全く分かっていないのはお宅です。
私の問い掛けは、私の個性・認識での問いかけて゛あって、
決して、お宅の認識・個性からの問いかけではありません。
なのに…
お宅は、私の問いかけを、お宅の個性で理解しました。
そして、その結論が、「全くとことん阿呆ですね。」なのです。
さて~
ここで問題です。
「全くの阿保」は私・お宅のどちらでしょう?
答えは、たぶん「両方です」と…
考えたら間違いないでしょうね。
数字は人間が創出した「数の体系」からなっています。
時を数字で表現するなら、
一秒→2秒…59秒→1分
1分、2分…59分→1時間
1時間→2時間→23時間→1日…
それらは、人類が創出しモノであるのは、当然の前提なのです。
問いを書き変えるなら、
1を10個足すと、何故に1に0を付けた「10」と表現するのか?
2を10個足すと、何故に2に0を付けた「20」と表現するのか?
この理由は当然に人類が、そのように決めた、ですが…
それは、分かっていて…
では、その「数の体系は?」と問うたのです。
その初めの答えが、「十進法という数の体系だから」、だったのです。
十進法も二進法も五進法…当然に、人類の創出物であり、そう決めたモノです。
これは、当然事であり、そこから始めたものです。
これらの創出過程が、
手のひら一つで指五本…五進法
一人の人間に、指が十本…十進法
一人の人間に腕が二本…二進法
1から2.、2から3…の変化と、
9から10への変化には違いがあります。
それは、位が一桁上がった事であり、
それは、表現としては、2と0の組み合わせたモノですが…
その意味・表現は、2でも0でもありません。
こうなる理由を初めは十進法だから、と考えました。
その理由は、二進法・五進法では、
1を10個足しても10とは書かないからです。
「十進法」だから、
9から1増えると10と書くから、
と考えたのですが…
しかし、結果的に、二進法でも、五進法でも、
「10」個増えれば、「10」と書くことが分かり、
初めの解答である「十進法だから」は否定されました。
因みに、くどいようですが…
「人間がそう決めた」という、
以下の前提は当然なのです。
十進法から、十個で「10」と書き、
十進法の10は「十個」だから、
十個で繰り上がり。
二進法なら、二個で「10」と書き、
二進法の10は「二個」で、
二個で繰り上がり。
五進法なら、五個で「10」と書くき、
それは、五進法の10は「五個」だから、
ように決めたのです。
なので、初めの解答である。
「十進法だから、1を10個たしたら、10になる」は誤答と分かったまです。
それを初めから、「そう決めた」では、何も始まりません。
「そう決めた」とは、「どうような体系を創り、どのように決めた」と考えるから、
そこに始まりが、生じるのです。
以前の中学の数学の教科書には、
二進法・五進法が書かれていました。
現在はなくなっているようですが…
そうそう以前に、どこに書かれていましたが…
アマゾンかどこかの奥地で
「1、2、たくさん…」と数を数えている原住民が発見された…と、
これなどは、三進法となります。
二進法は、1が10個で、1010、
五進法は、1が十個で、20、
どちらも一の位は「0」でしたが…
三進法だと、
3+3+3+1ですから、
10+10+10+1で、
101となり、一の位は、0になりません。
私の問い掛けは、私の個性・認識での問いかけて゛あって、
決して、お宅の認識・個性からの問いかけではありません。
なのに…
お宅は、私の問いかけを、お宅の個性で理解しました。
そして、その結論が、「全くとことん阿呆ですね。」なのです。
さて~
ここで問題です。
「全くの阿保」は私・お宅のどちらでしょう?
答えは、たぶん「両方です」と…
考えたら間違いないでしょうね。
数字は人間が創出した「数の体系」からなっています。
時を数字で表現するなら、
一秒→2秒…59秒→1分
1分、2分…59分→1時間
1時間→2時間→23時間→1日…
それらは、人類が創出しモノであるのは、当然の前提なのです。
問いを書き変えるなら、
1を10個足すと、何故に1に0を付けた「10」と表現するのか?
2を10個足すと、何故に2に0を付けた「20」と表現するのか?
