新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

昨日の出来事から~

2018-11-11 10:49:01 | 想い思い考える

昨日、夕食は外食にすると決めた。
場所は、家から歩いて15分位の所である。
以下は、その時の家内と私のやり取りである。

家内「○○(私の事)!自転車で行く?」

○○「いいけど…………」
○○「一台ライトが壊れていて…
○○「以前に買ったダイソーのライトのあるか?ないか?」
家内「何で自転車のライトの話になるの?」
○○「だって、三人(息子・家内・私)だと、古のもいるでしょ!」
家内「何を言っての!私は歩き!」
○○「そっちこそ何を言っての!」
○○「だったら初めから、『私は歩くけど』と言えよ!」
家内「そっちこそ!三人が自転車か、どうか?聞けばいいでしょ!」
○○「言い出しっぺが、誤解のないよう言うのが筋だろ!」

以後も、同じような会話が続いた……

そこで私が息子の意見を聞こうと事の経緯を息子に説明している時、
机の上に置いた閉じたパソコンの上に、
話を聞こうとした息子がオレンジジュースの入ったコップを置いた。

私は、『濡れたらパソコンが危ない!』と思い、
私は、息子に家内との話をしながら、コップを横にどかした。

そしてパソコンを移動しようとした時、その手がコップに触れて、
倒れて中のジュースが零れ、息子のジーパンを濡らしてしまった。


息子「濡れたでしょう!」と怒って言った。
私「パソコンの上に置くから…」
息子「話ながら動かすから…」
私「お前が置かなければ零さない!」
………
私は、息子の非を言い立て…
息子は、私の非を言い立て…

結局…そのまま、ウヤムヤになった…
その後は、私は思った『一体全体!誰が原因なのか?』

そして、考えた

コップが、パソコンの横でも、私は移動させた。
パソコンが、机の上にあれば、私は移動させた。
私が話しながらでも気を付けていれば、零さなかっただろう。
パソコンが机の上になければ、私のコップ移動はなかった。
コップの移動がなければ、話ながらでも問題の発生はなかった。
ジュースが零れた地点に息子の足・ズボンがなければ問題もなかった。


結論として、今回の問題が発生するには色々な要因がある。
それでも、今回の問題のスタートは、私が机の上にパソコンを置いた事である。
これは、今回の原因は、私にある、という事が判明したのである。










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それって!本当に観念論?

