っ掛け」のつもりで故意に書いたとも想像していますから「今日は劇場公開日」という記載で公開日を調べれば「2016年8月26日」ですから8年前で、記事の「先日」という記載と矛盾する。それを「劇場公開日と同じ月日」だと言えば分かりやすいが、読み手をワザと惑わす意図で記事が書かれていると考えればスンナリ了解されるわけです。



「引っ掛け」とは…
「信じる者は、救われる・変われる」けど「信じない者は、そのまま変わらない」なのに…↑

>記事の「先日」という記載<の矛盾ですか?!
記事を書いた時、息子から話を聞いた日時の記憶があやふやで…

でも、時系列に考えるなら、
息子の話を聞いた時点で、息子からの、公開日の話ないから、、その日時の記憶なく。
この公開日との一致は、後日、息子に書きされた話。
初めの息子の話は、「パパ!『君の名は』視た人ある?」
私は「それってアニメでしょう…視た人ある!…」
その程度で、後日、息子が「あれって公開日だった!」との言葉。

まあ~そんな過程での「先日」的な表現をした!だけです。

そもそも…これが「引っ掛け」の嘘なら…何の為の嘘?
どんな記事を書こうが書くまいが、それ程の反響もないこのブログで、
ワザワザ嘘の作り話を書く意味は、私には理解不能です。
私にとっては、全く意味なし!ですね。



>そんなお互いに会ったこともない「自由びと息子」がどんな人物なのか、あるいは架空のキャラクターなのかなんてことよりも、南郷先生の新刊(内容は過去のもののリバイバルらしいですが)と私の関心とが一致した偶然のほうが貴重ですよ。

そんなお宅の「貴重な偶然の一致」を、ここ他人である自由びとブログで披露する意味は皆無です。
どうか、どこか、御自分のSNSで発信して下さいな!


>それより、自由びとお宅は玄◯の◯鷹支部への復帰を考えながら、どうして論研ではなく京都学派への参加を考えるのですか?京都学派が論研にラブコールを送っていても完全に別組織、別団体でしょう?

それは、「自由学藝」誌に、会員募集の事が載っていて…メールアドレスも書かれていて…
会の雰囲気も自由で親しみやすく感じ、
改めて、多くの他人・同志の中で自分の認識を再確認・磨きたいなと思ったからです。


>私は玄◯に入る前から論研の存在を知っていて南郷先生にラブコールの論文を書いたから有段者になる前から海保さんの講義に参加させて貰ったりしてましたけど、自由びとお宅も玄◯から「お前はスパイか?」と怒られるのでは?

何故に、>玄和会から「お前はスパイか?」<なの?

そう言えば、以前、天寿堂の弁証法ゼミで、
⒉チャンネルでのゼミ情報暴露が、自由びとだ!と誤解された(よう)…
あれも、「スパイ容疑」での「お試し期間終了」だったのでしょうか?

自由びとがスパイなら…
それは何為のスパイ行為でしょうか?
自由びとが、スパイ行為して何の利益があるのでしょうか?

ただ…今なら分かって・言える事は~
当時の私が、⒉チャンネルでのゼミ情報
(チューターのイニシャル・日時・ゼミ内容)暴露を発見した時点で
稲〇先生に、その事を報告していれば、あんな誤解は生じなかった!という事です。

当時の私は、私のゼミ日が日曜日(確か・不確か)で、
暴露されたゼミは木曜日(だぶん)?と、曜日違いだったので、
そんな私には無関係(そんなの関係ない!的)だと、
自分勝手に思い込んでいた…のでした。


「後悔先に立たず」ですね!
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-14 13:18:14
なるほど、共感とはそのように意味づけられている言葉でしたか。それならば、私は今、南郷先生に共感している部分が多々ありますね。

『ヘーゲル哲学の道』第二巻が届きましてね、読んでいるわけなんですが非常に感じるところ大なりなんですね。具体的な対象がピッタリと一致していて正に共感しているところが大きくあります。

まあ、自由びとお宅の持論であった「人それぞれに言葉の概念が違う」わけですから、自由びとお宅には私が書いている文章の意味も、語彙の意味も逐一私に確認しなければ分からないで独り善がりの「自由びと言葉」として理解してしまうはずですから、私としては自由びとお宅がバカとかトンマとか書き殴っても何とも感じないようなんですね。
 
それに、私としてはあの「偶然」の記事は自由びとお宅が「引っ掛け」のつもりで故意に書いたとも想像していますから「今日は劇場公開日」という記載で公開日を調べれば「2016年8月26日」ですから8年前で、記事の「先日」という記載と矛盾する。それを「劇場公開日と同じ月日」だと言えば分かりやすいが、読み手をワザと惑わす意図で記事が書かれていると考えればスンナリ了解されるわけです。

そんなお互いに会ったこともない「自由びと息子」がどんな人物なのか、あるいは架空のキャラクターなのかなんてことよりも、南郷先生の新刊(内容は過去のもののリバイバルらしいですが)と私の関心とが一致した偶然のほうが貴重ですよ。

それより、自由びとお宅は玄◯の◯鷹支部への復帰を考えながら、どうして論研ではなく京都学派への参加を考えるのですか?京都学派が論研にラブコールを送っていても完全に別組織、別団体でしょう?

