感情について…
「転写ブログ」から、以下のような思いに至った。
感情の原点は、「安心・不安」。
安心が「快」なら、不安は「不快」。
不安が「快」なら、安心は「不快」となろう。
もしかして、人によっては、不安も安心も「快」かも…
不安の安心も生きているから生じるモノだから、
どのような状態でも、生きている事を喜び得る人なら、
安心も不安も全て「快」なのかも…!?
また、「転写ブログ」では、感情は四つ、
<「怒り」「悲しみ」「不安」「喜び」>と書かれている。
でも、普通は「喜怒哀楽」の四つであるが…
この違いは?それはそれとして…
「感情」をその「感情」として素直に味わい感じる事の大切さ!
それには同感である。
悲しみを悲しみとして、悲しむ事。
「肉親の死を悲しむ」とは、「肉親の死を事実」として認識する事・
悲しめないのは、事実を事実として認められない…
その悲しみ・大きな感情に耐えられないから、なのだろうか?
怒りを怒りとして認識できないのは、
怒りを感じる自分を受け入れられない・認められないから
思いっ切り怒り・悲しむ事が出来るとは、
その怒る・悲しむ事実を認め・受け入れる、という事。
肉親を亡くして、悲しんでいる時、
肉親がいなくなった事実に悲しんでいる。
そんな境遇になった自分に悲しんでいる。
感情の二重性、
外界・客観的な事実に対してのモノ、
内界・主観的な事実に対してのモノ。
肉親の死は~
外界=その肉親に会えなくなった変化した事実。
内界=認識内の今までの肉親の想い出・変化しない事実。
変化した外界に対して変化していない内界。
このギャップに悲しんでいる。
イジメっ子が転校した時~
イジメっ子がいなくなった現在・変化した外界。
イジメっ子に苛められた過去・変化しない内界。
このギャップに喜んでいる。
感情とは、
変化した外界と変化しない内界のギャップで
生じるモノ、と言えるのだろう。
ならば、虐待している親が亡くなった時、
親がいなくなった事は悲しい。
でも、虐待がなくなった事は嬉しい。
親の存在は「快」であったが、
親の行為は「不快」であった。
親の存在・実体の消滅への感情は悲しみ、
親の行為・機能の停止への感情は喜び。
という事だろう。
この場合の外界と内界のギャップとは、
親の行為の二重性であろう。
それは、児童虐待している親であっても、
そこには、その親なりの子への愛情がある。
周囲からは虐待と思うる行為にも、その愛情は存在している。
従って、子供もそんな親の愛情を敏感に感じている、のだろう。
だから、外界の変化・実体の消滅は、
虐待行為・不快の消滅であり、
愛情行為・快の消滅でもある。
このように、その感情は、
その時々の人間の、その事実に対しての
個性・個別的な認識によって異なるモノ。
人間の身体・実体は、五体一つでも、
人間の行為・機能は、自在に変化させ得る。
結果的に実体の変化・消滅への感情は、
それぞれの機能の変化・消滅への感情であり、
一つの実体なのに、
そこには多くの感情が生じ得る、のだろう。