以下が、その「激しい思い込み」コメントである。
…………引用開始…………
(前略)
それより何より天寿堂さんの言っている「唯物論は事実を起点に論理を展開、観念論は本質を起点に論理を展開」って、「帰納と演繹」のことですよ。
論理学の本の帰納と演繹のところを唯物論と観念論にすり替えただけのモザイクと言ってよいのか何と言ってよいのか、とにかくデタラメで、これでは観念論だとか唯物論だとかいった概念が出てきた所以も失われてしまいますしね。
…………引用終了…………
上記のような言い切りは、とてもスッキリして気持ちいいのだろう。
でも、言葉は認識の表現であるから、天寿堂氏が「帰納(法)・演繹(法)」知っていて、
敢えて、上記のような書き方をしたのなら、それはそれで「帰納法・演繹法」とは違うのだろう。
とは考えないのだろうか?
例えば、
私を「今は青年だ!」と書くなら、間違いである。
でも、「過去の私は青年だった」なら正しい。
ここを心中で『過去は』と思いつつ「青年だ!」と言ったら、
聞いた人には間違い、
でも、当人には本当である。
だから、ここは決めつけではなく、
「帰納法・演繹法」の事実を彼に突き付けて、
彼の認識を問うのが筋であろう。
私には、それが不可能である。
それは、過去から現在も天寿堂ではアク禁だから…
それに、絶対的観念論者の彼は、
多くの人が分かるように、誤解がないように、
誤読がないように…
表現しようとする意志がないのだろう。
と言うか、その必要性を認識していない。
それは、
「俺は正しい!」
「正しいモノを正しいと書いて何が悪い!」
「正しいモノを分からない者達が悪いのだ!」
「絶対的真理はある!」
「それをない!とする者達には、俺の言説は理解不能だ!」
てな感じかな…
まあ~私が思うには、言葉・表現には、そのレベルがある。
例えば、「今の時間は?」は、日常生活なら間違いではない。
しかし、「今の時刻は?」が、正しい言葉の使い方である。
「時間」とは、連続している時と時の間の長さであり、
「時刻」とは、連続している時を刻んだ瞬間である
天寿堂氏の唯物論・観念論は、帰納法・演繹法とはレベルが違うのかも?
と思うなら、それはそれで気持ちが落ち着けられる。
そして、そのレベルの違いは?と先へも進めるだろうに…
結局、奴はいつも奴のまま、最後は自己正当化の「決めつけ」で終わっている。
と言うか…そのまま去って行っている…
もっともっと!突っ込みを入れて、
天寿堂氏の認識を解明して頂けると、
もっともっと私も安らげるのに…
あ~あ~
他力本願はマザコンだね!
自力本願が自力コンだよ!
以下は参考です。
えん‐えき【演繹】推論の一種、一定の前提から論理規則に基づいて必然的に結論を導き出すこと。通常は普遍的命題(公理)から個別的命題(定理)を導く形をとる。数学の証明はその典型。演繹法。
き‐のう【帰納】推理及び思考の手続の一つ。個々の具体的事実から一般的な命題ないし法則を導き出すこと。特殊から普遍を導き出すこと。導かれた結論は必然的ではなく、蓋然的にとどまる。
帰納の例
「昨日、彼女と会った。今日も彼女と会った。→帰納的推論→ならば、明日も彼女に会うだろう」
つまり帰納とは、手持ちの「情報」から、ある「理論」をつくって、新たな「予想」をたてる形の推論方法です。
演繹の例
「人間は死ぬ。ところでソクラテスは人間だ。→演繹的推論→ならば、ソクラテスは死ぬだろう」
つまり演繹とは、手持ちの「理論」から、ある「情報」を加味して、新たな「予想」をたてる形の推論方法です。
ついでに書き加えると、帰納と推論を完全にわけることはできないと思われます。
簡単に言うと、理論と情報は、にわとりと卵のように、どちらが先かを断言できないからです。
以上、ちらほらと固い言葉を使いました。
それは哲学史では「概念の労苦」を唱えたヘーゲルが批判されて「実存は本質に先立つ」の実存主義や現象学に至る大陸哲学の流れのあたりの話で、武道論でいったなら「武道とは何か?」というヘーゲル的な?一義的な規定を中心に論を展開した南郷さんに対して現象学や構造主義などを方法として論を展開した高岡師範との違いみたいなもんでしょう。
天寿堂さんのブログの「質問者」さんは古代、近代を通過して現代哲学となった必然性があるはずとの想定のもとで対象全体の本質を「それは何である」などと規定しない現代哲学を中心に考えているようですから頭の中の中心には「実存主義だとか現象学」だとかがあるはずですよ。
エンゲルスが説いたヘーゲル批判の流れでは絶対的な本質など規定しないと、つまり形而上学的な議論をしない諸科学による多様な展開をいってたはずですから、その後のスターリン主義なのか知りませんけど物質中心の一元論ということを述べていたのか私は未確認ですけどね。