私は玄◯に入る前から論研の存在を知っていて南郷先生にラブコールの論文を書いたから有段者になる前から海保さんの講義に参加させて貰ったりしてましたけど、自由びとお宅も玄◯から「お前はスパイか?」と怒られるのでは?
返信する
他人の認識≠自己の認識! (自由びと)
2024-09-14 11:02:51
>・コメントを書いた人
>ブッタ

>・コメント
>>共感的な言説!?

>共感なんですかね?


同感が、自分の立場・認識から、相手の感情・認識を一致を感覚する。
共感とは、相手の立場・認識に、自己の感情・認識を合わせた感覚。



>私は息子氏の「今日は劇場公開日と同じ日だ!」なんて感激?感慨?を「中央大学を優秀な成績で卒業した若者が、そんなことに関心を覚えるだろうか?」との疑問から、映画のあらすじを辿ってみて、それが「同じ日付け一般」ではなく「主人公の男女が入れ替わるという強烈な話しのキモが違う西暦の同じ月日だった」ということに注目しましたね。


お宅には、分からないのでしょうね…
とんでもなく予想できなかった「偶然の一致」。
または、ほんの些細だけど予想不能だった「偶然の一致」。
または、全く思いもしなかった「偶然の一致」。

過去の劇場公開日と同一日に「突然『君の名は』を見たくなった偶然」
そんな偶然に驚く事は「成績優秀な大学生」ではない、のですか?
それは、お宅の偏見ですね!
人間は「十人十色」で、大学の成績とは無関係に決まる「色」もあります。

この場合、私の息子を全くしらないお宅に、息子の何が分かるのか?
分かる筈がないのに…分かったつもりで、息子の「偶然の驚きを否定している」。
それは、分からないのに、分かったと確信している「馬鹿」者、ですよ。

>だから息子氏の感激?興奮?は「同じ月日」のほうよりも「主人公が入れ替わる」というほうに有ったのだ、と。要するにパブロフの実験のように一時的に「条件づけ」られたので、餌が貰えるからヨダレを出すのか?ベルが鳴るからヨダレを出すのか?自分では自覚できなくなっている犬に等しいのでしょう。


それは、お宅の感情・感覚であり、私の息子とのは違いますね!
ヤッパリお宅には、ほんの些細でも、自分が思ってもいなかった事が、
偶然一致した時の興奮・驚きが分からないのですね…

息子の興奮・驚きは、自分が、見たいと思って見た日と、その公開日と一致していた事。
このような感覚・感情は日常生活から生じるモノで、大学の勉強・成績とは無関係でしょうね…


>それは南郷先生の本にあった「柳の下で嫌な経験をした者が、柳を見ると嫌な気分に襲われる」という、嫌なのは柳なのか?そこであった経験のほうなのか?区別できなくなっている「条件づけ」が問題で、


ばか!あほ!トンマ!
なんで「前向きな興奮・驚き」を「嫌な感覚」の条件反射にしてしまうの?

単なる「偶然の一致」に対する「驚き・興奮」なのに…



>「弁証法を理解するには専門分野と一般教養(文化遺産的な知識)だ」という南郷先生に共感的なところはありますが、自由びとお宅には「お前、何歳だ?」という無礼な考えは毛頭微塵もありませんね。


なんか…お宅って、
現実・事実…に、お宅の自分勝手な知識・論理…を押し付けて、
強引に、その事実のお宅的な論理・構造…的に解釈していますね…

これって、老人の相手の言説に対して
自分勝手の解釈して、「否定的な同感」レベルですね…


この場合~
対象である私の息子の認識・性格・趣味…を知らずに、
その息子の興奮・驚き…認識の理由が分かる筈ないのに…


なのにお宅は、「自分が・分かる筈がない」という事が分からずに、
分かったつもりで…何やら理屈・知識…を押し付けて、
真の「息子の興奮・驚きの内容」をお宅の納得でるモノに変えて、
更に、それに理由付けをして、満足しているね…


ばか!あほ!トンマ!というより……
単なる独りよがりの「他人の認識=自分の認識」的な思い込み者!
返信する
Unknown (ブッタ)
2024-09-10 12:42:56
>共感的な言説!?

共感なんですかね?
私は息子氏の「今日は劇場公開日と同じ日だ!」なんて感激?感慨?を「中央大学を優秀な成績で卒業した若者が、そんなことに関心を覚えるだろうか?」との疑問から、映画のあらすじを辿ってみて、それが「同じ日付け一般」ではなく「主人公の男女が入れ替わるという強烈な話しのキモが違う西暦の同じ月日だった」ということに注目しましたね。

だから息子氏の感激?興奮?は「同じ月日」のほうよりも「主人公が入れ替わる」というほうに有ったのだ、と。要するにパブロフの実験のように一時的に「条件づけ」られたので、餌が貰えるからヨダレを出すのか?ベルが鳴るからヨダレを出すのか?自分では自覚できなくなっている犬に等しいのでしょう。
それは南郷先生の本にあった「柳の下で嫌な経験をした者が、柳を見ると嫌な気分に襲われる」という、嫌なのは柳なのか?そこであった経験のほうなのか?区別できなくなっている「条件づけ」が問題で、

「弁証法を理解するには専門分野と一般教養(文化遺産的な知識)だ」という南郷先生に共感的なところはありますが、自由びとお宅には「お前、何歳だ?」という無礼な考えは毛頭微塵もありませんね。
返信する
共感的な言説!? (自由びと)
2024-09-10 10:02:59
・コメントを書いた人
ブッダ

・コメント
>>おいおい、ブッタお宅よ!
>>これは違っている!

