~水の弁証法性~
水(液体)の性質である「器に合わせ姿形の変化・運動する性質」が変化したら~
水が凍って器に合わせて形が変化できない(固体化)時「水⇒氷」と名称変化。
水が高温で蒸発して形が変化したら(液体化)時「水⇒水蒸気」と名称変化。
この「水の性質の変化」⇒「氷⇔水⇔水蒸気」の事を「物体の状態変化」という。
さて…「氷⇔水⇔氷」というモノの本質は?
それは、「H2O」という水素と酸素の化合物である。
この「H2O」という水素・酸素化合物も水の状態で電気分解すると…
「水素と酸素」の二つ二種類の分子に分解されてしまう…これが「化学変化」。
更に水素と酸素には、それぞれに「原子・電子」があり、それらを分解すると「素粒子」へ…
更に分解を続けると、肉眼は当然、電子機器を駆使しても確認不能な「未知の素粒子」へ~
物体の状態変化「気体⇔液体⇔個体」が「物理法則」なら、
物質の変化「化合物の分解・合成」が「化学法則」。
更に、既知の素粒子の分解・合成で未知の素粒子の発見…「素粒子の分解・合成の法則」
「物体の法則⇔物質の法則⇔素粒子の法則」の法則化が<自然の「弁証法>」の一部と言えよう。
「〇〇法則」が、ここでは、個々の(物体・物質・素粒子)の範囲内でのモノコトの変化運動性の法則化(弁証法的)であり…
それを「特定・部分的な法則の変化・運動性」の総合・総括的な「法則として把握」が「〇〇弁証法」(この場合は自然の弁証法)
同様に「社会の弁証法」・「精神の弁証法」…となり、
<「自然の…」と「社会の…」と「精神の…」>三つの「弁証法」を弁証法的に総括・統括できたから…
哲学・学問レベルの「真・弁証法」(本質的弁証法)の誕生!
自然の弁証法には、事実的には、物体・物質・素粒子の異なる論理レベルの弁証法があろう。
この「論理レベル」は…真の納得・理解、そして言語化には、まだ少々時間が必要そうだ!
本来は、ここから、私の生誕後の自然・社会環境の弁証法的把握、
私の生誕後の自然環境の変化、仙台から九州へ、そして横浜・東京・都下へ、
また、家族・親類…関係、保育園、幼稚園・学校へ社会環境の変化、
更に、その時々の私の認識・精神の変化へ、
それは時々に思った事・考えた事(記憶しているor両親・友達から聞いた話)
~思考の論理レベル~
具体レベル思考、具象レベルの思考、抽象レベルの思考…
対象に対しての自己の目的意識的な~
「具体レベルの概念⇔具象レベルの概念⇔抽象レベルの概念」~
この変化・運動を、自己の意志によるも自由自在な目的意識的な変換・運動が「概念の弁証法」?!
概念とは、対象の概ねの観念=認識である。
また、認識は頭脳活動だから、この概念の弁証法とは~
「具体的映像の創像」(実体的な頭脳の活動)から
「具象的…」更に「抽象的…」頭脳の創像・認識活動の変化・運動性の変換~
それは言うなれば、眼前の対象を、
その一瞬で同時に論理的・論理レベル別に見て取る「複眼・心眼」と言えようか…
まあ~妄想・暴走的な自由びと言説~適当に読み込んで下さいな!
水(液体)の性質である「器に合わせ姿形の変化・運動する性質」が変化したら~
水が凍って器に合わせて形が変化できない(固体化)時「水⇒氷」と名称変化。
水が高温で蒸発して形が変化したら(液体化)時「水⇒水蒸気」と名称変化。
この「水の性質の変化」⇒「氷⇔水⇔水蒸気」の事を「物体の状態変化」という。
さて…「氷⇔水⇔氷」というモノの本質は?