この理由は当然に人類が、そのように決めた、ですが…
それは、分かっていて…
では、その「数の体系は?」と問うたのです。
その初めの答えが、「十進法という数の体系だから」、だったのです。
十進法も二進法も五進法…当然に、人類の創出物であり、そう決めたモノです。
これは、当然事であり、そこから始めたものです。
これらの創出過程が、
手のひら一つで指五本…五進法
一人の人間に、指が十本…十進法
一人の人間に腕が二本…二進法
1から2.、2から3…の変化と、
9から10への変化には違いがあります。
それは、位が一桁上がった事であり、
それは、表現としては、2と0の組み合わせたモノですが…
その意味・表現は、2でも0でもありません。
こうなる理由を初めは十進法だから、と考えました。
その理由は、二進法・五進法では、
1を10個足しても10とは書かないからです。
「十進法」だから、
9から1増えると10と書くから、
と考えたのですが…
しかし、結果的に、二進法でも、五進法でも、
「10」個増えれば、「10」と書くことが分かり、
初めの解答である「十進法だから」は否定されました。
因みに、くどいようですが…
「人間がそう決めた」という、
以下の前提は当然なのです。
十進法から、十個で「10」と書き、
十進法の10は「十個」だから、
十個で繰り上がり。
二進法なら、二個で「10」と書き、
二進法の10は「二個」で、
二個で繰り上がり。
五進法なら、五個で「10」と書くき、
それは、五進法の10は「五個」だから、
ように決めたのです。
なので、初めの解答である。
「十進法だから、1を10個たしたら、10になる」は誤答と分かったまです。
それを初めから、「そう決めた」では、何も始まりません。
「そう決めた」とは、「どうような体系を創り、どのように決めた」と考えるから、
そこに始まりが、生じるのです。
以前の中学の数学の教科書には、
二進法・五進法が書かれていました。
現在はなくなっているようですが…
そうそう以前に、どこに書かれていましたが…
アマゾンかどこかの奥地で
「1、2、たくさん…」と数を数えている原住民が発見された…と、
これなどは、三進法となります。
二進法は、1が10個で、1010、
五進法は、1が十個で、20、
どちらも一の位は「0」でしたが…
三進法だと、
3+3+3+1ですから、
10+10+10+1で、
101となり、一の位は、0になりません。
まあ、「呆れる」という文字は「阿呆」の「呆」でしょうから、その意味では筋が通っているとか論理的だとも言えるのでしょうが。
「当たり前」ということを言うのであれば自由びとさんが「1を十個足すと10になる」と知っているのは小学校で学んだからですよ。もちろん小学校に進学する前の未修学時に親が教育熱心で教わってた可能性もありますが、普通は小学校で教わるもので、例え自由びとさんが未修学時に1から10までの足し算を教わっていたとしても小学校の先生は算数の時間に自然数の加法減法を教えるはずですし、文科省でも定められてるはずですよ。
ですから、そこから生じる問いかけは「どうしてそのように先生は教えたのだろう?」だとか「どうして日本国家はそうした算数を導入してるのだろう?」だとか幾らでもあるわけです。何故なら、そのようには教えない先生がいるという可能性もあるわけですし、そのように教えない国家もある可能性があるからですよ。
現に、日本でアラビア数字での算数が導入された歴史を遡ってみるならば、おそらくは明治時代以降でしょうし、それ以前は漢字を使った算術だったんでしょう。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、…九十九、百…」といった数の並びをみて「どうして九の次は十なんだろう?」という問いが「十進法」なんて答えに結びつく者がいますかね?