>確かに私が誤解したようですね。自由びとお宅の記載の中に文字化されていない情報を知らなかったがための勘違いでした。

>昔の実写の「君の名は」の岸惠子さんの強烈な美しさばかりが印象に残っている私には近年、同名のアニメが公開されたらしいぐらいの知識しかなく、息子氏の「スマホで君の名を見てる」という発言が、スマホで映画を無料配信しているサイトで映画そのものを見ているということだとは自由びとお宅から指摘されて知ったところですよ。

>それでも「映画を見ている今日が劇場公開された日と同じ8月26日」なんてところに大学を卒業して社会人になっている20代の若者の喜ぶところか?なんて疑問は残りましたね。

>それが氷解したのは、映画の中で違う男女が入れ替わり始めた月日が同じだという布石があって、それが反映してのものかと納得いった次第。




取り敢えず…>納得いった次第<で良かったですね…

確かに、お宅の指摘道理、私の記述の中身・情報不足ですね。

私のような高齢者には、
人生での思いもしなかった偶然体験が、それなりに数回あるので…

「偶然・奇遇」の内容(こんな所・タイミングで何故!)には驚きますが…
「偶然・奇遇」という事実には、それ程の驚きはありません。


だから…私が「そんな偶然なんて人生で数回はあるよ!」と息子に言ったら…
息子が、「何で…うちの驚き・喜びに共感してくれないの?」言われ…

それで私が、新たに再度の思索をしたら~
「家内とのデート交際・死別…双方が私の誕生日…」という事実から私の驚き・感情の想起だったのです。

そこで、その話に話題を変えて、二人で「偶然の一致」の驚き・感激…感情の一致・共感し得てのでした。
返信する
その中身・レベルの問題! (自由びと)
2024-09-10 09:45:53
・コメントを書いた人
ブッダ

・コメント
>>解脱という「逃げ道」希望を与えたのでしょうね…

>そう考えることも可能ですね。
>ですが、「解脱」というのは、そんな遠くにある何か特別なものなんでしょうかね?
確かに、おっしゃるように「解脱」というのは「苦しみから解き放たれ脱け出ること」だと思いますし、それが藝術作品化されたものが京都の広隆寺や奈良の宮中寺の弥勒菩薩の微笑みだと思うんですよ。


遠くか近くかは、その人次第であり、
そのの悲しみ・苦しみの深さレベルの問題であり「業の深さ」なのでしょうね…

バカだね!
弥勒菩薩・仏像の微笑みを生身の人間が常に「浮かべ続けられる」モノでしょうか?
オリンピック選手の世界記録を、出し続けられるでしょうか?





>それって、どこか遠い世界にあるものではなく、私たち日本人の幼少期からの躾けだとか日常生活の中に普通にあるものではないか?とも思いますね。


人間が生きいるのは普通でも、そこの不幸・幸福があり、それぞれにレベルがある…という事ですね。
「解脱」も然り!その解脱のレベルの問題ですね。





>南郷先生の本の中の言い方でいったなら「平常心」だとか「不動心」だとか、あるいは「心の闇を極める」だとかでしょうか?あるいは「ビックリと仲良くなる」だとか、かな?


それもレベルの問題!

平常心のレベル・中身。
不動心のレベル・中身。




>日常生活のご飯を食べたときの「美味しい」といった笑顔の中にも「解脱」というものはあるように思いますね、私は。
>小児が「あれ買って、買って、買って、ギャー」と泣き叫ぶ苦しみから脱け出て解き放たれるのが「解脱」ということで、それには社会的な法の上での他者への束縛からの解放をも必要としたという、単なる「心の中だけのお話し」ではなく、
>変温動物が外界の温度に同調して体温が上下するのに対し恒温動物が外界からある意味で切り離されて一定の体温のままでいることを「平常身」というならば、それが心的なところまで浸透するほど進化したものを「平常心」という、みたいなことかも知れませんけどね。



「自然成長的」な平常心と「目的意識的」な平常心の相違ですね!

恒温動物・人間は北極では、裸では生きられません。
だから、生活する為に衣服を開発したのですよ。

平常心の然り、
その個人の平常心のレベルも、それまでの生活の中身で決められてしまっている。
これが自然成長的な平常心!