もしもエンゲルスが物質中心の一元論を説いていたのなら、スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』はエンゲルスを継承したのだと言えると思いますけども、「事実をありのままに見る」のではなく「見た事実を物質中心に再構成する」という形而上学的な方法をエンゲルスが主張していたのだということになりエンゲルスの「形而上学の否定」と矛盾してしまうことになります。
現代哲学では「本質」を考えないわけではないと思いますけど、それは実に狭く限定した領域で使われる思考だと思いますから、時として(私なんかがドイツ観念論の研究者と会うと)「概念を中心に語ることのない反哲学的な方法」なんてことも耳にしたりしますけど。
ですから、唯物論にしろ観念論にしろ「一元論」というのは「本質主義」なわけで、実存主義(現存在主義)とも現象学とも違うと思いますし、天寿堂さんの「本質を起点とするのが観念論」なる規定からするならば「唯物論も観念論」となるわけです。
それで、人と人との関わりも単純なものでなく実に多様なものですから、私が天寿堂さんの公開ブログのコメントから何かヒントを得たとして、あるいは私のコメントから天寿堂さんが色々とヒントを得たとしても、では私は天寿堂さんの思考が極限まで発展するために存在しているかと言えば違うわけです。
私は実際に研究職で身を立てている学者の団体の末席に所属している人間ですから、実際にお会いしたことのない天寿堂さんよりも仲間の学者のヒントになる活動をしたいわけです。
そして天寿堂さんもご自分の団体の頭となって一国一城の主としてやっているわけですから、関わる側としては「どこまでも垂れ流して欲しい」というのではなく「自分が弟子入りするに相応しい先生か?」を見極めて入門するか否かを決断することではないでしょうか?
その一国一城の主としての覚悟が南郷さんのところの属国ではないとの自負から(気負いすぎとの噂もありますが)南郷批判に向かわせるのかも知れませんね。
以上、私は「観念論は本質を起点、唯物論は事実を起点」との天寿堂さんの発言は「ヘーゲルを否定して現実存在に本質など無い」とした実存主義以降の大陸哲学の発想を自分以外のコメンテーターからもらってきたものだと考えているわけですが、それを「現代哲学は」と
言わずに「唯物論は」と天寿堂さんが述べるのは「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」という論理形式に乗せて南郷さんの(実はスターリン主義の)「唯物論と観念論」の議論を残したいという意識してか無意識かの想いからだと考えますよ。
それに天寿堂さんは「私は最初から解っていた」というスタンスですから、自由びとさんが筋だとかいうように天寿堂さんに私が質問することは私の理解を深めるよりも天寿堂さんが教えてるフリをしながら相手から新たな知見を得るイワユル「擁護システム」の発動となるだけのことでしょうから。
実際に、何か新たな知見を得たという関わりがあったなら「とことん認識し尽くすまで関わり合うのが筋」なんて話はどこにも転がっておらず、「あなた、御所属は?」と尋ねて「あ~、では関わり合うのはこれぐらいまでですね」と「本当に還暦すぎてるのか?幼稚なバカ」みたいな、極真空手に入門するか否かを決める体験入門で何から何まで認識しなければならないと考えるアホウはおらず、入門するか否かを判断できるだけの関わりで十分だという、そんなお話しだと思う次第です。
もっとも、天寿堂さんはブログとかで残りの人生で弟子を育てたいと言ってますから弟子になるつもりがあるのか無いのかを優柔不断なことせずハッキリさせるのが礼儀だとも思うわけです。
自由びとさんのようにブログで批判するために天寿堂さんから詳しく聞き出せなんて意向を述べるようでは「やはりスパイというのは本当だったんだな」と受け止めましたよ。
誰かと誰かを仲良くさせるために第三者として悪口いって、「止めたまえ」なんて抗議してくるのを望んでいたなんて穿った見方もできるわけですが、それも本人同士の心の距離感を等閑視した計略優先のサル智恵でしょうがね。
全体的によく分かりませんが…
間違っている所だけは指摘させい頂きます。
>自由びとさんのようにブログで批判するために天寿堂さんから詳しく聞き出せなんて意向
↑~「ブログで批判するため」ではなく、
天寿堂氏の認識をより正確に知りたい、からです。
>自由びとさんのようにブログで批判するために天寿堂さんから詳しく聞き出せなんて意向を述べるようでは「やはりスパイというのは本当だったんだな」と受け止めましたよ。
↑
↑
前半の「…ブログで批判するために…」が間違いですから、
後半の「…スパイ…本当…だな」と受け止め…も間違いです。
やっぱり~「激しい思い込みの損!」~ですよ!