ただ、「…十、…二十、…三十、…四十、…五十、…」といった漢数字のならびには「どうして十個づつで纏めてるのだろう?」という問いにも結びつくでしょうね。
つまりは江戸時代以前の漢数字で表記された恐らくは中国から輸入された日本の数学も「九」の次は「10」ではなく「十」だったとしても十進数であったのは変わらないわけですよ。
その意味で、小学校一年生の時に学び、そうした9の次は10だという数量の世界で生きてきた成人ならば、そうした数の世界は人間が作ったものだというのが当然・当たり前であるのと同じように「1を十個足すと10だ」というのは当たり前・常識であって、その人間が作った数の世界を使って我々の世界は作られているということが日常生活の中でのお金の計算やら電気や建築、土木の設計やらで幾らでも自分で理解できるわけです。イワユル「人間化された自然、認識化された現実」というやつですよ。
つまり自由びとさん個人の話なら別に数の世界・数の体系を「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10…」としなくても、どんな表記だって構わないわけですよ。それでも計算できないことは無いでしょうから。
ですが、それでは国民として合意し共有している数の体系ではありませんから、学校の数学のテストで合格点を取ることも出来ませんし、工業高校だとか理数系の学校に進学することも出来ませんよ。
当然に、国民が合意し共有している数の体系を使っている職場に就職することも出来ませんし、一方では「一を十個たすと10」だということを認めることは「みんながやっているから」という社会的な側面があることも確かでしょう。
その常識を認めなければみんなが生きている社会で生きていけないから、現実の世界にある数の世界で生きていけないから、だという面もありますね。
だから「1から100までの数の体系が何故そうなっているのか?」が「人間が定めたルール」だと認識することは「動かし難い絶対的な真理」ではないのだということで「じゃあ、別の数体系も作れるはずだよね」って繋がっていくのが「筋道、論理、ロジック」だということですよ。
「どうして1を十個たすと10なのか?」の解答が「十進法だから」でいいなら「どうして2と3を足すと5なのか?」の解答も「十進法だから」?阿呆か!
自由びとさんの言ってる理屈は単純明快で、「言葉は人によって同じ語彙でも違った意味で使われるし、違う語彙でも同じ意味に使われる、だからお宅の世界では「ドグマ」と呼ばれる意味内容を我々の組織では「論理」と呼んでいるのだ!」ということですよ。
長文コメントをご苦労さん!ですね。
もっとも…
本当に苦労してしたか?否か?
は不明ですが…
書かれてる事は、
ごもっとも…ですが…
それでも、
私的には不満タラタラですね!
さて~以下のコメントの検証を!
無
・コメント
>自分だけ阿呆との評価をされるのは不服らしく私までお宅と一緒に阿呆だとしようと欲したのですか?呆れ果てたもんですね。
まあ、「呆れる」という文字は「阿呆」の「呆」でしょうから、その意味では筋が通っているとか論理的だとも言えるのでしょうが。<
↑~
「不服」だから…とう訳ではありません。
以下のような理由からです。
見ず知らずの他人の個人ブログに対して、
平気で「阿保!」と書き込むような人物を
普通の人なら決して真面目に相手をしません。
そんなお宅を毎回、自由びとは真摯に相手しています。
「阿保!」と書いて寄越すお宅もお宅なら、、
それを真面目に相手にしている私も私なのです。
それは同類いとう事になります。
同類という事なら~
お宅が、私を阿保いうのなら、お宅も同類の阿保という事になり。
お宅が自分を天才・秀才と思っているから、同類の私も天才・秀才てという事です。
「類は友を呼ぶ」ですね。
>「当たり前」ということを言うのであれば自由びとさんが「1を十個足すと10になる」と知っているのは小学校で学んだからですよ。もちろん小学校に進学する前の未修学時に親が教育熱心で教わってた可能性もありますが、普通は小学校で教わるもので、例え自由びとさんが未修学時に1から10までの足し算を教わっていたとしても小学校の先生は算数の時間に自然数の加法減法を教えるはずですし、文科省でも定められてるはずですよ。<
↑~
こんなの当たり前!
何を今さら、
また、当たり前の事を書いているのでしょうか?
>ですから、そこから生じる問いかけは「どうしてそのように先生は教えたのだろう?」だとか「どうして日本国家はそうした算数を導入してるのだろう?」だとか幾らでもあるわけです。何故なら、そのようには教えない先生がいるという可能性もあるわけですし、そのように教えない国家もある可能性があるからですよ。
現に、日本でアラビア数字での算数が導入された歴史を遡ってみるならば、おそらくは明治時代以降でしょうし、それ以前は漢字を使った算術だったんでしょう。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、…九十九、百…」といった数の並びをみて「どうして九の次は十なんだろう?」という問いが「十進法」なんて答えに結びつく者がいますかね?
