新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「強さ」について~

2021-01-11 12:51:26 | 想いのままに…
「強さ」について~

バスケットボールが強い者と
バレーボールが強い者が闘ったら、
どちらが勝つか?

サッカーが強い者と野球が強い者が闘ったら?

協会空手の日本一と極真会の日本一が闘ったら?

スポーツ空手と武道空手の強者が闘ったら?

バスケットボールが上手な者とバスケットボールが強い者が闘ったら?


「闘う」とは?
「勝つ」とは?
「勝者」とは?


バスケットボールの闘いは試合であり、
それはバスケットボールの試合ルールに則って勝者が決まる。
そのルールは初めから明記されていて、
全ての選手がその共通のルールに従って争っているモノである。


スポーツの試合・闘いにはルールがある。

現代での武道と思われている競技の試合にも全てルールがあり、
勝ち負けはルールで決められている。

協会空手と極真空手が闘ったら、どうなるのか?
同じ空手なのにルールが異なっている闘いでは?

協会選手は、協会的な寸止めルールで勝者と納得し、
極真会選手は、その協会選手の勝ちを納得しないだろうし…
協会選手も極真会的な勝ち方を納得しないだろう…


ならば、武道的な共通ルールでの闘いなら双方が納得可能なのでは?
その武道の闘いとは、武道の勝負であり、武道としての空手の勝負となるが…

では…
果たして極真会勝者と協会勝者の「武道」の概念は同一なのだろうか?
そもそも現代に誰もが納得・了解可能な「武道概念」があるだろうか?

現代社会には、過去に存在した武道的に技の型は確かに存在している。
でも、過去の真剣勝負・殺し合いがあった時代の武道的な勝負・認識はないだろうか?


現代社会の誰が、武道的な勝負をやろうとするだろうか?
武道の勝負では、負けたら即死であろう。
負けを認めるのは、確実に己の死を実感した時だけであろう。
そんな勝負は現代では不可能であろう。



玄和会空手が武道空手を目指しているなら、
普通の試合での負けは、武道的な負けではない事になる。

普通の試合では負ける事があっても、、
武道的な勝負では勝てる実力があるかもしれない…


バケットボールが上手な者が、試合で必ず勝利するとは限らない。
バスケットボールが下手でも、試合で勝利する者もいる。

バスケットボールの技術が劣っている者が、
巧みな者に勝利する場合もあり得る。

そこには、勝負に対する認識の相違があるのだろう。
言うなれば、勝負勘があるのだろう。
それは、勝利獲得への一瞬の判断力の素晴らしさ。的確さであろうか…


ネットで、
玄和会が試合で負けている動画を視て、
玄和会は強くない・弱い…と書かれているモノを目にするが…


玄和会が目指すモノは、武道であり、
武道空手である。

試合で負け勝てなくても、現実の生活で負けなければ、
それは、武道空手としての「勝利」であろう。


現実で負けないとは?

身体的に負けない。
心理的に負けない。
思考的に負けない。

病気に負けない。
心が挫けない。
人に騙されない。
他人からの身体的な攻撃を回避する。


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