新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

弁証法について…

2024-06-08 11:55:28 | …弁証法…
弁証法について…

弁証法には、「観念論弁証法」と「唯物論弁証法」がある。
それは、人間の頭脳活動として、唯物的と観念的がありえる、から~

唯物的頭脳活動とは、対象の現実・事実的な変化の五感情報を元に関わり思考し続ける事。
観念的頭脳活動とは、自己の観念・認識・感情を元に対象と関わり思考し続ける事。


初めての対象と関わる時、その頭脳内には、その対象の観念・認識は皆無。
なので、唯物的頭脳活動しかなり得ない…それでも…
しかし、その対象の五感情報が豊かになり得たなら、
その対象認識が創像され、自己の観念情報に追加となり得る。

生誕直後の赤子は、
「何が何だか分からない・分からない事さえも分からない」(即自的認識)。
それでも、その赤子には、誕生直後の自覚不能な像不明な「快・不快」感情認識はある。
そんな対象像のない「快or不快」感情・認識を、
その「何が何だか分からない・分からない事も分からない」対象に、ぶつける(問い掛ける)のだろう。


その不快的な問い掛けの結果、快が得られれば…その何が何だか分からないが「快」へ
例えば、その即自的な状態で、オシッコが出そう(不快)中で、
オシッコ出て快なら、「何が何だか分からない…」状態が快へ~。


今年の新小学一年生の中に、数人、公文で算数を習っている児童がいた。
その児童達は、異口同音に「こんなの簡単…塾でやった…」


学校は「勉強する場所」・「勉強とは、強いて勉める事」。
なのに…学校の勉強科目である「算数」が簡単・楽で出来てしまうなら~
それは、「強いて勉める・勉強」になり得ていない。

そんな彼らは、「国語きらい・」…「算数好き」となって…
本来の強いて勉める・「勉強する事」が嫌い・消極的…になり得て…いるのに…
算数好き=勉強好き…と大きく誤解している。
本来は「勉強する事が嫌い」なのに「勉強する事が好き」と誤解している…

出来ない・やりたくない教科の学習は勉強!となり得ても…
その学習の結果・教科が好きになり、積極的に学習するようになり得たら、それは「勉強」ではなくなる。


嫌い・勉強したくない「算数ムズイ」…学習しない!時、
その「学習しない!」を否定して「やりたくない…けどやる!」と学習の強制・(勉強)の始める(第一の否定)。
そして、学習の連続の結果「算数・簡単・好き」量質転化化…学習したい!「やりたくないがやりたい」へ変化。
その時、その算数の学習が「勉強」から「非勉強」へと変化。

第一否定⇔の「行為・機能」(学習しない)の繰り返しの否定的な「行為・行動」(学習する・勉強)連続結果で~
~その量質転化化の結果~
第二の否定⇒「算数の学習=勉強」だったのが「算数の学習≠勉強」化してしまう。


このような「勉強する(運動)」・「勉強する事」の技化(習慣化・癖化)は、至難であろう。

その「勉強する事の技化」の為には…取り組む対象を変える事が必要であろう。
または、同じ対象でも、その対象に対する自己の意識・認識を変化させる事。


これって…誰かさんの「神経体力・認識体力」の論理・弁証法性に類似していますね♪♪♪


発見!「勉強する事」の学習の難しさは、ここにあり!
これは、「『死の恐怖』の学習・体得・修得」の勉強する事にも言えますよね…






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7 コメント

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…失礼しました… (!訂正!)
2024-06-18 12:56:19
×「キーボードょ打ち始めて…数時間が経過してしっています…」

〇「キーボードを打ち始めて…数時間が経過してしまっています…


「弘法も筆の誤り」でないですが…
まあ~気楽に読み進めて下さいね♪♪♪
返信する
コテハンがあるといいな♪♪♪ (自由びと)
2024-06-18 12:42:28
unknownさんへ

今回のコメントありがとうございます。
今の嬉しい気持のまま…私の思いを書かせて下さい。
ここでは、可能な限り 固定HDの明記をお願いします。
それがある事で、私は、そのコメント内容を対手の連続したモノとして捉える事が可能です。
もっとも…ない時は、私の認識内での自由びと的な連続として捉えてしまう事でしょうが…。