そんな風に御思っているお宅なら~
お宅の学問・哲学も先生からの文化遺産の学びなしで、
どうぞ日常生活から習得すれば如何ですか!?
返信する
信じ方・信じる構造の相違 (自由びと)
2024-09-10 09:28:07
・コメントを書いた人
ブッダ

>・コメント
>>結構、叩き甲斐があって、張り合いになっています…から。

>そうでしたか、自由びとお宅には「叩きたい」という欲求があるのですね。それが生活の上での「張り合い」になっているという、ある意味で何とも不思議な心、心理的な現象というか、ある意味では良くある話しなのかも知れませんけどね。

↑~

そう~言うなれば「叩きたい欲求」でしょうかね…
たた゛その「欲求」は、私が、お宅の言説を正確に理解(二重化)できた時、
その私のお宅的認識を、私自身の私的認識で「叩きたい」…そんな感じなので…
なので…たぶん…
このコメントの中のお宅の思う「叩きたい」とは違っていますね…




>元々「輪廻転生」なんて、人類の想像・妄想でしょう。
>そんなモノはない!あるのは、生まれて死んで消えて行く事だけ、生々生成・発展・衰退・消滅…

>まー、そんな風に考えることも出来るのでしょうね。自由びとお宅の奥さんも生まれて死んで消えていっただけだ、と。その「淀みに浮かんだ泡沫」みたいな存在を「死後のあの世で生きている」と考えたなら心が楽になる、なんて頑張って?考えてみたりして。 


この私の「輪廻転生」の思考の際には、「家内の生死は無関係」です。
何故なら、私は「輪廻転生」も「解脱」も信じていません。
当然に死後の世界の存在を否定しています。

ただ…その「自己の死後の世界の存在」の否定を、私自ら自身で一時的に否定して「死後の世界」が信じられた時~
「信じる者は救われる」的な感じで、心が楽になった!とい話ですよ。

なので私が頑張る事は~
「私の確信(死後の世界は無し)の一時的な否定」であり、
「死後の世界の存在を信じ事」の頑張りではありません。
その否定が続いている限りの「楽」感であり、
日々の疲れで、頭脳が疲れ「否定不能な時には…」無理・無理ですね…
そんな時に、家内を想い出したら、切ない・悲しいモノがありますね…



>私は「あの世」というのを信じてはいませんから好きだった誰かが死後の世界で生きているなんて考えても少しも気持ちが楽になったりはしませんね。三浦つとむだか南郷先生だかの言い方を借りるなら「理性的?なアタマの働きと心情的なココロの働きとが《あの世》というキーワードでは神経的な繋がりを持っていない」、パブロフ的には「条件づけられていない」ということだと思いますよ。


当然!私も信じていませんよ!
お宅の「信じ・信じない」と私の「信じる・信じない」の中身が違っていますね


例えば「苦しみ・悲しみを時間が解決してくれる」事も事実では、ありません。
何故なら、死ぬまで一生、苦しみ悲しみが消えない人もいれば、
また同じ人でも、時間が解決してくれる悲しみ・苦しみもあれば、解決不能なモノもあり得ます。

なので、お宅の思っている「…時間が解決してくれる…」とは事実ではなく、
お宅が「そのように信じている」という事なのです。


>「理性的?なアタマの働きと心情的なココロの働きとが《あの世》というキーワードでは神経的な繋がりを持っていない」、


「神経的なく繋がり」があるでしょう!
私は、感情的には信じられない死の世界を、
その否定的感情を、否定して、「死後の世界」を信じてみたら「楽になった・救われた」という事実。

自己の肯定的な感情(死後の世界ない!事の肯定観情)の否定を事実(死後の世界は実際にない事実)ではなく、
自己の認識で観念的に実行する時、そこには肯定感情を否定可能な強烈な理性力が必要なのです。

お宅には、私が体験して、この心情的・理性的の関係は、理解不能でしょうね…


>その上で、私自身は自由びとお宅とは違って「輪廻転生」というのを歴史を遡って理解したい欲求がありますから、それは「世界地図の上でのインド半島において生じてきた、アーリア人という一部族?民族?が、他の民族・部族を征服・支配した所に成立した国家的なカースト制という身分制を正当化するイデオロギー教育」なんてところにインド思想・インド哲学を位置づけてみたり考えますね。


そもそも「輪廻転生」的思考は、世界の運動を一つの円循環として捉えたものでしょう。
そして、たぶんですが…。
人間の今の苦しみ・悲しみの原因を「輪廻転生」に押し付け、
そこからの「解脱」が苦しみ・悲しみの解決!と意味づけたのでしょうね…



>だから「輪廻転生」というのは、私からすると、「雷=神鳴り」の「神さまが怒っている」みたいな迷信一般に解消することができなくて(まあ、この喩え自体が自然力kraftの心的支配に繋がっていくものかも知れませんけど)、日本の天皇の「天孫降臨」だとかヨーロッパの「王権神授」なんかと一緒で「現実的な強制力=Gewalt」と切り離しがたく一体化した「Macht=心的支配力(権力)」を構成したものだとも考え得るんですね。吉本隆明の「共同幻想」みたいな。


苦しみの原因は、「外力・自然力…」ではなく、人間・生物の輪廻転生だと位置づけたのでしようね。
それは、「禅的発想」です。
苦しみがあるのは「自分・人間・生物の輪廻転生」であり、自分を変える・解脱する必要がある的なモノ。
返信する
Unknown (ブッダ)
2024-09-10 07:48:25
>おいおい、ブッタお宅よ!
>これは違っている!