ただ、「…十、…二十、…三十、…四十、…五十、…」といった漢数字のならびには「どうして十個づつで纏めてるのだろう?」という問いにも結びつくでしょうね。
つまりは江戸時代以前の漢数字で表記された恐らくは中国から輸入された日本の数学も「九」の次は「10」ではなく「十」だったとしても十進数であったのは変わらないわけですよ。
その意味で、小学校一年生の時に学び、そうした9の次は10だという数量の世界で生きてきた成人ならば、そうした数の世界は人間が作ったものだというのが当然・当たり前であるのと同じように「1を十個足すと10だ」というのは当たり前・常識であって、その人間が作った数の世界を使って我々の世界は作られているということが日常生活の中でのお金の計算やら電気や建築、土木の設計やらで幾らでも自分で理解できるわけです。イワユル「人間化された自然、認識化された現実」というやつですよ。<
↑~
お宅の「ですから」は、自由びとの「ですから」とは違います。
事実から生じる疑問は、十人十色で個性的です。
論理的に同じような流れで生じた疑問でも、
事実的に発せられた言葉は、十人十色で個性的です。
疑問へ至る論理的流れも、十人十色で個性的なら、
そこから発せられた疑問・言葉も十人十色で個性的です。
それをお宅は、他人のブログで、
さも~お宅は「ですから」が当たり前のように書いています。
その「ですから」と書き続けて、
その流れが当然の事のように書いています。
お宅の個人ブログでなら「ですから」でしょうが…
このブログでは、「だとしても…」」と、なります。
>つまり自由びとさん個人の話なら別に数の世界・数の体系を「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10…」としなくても、どんな表記だって構わないわけですよ。それでも計算できないことは無いでしょうから。
↑~
「つまり」ではありません。
私が、別の数の体系を考え出して使用しようと思っていません。
お宅の創造を自由人の事にしないで下さい!
>ですが、それでは国民として合意し共有している数の体系ではありませんから、学校の数学のテストで合格点を取ることも出来ませんし、工業高校だとか理数系の学校に進学することも出来ませんよ。
当然に、国民が合意し共有している数の体系を使っている職場に就職することも出来ませんし、一方では「一を十個たすと10」だということを認めることは「みんながやっているから」という社会的な側面があることも確かでしょう。
その常識を認めなければみんなが生きている社会で生きていけないから、現実の世界にある数の世界で生きていけないから、だという面もありますね。
だから「1から100までの数の体系が何故そうなっているのか?」が「人間が定めたルール」だと認識することは「動かし難い絶対的な真理」ではないのだということで「じゃあ、別の数体系も作れるはずだよね」って繋がっていくのが「筋道、論理、ロジック」だということですよ。
「どうして1を十個たすと10なのか?」の解答が「十進法だから」でいいなら「どうして2と3を足すと5なのか?」の解答も「十進法だから」?阿呆か!>
↑~
お宅は、私の疑問を読み取っていません。
1を十個足すと、「10」と二けたの数字で書きます。
2+3=5は、相変わらず一桁です。
「10」に書かれている「1」と、ただの「1」は、違います。
「10」に書かれている「0」と、ただの「0むも違います。
何故、同じ「1」なのに、書かれている順番が異なると、その意味が違うか?
何故、同じ「0」なのに、前に数字が書かれていると、意味が違うのか?
以上のような疑問を含めた結果の言葉表現です。
それを「2+3=5」と同じと読み取るとは…
私の想像を超越した頭の固さですね。
この「頭が固い」とは、確固たる自己認識が確立されていて、
他人を言葉を自分の思い込みから自分的に読み取ってしまう、という事です。
>自由びとさんの言ってる理屈は単純明快で、「言葉は人によって同じ語彙でも違った意味で使われるし、違う語彙でも同じ意味に使われる、だからお宅の世界では「ドグマ」と呼ばれる意味内容を我々の組織では「論理」と呼んでいるのだ!」ということですよ。<
↑~
それそれ…私の言葉を↑のように理解しましたね。
お宅の理解は、私の言いたい事・思っている事とは違います。
例えば、「犬の話をしましょう!」と言った時、
犬=ブルドックを思い浮かべる人もいれば、
犬=セントバーナードの人もいます。
二人とも間違っては、いませんが…
きっと、互いに、その事に気付かなければ、
平行線のままです。
もっとも…それはそれで楽しいのですが…
また、「やばい」と聞いて、
そんなに「凄かった」と理解しているのが、現代の若者で、
私は、「まずい事?」と理解します。
「同じ言語で異なった意味」と書いても、
それが間違って使用されているとは思っていません。
現に、お宅は、私の言葉を、私が思っている通りに理解していません。
例えば、「嫌い!嫌い!も好きのうち」という言葉があるように…
本当は「好き!」なのに「嫌い!」と表現してしまう。
まったく何を言ってるのやら…呆れて言葉に窮しますけどね。
本当に頭が固いのは誰なのか?自由びとさんは本当は自覚しているのではありませんか?
