~事実と論理~
「体罰は劇薬の如し」について…
この言葉の意味は~
事実的に考察するなら、
この文章は、「体罰」・「は」・「劇薬」・の」・「如し」からなっている日本文である。
「体罰」とは、教員が児童・生徒への教育の機会において、その身体に対して直接的または間接的に肉体的苦痛を与える行為をいいます1。学校教育法第11条により、「児童・生徒・学生に対する体罰を加えることはできない」と明記されています1。体罰にあたる行為は、傷害行為、危険な暴力行為、暴力行為の3種類に分類されます1。教員には、体罰にあたらない行為として許容される場合もあります1。
「劇薬」とは、ごく少量でも容易に中毒を引き起こす薬物で、使用量を過ごすと生命にかかわるので、厚生労働大臣によって指定され、みだりに使用することは禁じられている医薬品です1。劇薬は、毒薬に次いで毒性や薬理作用の強い薬物で、使用法を誤ると危険なものが指定されます1。劇薬の指定は厚生労働大臣が薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて行い、直接の容器または被包に、白地に赤枠、赤字をもって、その品名および「劇」の文字を記載することとなっています1。
「如し」は、比喩的に、同等・類似の意を表す助動詞である1。例えば、「落花雪の~如し」という表現は、「落花如雪」と同じ意味を持つ2。また、「如し」は、推量する際にも使われ、「…のようだ」や「好像」という意味を持つ2
「は」と「の」は接続詞。
全体の直訳的意味は、例えるから、「体罰は劇薬のようだ」となる。
ただ、これでは、どのような点で「劇薬のよう」なのかが、分かり難い。
それでも、上記の文章から以下のように解釈するお宅がいたとは…
「>自由びと思考だと、おそらくは体罰の「打撃=激しい」というイメージと、「劇薬=激しい効果、著しい効果」のイメージとが「げき」という発音で脳内リンクしたのでしょうけど、劇薬というのは毒薬と共に「どのくらいの量で死に至るか」ということで定義されているみたいですから、モルヒネを劇薬とするならば「水だって点滴で血管に入れたら死ぬのだから、水も劇薬」なんて話しになりかねませんよ。」
↑
確かに、改めて、素直に、上記のお宅コメントを、このお宅の認識的に、読みとるなら~
お宅の「体罰」の「打撃=激しい」というイメージから、なら「相手を殺してしまう・危険」的に理解もできよう。
別のお宅記述~
「モルヒネを劇薬とするならば「水だって点滴で血管に入れたら死ぬのだから、水も劇薬」なんて話しになりかねませんよ。」…
↑
これも、モルヒネを血管注射するから、水も同じように、血管注射したなら、
即死だから「劇薬」…と言えない事はないが…
確かに、このように、書かれた文章を、書き手の認識を考慮せずに、
その言葉・そのままを事実的に解釈・直訳して、読み取るなら、お宅コメントも納得可能である。
まあ~
ここれもそれも私の自己責任的に考えるなら、全ては私の説明不足であろう…
そもそも「体罰は劇薬の如し」とは、南郷氏?誰かの著書で使われていた言葉で
その時の意味を、私は以下のように読み取り・解釈した。
体罰を、その児童の成長の障害となり得る悪癖の矯正・治療的な指導の為に使用するモノ。
気を付ける点は、「体罰の使用法・用量に細心の注意」が不可欠である。
何故なら体罰には、劇薬のような(精神を壊す・殺す的)危険性がある、から…
また、モルヒネを劇薬の例えに使用したのは…不適切であった、ようだ。
何故なら、モルヒネは「麻薬」であり「劇薬」ではない。
確かに、量的に「劇薬」としての危険性は少ないだろう。
それでも、「麻薬」としての危険性がある。それは、使用法とその頻度の問題であろうが…。
モルヒネは、「激痛・痛みの緩和」目的以外の快楽・現実逃避…
のように使用したなら「麻薬から劇薬へと変質するのだろう」
そんな・こんなお宅のコメントの指摘の意図・意味は、分かるが…
「水が劇薬」の如しとは…少々非常識であろう。
何故なら、どこの誰が、何かの治療の為に「水を血管に注射する」事を考えるだろう。
それなら、空気を血管注射しても、人は死ぬらしいから「空気も劇薬」
また、洗濯洗剤なら、血管注射でも飲んだも「毒薬」レベル?!