それは、「H2O」という水素と酸素の化合物である。
この「H2O」という水素・酸素化合物も水の状態で電気分解すると…
「水素と酸素」の二つ二種類の分子に分解されてしまう…これが「化学変化」。
更に水素と酸素には、それぞれに「原子・電子」があり、それらを分解すると「素粒子」へ…
更に分解を続けると、肉眼は当然、電子機器を駆使しても確認不能な「未知の素粒子」へ~
物体の状態変化「気体⇔液体⇔個体」が「物理法則」なら、
物質の変化「化合物の分解・合成」が「化学法則」。
更に、既知の素粒子の分解・合成で未知の素粒子の発見…「素粒子の分解・合成の法則」
「物体の法則⇔物質の法則⇔素粒子の法則」の法則化が<自然の「弁証法>」の一部と言えよう。
「〇〇法則」が、ここでは、個々の(物体・物質・素粒子)の範囲内でのモノコトの変化運動性の法則化(弁証法的)であり…
それを「特定・部分的な法則の変化・運動性」の総合・総括的な「法則として把握」が「〇〇弁証法」(この場合は自然の弁証法)
同様に「社会の弁証法」・「精神の弁証法」…となり、
<「自然の…」と「社会の…」と「精神の…」>三つの「弁証法」を弁証法的に総括・統括できたから…
哲学・学問レベルの「真・弁証法」(本質的弁証法)の誕生!
自然の弁証法には、事実的には、物体・物質・素粒子の異なる論理レベルの弁証法があろう。
この「論理レベル」は…真の納得・理解、そして言語化には、まだ少々時間が必要そうだ!
本来は、ここから、私の生誕後の自然・社会環境の弁証法的把握、
私の生誕後の自然環境の変化、仙台から九州へ、そして横浜・東京・都下へ、
また、家族・親類…関係、保育園、幼稚園・学校へ社会環境の変化、
更に、その時々の私の認識・精神の変化へ、
それは時々に思った事・考えた事(記憶しているor両親・友達から聞いた話)
~思考の論理レベル~
具体レベル思考、具象レベルの思考、抽象レベルの思考…
対象に対しての自己の目的意識的な~
「具体レベルの概念⇔具象レベルの概念⇔抽象レベルの概念」~
この変化・運動を、自己の意志によるも自由自在な目的意識的な変換・運動が「概念の弁証法」?!
概念とは、対象の概ねの観念=認識である。
また、認識は頭脳活動だから、この概念の弁証法とは~
「具体的映像の創像」(実体的な頭脳の活動)から
「具象的…」更に「抽象的…」頭脳の創像・認識活動の変化・運動性の変換~
それは言うなれば、眼前の対象を、
その一瞬で同時に論理的・論理レベル別に見て取る「複眼・心眼」と言えようか…
まあ~妄想・暴走的な自由びと言説~適当に読み込んで下さいな!
私はyoutubeで玄和会の機関誌『玄和』を並べて写しているGenshinkanさんというのを知り「内部では機関誌の発刊が連綿と続けられているのだな」とある種の感慨がありました。
Genshinkanさんというのは他流試合に出た映像を上げていた玄心館さんかも知れませんけど、そちらのご発展も願っております。
以下のコメントを感謝です♪♪♪
ここ暫くお宅コメントがこなく…
もしや!何かあったのか?
何しろ…お宅は南郷氏レベルの御高齢のようなので…
とか書いて…
本心は少々物足りなく淋しい感じです かね~
>コメント
>自由びとさん、新たな考察を始めたようですね。残念ながら私はお付き合いできませんが、どーぞ発展なさって下さい。
↑
そう~正に私の「新たな考察」ですかね…
それを認識するとは、お宅も鋭い考察眼の持ち主だったのですね…
最近、やっとお宅の実力が観えてきたかな…
もっとも…そのお宅の実力発揮が、私にはブラック南郷継正的に思えてしまっていますが…
その理由は、私の言説へ敢えて否定的コメント・記述だからなのかも…
私の言説は、私的なホワイト南郷継正認識的なモノ(自己正当性の主張)、それを否定お宅のだから、それは私的にはブラック南郷継正…
「お付き合いできません…」とは、寂しい響きの言葉ですね…
まあ~暇な時・時間のある時は、是非にまた突っ込み否定コメントを夜露死苦!
>私はyoutubeで玄和会の機関誌『玄和』を並べて写しているGenshinkanさんというのを知り「内部では機関誌の発刊が連綿と続けられているのだな」とある種の感慨がありました。
>Genshinkanさんというのは他流試合に出た映像を上げていた玄心館さんかも知れませんけど、そちらのご発展も願っております。
↑
それって~「玄和書道会」~ですね…
私も書道でも始めますかね♪♪♪
では…また~
「待てしかして希望せよ!」
↑
今・思い出しました…
懐かしい響きの言葉ですね…
月刊空手道誌に連載されていた「武道講義」の最後の言葉…でしたっけ???