まずは以下のコメント対応の前に書かせて下さい!
この記事「弁証法について…」で書きたかった事は~
私の「勉強(する)事」の弁証法的性質なのです。

学校は、勉強する所は、誰もが知っている事実です…
しかし、学校で勉強する事は何?
そもそも「勉強する事」の正体とは何?が、明確に把握されていない現実があります。


試しに…辞書で調べるなら~
「勉強する」とは、学問や技術の教えを受けて覚えることを指します。また、「学ぶ」と言い換えられることもあります12。
または、勉強とは、勉めて強いる事、商人が商品価格をまける・値下げる事…

色々な意味が書かれていますが…
本来の意味は「勉めて強いる」、「自ら努力して己に強制する事」

その「勉強する事」を、今の私は以下のように捉えています。
「勉強する内容」が、人類・人間・社会人にとって生活に必要な色々なコト。
それも、自然・成長的には、習得が至難な事柄…


勉強の本質は、<生活に必要なコト>なのに…
「やりたくない!」・「面倒だ!」・「嫌い!」…そんな感情を生じてしまう事柄に対して…
「やりたくない事やるのが勉強!「面倒だからやるのが勉強!「嫌いだから食べるのが勉強!」

学校で「算数が、嫌い!分からない!やりたくない!」そんな想いを持った児童にとっては「算数の学習は<勉強>」。
でも、塾・保護者…から習って既に「算数できる・好き!」な子供達には、「算数の学習は、<非勉強>」。
また、嫌いな算数の<勉強>学習を真面目にやって、算数が好きになったなら…その児童にとって、算数の学習は<非勉強>。

本来、勉強が好きになったのではなく、勉強の結果の算数が好きになった!
だけなのに…誤解がありますね。

だから、子供がの「学校の勉強が好き♪」は、その児童の勉強像・認識の中身が問題があろう。

以上のような内容が、伝えたかった「弁証法につて…」の記事であるが~









>コメントを書いた人
>unknown

>コメント
>コメントさせて頂きます
>記事を読んで感じたのは 基本技を練り上げようとしている姿と 練り上げた基本技で組手を試みている姿です
>忠実に基本を大切に技を練り上げようとしているのは感じます
>でも 組手の部分が見えてきません どのような組手のためにその基本技を練り上げているのかが見えてきません

私の学校での児童のと「闘い」組手とは、児童との会話の中身なのです。

例えば~

児童―「掃除なんか嫌い!」
私は―「学校は、掃除の仕方を勉強する所」「だから嫌いでも、頑張って綺麗にしようね…」「綺麗だと気持ちいい。でしょう」
児童―「面倒くさい!」「やりたくない!」
私-「面倒でやりたくない事をやるのが<勉強>だ!黙って勉強しろ!」


しかし…上記の言語・論理の正当化には~
学校⇒勉強する所⇒勉強する事を学ぶ所⇒確り勉強しよう!
上記のような、勉強の概念の私的な理解・把握が前提条件なのですが…。


>現象に対してその構造を正しく把握しようとしているのは感じます
>では 各現象の構造を把握して それを以て何を解き明かしたいのかが見えません

それは…私も痛感している事なのです、
昔、私が幼く・父が若い頃~「お前は頭の回転が速い!」とよく言われていました。
それは、「回転前の情報⇒回転結果」であり、その過程が自覚不能!
数学も物理も…公式・説明されると、問題は難なく解けてしまう~
高校時代に物理の問題・回答を、友達から「何でそうなるの?」と聞かれても…その解説が私には不能!