ただ、「体罰は劇薬の如し」の異論・反論としては、
なかなか面白く興味深いモノがあって、
私にとって非常に勉強になった事も、事実であろう…
また、そんなコメントから、改めて、
私がどんな認識で「体罰は劇薬の如し」を使ったのか…
それを、思い出させてくれたコメントでもある。
自覚不能な自己の悪癖は優しく直そうとしていても、なかなか治らない。
もっとも…他人からの指摘を受け、それが「自分にとって本当にマズイ悪癖だ!」と痛感可能なら別であろうが…
このようなお宅のコメントの悪癖について…時々思ってしまうのは…
それは、ここで、自由びとを試そうと、ワザワザ、トンデモコメントを書いているの?!であるが…
その事実は、ここに書かれていて存在していても、
それは、お宅の認識・心の中にあって、
私には確認不能な「暗黒・闇」であろう…
そうそう…事実と論理が、まだ書かれていない。
事実は、書かれている文章から読み取れても、
その書き手の認識は、文章事実的に読み、
そこから書き手の論理(言葉の一般化)を推測・読み取る必要があろう。
その読み取った論理と、その人物の日頃の言動を合わせて、
書き手の認識を想像・創像・(アバウトに)認識していく、のだろう…
「体罰は劇薬の如し」について…
この言葉の意味は~
事実的に考察するなら、
この文章は、「体罰」・「は」・「劇薬」・の」・「如し」からなっている日本文である。
「体罰」とは、教員が児童・生徒への教育の機会において、その身体に対して直接的または間接的に肉体的苦痛を与える行為をいいます1。学校教育法第11条により、「児童・生徒・学生に対する体罰を加えることはできない」と明記されています1。体罰にあたる行為は、傷害行為、危険な暴力行為、暴力行為の3種類に分類されます1。教員には、体罰にあたらない行為として許容される場合もあります1。
「劇薬」とは、ごく少量でも容易に中毒を引き起こす薬物で、使用量を過ごすと生命にかかわるので、厚生労働大臣によって指定され、みだりに使用することは禁じられている医薬品です1。劇薬は、毒薬に次いで毒性や薬理作用の強い薬物で、使用法を誤ると危険なものが指定されます1。劇薬の指定は厚生労働大臣が薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて行い、直接の容器または被包に、白地に赤枠、赤字をもって、その品名および「劇」の文字を記載することとなっています1。
「如し」は、比喩的に、同等・類似の意を表す助動詞である1。例えば、「落花雪の~如し」という表現は、「落花如雪」と同じ意味を持つ2。また、「如し」は、推量する際にも使われ、「…のようだ」や「好像」という意味を持つ2
「は」と「の」は接続詞。
全体の直訳的意味は、例えるから、「体罰は劇薬のようだ」となる。
ただ、これでは、どのような点で「劇薬のよう」なのかが、分かり難い。
それでも、上記の文章から以下のように解釈するお宅がいたとは…
「>自由びと思考だと、おそらくは体罰の「打撃=激しい」というイメージと、「劇薬=激しい効果、著しい効果」のイメージとが「げき」という発音で脳内リンクしたのでしょうけど、劇薬というのは毒薬と共に「どのくらいの量で死に至るか」ということで定義されているみたいですから、モルヒネを劇薬とするならば「水だって点滴で血管に入れたら死ぬのだから、水も劇薬」なんて話しになりかねませんよ。」
↑
確かに、改めて、素直に、上記のお宅コメントを、このお宅の認識的に、読みとるなら~
お宅の「体罰」の「打撃=激しい」というイメージから、なら「相手を殺してしまう・危険」的に理解もできよう。
別のお宅記述~
「モルヒネを劇薬とするならば「水だって点滴で血管に入れたら死ぬのだから、水も劇薬」なんて話しになりかねませんよ。」…
↑
これも、モルヒネを血管注射するから、水も同じように、血管注射したなら、
