>・コメントが届いた記事
>2022年これが弁証法だ!
>・コメントを書いた人
>ドゥルガー
>・コメント
>新春から苦言を呈するのも好ましいことではありませんが、貴兄は南郷門下の中でも相当に変な人、というか頭の働きが普通じゃない人ですね。
私コメント
普通でない自分を普通だと信じているお宅=普通でないお宅からみた「普通じゃない人」という事ですね。
ならば、「普通でないの」が普通なら、「その普通でない普通」が普通でないなら、それは「普通の普通」ですね。
「不普通」が普通なら、普通でないは「不普通」でないから普通となります。
具体的に書くなら以下です。
「他人の物も自分モノ」と信じている人なら、
「自分のモノを他人が使ったら怒る」普通の人を普通ではないと思いますよ
異常者から見た異常は、正常人の正常ですよね。
>私は他流の先生の「活殺自在」という言い方は的を射ていると思いますし、武道というのは場合によっては殺してしまうことにもなりますから、武道の学びを通して「相手を殺さない」ということを知ることや「この場合は殺してしまったとしても致し方ない」という境界線を知るものだと思います。
>そうした意味で貴兄のような「武技を用いた生命懸けの真剣勝負」という規定は「絶対的に相手を殺さないのであり、」なんていう考えには賛同できません。
私コメント
何度も書きますが…
「生命を賭ける」事=「生命を無くす」事では、ありません。
「必死」に物事を取り組む事で「生命を無くす」
「死ぬ気」で物事に取り組む事で「生命をなくす」?
「死を覚悟」して物事に取り組む事で「生命をなくす」?
お宅南郷氏の「悟得」が「死即生」だと知ってますか?
これは、「生きる為に己の死を覚悟」して勝負する事です。
勝負に勝つ為に、相手を殺すのではなく「己の生きたい心を殺す」のです。
別言するなら、現実の勝負に勝つ為に、観念的に「己の欲望・雑念」を消すのです。
その雑念・観念を消す技を、武道・空手を通して修得するのです。
お宅には、「生命を賭ける」=「他人の生命を奪う」なのですね…
そもそも…人格者なら「己の生命を賭けて」勝てる相手なら「殺す」とは思いませすよ!
お宅は「非人格者」であり、「殺人願望者」ですね。
>それに南郷さんが「子供を一度も泣かしたことがない」なんて話しは大袈裟でしょうね。眉唾というか話半分に聞いとくのが正解でしょう。
私コメント…
お宅には、真面目に文章・文字が理解できないようですね。
先ず、南郷氏は、電車内・注射…時に、(条件付き・限定)で「子供を泣かせなかった」のです。
それに、例えば、自転車に一度乗れるようになれば、大きな身体的な変化がない限り乗れるモノです。
南郷氏からの何回かの訓練で、電車に乗る楽しさ、注射の我慢方法…を体得すれば…後は大丈夫。
>ネットで「子供が泣くこと」で検索すると何人もの専門家の方が「子供は泣くもので、泣くことで自分の気持ち・欲求を親や周囲に伝えている」と説いています。
>逆に言ったら「子供は泣かなければいけない」ということになりますよ。言葉が話せない赤ん坊のときは泣いて気持ちを伝えなければなりませんし、それが発展していって「言語で伝える」ようになるんでしょう。
私コメント…
だから、…電車内・注射…と限定なのです。
それは、親からすれば、泣きたい理由が明確に分かっている場合です。
以下のコメント省略…
真面目によんでいたら…頭がバカにかりそうなので…
貴兄にも貴兄なりの何らかの考えがあるということは承知しました。
その上で、私は既述したように南郷流の空手とは全く異なる武術・武芸を学びながら南郷さんの著書を参考にしている人間ですけれど、
単刀直入に「私からのコメントが迷惑か否か」をお返事ください。
私は相手が迷惑して止めて欲しいと訴えているにも関わらずに無理強いして返答を求める人間ではありませんので。
迷惑ならば、今後一切のコメントを断つつもりです。
>単刀直入に「私からのコメントが迷惑か否か」をお返事ください<ですか…
端的には書くなら「迷惑でも有難くもあります」ですね。
お宅なりに真面目に書かれている、ようなのでしょうが…