今も然り、それは、開始⇒道筋・論理⇒結果…の途中・過程の言語表現が不得手…というか…見えていない!
あるモノの「当初の知識⇒過程⇒終わりの知識」を、その過程を唯物的ではなく、私の観念・感情的に把握して繋いでいる…
それは、文字・記述的な新しい知識の理解・把握を、文字・記述・説明・解説・写真…から、してしまっている…

tadaさんの言っている「論理」も然り~

「論理」とは、過程の道化・道筋化・筋道化~別言するなら言語化なのです。
その言語化が…今の私には至難なのでしょうね…

「分かっているけど」言葉にできません…だから直ぐに忘れてしまう…のでっょうね…
言葉にしてメモしておけば、忘れてもメモ見て思い出せます。







>なお 子供達の勉強は基本技の創出です 日常の否定です
>指折り数えたり 寒いと外のバケツの水は凍るかなと思ったり 本に「じゅんくんはお皿からケーキを落としてしまった。」と書いてあるのを読んでじゅんくん可哀想にと思ったり 
>そういう日常を一旦否定して1, 2, 3という数字を使って掛け算したり 温度が下がると水は氷になるという性質を知ったり 楽しみにしていたことを失うと人は悲しい気持ちになることを知ったり 理屈を学びます 物事の構造を学びます
>そして作り上げた基本技の技化を経て駆使の段階に移ります
>創出を否定して日常へ還します 駆使の創出を経て駆使を技化していきます


上記の指定の通りですが…
塾「公文」の学習法を御存じですか…
プリント学習が基本で、しかも…大量?のプリントなのですよ。
そこには、実体的体験よりも…プリント・図が重視されています。

しかし…小学校では、テレビ画面映像+ブッロクを使用して、一つ一つ丁寧に体験的習得なのです。
そんな事は、公文へ通っている子供達は、手も指もブロックもなしに、瞬時に頭脳内で計算できてしまってます。
そんな彼らには「こんなの強は簡単すぎで…つまらない!」
彼らは、「身体的な復習なんて無駄!(必要の自覚なし)、もっと難しい計算がしたい!」


>公文を学んだ子供の例だと 計算技の形ができた段階で 反復の技化の段階に移ります
>そして日常の問題(りんごが3個入ったかごが2つ など)を解きつつその計算の意味構造を学び駆使の創出へ移ります(約束組手 組手基本型)


公文・算数の「反復の技の段階」の問題は、プリントを用いた頭脳内での反復が中心で…
身体的に実物を用いた「手を使った操作的な反復」が…殆ど皆無なのですよ。

私が昔「小学館ホームパル」後に「小学館アカデミー」で算数の講師をしていた時~
一年生には、小さな熊の人形(英語学習で使用)を、数百個バラまいて、「さあ~数えてみよう!」

また、正方形に切った段ボールに「1から30」と番号を書いて~
その上を「一つずつ」⇒「一つ飛ばし」、⇒「二つ飛ばし」…と歩かせたモノです。

上記が、これが、数字の体験・身体的学習の例です。




>また 師範は黒帯になったら白帯からやり直すことも述べられています
>単にやり直すのではなく 黒帯になった自分のまま白帯としてやり直すこと
>黒帯の自分を止揚し白帯の稽古をなぞること

↑~
何を当然の事を~
黒帯のなった者が、自己の体力・認識を白帯に戻せる訳がないっしょ!
>「黒帯になった自分のまま白帯としてやり直すこと」

実に知識的なコメントですね…
>黒帯に「なった自分のまま白帯として…

それでは、「突き・蹴り…基本の力の入れ方も黒帯的ですかね」

私は、入門当初に井上先生から言われたのは~
「過去の自分の実力を忘れ・棚上げして…一から玄和空手を創る意識でやる」
「それは、作り直す意識ではなく、新たな出発・創造・創出…」的な意識なのでしょうね~

自己の中に「黒帯」と「白帯」の共存・「対立物の統一」なのです。
その為の「黒帯・自分の白帯の指導」なのです。



>いま ご自身がどの段階にいるか把握されていますか?
>公文の小学生と同じようになっていませんか?