即死だから「劇薬」…と言えない事はないが…
確かに、このように、書かれた文章を、書き手の認識を考慮せずに、
その言葉・そのままを事実的に解釈・直訳して、読み取るなら、お宅コメントも納得可能である。
まあ~
ここれもそれも私の自己責任的に考えるなら、全ては私の説明不足であろう…
そもそも「体罰は劇薬の如し」とは、南郷氏?誰かの著書で使われていた言葉で
その時の意味を、私は以下のように読み取り・解釈した。
体罰を、その児童の成長の障害となり得る悪癖の矯正・治療的な指導の為に使用するモノ。
気を付ける点は、「体罰の使用法・用量に細心の注意」が不可欠である。
何故なら体罰には、劇薬のような(精神を壊す・殺す的)危険性がある、から…
また、モルヒネを劇薬の例えに使用したのは…不適切であった、ようだ。
何故なら、モルヒネは「麻薬」であり「劇薬」ではない。
確かに、量的に「劇薬」としての危険性は少ないだろう。
それでも、「麻薬」としての危険性がある。それは、使用法とその頻度の問題であろうが…。
モルヒネは、「激痛・痛みの緩和」目的以外の快楽・現実逃避…
のように使用したなら「麻薬から劇薬へと変質するのだろう」
そんな・こんなお宅のコメントの指摘の意図・意味は、分かるが…
「水が劇薬」の如しとは…少々非常識であろう。
何故なら、どこの誰が、何かの治療の為に「水を血管に注射する」事を考えるだろう。
それなら、空気を血管注射しても、人は死ぬらしいから「空気も劇薬」
また、洗濯洗剤なら、血管注射でも飲んだも「毒薬」レベル?!
ただ、「体罰は劇薬の如し」の異論・反論としては、
なかなか面白く興味深いモノがあって、
私にとって非常に勉強になった事も、事実であろう…
また、そんなコメントから、改めて、
私がどんな認識で「体罰は劇薬の如し」を使ったのか…
それを、思い出させてくれたコメントでもある。
自覚不能な自己の悪癖は優しく直そうとしていても、なかなか治らない。
もっとも…他人からの指摘を受け、それが「自分にとって本当にマズイ悪癖だ!」と痛感可能なら別であろうが…
このようなお宅のコメントの悪癖について…時々思ってしまうのは…
それは、ここで、自由びとを試そうと、ワザワザ、トンデモコメントを書いているの?!であるが…
その事実は、ここに書かれていて存在していても、
それは、お宅の認識・心の中にあって、
私には確認不能な「暗黒・闇」であろう…
そうそう…事実と論理が、まだ書かれていない。
事実は、書かれている文章から読み取れても、
その書き手の認識は、文章事実的に読み、
そこから書き手の論理(言葉の一般化)を推測・読み取る必要があろう。
その読み取った論理と、その人物の日頃の言動を合わせて、
書き手の認識を想像・創像・(アバウトに)認識していく、のだろう…
この記事のタイトルにある「事実と論理」という言葉を見ても、私の場合には「事実」という言葉と「論理」という言葉とを並べて考えようなんて気持ちは生じてきませんし、その意味で自由びととは形成されてきた個性に隔たりがあるわけです。
何日か前に掲載された「教育とは?」という記事の中で生成AIで検索したという「教育と学習の違い」だとか「教育と指導の違い」「教育と躾の違い」「躾と指導の違い」といった事柄も、私なんぞは「へー、そんなことに興味があるんだ、私にはそんな興味はわいてこないし、それらの言葉を並べて違いを調べる気持ちも分からない」と全然違う私自身の興味ある専門分野の専門用語を検索したら、それはまだ生成AIでは調べられないみたいで回答が出ませんでしたけどね。
私にはいまだに自由びとが私と同じ時期に私より先に玄◯会の道場にいたということを信用できないでいますし、それはネット上の言葉だけの世界でマウントを取りにきただけだとも感じてはいます。それは元より許容可能な話しではありますけど信頼感を築くには無理な話しだとご理解はいただけると思いますね。