お返しに私も少々真面目に書きます。
>自由びとさんが筋だとかいうように天寿堂さんに私が質問することは私の理解を深めるよりも天寿堂さんが教えてるフリをしながら相手から新たな知見を得るイワユル「擁護システム」の発動となるだけのことでしょうから。
>実際に、何か新たな知見を得たという関わりがあったなら「とことん認識し尽くすまで関わり合うのが筋」なんて話はどこにも転がっておらず、…
↑~
やっぱり、私の認識とは異なっています。
私は以下のように書きました。
「だから、ここは決めつけではなく、
「帰納法・演繹法」の事実を彼に突き付けて、
彼の認識を問うのが筋であろう。」と書きました。
この「問う」とは、自分の考えた相手の言葉の裏の認識が正しい?かを「問う」事です。
換言するなら、
自分の認識した対象が、誠の対象であるかの確認です。
「問う」とは、
① 直接相手に問い質す。
② 相手の別言説から問いの答えを推論する。
私は「直接」できないので、
別言説からの「推論」なのです。
お宅は、「言い切れる」程の確信があるなら、
問い質してみるのも…いいのでは?
失礼、
この直接問うは「私の筋」で、
お宅の「筋」はありません。
人間~十人十色で千差万別ですよ!
↓
>実際に、何か新たな知見を得たという関わりがあったなら「とことん認識し尽くすまで関わり合うのが筋」なんて話はどこにも転がっておらず、…
↑
これは、お宅が
「転がっている…なんて話」に
出会えなかっただけで…
結構~そこら中を転がっているモノですよ!
もっとも…それを視て取る能力がなければダメでしょうが……
私なんて…児童から「先生!何で?何で?」と、とことん質問攻めですよ。
もっとも…
それは、優しい顔の時の私への攻めで、
これが、厳しい顔の時の私へは目線逸らし…
まあ~
子供の心・認識を知らず、
子供との関りもないだろう、お宅には別世界かな…
このことは私の場合は天寿堂さんの認識の中に解消されるものではなく私の認識として系統的に花開くものだと考えているからです。
天寿堂さんとしては「唯物論と観念論」の話だとしてるわけですから「唯物論と観念論」であって「帰納と演繹」の話ではないわけですよ。
「これは帰納と演繹だな」と感じた・気づいたのは「私」であって言わば「私」の独創的な知性が現れたものと言えるでしょうね。
では、この視点を推し進めて行ったなら系統的にどういったところに辿り着くのか?は「私」の哲学的な仕事になるわけで、まったく「天寿堂さんに昨日風呂に入ったか否かを確認する」なんて事柄とは異なる問題ですよ。
その「何がどう問題となってどう解いていくか?」は「私」がやっていくことであり、天寿堂さんの発言なのだから天寿堂さんに確認しないとなんて考えが私からすればナンセンスです。
その問題の答えは「私の答え」として唯物論や観念論の歴史に、また経験論や合理論の歴史に問うていくものだと「私」の主体的判断としてなされたわけです。
ですから天寿堂さんの『唯物論は事実を起点とした論理展開で、観念論は本質を起点とした論理展開』だという見解に対する「私」の見解は天寿堂さんに尋ねることではなく「私の知性の発露」としてなされるわけです。
このことは例えば南郷さんが「合気道は関節技の体系だ」と述べたならば「それは合気道の話なのだから合気道に尋ねなさい」という方向にいくのではなく「どうしてそう言えるのか?」を南郷さんの論理として系統的に説明すべきだという方向にいくわけです。
そこに「私」と「自由びと」さんとの方向性の違いがあるだけで、それは「絶対的な認識の必然性」ではなく「個性」であり「自由の発現」だと言えるでしょうね。
私の「あれは帰納と演繹だ」という見解は「天寿堂さんの見解」ではなく「私の発見」なわけですから。
それより、私のように「自分の知性を系統化すること」ではなく「天寿堂さんの考えを知りたい」自由びとさんからすれば「天寿堂さんから嫌われているから対話を拒まれている」という状況を変えなければならないんじゃないですか?
