新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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一村コメントへのコメント~

2022-06-11 13:36:09 | 滅ぼし合う対立物の統一




▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
一村氏へのコメント




・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント

>頑張ってコメント書いたものが一気に消えるとガックリしますね(汗)。気を取り直して再び書いてみます。

>>実際の教育現場を知らないのに
 
↑私の書いたこの「実際の教育現場を知らない」とは…以下のような意味合いです。

現代の小学校での具体的・事実的な教育内容を知らずに、
ニュースや他人の書いた、教育についての言説…だけから、
教育を論じるのは、非常に危ないモノになり得る」という事なのです。






>確かに私は義務教育の教員ではありませんし、自分に子どもがいませんから現在の小学校教育の現場を知りませんね。
でも、自分が書いたコメントを読み返して「全てを知っているわけではない人間が必要なことを求めて方向性を探していく論理的想像力・羅針盤」の問題として意味のある発言をしてはいるな、と思います。


仮に、「論理的な理想像・羅針盤」が、今も昔も同じであっても、
昔と今とでは、現実の子供・両親・保護者…の認識像が異なっているので…
理想像の現実化の方法が大きく異なっています。また過去の羅針盤では、現代の理想点には到着不能です。


>全てを知っているわけではないけど、全てを知らないわけでもない、それがこの場合のポイントでしょうね。


成る程…興味深い表現です。
今、この瞬間に自分の感覚可能な全てを知っているが…
今、この瞬間に自分の感覚不能な事は知らない…

調べ、覚え、体験・経験した全てを知っているが…
調べなかった、覚えなかった、経験・体験しなかった全ては知らない…



>私としては自由びとさんの「相手を楽しませる」という発言に賛同したところがあるからこそ、こうして言葉を交わしていても何の面白味も生じてこない小学生の掛け算や割り算にコメントしているわけですけどね。



「相手を楽しませる」とは、チョット違いますね。
例えば、お宅が「私への誹謗中傷・攻撃目的でパンチ・コメントを出した」としても、
その内容の阿保らしさ・パンチする姿の無様さに、私が笑えた・楽しめた、なら~
それはそれで、当初の目的達成という意味では無駄でも、
私を「楽しませる」には有意義…という事です。


>もしかしたならご自分の姿しか見えていない自由びとさんのほうでは「ぐふふ、俺の得意な領域だぜ」と喜びを感じているやも知れませんけどね(笑)。


お宅は、このブログ・場所を大きく誤解していますよ。
ここは、私の観念・精神世界です。
ここでの記述は全て私の観念・精神で書かれています。
私は、お宅のコメントに、お宅が反映している私の観念・精神の姿形を見て、
お宅のコメント内容は、「私の観念・精神とは、異なっています」と書き続けているのです。

私が、見ているのは、「お宅が映し取った私の姿形」で、
決して、「私から観た私の姿形」ではないのです。


>ただ、実際に自分が職業として関わっている事柄の話しをする場合は「身近に良く知っている」という反面、社会的な義務感や責任感も付いてくるんじゃないかと思うんです。


確かに、個人情報として特定可能な表現では責任問題です。
だから、私は「論理的に書く」事で、特定し難くしている、のです。



社会における義務教育とは、
他人の為の社会的な労働に参加しないで、
将来に労働可能な社会人になる為の勉強です。


本来の税金の意味は、将来の自分を養ってくれる多くの社会人養成為。
言うなれば、自分の老後の人生への投資なのです。

もっとも…現代の政治家が、上記のように思っている、とは思えませんが…
それでも、ヨーロッパの国の何には、働ける時にバカ高い税金を払って、
老後は、労働収入が零でも、生活可能だ、そうです。
しかし、現代の日本社会では、年金だけの生活は無理。
従って、死ぬまで社会的な労働を強いられている、のでしょうね。


このお宅は、私の書いた上記のような思考結果をもって、
「相互扶助」なんて言葉を使っているのでしょうかね…

国家・教師には、
子供に「自分が将来立派に一人前の社会人になる義務がある」と
分からせる教育目的必要です。

それを「相互扶助」なんて…一般的な表現では、その具体的な手段が分からないでしょう。
なのに…このお宅記述のどこに、具体的な「理想像・羅針盤」がある、のでしょうね???

お宅のような、
具体的な方法・方法論のない論理・一般論の披露は、
「ソフィスト」であっても…「フィロソフィー」ではありませんね。


以下は、論外なので省略します。



>私は自由びとさんが「小学生の割り算の等分割」を使って何か別のことでも述べようとしているのかな?なんて少し考えたんです。
それで思いついたのが「相互扶助」という互いに助け合うことなんです。自由びとさんは「物々交換」なんてことも言ってましたしね。

>この「相互扶助」ということを調べてみると「競争」ということと対立関係にある弁証法的な構成の一翼を担うものとして理解されているのを知りましたね。
つまりは、世の中は互いに助け合う相互扶助の関係のみでは成り立っていない、という「全体的な理解」でしょう。

>考えてみたなら日本の学齢期の義務教育にかかる費用(お金)は、もちろん物々交換なんぞではなく、色々なものと等価交換できる「お金」として学校教員に支払われています。そのお金の出どころは住民の税金なんですね。

>ですから私のように自分に子どもがいない人間でも国税なり住民税なりで義務教育の教員に支払われる給料の一部を強制的に支払わされているんです。
>
それが「自由競争」で同業他社が沢山いる中から「それにお金を支払うか否か」を自分で選択して契約できる市民社会的な事柄とは区別される、国家的な強制性=「国家権力Macht」の領域なんでしょう。
空手の流派なんぞは玄和会でも極真でも全空連でも自分で好きなように選択できますし、空手や武道をやらないことだって自由に選択できますが、「自分には子どもがいないから」という理由で義務教育の学校教員に支払われる税金の支払いを拒否したならば「差し押さえ」という形で銀行の口座から強制的に引き落とされてしまいます。

>つまり「6歳から15歳までの日本の子どもの義務教育は全ての国民が相互扶助することを義務づけられている」わけで、おそらくその事は教えられている子どもの側にも「自分に利益があるや否や」では判断できない義務という意識として指導されている可能性がありますね。

>その「日本人の義務教育は全ての国民が担う相互扶助として為されている」というところまで理解して自由びとさんは「実際の教育現場を知らない人間のくせに」などと発言するんですかね?
15歳までの義務教育は親が多額の教育費を支払わなくとも他の住民の助け合いで成り立っているから、その教育現場にいる自分は義務教育を成立させてくれている全ての国民へ説明責任を持っているのだ!と理解するのか、それとも「実際の教育現場を知っている俺は、教育関係者でない人間よりも詳しく現場を知っているのだ!」と優越感に浸ってマウント取りに行くのか?が私の述べた「誠実」ということのように思います。



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