確かに私が誤解したようですね。自由びとお宅の記載の中に文字化されていない情報を知らなかったがための勘違いでした。

昔の実写の「君の名は」の岸惠子さんの強烈な美しさばかりが印象に残っている私には近年、同名のアニメが公開されたらしいぐらいの知識しかなく、息子氏の「スマホで君の名を見てる」という発言が、スマホで映画を無料配信しているサイトで映画そのものを見ているということだとは自由びとお宅から指摘されて知ったところですよ。

それでも「映画を見ている今日が劇場公開された日と同じ8月26日」なんてところに大学を卒業して社会人になっている20代の若者の喜ぶところか?なんて疑問は残りましたね。

それが氷解したのは、映画の中で違う男女が入れ替わり始めた月日が同じだという布石があって、それが反映してのものかと納得いった次第。
返信する
Unknown (ブッダ)
2024-09-10 02:35:29
私自身の考えを吐露してしまいましたが、それはあくまで私だけの考えで、自由びとお宅は自分で述べているようにテレビや漫画ばかり見てきて勉強が嫌いな人間ですから私の世界に入ってくる必要はありません。

自由びとお宅自身がやりたいことをやるのが望ましい。

ほー、M市の小中学生の日本語教育を、確かに私の周りにも海外からの人が増えましたね。

その人たちが日本に住んで日本で働いて、何よりも先ずは役所の収入源になるのでしょう。住民税や所得税の。
日本も少子高齢化で嘗ては廃校になった小学校や中学校が少なからずあったようですが海外の人たちが入ってきて復活するんですかね?

自由びとお宅は本当に義務教育に関する仕事が好きなんでしょうね。小中学生みたいな年頃の子供が好きなのか、まー、強制的に取り立てる税金を収入源とした公務員が適職、みたいな南郷先生の考えにも沿っているのかも知れませんけど。

玄◯の◯鷹支部に行きたいのなら先ずは問い合わせたら如何ですか?責任者さんに。
それで「年齢的に体力に不安があるのですが、見学も兼ねてご相談に伺えませんか?」と。おそらく、高齢者にそんな激しい稽古なんかさせないでしょうが、そうした事前の相談にも乗ってくれない道場だったら止めてもいいでしょうし。

たぶん、自由びとお宅は年齢的にそんなに沢山仕事はさせてもらえないのでしょうから時間は余ってるんでしょう。

そんなに行動力に欠けるのは初段まで行ったというのが疑わしく感じますけど、たしか玄◯はブランクがあっても一旦は得た段級位から再スタートでしたから黒帯してやるんでしょうね。

私は玄◯会に全然興味がありませんから、道場所在地を知りたいとも思いませんけど、自由びとお宅も健康を害しない程度にやったらいいと思いますよ。
返信する
Unknown (ブッダ)
2024-09-10 01:34:05
>解脱という「逃げ道」希望を与えたのでしょうね…

そう考えることも可能ですね。
ですが、「解脱」というのは、そんな遠くにある何か特別なものなんでしょうかね?
確かに、おっしゃるように「解脱」というのは「苦しみから解き放たれ脱け出ること」だと思いますし、それが藝術作品化されたものが京都の広隆寺や奈良の宮中寺の弥勒菩薩の微笑みだと思うんですよ。

それって、どこか遠い世界にあるものではなく、私たち日本人の幼少期からの躾けだとか日常生活の中に普通にあるものではないか?とも思いますね。

南郷先生の本の中の言い方でいったなら「平常心」だとか「不動心」だとか、あるいは「心の闇を極める」だとかでしょうか?あるいは「ビックリと仲良くなる」だとか、かな?

日常生活のご飯を食べたときの「美味しい」といった笑顔の中にも「解脱」というものはあるように思いますね、私は。
小児が「あれ買って、買って、買って、ギャー」と泣き叫ぶ苦しみから脱け出て解き放たれるのが「解脱」ということで、それには社会的な法の上での他者への束縛からの解放をも必要としたという、単なる「心の中だけのお話し」ではなく、
変温動物が外界の温度に同調して体温が上下するのに対し恒温動物が外界からある意味で切り離されて一定の体温のままでいることを「平常身」というならば、それが心的なところまで浸透するほど進化したものを「平常心」という、みたいなことかも知れませんけどね。
返信する
Unknown (ブッダ)
2024-09-10 01:07:23
>結構、叩き甲斐があって、張り合いになっています…から。

そうでしたか、自由びとお宅には「叩きたい」という欲求があるのですね。それが生活の上での「張り合い」になっているという、ある意味で何とも不思議な心、心理的な現象というか、ある意味では良くある話しなのかも知れませんけどね。