それを「私のことをスパイ呼ばわりした」なんてことを強く主張して互いに譲り合わなければ「天寿堂さんの考えを聞き出す」なんて出来ないのでは?
そうした態度を貫きながらも「天寿堂さんの考えを知りたい」と他者に聞き出してもらおうとするなんてのも…いえね、天寿堂さんと仲直りしたいからその気持ちを伝えて欲しいとか天寿堂さんは仲直りに同意してくれるか気持ちを聞きたいとかなら私も理解できるわけです。
ところが「絶交」してる相手と「アク禁」の状況をなくしていこうとの考えは無いにも関わらず相手がブログに書いてる哲学的なコメントへの解答は欲しいと思う、という私の場合には絶対に無い話ですから不思議なんですよ。
「あいつ絶対に許さない」と感情的に思っている相手の学説なんてものを深く知りたいなんて私は思いませんから、それは自由びとさんの個性なんでしょうね。
でも闘って障壁を乗り越えていくのが自由びとさんの考えならば、天寿堂さんの考えを聞き出すために先ずは関係改善をするのが優先されるということで「学説について聞き出す」のではなく「弁証法講座での顛末」について「詫び状」を出すことじゃないでしょうか?それは「私」の道としてではなく「自由びとさんの道」として。
人としての関わり方はいくらでもありますから、別に仲直りが唯一の道でもないでしょうが、自由びとさんが述べている自由びとさんの方向としては「その方向」だと思いますよ。
だって「天寿堂さんの認識を知ると安らげる」という自由びとさんの発現は私から見ると「既に安らいでいる」とも言えるからです。
「天寿堂さんの考えが解らないと不安」なわけではなく「天寿堂さんの考えを知りたくてたまらない」わけでしょうし、それは「不安、怖い」ではなく「嬉しい、楽しい」いわば子供がお菓子食べたい遊園地いきたいと欲しているような状況でしょうから。
別に天寿堂さんの治療院だとか弁証法講座の会場だとかに足を運んで詫びを入れ仲直りするなんて簡単では?私は天寿堂さんの見解にさほど執着心はありませんけど、自由びとさんのように執着してる人はその執着心を利用して仲直りできるでしょう?
でなければ「闘って障壁を乗り越える」なんてどっか本で読んで暗記してるだけの外面の良い発言で、どうせまた足の骨がダメだから武道も出来ないだとか理屈をいって逃げるだけの「嘘をつく大人」なんだろうと思いますよ。
だいたいが空手を30年以上やって黒帯とった人が自由組手もやったことなく試合もでたことないなんて、それで平気で「命懸け」なんて言葉を口にできるタワケた感覚が理解できませんから(笑)
今日は暇なので…
お付き合いで一つ一つ丁寧~
お宅も暇つぶしのつもりで~
どうぞ!お読みなさい!
以下のコメントへの自由びとコメント
>Unknown (ポリティコス) 2018-11-13 09:33:52
>私は自由びとさんの述べてることに同意は出来ませんね。
↑~
いいですね♪♪♪
感情の発露!!!
>このことは私の場合は天寿堂さんの認識の中に解消されるものではなく私の認識として系統的に花開くものだと考えているからです。
↑~
それって普通でしょう。
誰もが自分の認識を系統的に開花したいのでは…
もっとも…
誰もが「系統的」という言葉・表現を使っているとは限りませんが…
>天寿堂さんとしては「唯物論と観念論」の話だとしてるわけですから「唯物論と観念論」であって「帰納と演繹」の話ではないわけですよ。
↑~
言葉・表現としては、そうです。
でも…彼の認識内では、「唯物論と観念論」と「帰納と演繹」の混同があるかも?