そのお宅の読み取り方が、一面的・否定的過ぎる…と私には感じられます。
それはそれで、当然で仕方ない事なのは納得もできます…
また、それらのコメントを参考にするなら、私の思考・思惟…の深まりが増す事も事実なのです。
コメントのやり取り・応酬も互いの前進・上達の為なら有効だと思います。
それに、度々コメント書き込みをしてくれるお宅の存在は得難いモノです。
それでも、…以下のような捨て台詞・言葉は「迷惑」ですね。
>兎に角、貴兄は低脳ですよ。
>ただ、今年は子どもの教育から引退されて下さい。日本がどんどん悪くなりますから。
>そして全てを相手のせいにするウンコ南郷の配下。
上記のような~
私の感情への負の刺激的な言葉、私に罵詈雑言と感じ得るような言葉・文章は迷惑です。
それ以外は、別に問題はない…でしょうが…
問題は、私が「罵詈雑言と感じる言葉」を、
お宅はそのように感じられない事が事実…と言う事です。
まあ~「私の迷惑か否か」を、お宅が気にする事無く、コメント寄越したかったらどうぞ!です。
ただし、私が「迷惑」・「嫌だ」…と感じたモノは、削除するでしょうが…
それでも…良ければ…いいんじゃない~
お宅には、お宅の人生道があり、私には私の人生道があります。
まあ「文は人なり」と言われているように~
文章には、書き手の時々の感情、その論理レベル、目的意識…が表れますから…
南郷氏を憎んでいたり…嫌っていたり…している者なら、
私の記述は心地よいモノでない…でしょうから…
もしもこの世に私と貴兄の2人しかいないのであるならば、私も貴兄の考えと随分と違う自分自身に自信が持てなくなっていたかも知れません。
「もしかして私のほうが変なのか?おかしいのか?」とそれなりに努力してきたはずの自分の過去に歩んできた道を後悔の念で見返したかも知れません。
ですが幸いにこの世に生きて発言している人たちは私と自由びとさんばかりではありません。
狭く南郷学派というものに限定しても、南郷さんや海保さんらに直々に指導を受けた「論研」の正会員の方々と直に対話をする機会を得て、その方々が定期的に発信している論考を閲覧できる現在です。
そうした正に「南郷学派の高弟」と呼んで差し支えない方々の論考は「私(ドゥルガー)の問いかけ自体は全く間違った方向には行っていない」と確信できるもので、その点で私は自信を取り戻すことが出来ました。
なぜなら、その方々の論考は、実際に人から対価を得て行なっている職業上の生きるか死ぬかの生活が懸かっている場所に記載されているもので、私が貴兄に述べた「庄司和晃の認識の3段階連関理論」が自らの血肉と化して自家薬籠中のものとなっている文言だったからです。
「これは紛れもなく南郷継正門下の論客」だと得心できたからこその畏敬の念、尊敬心というものが胸に湧き上がっています。
あるいは実際には南郷門下ではないものの「私は南郷学派に私淑している」と公言して憚らない方から頂戴した教示に「おおっ!」と感嘆する中身を感じられたことも一因でしょう。
貴兄の述べた「一面的」という使い古された言葉も、「具体的に、他にこういった方面への展開も有る!」と述べるのでなければ大して意味を持たないと私は考えています。
なぜなら抽象化された理論を具体化するだとか技術化するということは特定の方面に具体化・技術化するということを意味しますから、抽象化された理論を「全面的に具体化・理論化する」なんてことは出来ない!と考えるからです。
ならば、具体化や技術化は理論を一面化することだから無価値か?といったなら「そうでは無い!」と私は考えるわけですよ。
人によっては「理論」のほうに大きな価値を置く人もいるでしょうし、理論ではなく「具体的な技術」のほうに価値を置く人もいるでしょう。
それを「一面的」という一言だけで何かを言えたと思える人は、誰が何を言おうと「お前は森羅万象について説けていない。一面的だ、全部は説けていないのだ!」とだけ述べて満足できる人なんでしょう。
お宅には、以下のような事は分からないでしょうが…
仮に私が、お宅の確信する「低脳」なら、それを私に言って何になるのですか?