>元々「輪廻転生」なんて、人類の想像・妄想でしょう。
>そんなモノはない!あるのは、生まれて死んで消えて行く事だけ、生々生成・発展・衰退・消滅…

まー、そんな風に考えることも出来るのでしょうね。自由びとお宅の奥さんも生まれて死んで消えていっただけだ、と。その「淀みに浮かんだ泡沫」みたいな存在を「死後のあの世で生きている」と考えたなら心が楽になる、なんて頑張って?考えてみたりして。 

私は「あの世」というのを信じてはいませんから好きだった誰かが死後の世界で生きているなんて考えても少しも気持ちが楽になったりはしませんね。三浦つとむだか南郷先生だかの言い方を借りるなら「理性的?なアタマの働きと心情的なココロの働きとが《あの世》というキーワードでは神経的な繋がりを持っていない」、パブロフ的には「条件づけられていない」ということだと思いますよ。

その上で、私自身は自由びとお宅とは違って「輪廻転生」というのを歴史を遡って理解したい欲求がありますから、それは「世界地図の上でのインド半島において生じてきた、アーリア人という一部族?民族?が、他の民族・部族を征服・支配した所に成立した国家的なカースト制という身分制を正当化するイデオロギー教育」なんてところにインド思想・インド哲学を位置づけてみたり考えますね。

だから「輪廻転生」というのは、私からすると、「雷=神鳴り」の「神さまが怒っている」みたいな迷信一般に解消することができなくて(まあ、この喩え自体が自然力kraftの心的支配に繋がっていくものかも知れませんけど)、日本の天皇の「天孫降臨」だとかヨーロッパの「王権神授」なんかと一緒で「現実的な強制力=Gewalt」と切り離しがたく一体化した「Macht=心的支配力(権力)」を構成したものだとも考え得るんですね。吉本隆明の「共同幻想」みたいな。
返信する
始めミスれば結論もミス! (自由びと)
2024-09-09 15:47:50
コメントを書いた人
ブッダ

・コメント
>>「閑散」とは…時には、いいものですよ!

>私は「このブログのコメント欄が」と述べたのに相変わらずの「自由びと思考」が炸裂ですねw


確かに「コメント欄」と書かれていますね…
いや~失敬しました!読み飛ばしましたね!
初めの前提をミスれば、その結果、正しい論理的筋道でも結論は間違いですね。



ただ…以下のお宅の記述は間違っていますよ!




>>息子氏「今日は「君の名は」の公開日」
>>自由びと「偶然とは私の場合、30年前の家内との出会い。」
>息子氏「おいおい、「君の名は」はどこいった?」


おいおいブッタお宅よ!
これは違っている!


息子が「君の名を」を「再度見たい!」と思って見た日が「君の名の」の公開日という偶然。
息子は、その「両日の一致」の偶然に驚き、感動していたのです。
だから、>「おいおい、「君の名は」はどこいった?」という問い・認識はあり得ない。

そんな息子に対して私の場合は、
そのような偶然は、>ブッダお宅の書いている>家内との三十年前の出会いではなく!

家内との初めてのデート・交際の始まりが「私の誕生日」。
そして家内との永遠の別れも「私の誕生日」
という「始まりと終わりの一致」の偶然を具体例にして、
私は息子に「このよう偶然は、数十年生きていれば、一度はあり得る」と伝えたかった。






>自由びと「私に大事なのは事象でなくカテゴリー」
>三文禅師「過去を生きる!」
>一流禅師「今を生きない!」

>神戸だいすきブログのように

あの老婆の記事に本筋などありませんよ。皆が好きなことを書くことで全体のバランスが取れているのでは?

>>「枯木自覚」があるとは…
>「枯れる…多年の修練の結果、なまなましい鋭気がとれ、深みのある味をもつようになること」
>ほほう、まったく無自覚でしたが「わび」や「さび」の味わいが滲み出る年齢なのかも知れませんね、私も。

そのような枯れ木もありえるてしょうが…

ても、「枯れ木も山の賑わい」の場合の「かれきは」とは以下ですよ!

「枯れ木も山の賑わい」は、つまらないものでも、ないよりはましであることを意味するたとえです。枯れ木でも山に風情を添えるのに役立つことからきています。
年寄りが若い者の仲間に入るときなどに、謙遜して使う言葉です。
ただし、パーティなどたくさん人が集まる場所で「枯れ木も山のにぎわいだね」などと使うのは失礼にあたります。参加を促している相手を枯れ木にたとえることになるためです。

ただ…お宅コメントを、私は「ないよりまし」とは思っていませんよ。
結構、叩き甲斐があって、張り合いになっています…から。










>>それを信じることで、少し楽になれる感がいいのです。

>そうですか、何を好きか、何を楽だと感じるかは人それぞれの、成育期の条件つけられ方によるのだと思いますが、「ああ、あの時は嫁さんと楽しかったな」なんて思い出すだけで楽になる人もいれば、他の世界で生きていると夢想しなければ楽になれない人もいるのかも知れませんね。私の場合は大切な人が亡くなっても時間が解決してくれていつしか諦観というか仕方がないと受け止められるようになりますから、なくなっていることは正面から受け止められつつ想い出だけ楽しむことができるので、色々な神経構造の人がいるのですね。