>「これは帰納と演繹だな」と感じた・気づいたのは「私」であって言わば「私」の独創的な知性が現れたものと言えるでしょうね。
↑~
この「独創的な知性」とは、お宅の「独創的な誤解」なのでは?
彼の「唯物論・観念論」の根っこは「経験論・合理論」であり、
お宅の発見という「帰納と演繹」の根っこも同じなのでは?
>では、この視点を推し進めて行ったなら系統的にどういったところに辿り着くのか?は「私」の哲学的な仕事になるわけで、まったく「天寿堂さんに昨日風呂に入ったか否かを確認する」なんて事柄とは異なる問題ですよ。
↑~
ほう~ほう~「哲学的な仕事」とは、大きく書きましたね!
確かに、何事も大きい事はいい事、大は小を兼ねる、ですね。
>その「何がどう問題となってどう解いていくか?」は「私」がやっていくことであり、天寿堂さんの発言なのだから天寿堂さんに確認しないとなんて考えが私からすればナンセンスです。
↑~
だから、
彼が「帰納と演繹」を知ってて、「唯物論・観念論」と書いたなら、
お宅の「独創的な知性」ではなく、単なる「思い込み・誤解」というモノになる確認ですよ。
まあ~己を知ろうとしないお宅ですからすれば「ナンセンス」ですね。
分かりますよ!
お宅の「ナンセンス」は、場合によっては「コモンセンス」…
>その問題の答えは「私の答え」として唯物論や観念論の歴史に、また経験論や合理論の歴史に問うていくものだと「私」の主体的判断としてなされたわけです。
↑~
いや~同感です。ビックリ!です。
上に書いた私の「…経験論・合理論…」が、借用のように見えますね!
でも…このコメントを読む以前から考えいました。
まあ~宅はきっと信じないでしようが…
>ですから天寿堂さんの『唯物論は事実を起点とした論理展開で、観念論は本質を起点とした論理展開』だという見解に対する「私」の見解は天寿堂さんに尋ねることではなく「私の知性の発露」としてなされるわけです。
↑~
でも…この「知性の発露」とは、ごく普通にお宅の「誤解性の発露」ですね!
>このことは例えば南郷さんが「合気道は関節技の体系だ」と述べたならば「それは合気道の話なのだから合気道に尋ねなさい」という方向にいくのではなく「どうしてそう言えるのか?」を南郷さんの論理として系統的に説明すべきだという方向にいくわけです。
↑~
これって変ですよ!
お宅が、>天寿堂氏の「唯物論・観念論」は「帰納・演繹」である<と書いたから、
先ず、天寿堂氏が「帰納・演繹」の事を誤解して「唯物論・観念論」と書いたか否かの確認が先でしょう。
その事が確認されて、次がお宅の言葉の話でしょう。
天寿堂氏の言葉をお宅が解釈した可能性もあるから、先ずは天寿堂氏から辿る、のがこの場合の「筋」です。
しかし、上記のように>南郷さんが「合気道は関節技の体系だ」と述べたならば<…
その場合は、南郷氏が>南郷さんの論理として系統的に説明すべきだという方向にいくわけです<は、正しい「筋」でしょう。
この「例え」は、この場合は、筋違いで、不適当ですよ!
>そこに「私」と「自由びと」さんとの方向性の違いがあるだけで、それは「絶対的な認識の必然性」ではなく「個性」であり「自由の発現」だと言えるでしょうね。
↑~
なので、
これって「「自由びとの発現」ではなく、
お宅の「筋違い発言」なのですよ。
>私の「あれは帰納と演繹だ」という見解は「天寿堂さんの見解」ではなく「私の発見」なわけですから。
↑~
ヤッパリ、この「お宅の発見」という見解は、未確認からの「お宅の誤解」の可能性も捨てきれませんね。
>それより、私のように「自分の知性を系統化すること」ではなく「天寿堂さんの考えを知りたい」自由びとさんからすれば「天寿堂さんから嫌われているから対話を拒まれている」という状況を変えなければならないんじゃないですか?