それは、たぶん私ではなく、unknownさん自身の事でしょうね…
その証明が、>「黒帯になった自分のまま白帯としてやり直すこと」です。
これは、これで、間違いではないのですが…

「黒帯になった自分まま」は、正しくありません。
「黒帯である自分を忘れて、白帯どうように初心に還る事から、始めよう」
自分で「黒帯のまま」意識では、白帯的・初心的な真面目な稽古は至難ですよ…

より正確には、白帯を指導しながら、白帯時代の自分と二重化して、黒帯の自分への白帯の稽古をする。
これは、67歳の高齢な私が、6・7歳の新一年生の、その時々の行為・言葉・言動から、彼らの時々の感情・気持ち…を認識しようとする努力の連続的日々の繰り返しなのです。
それも…今年で四年目なので、「石の上にも三年」…そんな痛感がありますね…



>まっさらな環境に身を置き白帯からやり直すことはかなり難しいことです
>自身の弁証法の学びが試されます こと社会の中では 自分の人間性も試されます
>これは武道を通じ誇りを持って学ぶことで 有難いことに 腹の腐り止めにもなります
>恣意的な 意地悪な心持ちからではなく ただ真理のためだけに進むことができます

↑~
なかなか…心に響く言説ですね。
「まっさらな環境」ですか…
それは、南郷師範曰く「黒帯になったら白帯を指導しろ!」
黒帯の自分が、相手・白帯の認識の中に突っ込め!
ただし…その認識を否定してはダメ、その白帯認識に逆らわず・従ってき進め!
↑~
これが、今は担任教師ではない…ただの学習補助員としての私認識ですかね。
このような担任vs補助員という「対立物の統一」が可能なのは、私が過去に担任教員の体験・経験があるからですが…

現実界の私は、
小学校・中学校…担任教員、
日本語学校講師、
知的障害ある自閉的な児童の特別支援学級・支援・補助員、
知的障害ない情緒障害児童の特別支援学級・支援・補助員。
そして…ここ四年間は、通常級の一年・二年・三年生の学習・補助員…

また職業・仕事…でも、新たな環境の連続です・でしたね。
その間に、持ち続けた「真理」追究の目的とは、、
「悟りを求めて…」「新・悟りを求めて~」…
「もっと・もっと自由な私の人生」・「より自由な人生」…
その為の「真理・弁証法の体得・修得・学習・勉強」



>何だか時が止まったままのように感じましたのでついついキーを押し連ねてしまいました。
長文失礼致しました。




「何だか時が止まったまのような感じ…」

それは、私の記事を、自由びと的に読み取れず…
その弁証法性・弁証法・像の展開スピードについて来れず
Unknownさんの認識内で、自己の認識を止めてしまっての記述だから…でしょうね…
もっとも…私の言語表現の問題も大きいのですが…


それでも…>unknownさんの記述は、私自身の振り返りに非常に役立ちましたよ…
キーボードょ打ち始めて…数時間が経過してしっています…
いつでも、訪問・コメント・暴論・異論・イチャモン…ナンでもカンでも…大歓迎でよ♪♪♪

ただし…何でもていいのが…コテハンHDの特定記入を希望します。
その理由は、HDが、ないと…
私の自由びと的な妄想的暴論・異論・イチャモン…連続で…
とんでもなく理解・納得…不能記述になりえてしまうから…
返信する
Unknown (unknown)
2024-06-16 17:59:47
コメントさせて頂きます
記事を読んで感じたのは 基本技を練り上げようとしている姿と 練り上げた基本技で組手を試みている姿です
忠実に基本を大切に技を練り上げようとしているのは感じます
でも 組手の部分が見えてきません どのような組手のためにその基本技を練り上げているのかが見えてきません

現象に対してその構造を正しく把握しようとしているのは感じます
では 各現象の構造を把握して それを以て何を解き明かしたいのかが見えません

なお 子供達の勉強は基本技の創出です 日常の否定です
指折り数えたり 寒いと外のバケツの水は凍るかなと思ったり 本に「じゅんくんはお皿からケーキを落としてしまった。」と書いてあるのを読んでじゅんくん可哀想にと思ったり 
そういう日常を一旦否定して1, 2, 3という数字を使って掛け算したり 温度が下がると水は氷になるという性質を知ったり 楽しみにしていたことを失うと人は悲しい気持ちになることを知ったり 理屈を学びます 物事の構造を学びます
そして作り上げた基本技の技化を経て駆使の段階に移ります
創出を否定して日常へ還します 駆使の創出を経て駆使を技化していきます

公文を学んだ子供の例だと 計算技の形ができた段階で 反復の技化の段階に移ります
そして日常の問題(りんごが3個入ったかごが2つ など)を解きつつその計算の意味構造を学び駆使の創出へ移ります(約束組手 組手基本型)

また 師範は黒帯になったら白帯からやり直すことも述べられています
単にやり直すのではなく 黒帯になった自分のまま白帯としてやり直すこと
黒帯の自分を止揚し白帯の稽古をなぞること

いま ご自身がどの段階にいるか把握されていますか?
公文の小学生と同じようになっていませんか?