相変わらず自由びとさんの発想は「論理は事実ではない、論理は事実とは違うのだ」という事実と論理に絶対的な境界線を設ける思考なんですよ。
それだと、その思考がブレーキになって進める方向へも進めなくなるのです。
事例としての「この場合」は「実際に自由びとさんがブログに綴った「思考した事実」「実際に、そのように思考した事実」」なんですよ。まあ、それって心理カウンセラーがクライアントとの対話の流れや互いの思考過程を一つの「事実」だと捉えることとも同様でしょうけど。
ですので、自由びとさんの思考過程は全てではないにしてもブログに綴った言語表現から「考えた事実」「判断した事実」として「そうは考えなかった非事実」と区別されるわけで、あたまの中の思考であるから現実化されていないという意味で「事実ではない」とばかり認識されるもんでもないわけです。
そういうわけで、この件に関する自由びとさんの最初の投稿を読み返してみると「どうして1を十個たすと10なのか?」との問いは「十個たしても10ではない場合もあるではないか!」との思考を介しているのが解るわけです。
それは私も昔は弁証法の勉強を熱心にやりましたので理解できるのですが「どうして1を十個たすと10なのか?」→「10でない場合もあるではないか」(否定)→「「十個」のほうを(否定の)基軸にしたなら、2進数なら十個でなく二個たしたら10だろう」「「答えが10」というほうを(否定の)基軸にしたなら二進数なら十個たしたら1010だろう」ということで「1を十個たしたら10になるのは十進数という条件つきだから」という結論に導くわけですよ。
ですが、そもそもの思考過程に「十個足す」という「十個」なる数が前提になってることが問題ですよ。
こういった「数の世界」「数の体系」を原理的に考察する分野は「数学基礎論」とか「数理論理学」というのか知りませんけど、基礎の基礎として考察すべきは「桁が上がる」というより前に「数える」ということでしょうね。
小学校の算数の授業がどういった体系になっていたのか?何から始めたのか俄に思い出せませんけど、「一の位、十の位、百の位があってね、」なんて話よりも実際に「1、2、3、4、5…」と数を数えるところから始めるのではないでしょうかね?
ところがモノの数が無数にあるように数える数の呼称も無限にあっていいものを、人間はアラビア数字で(ということは考えたのはアラビア人?)0から9まで数えたら、それ以上の数量は既出の数字の組み合わせで表現(認識)しようとしたわけです。
「0、1、2、3、4、5、6、7、8、9、」ときたなら、それまで出てきていない新たな記号・数字を考えていっても良いはずが既に使われている「0」と「1」を組み合わせて「10」なんて記号・数字を考えだした。そうした言わば「既知のものを循環させる思考」は「自分の家の中のことだけ」で「世界は我が家の拡大版」だと考える思考にも似ていますが、ある面で人間の思考・認識に普遍的なところがあります。
ですが、「0」なる数字、数量を発明発見したのはアラビア人だかインド人だかだったと思いますから、それ以前のピタゴラスだとかは「0」を使った循環を用いないで多量の数をどのように表現したんですかね?興味深いところです。
中国由来?の漢数字の体系だと「0~9」までを1セットにして循環させる(つまりは10、11、12…20…30…40…)のではなく「一~十」までを1セットにして循環させる(つまりは「零、一、二、三、…九、一零、一一、…二零…三零…」ではなく「一、二、三、四、…九、十、十一、…二十、…三十、…四十…」)わけですが、左右に並べた漢数字の間に「桁の違い、位の違い」という認識はありません。アラビア数字の「20」は並べられた2と0の間には桁の違いが前提になってます。けれど漢数字の「二十」の二と十の間にはそうした関係はありません。それが「0から9まで」を基本として循環していく数の体系と「一から十まで」を基本として循環していく数の体系との違いなんでしょう。
>まったく何を言ってるのやら…呆れて言葉に窮しますけどね。
本当に頭が固いのは誰なのか?自由びとさんは本当は自覚しているのではありませんか?<
↑~
御名答!