↑~
彼の掲示板見てて分かりませんか?
絶対的観念論者の彼は、言葉の概念を自分の思いで適当に変えています。
だから、私は、彼の言説から、その意味・概念を理解しようとしています。
お宅のように、彼の「唯物論・観念論」を「帰納・演繹」への置き換えは、しません。
それは、この両者の論理レベルが異なるからです。
お宅は、彼の言葉の論理レベルを、お宅の下げて理解・誤解している、ようです。
>それを「私のことをスパイ呼ばわりした」なんてことを強く主張して互いに譲り合わなければ「天寿堂さんの考えを聞き出す」なんて出来ないのでは?
↑~
これって!
お宅が、私のスパイ否定を、敢えて更に否定しているから、書いただけです。
>そうした態度を貫きながらも「天寿堂さんの考えを知りたい」と他者に聞き出してもらおうとするなんてのも…いえね、天寿堂さんと仲直りしたいからその気持ちを伝えて欲しいとか天寿堂さんは仲直りに同意してくれるか気持ちを聞きたいとかなら私も理解できるわけです。
↑~
お宅の「理解できる」は、
私には「誤解できる」ですね。
いや~疲れた以下省略!
最後に一つ。
>でも闘って障壁を乗り越えていくのが自由びとさんの考えならば、
↑~
私の言葉の更なる解説を
この「闘い」とは、
眼前の「障壁との闘い」と
心中の「障壁との闘いを断念する闘い」とがあります。
初めから「闘い」の放棄や「回避」は、老人的であり、
若者なら、初めから「闘う覚悟」で望め、という意味も含めて、です。
なので、事実的には、闘わず乗り越える事もアリなのです。
それは、障壁を平和的に、少しまた少し変えて行くのです。
そこには、己の中での「現実の闘いの断念過程での心中闘い」があります。
上記のように、
認識の表現である言葉・表現は、認識の変化・運動に即して変化しているモノ。
それでも、一つ一つの言葉の概念は、社会的妥当性が必要ですね。
だから哲学用語としての「唯物論・観念論」の概念は如何なるモノか?
そこが、問題です。
絶対的観念論者とも言えども、学問的足り得たいなら、
その単語・言葉の概念。意味…の妥当性を問題視すべきなのでは?
もっとも…これも私の信じるモノ・筋なので、他人への強要は問題なのかも…
しかも…たかが個人ブログで、言葉・単語の概念・意味妥当性なんて…
どうでも、いい問題なのでしようね…
最後の最後に、
同一対象に対する言葉・表現でも、全体的表現と部分的表現は、異なっています。
また、同一対象でも、時々の条件・状況によって変化しています。
認識は変化・運動に対応可能でも、
言葉・表現の対応は至難の場合があります。
だから、言葉を発した人物への直接確認が必要です。
もっとも…相手の認識を正確に認識したいならば…ですが…
これも~私の「筋」で、
たぶん…お宅とは「筋違い」ですしょうね。
まあ、時としてコメントの一文一文を切り離してそれぞれの文にコメントすることは自由びとさんのお好きな?(私は余り好きではないのですが)「全体と部分」という喩えた表現を使うならば「切り離されてトータルでの意味を失わせたものへのコメン」である感じが否めなく、それよりは寧ろ把握した大意を中心に語ることのほうが適していると感じる場合が多々あるのですが、たまには良いかも知れません。
>感情の発露!!!
自由びとさんが引用した箇所は然程「感情」というものは働いておりませんで、まあ感情の無い人間はいないという総論的なことではなく、二つの幾何学的図形を重ねた場合に同じだとか違うだとかは判断できても、それに良いことだとか悪いことだとかの情動が伴わないことは良くある話でしょうね。でも、重ならない図形を何らかの感情で「同じだ」と述べることも良くある話で、あるいは同じ図形を何らかの感情から違うと言い張ったりするのもありますが、私のあの部分に「感情の発露」だと思うところに自由びとさんらしさというか個性があるのだと思うのですが、初めのそうした受け止め方が後々の私のコメント全体への自由びとさんらしい受け止め方に繋がることもあるだろうな、と見えない部分への想像をするところですね。
>誰もが自分の認識を系統的に開花したいのでは…
まあ、あまり小さなことに足を止めると好ましからぬことにはなりますが、系統的な理解というのはそれほど多くの人の思考の仕方ではないと私は経験的に思っています。
系統的な思考というのは換言すると「理屈っぽい」とも言えるもので理系の人間なんかは当然に系統的な理屈っぽい思考をするわけですが小説だとか文学なんかは系統的な内容ではありません。最近でこそ「リケ女」なんて言葉も市民権を得てきていますけど理系に進学する理屈っぽい女なんてのは昔の日本社会では疎まれていたはずです。「女は結婚して子どもを産むものだから系統的な理屈っぽい思考などいらない」とかね。まあ、この話は止めておきますがね。
>この「独創的な知性」とは、お宅の「独創的な誤解」なのでは?
