神戸だいすきさん~
読んで下さい!私の記述コメントを~
聞いて下さい!今の私ココロの声を~
分かりました!
弁証法の正体を悟りました!
技化した弁証法は、その人の頭脳活動・認識・機能の様式なのです。
その弁証法には~
一つ、観念論的運動様式の「観念論弁証法」
一つ、唯物論的運動様式の「唯物論弁証法」の二通りがあります。
観念論的運動様式の「観念論弁証法」の完成者がヘーゲル、
唯物論的運動様式の「唯物論弁証法」の完成者が南郷継正。
今の私が、思い痛感しているのは、
神戸だいすきさんの弁証法は、「神・宗教的な観念論弁証法」なのだろうと言う事です。
神戸だいすきさんの思考・認識・頭脳活動の様式が、観念論弁証法的なのでしょう。
それを神戸だいすきさんは、現実・事実との関りの中駆使しています。
その結果、現実・事実的な結果・成果が得られています。
何もかも物事の全ての原因を「神」にはしていない!
その成果・結果の思考・認識過程の言語化は、「観念論弁証法」なので、
○○霊、因縁、運命、宿命…といった観念的言語表現なのでしょう。
それでも、確かに貴方の頭脳弁証法性・変化・運動の統括は、
目的意識的な弁証法的な頭脳活動になり得ているのでしょう。
その貴方の弁証法の体得は、貴女の苦労の連続的な厳しい人生、
そんな人生を諦めずに、宗教・神・観念論を信じる事で乗り切ってきた結果なのでしょう。
稲村氏も都築氏の彼らの頭脳の認識・思考活動は、どちらも観念論的弁証法なのでしょう。
私・自由びとには、神を信じようとした過去はあっても、
神を信じ切るには余りにも苦労知らずの人生・現実だったのでしょうね。
だから神を信じすがる程の強い思いは不要だった…
それは「神を信じ助けを求める必要のない幸せ・苦労知らずの人生…」だったのでしょう。
私は、神に頼らず自力解決の為に、「弁証法」を求めて…
神ではなく、南郷継正という書籍の中の観念的な存在を信じたのでしょうね…
著書内の記述・言葉を…頼りに弁証法の体得・修得を目指したのでしょう。
神を信じたら「観念論」
実在の人物の、その言語・認識・頭脳活動の結果・言語化を信じたら「唯物論弁証法」…
じゃん~どうやら…私も弁証法の体得・修得がなり得た、ようです。
頭脳活動が弁証法的になり得れば、
その目的に即して知識・情報…をインプットすれば…
その目的意識・情報に即して体系化された、弁証法的な思考結果になります…
そこでの問題点は、その知識・情報の現実性・事実性・信憑性ですかね…
自己の五体を駆使しての体験的な五感情・情報なら、
その体験過程の一つ一つの過程の五感情報が感情として体得できて…
その結果、感情の変化・運動が弁証法的になり得ます。
そして、その感情を言語表現した時に、
唯物論的or観念論的に分かれのでしょうね…