人間色々で、「楽な感じ」も、十人十色てすかね…

>何のための解脱ですかね
>
>生前の業などという理由づけからの生まれながらの被差別を回避するためでしょうね、仏教の歴史にあるように。それと日本の宗教観にあるような死体遺棄が違法の、生きていた人間を死んだからといって蠅や犬や虎のタンパク源にすることの否定でしょうね。


私が思うに「解脱できる」という希望が、その人に、生きる喜び、生き甲斐を産むのでしょうね。

だって…元々「輪廻転生」なんて、人類の想像・妄想でしょう。
そんなモノはない!あるのは、生まれて死んで消えて行く事だけ、生々生成・発展・衰退・消滅…

輪廻転生がなければ、解脱もない!
苦しみ続けている人々に、解脱という「逃げ道」希望を与えたのでしょうね…
その「解脱」という希望を求める事で、現実の苦痛から気持ちを逸らせられるのてじょうね…
返信する
Unknown (ブッダ)
2024-09-09 07:50:17
>「閑散」とは…時には、いいものですよ!

私は「このブログのコメント欄が」と述べたのに相変わらずの「自由びと思考」が炸裂ですねw

>息子氏「今日は「君の名は」の公開日」
>自由びと「偶然とは私の場合、30年前の家内との出会い。」
>息子氏「おいおい、「君の名は」はどこいった?」
>自由びと「私に大事なのは事象でなくカテゴリー」
>三文禅師「過去を生きる!」
>一流禅師「今を生きない!」

>神戸だいすきブログのように

あの老婆の記事に本筋などありませんよ。皆が好きなことを書くことで全体のバランスが取れているのでは?

>「枯木自覚」があるとは…
「枯れる…多年の修練の結果、なまなましい鋭気がとれ、深みのある味をもつようになること」
ほほう、まったく無自覚でしたが「わび」や「さび」の味わいが滲み出る年齢なのかも知れませんね、私も。

>それを信じることで、少し楽になれる感がいいのです。

そうですか、何を好きか、何を楽だと感じるかは人それぞれの、成育期の条件つけられ方によるのだと思いますが、「ああ、あの時は嫁さんと楽しかったな」なんて思い出すだけで楽になる人もいれば、他の世界で生きていると夢想しなければ楽になれない人もいるのかも知れませんね。私の場合は大切な人が亡くなっても時間が解決してくれていつしか諦観というか仕方がないと受け止められるようになりますから、なくなっていることは正面から受け止められつつ想い出だけ楽しむことができるので、色々な神経構造の人がいるのですね。

>何のための解脱ですかね

生前の業などという理由づけからの生まれながらの被差別を回避するためでしょうね、仏教の歴史にあるように。それと日本の宗教観にあるような死体遺棄が違法の、生きていた人間を死んだからといって蠅や犬や虎のタンパク源にすることの否定でしょうね。
返信する
久しぶりに感謝を~ (自由びと)
2024-09-08 15:05:03
・コメントが届いた記事
「死後の人生」の話

>コメントを書いた人
>ギルガメシュあらためブッダ

>・コメント


>お久しぶりです、相変わらず閑散としたコメント欄ですね(笑)。


本当に久しぶりですね♪
「閑散」とは…時には、いいものですよ!

ただ…最近よく思っているのは、家内も元気で息子が幼い時、
二人とも外出して、私独りで留守番の時は、とても楽で落ち着いていられた記憶が…

でも…現在、家内なく、息子も仕事で不在…
在宅時は、殆ど私独りなので…とても物足りない感があります。


ただブログとしては~
神戸だいすきブログのように、いつも繁忙していても…
その寄せられた多くのコメントが、記事の本筋から大きく外れてしまっていては…どうなのでしょうね…?



>枯れ木も山の賑わいで私も少しだけコメントすれば自由びとさんの気分も変わるかも知れませんね。


ほ~お宅の事を見直しましたね♪♪♪「枯木自覚」があるとは…
お宅は、自分のコメントが枯木レベルだという自覚の元に書いているのですね♪♪♪
上記は、この「新・悟りを求めて~」ブログを全体「山」として…
お宅コメントを「枯れ木」としての記述。

しかし、ネット界を全体として、このブログを「枯れ木」とするなら…別ですがね…
まあ~どっちにしても比喩的表現なので、私の都合のよい理解にしましょうね♪♪♪




>「死後の世界」について考えるようになったのは自由びとさんが既に救われているのだと思います。あるいは「同じように死後の世界を信じる人たちとの共生・コミュニケーションの準備が出来ている」と言ったら良いのかも知れませんけど。


私的には、死後の世界を信じる人達との交流はパスですかね…
私の場合は、死後の世界を信じる事が重要ではなく…
それを信じる事で、少し楽になれる感がいいのです。

だって…死後の世界なんてありえないモノですから…
それでも…あり得ると思える事が、救われる…のですね。

なので…このブログ記事としては、書いていますが…
一般社会で、私は死後の世界の話を語る事は避けます。
ただ、それを信じる事で「楽になる」という事は語れます。



>人間は一人では生きていけませんから唯物論にしろ観念論にしろ、科学的理論にしろ宗教的思想にしろ同じ考えを持つ者たちが集まって共生していくのだと思います。

この「同じ考えを持つ…」の判断に、実際に難しいモノがあります。
今回の私の場合のように…死後世界があるから信じるのではなく、
それが無くても、「ある」と信じる事で、楽になれるから信じる。