これも「相変わらずど~でも良いことに反応するんだな」という感情を押し殺してコメントしますと、私も本物の研究者さんたちの末席に置いてもらっていますから、私のコメントが世界レベルの真なる独創だなどと思ってはいないわけですが、まあオリジナルとして誰かの考えを貰ってきたわけではないという意味合いで便宜的に「独創的」だと書いただけのことです。内容に然程関わる言語表現ではありません。それよりも私の「独創的な知性」という表現に「独創的な誤解」という表現を駄洒落的に対立させて置こうとする自由びとさんからの「弁証法的?対立物の統一的な感覚」が私には面白く感じます。私も弁証法は結構やりましたから、相手の反応のレベルで知性のレベルが窺えるところまで来ているみたいですね。
自由びとさんが指摘するまでもなく「経験論と合理論」なんて言葉は高校の倫理の教科書にも出てくるぐらいで当然に天寿堂さんだってご存知でしょう。
ですが私が注目したのは天寿堂さんの「唯物論と観念論」の「本質を起点、事実を起点」という「本質に対する事実」という組み合わせですね。
これが「経験論は事実、合理論は本質」だなんて言われたなら「経験論に本質は無いのか?世界の本質なんてものは考えなくとも自由主義経済の本質だとか狭い範囲で考えないのか?」なんて思考から「経験論と合理論」と言わずに「帰納と演繹」と反応したわけです、天寿堂さんの「事実と本質」の規定にね。
出勤するので一旦投稿しますよ。
なかなか~読み応えがありました。
帰宅後の続きを楽しみにしてます。
「続きを楽しみにしています」なんて期待しているように書かれると「何か面白いこと書かないといけないかな?」と思ってしまいますから不思議なもんですね。
ちょっと前にも書きましたけど私が20代の前半に少し関わりのあった指導者の方はこちらが嬉しくなって「もっと書きたい」と思うような関わり方をされてましたから、ああいう人を「乗せ上手」というのだと思いますね。
プライベートな話をすると私の嫁さんは実は学者でしてね、自然科学系の研究をしながらも心理学的な領域にも関わっている人ですが、日本の名だたる出版社から本をいくつも出してる人なんです。
私もいつかはそんな出版社さんから本を出したいものだと思っていますから、そのための思索を練る練習になって良い面もあるかも知れませんが、実は昨日ここでコメントを書いた後は全然違う領域のことを考えていたんです。まあ、それは嫁さん一人に話しして自由びとさんに話すべきでないのかも知れませんけどね。
そんなわけで、引き続き自由びとさんの一文一文にコメントを付していこうという気分にはなれない現在なのですが、少しは参考になるやも知れないことを書いてみようかと思います。
それはですね、少し前に出先の古本屋で買った京都大学ご出身のヘーゲルを専門としている哲学者の先生の本で「現象学だとか分析哲学」だとかの現代哲学のことを「現代観念論」と呼んでいたことに始まるわけなんですよ。
現象学だとか分析哲学だとかを研究してる人は私の周りに沢山いますけど、それを「現代観念論」と位置づけているというかカテゴリー化しているのが新鮮に感じたんですね。
それで少し調べはじめたわけですが、現象学というのはフッサールがデカルトの考えを更に推し進めて研究した主観を基軸としたもののようですし、分析哲学も人間の観念から産み出された言語記号に深く関わっていくものみたいなんですね。いま昭和29年の山本万二郎・訳の現象学序説を読みはじめたばかりですから、まだ既述した程度の把握しかできてないわけなんですがね。
でも、これって外界の実在と相関関係にありながらも観念は観念として研究するというデカルトの「心身二元論」的なやり方だな、と思い、そしてそれが主流である私自身が生きている現代の潮流から推し量って仮に「歴史の歯車に耐えて生き残ったのが二元論なのだ!」と考えてみたわけなんですよ。