まっさらな環境に身を置き白帯からやり直すことはかなり難しいことです
自身の弁証法の学びが試されます こと社会の中では 自分の人間性も試されます
これは武道を通じ誇りを持って学ぶことで 有難いことに 腹の腐り止めにもなります
恣意的な 意地悪な心持ちからではなく ただ真理のためだけに進むことができます

何だか時が止まったままのように感じましたのでついついキーを押し連ねてしまいました。
長文失礼致しました。
返信する
万事塞翁が馬〜 (自由びと)
2024-06-16 12:25:11
tadaさんへ
お忙しい中のコメント投稿に自由びと心を込めての感謝です♪♪♪

一晩眠った今日、前回の弁証法についてのtadaさんコメント内容の私にとっての意味・意義に気づきました。

それは、「弁証法の正体自体」を説く事の無意味さ、
他人に自己の今の境地を説く事の無意味さ〜実感です。

空手技も「動けば技になる」境地に至っていれば、
それは、その人物の認識・頭脳活動化されたモノ‥

弁証法も然り、技かされた弁証法も、その人物の認識・思考そのモノなのです。
私は、自己の境地を南郷氏の言葉を用いて書いているだけ・・・

>弁証法的に考えるとどうでしょうか?自由びとさん 弁証法は論理の発見ですよ

その通りなのでしょう〜
自己の専門分野で新たな論理・枠組み構造の発見なのですよね♪♪♪


「発見 武蔵の極意」を購読してトライしてみます。
その時は、キット記事にしてみます。
また、tadaさんコメントが頂ける日を楽しみ・励みにして〜

「人生万事塞翁が馬」です。
会えない日々が愛ではなく、認識を深めるモノなのでしょうね♪♪♪
返信する
Unknown (tada)
2024-06-15 23:04:48
自由びとさん こんにちは なかなかコメントすることができないので期待しないでくださいね。息子さんも就職されたそうで よかったですね。私には娘が二人いますが 二人とも就活がうまくいかず というより 第一志望がブラックで合わず 偶然舞い降りた 紹介でとんとん拍子でしたね。人生そんなものですかね。捨てる神あれば拾う神もある。弁証法的に考えるとどうでしょうか?自由びとさん 弁証法は論理の発見ですよ。
ところで 高岡さんのおすすめ本ですが…。 そうですね。「発見 武蔵の極意」はどうですか?どの本でも良いのですが、誇大妄想的なところがすごいですね。面白いです。しかし 13歳で極意に達し その後は天理を探し求めるという高岡武蔵の在り方については 妙にリアルであり 高岡さんならではの 分析だと感心しました。実力者の全盛期の動きとは 武蔵が理想とする 水のような 自由闊達な動きであることで間違いないですね。
返信する
お久しぶり~tadaさん♪♪♪ (自由びと)
2024-06-15 12:19:13
Unknown (tada)
2024-06-12 21:44:51
自由びとさん 久しぶりです。高岡先生の研究も大体 目処がつきましたよ。そのあと いろいろとまわって なぜか三浦つとむ先生の研究をしています(笑)ちょうどいいので コメントしますね。相変わらず弁証法についてお悩みのようですね。有名な本のタイトルは 弁証法はどういう科学かー弁証法はどういう認識学かー弁証法はどういう論理学か というような概念構造をしています。三浦先生のお仕事は言語学であり認識学なんです。弁証法は認識を論理学から規定して 様々な具体的認識から そのものの見方考え方を抽象化するなかで 弁証法性をとりだしたものなのです。三浦先生の弁証法研究とは ものの見方考え方すなわち科学的 非科学的な個別的認識の方法論に切り込んで これは弁証法的であるとか 観念論であるとか 形而上学的であるとか タダモノ論であるとかを考察したものなのです。また ヘーゲルの弁証法もエンゲルスの弁証法も 観念的唯物的以上に 論理学レベルでみれば 骨格は同じなのです。やさしく解けば庄司和晃先生の三段階連関理論が弁証法の正体です。もちろん個別的認識者の方法論は弁証法からは生まれません。対象に対する特殊な見方から生まれます。三浦弁証法は論理学の教科書であり 認識論・方法論のサンプルなのです。その意味で大事な知的財産です。




tadaさんへ

コメントありがとうございます。
本当に、お久しぶりですね♪♪♪
相変わらず~御変わりありませんか?
私と息子は、相変わらずの元気です!