「事実と論理」という今の私ならば並べて書くことの無い二つの言葉ですけれど、南郷先生の本に傾倒している自由びとならば普通に出てくるのは分かるように思います。道場の教科書たる『空手道綱要』にもその組み合わせで「事実は論理で、論理は事実で」などと出てきたと思いますし、『武道講義』でも「事実と論理の区別なく」なんて詩歌のような形で書かれていた記憶があります。
私は厳密に?は、「人間の認識・認知した事実」なるものを「論理」と明確に切り離して語ることは不可能だと考えますし、それはカントが「モノ自体」として述べたとおりだと思います。
ですが、南郷先生が「論理と事実の区別」なる表現をするのには「私なりの」想像がついています。それは「ヘーゲル」なんです。南郷先生は、おそらくは滝村先生の影響で?ヘーゲルに強く傾倒していますけど、そのヘーゲルはアリストテレス以来の「形而上学」を「論理学」にしたからです。その形而上学から論理学への過程にカントの『純粋理性批判』があった。つまりは「大陸合理論だけでは二律背反となる!」として「イギリス経験論との融合」を説いたカントの流れを継承して『歴史哲学』などの「史実」を形而上学と統一したのがヘーゲルだと思うんです。
つまりは南郷先生が述べた「アリストテレス、カント、ヘーゲルへの道」ですけど、私のように平易に説ける論者は南郷学派にいないと思いますけどね。
だからヘーゲルの『論理学』にしても、それは「認識論」というか、「言語化された人間の理解の学」だと思いますよ。それは端的には「有論」だとか「存在論」だと邦訳されているドイツ語は「Sein」というイワユル「Be動詞」の類いで、人間の判断の言語化されたものだからです。こんなことは南郷先生を初め、南郷学派の論者の誰一人説いてないことかも知れませんけどね。
>書かれた文章を、書き手の認識を考慮せずに、その言葉・そのままを事実的に解釈・意訳して、読み取るなら
などと私を非難するようなことは、ご自分を振り返って自省してみることを勧めますよ。私は「体罰」について世間一般の考えから乖離したことを述べたつもりもありませんし、初めに「自由びとお宅が小学校の教員だというから、その専門分野に寄せて書いた」と述べています。ところが、自由びとお宅は「現代の学校教育で問われている体罰」ではなく「南郷先生の著作に説かれている体罰」なるものを、小学校教員としての立場を記憶喪失しながら「南郷先生の本を読んだことの無い人間には共感するのが難しい個性的観念」の話しにすり替えながら、私に「書き手の認識を考慮せず」などと非難しているわけです。
自由びとの「南郷先生の本に書いてあった」という記述をみて「ははーん」と思い当たったのが「戸塚ヨットスクール」の話しですね。南郷先生は戸塚ヨットスクールに賛意を示す発言をしていたと思いますから。ですが、戸塚ヨットスクールはハッキリと警察沙汰の犯罪をしたのが分かっていますし、玄◯会では戸塚ヨットスクールのような暴行が行われたことはありません。戸塚ヨットスクールの事例ならば「体罰は教育だ!」と述べた戸塚ひろしのやったことが「死にむすびつく劇薬」だと語る意味は理解できます。しかし、その学校教育ならぬ私学のヨットスクールで行われた暴行を「優秀な教師ならば」などと容認できるものでないのは明らかです。
自由びとお宅は、あまりに実力のない、貧弱な頭脳活動しか出来ない人間であるから端的には「歴史性のない人間は豚」だという南郷先生の発言そのままの人物だということです。
>弥勒
>・コメント
>まー、色々な人がいて色々なことを個性的に考えますから、互いに理解し合おうとの意志がなければ話しが噛み合わないのも無理はありませんよ。
↑
一般的には、そうですが…
ただ、思い・考えるべきは、
「果たして…自分は本当に相手を分かっているのか?」
「自分は、相手を誤解している可能性はないのか?」