この「一元論」だとか「二元論」ってそもそもが何だ?と思い、ふと手にした昭和31年の『この直言を敢えてする』(学風書院)のスターリン批判の解説で例のエンゲルスの「二種の生産」をソ連の学者が「二元論であって一元論でない」と非難したという話が書かれているわけです。この「二種類の生産」なんて話は十代の頃に読んで「そうか!」と得意になってた類いのものですが、あらためて「<一元論>という問題」として捉え返すと新たな問題として浮上してくるように思われますね。
私が十代の頃に少し教えを受けた先生はエンゲルスのように2つないしそれ以上の観点から見るべきことを唯一の観点のみから考えようとすることを「一つ目小僧の国」なんて呼んでいたんですけど、そうすると「二つ目」ないしは「複眼」であるべき人間が「唯物」というたった一つの原理に収斂させようとする唯物論は一つ目小僧だということになります(笑)。
まあ、私もマルクス主義が正しいなんて最早思っていないわけなんですが、それでもマルクス主義には哲学の遺産を継承した「相互浸透」という観点がありますよね?自分と他人との相乗作用で変化していくというやつで、これを自分だけの自己発展という一元論にしてしまっては発展も進化も停滞してしまうわけです。
「他者の発見」というのは間違いなく哲学原理の偉大なる遺産だと思いますけど、「唯物論」という「物質一元化」は「他者」という哲学原理の否定だと思いますね。
敢えて言えば「観念」というのは「物質、肉体」にとって密接に関わりつつも切り離されても考えられるべき「他者」なんだと思います。
確か私も古在由重さんの『唯物論史序説』を買ってあったかと思いますが、読んでないですね。今は「唯物論」というのは関心の外にあります。このことは私に「唯物論って、でも二元論でしょ?」と示唆してくださった東工大の名誉教授の先生の見解に近づけたなと私に喜びを与えてくれる悟りなんですね。
三浦の本に説かれている「認識」に関する諸説は、あれは唯物論ではないなと現在は思いますよ。
思うに「経験論哲学」というのはロックに始まる。ちょっと遡ってもフランシス・ベイコンまでで。
ですが唯物論というのはマルクスやエンゲルス以前はどこまで遡るんでしょう?それは観念だとか精神を物質に還元・解消するものですから単に物質を物質として研究したのでは唯物論にはなりません。
物質・物体の構成要素をどこまで小さく辿れるか?という方向で原子や元素の探究に向かっても唯物論ではありません。唯物論とは世界のありとあらゆるモノゴトを物質として説明しなければいけないはずのものですから、例えば貴乃花が相撲協会から引退した理由を水素だとかの92種類の原子で説明しなければいけないはずですよ。
「憎しみのあまり殺害した」なんてのは事実として確認できるものですが「憎かった」なんて感情を理由にするのは唯物論ではないはずです。「事実」というのは「唯物論」的ではありませんし、そのため現代の学術世界は物質面での探究は必至であっても「唯物論」ではないのだと考えています。
まあ、今回はこんなところで如何ですか?
>「哲学的な仕事」とは、大きく書きましたね!
>何事も大きい事はいい事、大は小を兼ねる
ちょっと意味が分かりませんね。私は哲学とは大きい事だとも思っていませんからね。
いまは哲学のイベントって小さな喫茶店で5人とか10人とか集まって哲学カフェだとかやってたりしますし、話の主題が「恋愛」だとか「ロボット」だとか割りと身近なものですしね。
少し深刻な話題で死刑制度だとか動物愛護だとかの話になっても、それほど「大きい」とは感じないんですね。
なんか変な喩えかも知れませんが「世界に冠たる」とか言ってる武道団体の風呂敷は確かに大きいなあとは感じても、他団体が世界何10か国にも組織が広がってる中で田舎の小さな公民館なんかで二三人でやってるのを見かけると「小さいなあ」と思ったりする、みたいな?
自由びとさんが哲学を大きいと感じる理由はどこにありますか?