四月から、息子は社会人一年生~
現在六ヶ月の研修期間中で、本人曰く「勉強できて・お金が貰えて・定時の帰宅…なんとラッキー」~
先日も、何か…研修問題でシステム設計…「とても楽しい♪」…なんて言っていました。

でも…研修が終わったり、毎日、二時間の残業になるらしく…
近くに部屋借りて独立しようなか…と淋しい(私にとって)事を言っていました。




さて~
弁証法についてのコメント…とても参考・勉強になります。
ありがとうございます…
以下のように、私的に理解・納得しやすいように~分けてみました。


>弁証法はどういう科学かー
>弁証法はどういう認識学かー
>弁証法はどういう論理学か  ~~~というような概念構造をしています。

>三浦先生のお仕事は言語学であり認識学なんです。
>弁証法は認識を論理学から規定して 
>様々な具体的認識から 
>そのものの見方考え方を抽象化するなかで ~~~弁証法性をとりだしたものなのです。

>三浦先生の弁証法研究とは 
>ものの見方考え方すなわち科学的 非科学的な個別的認識の方法論に切り込んで 
>これは弁証法的であるとか 観念論であるとか 形而上学的であるとか タダモノ論であるとかを考察したものなのです。

>また ヘーゲルの弁証法もエンゲルスの弁証法も 
>観念的唯物的以上に 論理学レベルでみれば 骨格は同じなのです。
>やさしく解けば庄司和晃先生の三段階連関理論が弁証法の正体です。

>もちろん個別的認識者の方法論は弁証法からは生まれません。
>対象に対する特殊な見方から生まれます。
>三浦弁証法は論理学の教科書であり 認識論・方法論のサンプルなのです。
>その意味で大事な知的財産です。


弁証法を三法則として、捉えるなら…
「否定の否定」・「相互浸透」・「量質転化・質量転化」。


我々が、現在への自分に変化・運動を求めるなら~
こんな自分を変えたい!
今の自分を捨てたい!
今の人生を変えたい!その時、自己の認識の変化・運動を起こす事が必要~

その為に、自分の中に、「今の自分」ではない「理想自分」を創出・創像して…
その創出像との相互浸透・量質転化化を目指す。


空手なら、最終的な理想像とは、「武道空手」or「武道護身空手」…

でも…過程的な理想像は、初め入門的は「紫帯の先輩像」⇒緑帯⇒茶帯⇒黒帯⇒…
この場合の「相互浸透」とは、初めは「眼前の先輩のモノマネレベル」、
次は、「ものマネした自己の技」と「眼前の先輩技の比較・訂正」
白帯から紫になったら「次は緑帯の先輩のモノマネ」から、真似した自己と眼前の先輩の比較・訂正…
……
う~ん上手く表現できない!


「相互浸透」の始まりは、「目標・相手のマネ」(白紙に文字を書くような真似)
真似ができたら、今度は、真似した自分を眼前の相手に合わせて変更・訂正…
ただ…真似した自分は変化していてても、真似されている相手が変化している場合・していない場合がありえる。
それでも…対象から、自己の変化・運動を学んでる場合は、眼前の相手に最優先で合わせて「相互浸透」。

その将来の目的の為に、現在の自分を、否定して(無視・棚上げ・感情を滅する努力)で、理想・対象との「相互浸透」。
この「相互浸透」努力の連続の結果「量質転化」化が起こり…
自分の中に、新たな理想の自己が誕生(自己と自我の二重化)。


この「自己と自我」の対立物の統一が、自分の中での変化・運動を起こさせる。
そして、その今の自己を、白帯から黒帯まで、可能なら達人まで、理想の自己へ育て上げていく。


