「2022-11-26 16:35:57 」の記事「心に青雲」ブログに想う~」について~
>以下は、2006-07-17(06:24) にアップされた「心に青雲」ブログ記事である。
>ジャリ道鍛錬の弁証法
>ジャリ道ランニングとは、わが流派の名物鍛錬法である。南郷先生が発案された。私も夏になると近所の河原に赴いて、裸足になってジャリ道を歩く。南郷先生ほど根性がなくて、痛くてとてもランニングはできないが、歩く。途中、体調を壊してできなかった年もあるが、どうにかこうにか毎年続けている。
>炎天下、焼けたジャリの上に裸足の足を乗せる。熱くなったアスファルト上も裸足で立つ。ときに火傷する。これは足裏を熱と尖った石の刺激で、脳細胞を活性化させるのが目的である。頭が良くなる、と南郷先生は「総合看護」に連載中の『夢講義』で説かれている。たしかに私も頭が良く…と言いたいところだが、小生ごときレベルで頭が良くなった、とは恥ずかしくて言えない。それでも昔と比べれば、という条件をつければ、私のようなものでもそれは実感できる。
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「確かに頭が良くなる」という実感は、ありえるだろうか?
この「足裏の神経刺激」での頭の良さとは、
勉強して問題が解ける…いったモノでない。
それは、言うなれば、感覚・神経が敏感になり得た事での「頭の良さ」であろう。
頭・頭脳活動の本質は神経活動であり、
日頃から刺激不足で鈍感な足裏に強烈な刺激を与え続ける事で、
鈍感から敏感へと変化される事。それが、
この場合の「頭が良くなる事」であろう。
>さて、そのジャリ道鍛錬の効用について、別の角度から考察をしてみたい。熱い思いをしながらジャリ道を歩いて気づいたことである。
>第一に、当初、こんなジャリの上を歩いて本当に頭が良くなるのか、という思いはあった。それでも南郷先生のおっしゃることだから、と信じて始めた。熱く、痛い思いをしながら、あと一回往復したら止めようとか、先日はさぼったから今日は少し多めになんて思いながら、続けたことであるが、その熱く、痛い一歩一歩は、一歩ごとに南郷師範を信じる過程でもあったのである。止めたくなるのを、いやもうちょっと頑張ろうと、自分で自分をなだめるというか励ますというか、それは「頭が良くなる」という南郷先生の言葉を信じなければ歩めないものであった。だからこそ、一歩一歩が、信じる道に通じていたのである。
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う~ん…
「信じる」事が「頭の良さ」…~そうだろうか?
この場合に得られるモノは、嫌でやりたくない事だが、
南郷氏を信じて実践し続けられる事で、他人力による自己の実行力・頑張力…の形成・獲得と考える…
それが強烈に発揮可能な「意志力」の強化になり得た…という事。
まあ~意志力も神経だから、「頭が良くなった」と言っても間違いでは、なかろうが…
>この信じるとは、頭ではわかっていたつもりだったが、やはり実践してこそ感情になるという発見であった。
私がブログで「心と気持ちの違い」を書いたところ、見知らぬ方からコメントをいただいたけれど、この方は失礼ながら、南郷先生をこうした実践を通して信じるという努力はされていないように見受けられた。要は、南郷先生の本を読んで、読解力的には分かることはできるだろうが、この熱く痛い思いをして、信じる道を歩んだ者でないと、「理解の妙味」は得られないのではないか。
>さてそれから、ジャリ道鍛錬の第二の効用である。これは端的には、何ごとも能動的になる脳細胞を量質転化させて創る、ということである。
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「何事にも能動的…」なら「能動的に犯罪行為」?と思われても…だが~
ここは、自分のやりたくない事・面倒な事・不要だと思える事…それでも、
信頼できる人から「やった方がいい!」と言われたら頑張れる意志力の量質転化化…
その事が、「正しい事or間違い事」という自己判断が不可能な場合は、
信頼・信じられる人の意見を聞き、判断材料にするのがベストだろう。
>ジャリ道鍛錬は熱いし、痛いからやりたくない。それをあえて実行するのである。最初は「あえてやろう」「えーい、やってやる!」というような半ばやけくその実践であっても、鍛錬を始め続ける認識は、自分で創っていくものである。
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「痛い事を我慢してでもやり遂げるメリットを識る必要もあろうが…
聞いて信じられない時は、それを説いた人の人間性が信じられるか、否かポイントだろう。
>われわれがそもそも空手をやるというのは、護身を目的とするのは当然ながら、こういう目的のためでもあるのではないか?