その「信じる」の中身の相違が、
同じ「死後の世界を信じる」という考えでも…実は同じではないモノ…

これは言わば~
金を儲けたいから、人の儲け話を信じるか?
その話を信じた結果、金が儲かった!?の相違ですかね…



>まー、昔日ほどの身体運動能力は失ったとはいえ五体満足で何不自由なく生活できるくらいにお元気な自由びとさんが過去に仲の良かった人のことばかり振り返って黄昏れるにはまだ早い気もしますから、どちらかと言ったら「Change of Place, Change of Brain!」という行動主義的な考えを持つほうがスピリチュアルケアになると思いますけどね、私からすれば。


そうですね…「黄昏」ですかね…
でも…仕事中や忙しい時には、それはそれで張り切っているのですが…
どうしても…独りで暇している時には、黄昏れてしまっていますね……
特に、ここ最近は、右足が少々痛んでいるので…なおさらですかね…


>私の場合は南郷先生が書いていた「全人類の叡智をアウフヘーベンする!」という自由びとさんには想像も出来ない活動もしていますから仏教ひいてはインド哲学の輪廻転生(生まれ変わり)という思想は現実世界の食物連鎖という他の動植物の餌となって虫や犬らの肉体として生まれ変わることだと思われますし、火葬して灰になることによって食物連鎖の外に出ることが「解脱」なのだとも思います。


「輪廻転生」に「解脱」ですか?
何の為の「解脱」ですかね…
「輪廻転生」からの「解脱」で何を得られるだろうか?

それは、言わば~
「地球から宇宙船で大気圏外の宇宙空間へ」(解脱)、
そして地球を眺めて「青かった!」的感動が得られるのでしょう。
それでも…その宇宙飛行士は、再び地球へ帰還せねば…生きて行けません。

う~ん…
師範的な表現なら、認識内に観念的な世界・帝国を創り、
自らの認識で、その観念内の世界帝国を眺めつつ、現実世界を生きる。

肉体は「輪廻転生」を続けても、精神が「解脱」の状態で生き続けている。
こんな感じですかね…


灰になって、輪廻転生からの解脱は、別物への変化ですかね…
解脱して眺めているだけの人生?より、輪廻転生し続ける人生?の方が楽しいでしょうね…




>いずれにしろ行動主義というか「業」というか、新しい仲間ができないで過去への追慕ばかりあるのは行動力がないのでしょうね。


「新しい仲間」とは、その通りですね…
その為ではないのでしようが…
七月からⅯ市立Ⅿ学園の日本語学級の助手の仕事を週一木曜日で始めました。
それは、M市が、隣接していた中学校と小学校を合併して「市立の小中一貫校の中の日本語学級で、
主に、日本語が話せない帰国子女の為の日本語指導です。
七月に三回、八月に二回、今月に一回…になります。

その学校・校舎のバカでかい事、廊下の端から端までが、二百メートルはありそうです。
そこでの新たな出会い…緊張してしまいますね…



本当は、玄和会M支部への復帰や京都弁証法論理学研究会への参加…をなんて考えいいましたが…
何分…今の体力・気力が…どうも今一つで、躊躇しています…
返信する
Unknown (ギルガメシュあらためブッダ)
2024-09-08 06:20:38
お久しぶりです、相変わらず閑散としたコメント欄ですね(笑)。

枯れ木も山の賑わいで私も少しだけコメントすれば自由びとさんの気分も変わるかも知れませんね。

「死後の世界」について考えるようになったのは自由びとさんが既に救われているのだと思います。あるいは「同じように死後の世界を信じる人たちとの共生・コミュニケーションの準備が出来ている」と言ったら良いのかも知れませんけど。

人間は一人では生きていけませんから唯物論にしろ観念論にしろ、科学的理論にしろ宗教的思想にしろ同じ考えを持つ者たちが集まって共生していくのだと思います。

まー、昔日ほどの身体運動能力は失ったとはいえ五体満足で何不自由なく生活できるくらいにお元気な自由びとさんが過去に仲の良かった人のことばかり振り返って黄昏れるにはまだ早い気もしますから、どちらかと言ったら「Change of Place, Change of Brain!」という行動主義的な考えを持つほうがスピリチュアルケアになると思いますけどね、私からすれば。

私の場合は南郷先生が書いていた「全人類の叡智をアウフヘーベンする!」という自由びとさんには想像も出来ない活動もしていますから仏教ひいてはインド哲学の輪廻転生(生まれ変わり)という思想は現実世界の食物連鎖という他の動植物の餌となって虫や犬らの肉体として生まれ変わることだと思われますし、火葬して灰になることによって食物連鎖の外に出ることが「解脱」なのだとも思います。

いずれにしろ行動主義というか「業」というか、新しい仲間ができないで過去への追慕ばかりあるのは行動力がないのでしょうね。
返信する

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