~(自由びと)~
そういえば『武道講義』で「弟子の中には書家もいる」と書いていた記憶がありますね。
もしかしたらお亡くなりになった明石春浦さんは南郷先生のお弟子さんだったのかも知れません、あくまで想像ですけど。
書道といえば最近、浅見喜舟さんの『書の入門』を買いましてね、文化としての深みの一端に感嘆していたところです。
筆を使う技術というのも非常に奥深いものですね。
それが「道」と呼び得るほどの人間性の向上にまで繋がる所以が説かれていて、いま書道を始める時間がないのが残念ではありますね。
小学校3年生の時でした、近所の習字の先生のところへ通わせて貰ったのですが、最初にお稽古場に入るときに正座をして「先生、こんにちは、みなさん、こんにちは」と言って座礼をするのが可笑しくて、やろうとすると笑ってしまった記憶があります。今から振り返ると素晴らしい礼式の文化なのですが、やはり私も最初から今のような人間だったわけではなく、様々な経験を経て変わって来たのだと実感しますね。
私は現在、歴史学や国家論の師について勉強しています。それは先生のご自宅へ遊びに行って一緒に食事をして非常に大きな信頼感と尊敬心を持ったのですね。それで、しょっちゅう先生とのラインで一方的に「いま、こんなの読んでます、こんなこと考えてます」と報告して、それを先生は自由びとさんのように「何を一方的に書いているのだ、こちらは何も言ってないのに、会話のキャッチボールができないのか?」などと咎めることなく好きにやらせてくれていて、時々一言二言のアドバイスを下さる。勝手に一人で書いているところで思考が深まっていってるのを理解してくださっているのですね。
自由びとさんも私との信頼関係を作りたかったら直に会うことですよ。東京にお住まいでしたら、私は出かけて行けますからね。もっとも、実は女性だから一人で男性と会うことが出来ないというのでしたら無理強いはしませんけど。
ご訪問ありがとうございます♪
前回、「そちらのご発展も願っております。」~書かれていたので…
もう来られないと思っていました。嬉しいようなビックリですね♪
ギルガメシュとは~
ギルガメッシュは、叙事詩『ギルガメッシュ叙事詩』に登場する人物で、森の神フンババ(フワワとも呼ばれる)を殺害したことで知られています。ギルガメッシュは、人間のようで馬のような半身を持つ友人であるエンキドゥの協力を得てフンババを打ち倒し、人間社会の統治構造や都市文明の安定化に貢献しました。
~~なんですね!
>…素晴らしい礼式の文化…
確かに、今は、日本だけに存在している日本的な文化ですね。
ただ…過去の中国三国時代には「三顧の礼」がありましたが…
今の中国には…???です。
本当は、ここは、私の四十代の習い事・個人経営の書道塾の体験を…と思っていたのですが…
>・コメント
>>玄和書道会
>そういえば『武道講義』で「弟子の中には書家もいる」と書いていた記憶がありますね。
もしかしたらお亡くなりになった明石春浦さんは南郷先生のお弟子さんだったのかも知れません、あくまで想像ですけど。
↑
そう言えば~
玄和会離れの長いブランクから復活した時に、都築さんから毛筆で書かれた…
「師範・御講義での私の質問への、師範解答」を頂きました。
毛筆は、心を込めて丁寧に力加減をしないと…いい文字は書けませんね…
その毛筆には、その人物の個性が丸出しですね…
>書道といえば最近、浅見喜舟さんの『書の入門』を買いましてね、文化としての深みの一端に感嘆していたところです。
筆を使う技術というのも非常に奥深いものですね。
それが「道」と呼び得るほどの人間性の向上にまで繋がる所以が説かれていて、いま書道を始める時間がないのが残念ではありますね。
↑
何事も人間が、ココロ・感情を込めて、人間的・発展的に、五感・身体的に取り組んだ結果は「道」なのでしょう…
>小学校3年生の時でした、近所の習字の先生のところへ通わせて貰ったのですが、最初にお稽古場に入るときに正座をして「先生、こんにちは、みなさん、こんにちは」と言って座礼をするのが可笑しくて、やろうとすると笑ってしまった記憶があります。今から振り返ると素晴らしい礼式の文化なのですが、やはり私も最初から今のような人間だったわけではなく、様々な経験を経て変わって来たのだと実感しますね。
↑
弁証法性豊かな子供達なら、その事の吸収・体得は速いです。