若い時に比べて、時々の思い込みが激しい、という自覚はあります。
それでも、その事に、気付けているから、
お宅より、まだ「ましかな」とも思っています。
>相変わらず自由びとさんの発想は「論理は事実ではない、論理は事実とは違うのだ」という事実と論理に絶対的な境界線を設ける思考なんですよ。
↑~
この指摘少々違っています。
私は、事実を「事実的事実と論理的事実」を分けて考えます。
事実と事実の間の共通性・論理…と等がある事も事実です。
具体的事物の変化・過程も事実なら、
それらに論理的共通性が見て取れるのも事実です。
お宅には、この区別と連関が解り難いのでしょうね。
>それだと、その思考がブレーキになって進める方向へも進めなくなるのです。
事例としての「この場合」は「実際に自由びとさんがブログに綴った「思考した事実」「実際に、そのように思考した事実」」なんですよ。まあ、それって心理カウンセラーがクライアントとの対話の流れや互いの思考過程を一つの「事実」だと捉えることとも同様でしょうけど。<
↑~
「思考した」という事実があったのも事実です。
でも…その「思考」は、直接言葉で書かれていません。
「どうして1を十個たすと10なのか?」という問いは、
私の思考結果から生じた言葉です。
これは、「思考そのモノ」ではありません。
これは、思考した結果生じた論理的事実です。
思考結果とその思考過程とは、関係はあっても、別モノです。
お宅は、私の「問い」・結果だけを読んで、お宅の思考で、この問いに至る過程を想像したのでしょう。
しかし、私の思考過程とお宅の思考過程は、たぶん別モノでしょうね。
だから…なので、
この部分のコメントには違和感です!
>ですので、自由びとさんの思考過程は全てではないにしてもブログに綴った言語表現から「考えた事実」「判断した事実」として「そうは考えなかった非事実」と区別されるわけで、あたまの中の思考であるから現実化されていないという意味で「事実ではない」とばかり認識されるもんでもないわけです。
そういうわけで、この件に関する自由びとさんの最初の投稿を読み返してみると「どうして1を十個たすと10なのか?」との問いは「十個たしても10ではない場合もあるではないか!」との思考を介しているのが解るわけです
それは私も昔は弁証法の勉強を熱心にやりましたので理解できるのですが「どうして1を十個たすと10なのか?」→「10でない場合もあるではないか」(否定)→「「十個」のほうを(否定の)基軸にしたなら、2進数なら十個でなく二個たしたら10だろう」「「答えが10」というほうを(否定の)基軸にしたなら二進数なら十個たしたら1010だろう」ということで「1を十個たしたら10になるのは十進数という条件つきだから」という結論に導くわけですよ。
ですが、そもそもの思考過程に「十個足す」という「十個」なる数が前提になってることが問題ですよ。
こういった「数の世界」「数の体系」を原理的に考察する分野は「数学基礎論」とか「数理論理学」というのか知りませんけど、基礎の基礎として考察すべきは「桁が上がる」というより前に「数える」ということでしょうね。
小学校の算数の授業がどういった体系になっていたのか?何から始めたのか俄に思い出せませんけど、「一の位、十の位、百の位があってね、」なんて話よりも実際に「1、2、3、4、5…」と数を数えるところから始めるのではないでしょうかね?