>この記事のタイトルにある「事実と論理」という言葉を見ても、私の場合には「事実」という言葉と「論理」という言葉とを並べて考えようなんて気持ちは生じてきませんし、その意味で自由びととは形成されてきた個性に隔たりがあるわけです。
↑
文字としては並べて書いていても、認識内では、どうでしょうね…
>何日か前に掲載された「教育とは?」という記事の中で生成AIで検索したという「教育と学習の違い」だとか「教育と指導の違い」「教育と躾の違い」「躾と指導の違い」といった事柄も、私なんぞは「へー、そんなことに興味があるんだ、私にはそんな興味はわいてこないし、それらの言葉を並べて違いを調べる気持ちも分からない」と全然違う私自身の興味ある専門分野の専門用語を検索したら、それはまだ生成AIでは調べられないみたいで回答が出ませんでしたけどね。
↑
「そんなことに興味がある」のではなく…
私の認識を言語化するにあたって、教育関係を表現した語句の再確認をした…のです。
>私にはいまだに自由びとが私と同じ時期に私より先に玄◯会の道場にいたということを信用できないでいますし、それはネット上の言葉だけの世界でマウントを取りにきただけだとも感じてはいます。それは元より許容可能な話しではありますけど信頼感を築くには無理な話しだとご理解はいただけると思いますね。
↑
お宅が、信じようが、信じまいが、私が、過去に在籍したいた事実は事実ですね。
>「事実と論理」という今の私ならば並べて書くことの無い二つの言葉ですけれど、南郷先生の本に傾倒している自由びとならば普通に出てくるのは分かるように思います。道場の教科書たる『空手道綱要』にもその組み合わせで「事実は論理で、論理は事実で」などと出てきたと思いますし、『武道講義』でも「事実と論理の区別なく」なんて詩歌のような形で書かれていた記憶があります。
>私は厳密に?は、「人間の認識・認知した事実」なるものを「論理」と明確に切り離して語ることは不可能だと考えますし、それはカントが「モノ自体」として述べたとおりだと思います。
↑
人間が認識・認知したモノは、事実ではありませんよ!
それは、五感情報を元に、人間の頭脳に反映されたモノ、言うなれば「事実の映像」ですよ。
お宅には、今目の前で起こっている事・過去にあった事、(外界的な事実)と、
人間の頭脳内に反映されている事・過去に反映されて事(内界的な事実)の区別が出来ていない、ようですね。
↓以下は、よく分からない…ので省略…
>ですが、南郷先生が「論理と事実の区別」なる表現をするのには「私なりの」想像がついています。それは「ヘーゲル」なんです。南郷先生は、おそらくは滝村先生の影響で?ヘーゲルに強く傾倒していますけど、そのヘーゲルはアリストテレス以来の「形而上学」を「論理学」にしたからです。その形而上学から論理学への過程にカントの『純粋理性批判』があった。つまりは「大陸合理論だけでは二律背反となる!」として「イギリス経験論との融合」を説いたカントの流れを継承して『歴史哲学』などの「史実」を形而上学と統一したのがヘーゲルだと思うんです。
>つまりは南郷先生が述べた「アリストテレス、カント、ヘーゲルへの道」ですけど、私のように平易に説ける論者は南郷学派にいないと思いますけどね。
>だからヘーゲルの『論理学』にしても、それは「認識論」というか、「言語化された人間の理解の学」だと思いますよ。それは端的には「有論」だとか「存在論」だと邦訳されているドイツ語は「Sein」というイワユル「Be動詞」の類いで、人間の判断の言語化されたものだからです。こんなことは南郷先生を初め、南郷学派の論者の誰一人説いてないことかも知れませんけどね。
弥勒
・コメント
>自由びとが自由びとらしい考えをするのを私は妨げる気持ちはありませんけど、
↑
私には、お宅の他人の本当の気持ちは、分かりませんね。
そもそも…人間は、自己の本当の気持ちを 常に分っているモノでしょうか?