技を創る時には、自我(感情)を無視「否定」して、自己だけの上達を目指(過程的な感情)す。
技を使う時には、自我・感情の復活(否定の否定)+自己=自分の全てを出して闘う。

自我は、言うなれば「感情」。
自己は、言うなれば「言動」。
しかし…現実の空手修業・修行過程でも時々の感情は生じてしまう…
そこは、稽古・練習・武道修行的な認識・感情として創り・持続する努力が必要。


今年の新一年生は、33人で、外国籍やハーフが三分の二くらいで…
日本語が全く分からない児童が四人、その内の一人は、保育園・幼稚園の体験なし集団生活の体験なし!
その児童は、アジア系で母国語は英語ではないが、理解はできる。
それでも、英語で言って、言葉は通じても離席・教室からの脱走は日常茶飯事。
後のハーフは、分かるような・分からないそうな半知半解…

そんな彼らの教育には、彼らの認識の変化・運動性に合わせた、教師の言動・教育的指導が必要なのだろう。
どうも…各家庭での生活習慣が、その母国的な児童が多くいるようである…




>高岡先生の研究も大体 目処がつきましたよ。

前回、tadaさんに「…私も、過去の自宅の本棚探して再読して、コメントします…」なんて書いておいて…
その約束が、まだ果たせていません。…時々思い出してはいるのですが…

私が、高岡氏の著書に興味・関心がある理由は~
数十年前の事、私か師範の「武道の理論」シリーズを読み進めていて…
そんな時、背表紙に「…武道…」という文字の書かれていた高岡氏の本を購入して数冊読み進めました。
その途中で、ある時突然に「高岡氏は南郷継正だ!」という思いが、妄想レベルの確信が得ました。
その後も…その思いは消えずにいて…ある時、南郷氏の著作に「高岡氏の言葉」が出て来て…
そうか~ヤッパリ別人だったんだ!…と、やっと妄想が消えました。


その後、私は以下のような事を思いました。
もともと…数学・物理学…が得意で現国が苦手な私には、
言葉・文章の個々の細かい意味・理解が苦手で、
どっちかと言うと感情的・流れ的な理解・納得をしていた、ようです。
なので…南郷氏の著書・記述…も、高岡氏の著書・記述も…
私の感情的・流れ的な理解・納得だったのでしょう。

そんな私の感情的な流れが、
両者の著書・記述の流れを同一・一致として、捉えていた…のでしょうね。
書かれている個々の具体的・事実的な事柄ではなく、
それらの区別と連関の流れを同じだと感覚してようですね。



tadaさん
高岡先生の著書の中で何冊かお勧めを教えて下さい。
過去の自宅の本棚から探し出して読んでみます。
返信する
Unknown (tada)
2024-06-12 21:44:51
自由びとさん 久しぶりです。高岡先生の研究も大体 目処がつきましたよ。そのあと いろいろとまわって なぜか三浦つとむ先生の研究をしています(笑)ちょうどいいので コメントしますね。相変わらず弁証法についてお悩みのようですね。有名な本のタイトルは 弁証法はどういう科学かー弁証法はどういう認識学かー弁証法はどういう論理学か というような概念構造をしています。三浦先生のお仕事は言語学であり認識学なんです。弁証法は認識を論理学から規定して 様々な具体的認識から そのものの見方考え方を抽象化するなかで 弁証法性をとりだしたものなのです。三浦先生の弁証法研究とは ものの見方考え方すなわち科学的 非科学的な個別的認識の方法論に切り込んで これは弁証法的であるとか 観念論であるとか 形而上学的であるとか タダモノ論であるとかを考察したものなのです。また ヘーゲルの弁証法もエンゲルスの弁証法も 観念的唯物的以上に 論理学レベルでみれば 骨格は同じなのです。やさしく解けば庄司和晃先生の三段階連関理論が弁証法の正体です。もちろん個別的認識者の方法論は弁証法からは生まれません。対象に対する特殊な見方から生まれます。三浦弁証法は論理学の教科書であり 認識論・方法論のサンプルなのです。その意味で大事な知的財産です。
返信する

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