「低脳」な私に、お宅の「低脳」の中身を理解する脳力はない事になります。
真の馬鹿者に「バカ」と言った所で、その中身を理解する脳力はありません。
それは単なるお宅の自己満足の言葉・世界の事なのです。
しかも…以下のような更なる問題が…
ここでの問題は、私が「低脳であるか否」ではないのです。
ここは、私の個人ブログです(ここでは敢えて「精神世界」とは書きませんが…)
その個人ブログで、その記事内容を読んで「低脳」呼ばわりするのは…
一般常識を大きく遺脱している事という自覚がない事なのです。
「礼に始まり礼に終わる」というような武道・常識的な判断がない事が問題なのです。
それは、例えるなら、自由びと家に来て家主を「低脳」呼ばわりしている事です。
仮にそれが、自分から見て、そのように思えても、
私だったら…その「低脳」という言葉は使いません。
私なら、
その「低脳」の中身を、その記述の事実に即して、
書き手がが納得・理解可能な言葉・記述で説く努力をします。
それを~お宅は、他人の家に勝手に入って、書きたい放題で、
家主から文句を書かれたら、やれ…「論研」…どうのこうの…
お宅は、言い訳ばかりで…
しかも…それはお宅の言葉が事実である証明は、誰がするのですか?
お宅は、お宅のここでの非礼言動に対して他人を引き合いに出しての自己正当化ばかり…
そもそも…「私・自由びと事実の全てを信じられない嘘」!と言い切ているお宅ですよ。
そんな他人の記述・言葉を信じられないお宅…
それはお宅の心が嘘吐きだ、からなのです。
無垢な子供、嘘を吐けない子供にとっては、
他人の言葉は全て本当と思えるモノですよ。
>それを「一面的」という一言だけで何かを言えたと思える人は、誰が何を言おうと「お前は森羅万象について説けていない。一面的だ、全部は説けていないのだ!」とだけ述べて満足できる人なんでしょう。
↑~
私が上記の記述をしたか、どうかは覚えがありませんが…
仮に書いたとするなら…
それは、客観的に見て「そのように思える」…という事であり、
それは、私自身が私への「この言葉に満足するな!もっと思惟しろ!」といった警告でもあります。
そもそも…言葉・記述が「一面的」であるのは当然でもあります。
自分で「その一面的」を自覚しつつ書き続ける事が大切なのです。
それを「俺は凄い事を書いている!」的な喜びで…
言葉の一面性・一面的な記述を自信タップリ書き切る事が問題ですね。
もっとも…「表面的な自信タップリ」=『心では冷や汗』という事もありますが…
そう、確かに他人のブログで直にこのようなことを書くことは礼を失していることは確かです。私もそんなことが分からない人間ではありません。
ですが、南郷さんの著書で大言壮語された内実を30年以上に渡って学び続け、「我こそは南郷継正の弟子でござい」とネットの様々な所に登場している御仁の書いてる中身がこれ…
いや、それは確かに貴兄のせいでは無いのでしょう。色々な人に色々な資質があり、色々な人生を背負っていますから。
おそらくは玄和の本部道場には優れた稽古生が集まって真面目に学んでいたのだと思います。高橋衛、船田、大竹、黒田、伊藤、石渡、前川、武田、黒瀧、etc.
私が貴兄の発言を何か要領を得ない、どこか誤魔化そうとしている、個々の人の個性や好き嫌いの問題ではなく、嘘をつく習慣のついてしまった人間だと感じてしまうのも、おそらくは私の思い込みのせいなのでしょう。
私は玄和関係者から「自由びとというのは既に辞めてしまった元会員」だと聞かされました。その「辞めた」というのが京都で私淑している人が書いているように下位の色帯で辞めたのならばまだしも、30年以上も学び続けて教科書に説かれている「事実から説く」ということを技と化して、合宿でKJ法の訓練をした人間が、2ちゃんねるで市販の教科書に説かれているようなことしか書けないとは…
私が述べていることは何ら自由びとさんに責任のあることではありません。ですが、市販されている南郷さんの本を知ってらっしゃるなら私の心の寂しさの一旦ばかりはご理解いただけるのではないかと考えます。
今後はこのようなコメントをすることもないでしょう。お時間を使わせて申し訳なく思います。
御免
自由びとが「低脳」なら、そんな「低脳」な自由びとを相手に、
偉そうに書き綴手長文コメントを寄越し続けるお宅は何なのでしようね?