もっとも…そのモノの消失の速いでが…
因みに、ここ数日前に以下の事を気付きました。
「変化・運動性と弁証法性」の相違を~
事実的・観念的に実在する対象の性質・機能が「変化・運動性」なら、
「それらの変化・運動性」の変化・運動性・機能が「弁証法性」…だと~
>私は現在、歴史学や国家論の師について勉強しています。それは先生のご自宅へ遊びに行って一緒に食事をして非常に大きな信頼感と尊敬心を持ったのですね。それで、しょっちゅう先生とのラインで一方的に「いま、こんなの読んでます、こんなこと考えてます」と報告して、それを先生は自由びとさんのように「何を一方的に書いているのだ、こちらは何も言ってないのに、会話のキャッチボールができないのか?」などと咎めることなく好きにやらせてくれていて、時々一言二言のアドバイスを下さる。勝手に一人で書いているところで思考が深まっていってるのを理解してくださっているのですね。
↑
羨ましいですね♪♪♪
国家論は、社会の弁証法です。
私には「…咎める…」意図はないのですが…
確かに、いつもの家内の言葉を否定していた私は…似たような事を言われました。
その時には、「滅ばし合う対立物の統一だ!」…なんて自己弁護していましたが…
特に「貴方には冗談が通じない…」と言われたモノです。
結局、私は、彼女の冗談を現実・事実レベルで捉え理解していて…
彼女の意図しているレベルでは捉え理解不能だった…
同様に…お宅記述も、そのお宅レベルの論理で正しく捉え理解出来ずに…
毎回毎回…私のレベルの論理レベルで捉え理解したて反論・異論・暴論…のオンパレード!
ここは、現実界での観念的な世界、その観念世界での言語は、
その観念レベルに変換して理解・反論・異論・暴論…ですね。
ラインでは何ですが…
旧「悟りを求めて」…と「新・悟りを求めて~」ブログでの数十年に続いている、
あ宅と自由びとのコメントの応酬は、似たようなモノですね。
そう実は、現実の私も「お宅=南郷師範」だと確信しています…
もっとも…その確信には、大きな迷い(恐怖)の存在もあります。
お宅と自由びとの、コメントやり取りは、
「学城」第六巻の田島氏の追悼文的だと最近気付きました。
妄想・暴走自由びと的に書くなら~
過去から現在までの「お宅は」、一人ではなく、大勢であり、
それは、玄和会が組織的な自由びとへの『取り立て稽古』なのです。
多分「弥勒」あたりからは、南郷師範が直々に取りたい稽古なのでしょうね…
それでも…一時、痛感しました、同じ「弥勒」でも、それは達人・女性の記述だと…
ずっと…考えている事があります~
それは、三鷹支部に復活して、玄和会を始めよう~と…
ただ、ここ暫く右股関節の痛みが再発して、稽古ができそうにない事です。
それでも、支部・本部登録して、試合・師範御講義を聞きに行きたい…
または、現代社へ師範への手紙を出して…「お宅が、南郷師範か否かを確認したい!」
ただ、手紙は万年筆、しかも丁寧な文字…内容も慎重に…なんて考えたら面倒になりました。
そもそも…仮に「お宅が南郷師範であった!」としても、
そんな事を認める事はないでしょう…から…
>自由びとさんも私との信頼関係を作りたかったら直に会うことですよ。東京にお住まいでしたら、私は出かけて行けますからね。もっとも、実は女性だから一人で男性と会うことが出来ないというのでしたら無理強いはしませんけど。
↑
実は…
今の本心を書くなら~私もお会いして対面での会話形式にしたい…のですが…
正直に言って、「怖い!」のです。
過去の旧「悟りを求めて…」ブログでは、数人(大学生?)がメルアドを書いていてくれて…
メールでの交流があり、面談を求めましたが…彼らの都合で、できませんでした。
私の記憶が正しいなら「お宅のメルアド」の一度もない…ようです。
ただ…メルアドを頂いても…ブラック的師範に会うのは「非情な恐怖」なのですね…
それは、過去の若かった私(二回も手紙が書けた時代の私)にはなかった恐怖のようですが…
もっとも…お宅が、ここへ非公開前提のコメントで、日時・場所…くれて、
その時に折り合えば、会ってお話したいとも感じています…
今の私の勤務は、月・水・金の三日間で、他はフリーです。
しかし~それでも「恐怖」が、
私の中の弱虫・泣き虫・自由びとの恐怖感が…
実際に会えても会えなくても…
ここでのコメント応酬は続けたいですね…