ところがモノの数が無数にあるように数える数の呼称も無限にあっていいものを、人間はアラビア数字で(ということは考えたのはアラビア人?)0から9まで数えたら、それ以上の数量は既出の数字の組み合わせで表現(認識)しようとしたわけです。
「0、1、2、3、4、5、6、7、8、9、」ときたなら、それまで出てきていない新たな記号・数字を考えていっても良いはずが既に使われている「0」と「1」を組み合わせて「10」なんて記号・数字を考えだした。そうした言わば「既知のものを循環させる思考」は「自分の家の中のことだけ」で「世界は我が家の拡大版」だと考える思考にも似ていますが、ある面で人間の思考・認識に普遍的なところがあります。
ですが、「0」なる数字、数量を発明発見したのはアラビア人だかインド人だかだったと思いますから、それ以前のピタゴラスだとかは「0」を使った循環を用いないで多量の数をどのように表現したんですかね?興味深いところです。
中国由来?の漢数字の体系だと「0~9」までを1セットにして循環させる(つまりは10、11、12…20…30…40…)のではなく「一~十」までを1セットにして循環させる(つまりは「零、一、二、三、…九、一零、一一、…二零…三零…」ではなく「一、二、三、四、…九、十、十一、…二十、…三十、…四十…」)わけですが、左右に並べた漢数字の間に「桁の違い、位の違い」という認識はありません。アラビア数字の「20」は並べられた2と0の間には桁の違いが前提になってます。けれど漢数字の「二十」の二と十の間にはそうした関係はありません。それが「0から9まで」を基本として循環していく数の体系と「一から十まで」を基本として循環していく数の体系との違いなんでしょう。
↑~
たぶん…
お宅には、私がどうして、このような問い・言葉を発したか、
想像でき難いでしょう。
正直な話、私自身…
何故のこのような言葉にしたかハッキリ自覚し難いのです。
事実しては、ここ数年多くの発達障害の児童と接して、
幾たびも、『この子何故に、そう思うの?考えるの?そうするの?』
と考え込んでしまうのでした。
その度に、もっと勉強を!と思って何冊も専門書を読みました…
でも…結局はダメでした。
そこで、『これは、もっとこの子に接して、観察するしかない!』という想いに至り、
日々、私が苦手で理解し難い児童に積極的に接して、その行動を観察し続けました。
その結果、分かった事は、
その児童の時々の言動を理解するには、
その言動前の行動・様子・状態を知る事が大切だという事です。
そんな個々の場面の事実を観察し続ける事で、
その児童の性質・行動様式・感情変化…等が、理解・予想…が可能になります。
私のこの問いの多くは、彼らが算数計算で犯した間違いを見ているうち生じたモノです。
その一つは以下です。
ある子は、10+1=101と書いていました。
その子は、じゅう+いち=じゅういち、
だからこう書いたのです。
さて~
この後半部分でのお宅の指定~
そう間違いないでしょうね。
因みに、
以下のローマ数字って、どのように誕生したか知ってました?
ローマ数字(ローマすうじ)は、数を表す記号の一種である。ラテン文字の一部を用い、例えばアラビア数字における 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10 をそれぞれ Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,Ⅳ,Ⅴ,Ⅵ,Ⅶ,Ⅷ,Ⅸ,Ⅹのように並べて表現する。I, V, X, L, C, D, M はそれぞれ 1, 5, 10, 50, 100, 500, 1000 を表す。i, v, x などと小文字で書くこともある。現代の一般的な表記法では、1 以上 4000 未満の数を表すことができる。
事実かどうかは不明ですが…
何かで読みました。
昔、羊飼いが、羊うを散歩・食事に連れて行く時に、
出かけに・一匹ずつ、木に刻んでいったそうです。
Ⅰを一本ずつ横に刻み続けて、
、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵ、Ⅶ、Ⅷ、Ⅸ、Ⅹ…
これなど、ⅠからⅢまでは、
一本ずつ横に追加で刻んでいったので絵・図的です。
ⅣからⅧまでは、Ⅴを基準の変化で、
ⅨかⅩⅢまでは、Ⅹを基準にしてで、
その後も、ⅤとⅩを使っています。
とても興味深いモノがあります。
アラビア数字と漢数字の桁がある・ないという違いには私も気付きました。
これも、興味深いですね。
アラビア数字も、漢数字も、数字は記号的であり、絵・図的ではありません。
それに比べて、ローマ数字は、ⅤとⅩは記号的ですが…
それ以外は、絵・図的だと感じています。
これも、時代的変化・進化・発展の結果でしょうかね…
確かに、「何故、1を10足したら10になるの?」を十進法と限定するより、
もっと深く歴史的に考察するのも一つの思考方法で間違いないでしょう。
それでも、数をその時点での数体系から考え答えも出す方法もありでしょう。
ある対象を狭い範囲で思考する方法と
より広い範囲で思考する方法、
どちらもありでしょう。
それは対象を
個別科学的に捉える事、と
一般科学的に捉える事、であり、
近距離で視る事、と
遠距離で視る事、であり、
同じ視線で見る事、と
高所から俯瞰する事、とったモノです。