弁証法とは~
モノ自体には「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」的な変化・運動する性質があると考えられている(考える事ができる)
そのモノ自体の弁証法性・変化・運動している過程の複合体である事物の中の弁証法性を法則化したのが「弁証法」である。
ここで、二重の弁証法が考えられる。
一つ、事物の中の弁証法性を弁証法として法則化したモノ。
二つ、事物の中の弁証法性を法則化する為の弁証法(論理能力)。
一つ目の法則化した結果の弁証法は、誰もが感覚可能である。
しかし、弁証法(論理能力)は、誰にも感覚不能…。
これは、言うなれば「技術」レベルではなく、その人物認識内での技能レベル(と南郷氏曰く)の個人技であろう。
そもそも「弁証法は対立物の統一」であっても…
過程の複合体である現実の物事・事実の中の弁証法性には、
以下のような「対立物の統一」が見て取れる筈であろう。
「対立物の統一」結果が「生々」。
「対立物の統一」結果が「生成」。
「対立物の統一」結果が「発展」。
「対立物の統一」結果が「衰退」。
「対立物の統一」結果が「消滅」。
それら全ての「対立物の統一」を同一事実・物事の弁証法性の中に見て取れる事が究極の「弁証法(論理能力)」であろう…
南郷氏の記述で、私がずっと気になっていた事・知りたかった事。
それは、南郷氏が自分の子供を電車内でも、病院の注射でも一度も「泣かせた事がない」記述。
その事が、どのように・何故「南郷氏の弁証法」と関わるのか?
それが、私は今回ここでハッキリと言語化できる。
子供が泣き出す原因・理由?
電車内で泣き出す子供の原因・理由。
電車内で泣かない子供の原因・理由。
注射…も然り。
現実界で多くの、そのような二通りの子供達の事実を観察して…
更に自分の子供の性質・個性・特性を考慮して働き掛ける事で可能だったのだろう…
この場合の南郷氏の弁証法とは、
「泣く事」の消滅の為の「対立物の統一」を創りだした能力。
それは。たぶん…子供が泣き出すような原因から、子供の目や感心を逸らせる「対立物」をぶつける。
電車内なら子供に話しかける・見せる…事で子供が一番好きな事を思い出させる。
病院でも注射なら、なるべく「注射・痛い」を思い出させない。
また…注射針を打つ瞬間の子供の気を逸らせる…そのような物事・会話…を対立物としてぶつける。
自分の子供の関心・好きに物事…は、父親だからピンポイントで知り得るモノだろう。
逆から説くなら、場合によっては、子供を泣き出させる「対立物」もぶつけられる…という事であろう。
例えば、相手に対して~
「喧嘩をしたい」時なら、相手を挑発する言動・態度・顔…対立物
「仲直り」したい」なら、相手を穏やかにする言動・態度・顔…対立物
「笑わせたい」なら、………
それらの法則は、過程の複合体である人間・個人・その人物の弁証法性から、目的意識的に法則化するモノであろう。
しかし…問題は弁証法レベルの弁証法では、現実に適用して結果を出すのは至難であろう。
この場合には、認識・弁証法性・弁証法が必要であろう。
それは、人間の弁証法性である「認識的実在」という性質があるから…
弁証法性を法則化する過程での結果としての弁証法は…
「弁証法性レベルの弁証法」、「論理レベルの弁証法、「法則レベルの弁証法」
私が謎だった事の一つに以下のよう事がある。
師範は、何故に「いのちの歴史の物語」を「自然の弁証法」と言っていたのか?
それは、モノ→生命現象→単細胞…人類…
一連の論理的流れが、モノから人類までの弁証法性を言語表現したモノであるから…だろう。
それは、「構造の過程」の弁証法から「過程の構造」の弁証法へ進めたから、だろう。
「大宇宙の弁証法性」も「と小宇宙人体の弁証法性」を合わせて、つなげて一本の弁証法としたのだろう…