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全ての入門者が「護身を目的」という意識が明確に自覚出来ているとは…限ないだろう。
>かつてある人間が、過酷な機長訓練のあいだほど熱心に道場に通ってきた。それは結果的に彼の能動的・積極的な姿勢というものを創っていき、見事に機長にもなれたのである。空手を私が教えたから、などと傲慢なことは言わない。ただ彼自身、自分の人生を能動的になる脳細胞を自力で量質転化させることには成功したな、という感想を抱いている。むろん、もともと優秀な人間であったが。
>よく道場でも言うのであるが、仕事や勉学で忙しいといって、空手をやらなければ、それだけ何ごとかが退歩していく。現状維持ではない。高校生が大学受験で忙しいなか、勉強とスポーツを両方がんばった人間ほど、そのあとの人生が見事になるという事例を知っているだろう。あれは、無理してでも勉学とスポーツの両方を能動的にこなした結果、単に体力もつき、勉強もできるようになった、というだけの話ではあるまい。脳細胞じたいがある種、量質転化をなしとげたのであり、それが後の人生に、なにごとにも能動的に取り組む魂をつくるのに絶大な効果があった、ということなのではないだろうか。
>話は飛ぶが、最近、電話からメールにコミュニケーション手段が変わって、その結果、人から通知を受け取っても返事をしない、というケースが増えたように思う。メールは受け取って、読んだ、だからわかった。それでこと足りたと思ってしまうのだろうか。
>私の道場の者でさえ、連絡したことに返事がない。「メールを受け取りました」とか「連絡ありがとう」とかもない。
自分に手紙やメールをもらったら、返事をただちに返信するということは、単に礼儀に反するということで言っているのではない。相手の通信に対してすぐに返事をすることが、どれほど頭の回転を早くすることになるか。多忙のなか強要するつもりはないけれど、礼儀を失しない程度にただちに返事を出すことが、自分の人生へのいわば積極的・能動的な姿勢をつくることと「直接」に行うということが、弁証法の学びでもある、ということが言いたいだけである。
>何も行動を起こさなければ、何もしないという量質転化が起きるのだとは、弁証法の教えである。
メールも、どうやったら自分の人生をレベルアップさせることに繋がるか、という観点から考えて実践するものではないのだろうか? 逆に、面倒だな、と思いながら行えば、なにごとにも「面倒」という姿勢になるという脳細胞の量質転化が起きかねない。
>世間一般の庶民は、メールは単に便利な通信手段程度にしかと思っていまい。しかしそれだけではない、というのが玄和会で学ぶ意義である。
>ジャリ道歩きは、足裏鍛錬と(弁証法でいう)「直接」に脳細胞の能動的あり方を創ることを学ぶことでもある。
>以上、ジャリ道鍛錬の効用について、脇道に逸れての愚察である。 2006-07-17(06:24) :
>私は上記の記事を何遍読んだ事だろうか…
>そして私は何を思っていたのだろう?
>過去にあれ程に心熱くして読み続けた「心に青雲」ブログ記事である。
>今の私の思いは以下のようなモノである。
>青雲さん・都築さんが、感動した弁証法とは、上達論的な弁証法であろうか…
それは、生々・発展する弁証法で…
そこに衰退・消滅…は求められていなかったのだろう…
>彼は、南郷氏と全く同じ事を実践する事で、
>南郷氏と同様な生々・発展が得られる…と思い込んでいた、のだろうか…
>私も同様であるが…私は私であり南郷氏ではない。
>私の体力・精神力…全ては南郷氏と異なっている。
>そんな私が、南郷氏同様に裸足で、アスファルトの上を歩いて大火傷をしたら…どうなるだろうか?
>果たして、そんなダメージに私は耐えられるだろうか?
>ただ信じようとするだけで、その強烈な刺激に耐えられるだろうか…
例え精神的に耐えられたとして、もう若くない肉体が、その強烈な刺激を普通に受け入れられるだろうか…
>裸足で暑いアスファルトを歩く効用は、足裏から刺激を感覚する事である。
>それは、全身を使って歩く・走る過程で、
>普段は全く感覚不能な足裏の感覚情報を脳細胞へ送る事である。
>それは、日頃から普通になかった刺激・感覚の創出であり、
>脳細胞への新たな新鮮な感覚・刺激である。
>普通に日頃から裸足に慣れていない人が、熱いアスファルトで火傷したら…
>その刺激が強烈過ぎて二度とやらなくのでは…
>そんな苦痛を心で信じるだけで、耐えられるだろうか…
>青雲さんの書いている通りから
>確かに信じ切って耐え続けられたなら「信じる」心は、
>より強固になるのは事実であろう。
>しかし…本来は~
>事実的に真似るのではなく、
>論理的な実践する事である。
>信じるべきは、南郷氏の言葉・事実ではなく、
>この言葉の裏の論理、真似るべきは、論理的事実であろう。
>足裏の刺激は、初め少々、徐々に多々…であろう。
>初めから「火傷」を求めるのは、信じる為の精神・認識的な実践としては効果的でも…
そ>の肉体が、そのダメージ耐えられないなら…肉体的には逆効果となろう。
>誰かが、「玄和会員に癌が多い」…と書いていたが…
>それは、大学生への練習・稽古を、三十代から、
>その事実のままに実践しようと無理したからだろう…
>または、加齢とともに衰退していく肉体へ、
>若かりし頃と同様な事実的鍛錬を強制しようとし続けた為であろう…
>何事も、その事実から、論理・構造を抽出して、
>自己の肉体に即して事実的に適用する事が肝要なのだろう。
さて…さて…
他人の言説を信じて、自分も真似る事に意義はあろう…
しかし、他人の体力・精神力と自己とモノとが一致する事は殆ど稀であろう。
信じた他人と全く同じ事ができよう筈がなかろうに…
成長過程・成長期の柔軟な身体なら、真似る事は可能だろうが…
三十代過ぎで、武道空手の本格的な修行は、
0かから0.5へ、0.5から0.01へ、0.01から0.5そして1.0へまた1.0から1.5へ、1.5から1.0、そして1.5から2.0へ
なんて…細心の注意も元の修行なのだろう…
相手を信じて手本として頑張った得た成果は、信じた相手のお蔭ではなく、
その相手を信じて頑張り続けた自分の実力の結晶なのだろう…
その結果が、不味ったなら、それは、自分の頑張りの方向性の問題か?
または、信じ選んだ、その手本の間違いであろう。
信じた相手の何を、手本としたのか?
信じた相手の何を、本気で学んだのか?