自由びとの「低脳」がうつった「超人的な低脳お宅」でしょうかね!
ほ~ほ!
お宅は、「お宅の寂しさ」から、でわざわざ自由びとブログで自由びとを「低脳」と罵るのですか?
その寂しさから、無関係な他人に対して平気で非常識的な言動を取れるのですか?
よくもまあ~
>「私の心の中の寂しさは、本に描かれた南郷さんの大言壮語から想像された「実際に道場で学んでらっしゃる方々はどれだけ凄いのだろう」との期待感の裏返しかも知れませんね。<
何ともまあ…↑こんな嘘八百を書けるものですね!!!
そもそも…真に優秀な弟子なら、こんな「ネットでは書きません」よ…
私は、ちっとも優秀な弟子ではありません。
私は、私の事実・論理の追及をして書いている…のです。
そうそう~以下のような記述がありましたね~
>狭く南郷学派というものに限定しても、南郷さんや海保さんらに直々に指導を受けた「論研」の正会員の方々と直に対話をする機会を得て、その方々が定期的に発信している論考を閲覧できる現在です。<
お宅が、実際に、実際に優秀な弟子達も知り得ている筈ですが…
そんな弟子達も、お宅の「期待に沿えなかった」のでしょうか?
「発信している論考を閲覧できる現在」はどうなのですか?
それらが素晴らしいなら、
どうぞ、お宅には「低脳」だと思える自由びとへコメントではなく、
そちらの方へ「お行きなさいな!」
そもそも…
お宅は南郷氏の記述を南郷氏のレベルで理解できていません。
例えば「武道の定義」一つとってしても…です。
あの定義のどこから…
どうして「人殺し」とか、「死ぬ」とか、「怪我をする稽古」…連想できるのでしょうか?
その事を私に指摘されると…更なる強弁の数々…なのです。
人を一刀両断可能な真剣・日本刀を作っている人達が「人殺し」ですか?
「一撃必殺の技を創り磨く」事と、その「技を使って一撃で人を殺す」事は別物なのですよ。
人間を一刀両断できる日本刀を持った人は必ず人を殺しますか?
そもそも…南郷氏の空手の原点は「弱者の空手」ですよ。
そんな「弱者達に人を殺す」なんて至難事なのです…
それでも、至難を目指しての修業と修行が「弱者を強くするモノ」なのです。
そもそも…お宅の「寂しさ」の根源は、
こんな簡単な論理も分からないお宅の能力なのでしょうね。
お宅の論理能力・論理的言語に関する理解・解釈の能力。
それらの欠如から、お宅が「南郷氏の大言壮語から想像された」、
その想像物の中身が問題なのでしょうね…
>…2ちゃんねるで市販の教科書に説かれているようなことしか書けないとは…
↑この記述がお宅の全てですね。
「書かれている事を(そのまま)説く」事と「書かれている事の論理を別の事実で説こうとする」努力は別物です。
お宅の頭脳は、書かれている知識で満タンなのでしょう。
だから、南郷氏の言葉の数々も、その満タンな知識で考え理解しているのでしょうね…
お宅の「論理能力は0.000…レベル」です。
お宅の「弁証法=対立物の統一」と言い切ている姿も弁証法論理能力も0.000…レベルですよ。
またまた~以下のような捨て台詞を~
>今後はこのようなコメントをすることもないでしょう。お時間を使わせて申し訳なく思います。
↑
「申し訳ない」なんて~
心にもない台詞をよくもまあ~白々と書けるお宅ですね。
言葉を書くのに心・感情は不要です。
パソコンのキーを打てばいいだけですよね(お宅にとっては…)
文体がソクラテスそっくり笑。
その東京人が驚きのコメントを残しています。
「私の嫁さんは自然科学の研究者なので明珠さんのような宇宙人の話しには基本的に絡まないのですけど」
えっ!ソクラテスが結婚していた?
連絡ありがとうございます。
ゆっくり楽しんで読みます。