>>書かれた文章を、書き手の認識を考慮せずに、その言葉・そのままを事実的に解釈・意訳して、読み取るなら
>などと私を非難するようなことは、ご自分を振り返って自省してみることを勧めますよ。私は「体罰」について世間一般の考えから乖離したことを述べたつもりもありませんし、初めに「自由びとお宅が小学校の教員だというから、その専門分野に寄せて書いた」と述べています。ところが、自由びとお宅は「現代の学校教育で問われている体罰」ではなく「南郷先生の著作に説かれている体罰」なるものを、小学校教員としての立場を記憶喪失しながら「南郷先生の本を読んだことの無い人間には共感するのが難しい個性的観念」の話しにすり替えながら、私に「書き手の認識を考慮せず」などと非難しているわけです。
↑
お宅を「非難するような」事だと読み取りましたか?
私は、私にも、起こり得る事だと考えて書いたのですが…
そもそも上記のお宅の理解している「私の体罰について記述」も、私の伝えたい事と異なっている、ように思えますよ。
まあ~それもこれも私の記述の拙さ…表現力不足…ですがね…
過去に「体罰」は、有効な教育手段だったのに…
現在の「体罰」は、教師の問題行為化してしまった原因・理由が問題なのです。
そもそも、親・保護者の子供への体罰は、躾の手段の一つとして、容認されている(限度を越えると虐待)…のに、
学校・教育界では、体罰という指導手段は、問題行為で禁止されてしまう原因・理由が…問題なのです。
>自由びとの「南郷先生の本に書いてあった」という記述をみて「ははーん」と思い当たったのが「戸塚ヨットスクール」の話しですね。南郷先生は戸塚ヨットスクールに賛意を示す発言をしていたと思いますから。ですが、戸塚ヨットスクールはハッキリと警察沙汰の犯罪をしたのが分かっていますし、玄◯会では戸塚ヨットスクールのような暴行が行われたことはありません。戸塚ヨットスクールの事例ならば「体罰は教育だ!」と述べた戸塚ひろしのやったことが「死にむすびつく劇薬」だと語る意味は理解できます。しかし、その学校教育ならぬ私学のヨットスクールで行われた暴行を「優秀な教師ならば」などと容認できるものでないのは明らかです。
↑
確かに「暴行」であったのも事実です。
しかし、「暴行ではなく、成功もあった」のも事実です。
死なずに、耐えて、社会復帰して者達もいた、ようですね。
スポーツ界でも、死の特訓に耐えて、一流選手になった者もいれば、
その特訓の結果、身体を壊して、断念・引退して者達もいる事でしょう。
>自由びとお宅は、あまりに実力のない、貧弱な頭脳活動しか出来ない人間であるから端的には「歴史性のない人間は豚」だという南郷先生の発言そのままの人物だということです。
↑
「あまりに実力のない、貧弱な頭脳活動しか出来ない人間」とは、
「事実を書いている自由びと?」or「自由びと実力を読み取れない・お宅」?
どっちかな…
そもそも…
「歴史性のない人間」とは、進歩・発展・変化・運動のない人間の事。
私が、思うに今の「お宅」って、出会った時のままの「お宅」ですよね…