2018-11-09 11:28:12 | 言葉・概念



以下は「談話サロン天寿堂」での記述である。


~~~~~引用開始~~~~~


「京都弁証法認識論研究会の「唯物論の立場からの哲学史の構築に向けて」を論ず」

愚按亭主 11/04(日) 17:50


[2945] 唯物論と観念論についての質問

南郷ファン - 2018年10月17日 (水) 22時25分

ここに書かれている論文は極めて専門的かつ難解であり、私ごとき浅学な者では理解できないものが多いのですが、特に疑問に思ったことがあるので質問させて下さい。

愚按亭主さんは唯物論の立場に立つ南郷学派を、唯物論では学問的解明は不可能であると批判されているみたいなのですが、その点が不思議に思うのです。

私の理解では、世界の根本は物であるという世界観が唯物論であり、そこからすべてのものを論理的に把握しようとしているのが南郷学派だと思っています。
私は唯物論が正しいと考えていますので、根本が物以外から派生するもので物事を説明するのは科学的ではないと思います。

愚按亭主さんの考えておられる観念論とはどのようなものなのでしょうか。


[2946] お答します

愚按亭主 - 2018年10月24日 (水) 08時36分

 念のためお断りしておきますが、私は学問を創り上げるのに唯物論は必要ないといったことはありません。むしろ、必須だとしています。私が主張していることは、唯物論だけでは学問は完成しないということであり、学問の体系化の完成のためには、観念論との統一が必須だとしていることです。

 ですから、観念論を否定してしまっている南郷学派の姿勢を批判しているだけなのです。そもそも学問は、哲学の形成から始まりましたが、その哲学は観念論が創ったのです。哲学は世界全体の真理の追究ですから、部分的な現実的立場の唯物論ではできないことであり、観念論が哲学を創ったのは必然性なのです。

 しかし、マルクスは、唯物論的な科学が現実の生活を大きく変えていった事実を目の当たりにして、学問は唯物論でないとだめだと思い込んで、さらに言えば、当時の科学はキリスト教と熾烈な戦いを繰り広げておりましたので、宗教と同じ観念論の哲学も学問にふさわしくないと考えて、「哲学はヘーゲルとともに終焉する」と宣言して引導を渡してしまったのです。以来、哲学は過去の遺物とされてしまい、観念論も否定されて、唯物論だけで学問を創ろうとすることが常識・伝統となってしまいました。

 ところが、個別科学の体系化もある程度なって、いよいよ学問全体の体系化が射程に置かれるようになったところで、南郷学派は、大きな壁にぶつかってしまいました。観念論を否定し、哲学の歴史を否定してしまっているために、それが足枷となって学問の歴史、弁証法の歴史がまともに説けない、という壁にぶつかってしまったのです。そこで一生懸命唯物論の立場から弁証法の歴史を作り上げようとしていますが、学問の歴史の事実からその論理を導き出したものとはならずに、認識論的な形で強引に観念論的に事実をそれらしく解釈ざるを得なくなって、いささかも弁証法的な歴史的事実とは似ても似つかない、弁証法性の一切感じられないものになってしまっています。

 哲学の全体性の絶対的真理の追究は、観念論でなければできませんので、学問の哲学の歴史を素直に認めた上で、構造的な科学の部分性の事実の論理すなわち相対的真理との統合を、全体性の絶対的真理すなわち<学問の冠石>主導のもとにはかることが、真の学問の体系化の道である、と主張しているのです。




[2953] 観念論を利用するだけ?

南郷ファン - 2018年11月01日 (日) 13時21分

質問にお答え頂きありがとうございました。

歴史的には、哲学は観念論者が作ったものなので、哲学を完成させるためには観念論を使わないといけないということでしょうか。
観念論と唯物論は万物の根源に対する世界観だと思っているのですが、観念論的な考えは一部利用できるところがあるから使ってみるということなのでしょうか。
観念論と唯物論は対立するものだと思うのですが、両者を折衷しても観念論にしかならないのではないですか。
愚按亭主さんは観念論者なのでしょうか?


[2955]

愚按亭主 - 2018年11月04日 (日) 17時50分

>歴史的には、哲学は観念論者が作ったものなので、哲学を完成させるためには観念論を使わないといけないということでしょうか。

 歴史的事実として、観念論が哲学を創ったということは、そうなる必然性があってそうなったという、論理を見ることが大切です。つまり、世界を丸ごと俯瞰手的に見て、そこから全体性の論理を導き出すということは、観念論でなければできないことです。唯物論では、部分的な事実から論理を導き出して、それを総合し一般化するという過程を経なければなりません。しかし、問題は、部分をいくら集めても、全体にはならないという厳然たる真理があり、それは、南郷学派が、かつてその真理を使って、ウィルヒョウの細胞が集合して生命体が造られる論を批判していたものです。つまり、南郷学派は、かつて自分たちが批判した誤りを、自分たち自身が犯そうとしているのです。ところが、問題は、そのことに気づいていないことなのです。その誤りとは、唯物論的な、部分的な相対的真理のみで、哲学ができると思っていることです。だから、それは間違いだと指摘しているのです。

>観念論と唯物論は万物の根源に対する世界観だと思っているのですが、観念論的な考えは一部利用できるところがあるから使ってみるということなのでしょうか。

 世界の起源(始元)に関して、唯物論(世界は無限)か、観念論(世界は有限)かの形而上学的な問いかけは、ヘーゲルの真無限(無限即有限)論による学的始元論によって、とうに克服されていたのです。ところが、世界を力強く変えている科学(部分学)の唯物論の立場こそが学問的立場だと思い込んで、唯物論に固執した結果、弁証法を唱えながら、その実質は形而上学のままだった、マルクス、エンゲルスは、それが理解できず、古い形而上学的問いかけをそのまま用いて、ヘーゲルの本物の学問的立場をゴミ箱に捨ててしまった結果として、その過ちが、現在に至るも、学問の世界を、学問的に発展できないように縛りつけているのです。これは、哲学とは何かを措定した南郷学派とて例外ではなく、現在の南郷学派の迷走の根本的な原因となっているのです。

 本当の学問的立場は、絶対的本質(世界の本質)が、<学問の冠石>として、学問体系全体を統括する絶対観念論、すなわち唯物論(事実を起点とする)と観念論(本質を基点とする)とを自らの構造として持つ、が、真の学問の立場なのです。つまり、観念論が主体性を持つ必要があるということです。ですから、ヘーゲルの説く「概念の労苦」とは、絶対観念である「概念」が、唯物論的な成果と観念論的な成果とを融合一体化・統体止揚して、自らの体系に構造化していく「労苦」のことなのです。

>観念論と唯物論は対立するものだと思うのですが、両者を折衷しても観念論にしかならないのではないですか。
愚按亭主さんは観念論者なのでしょうか?

 私は、ヘーゲルと同じく、精神の主体性を重んじる絶対観念論者です。まず確認しておきたいのは、先にも述べたように世界の起源としての唯物論と観念論は、学問的には過去の遺物として屑籠に入れるべきものです。本当の意味での、学問的な唯物論とは、事実を起点として論理を展開していくもので、他方の観念論は、本質を基点として論理を展開していくものだということです。したがって、その両者は互いに他方を否定的媒介し合いながら、相互浸透し合って本物の真理を創り上げていく、というのが本来あるべき学問の方法論なのです。



~~~~~引用終了~~~~~



上記の記述から天寿堂氏の「唯物論と観念論」の見解が分かった。
それは、
>本当の学問的立場は、絶対的本質(世界の本質)が、<学問の冠石>として、
>学問体系全体を統括する絶対観念論、
>すなわち唯物論(事実を起点とする)と観念論(本質を基点とする)とを自らの構造として持つ、
>が、真の学問の立場なのです。
>つまり、観念論が主体性を持つ必要があるということです。

端的には、
唯物論は、事実を起点とする。
観念論は、本質を起点とする。
となる。


ここで、一つの疑問が、
観念論の起点である「本質」は、どのように生じたのだろうか?

天寿堂氏の場合、それは、「ヘーゲル観念(哲学)」であろう。
彼は、「ヘーゲル哲学の観念」を起点に、彼の見えている周囲の事実を論じている。
その一つに、「南郷学派批判」がある。

でも…ここで更なる疑問が…
「ヘーゲルの観念(哲学)」は、どのように生じたのだろうか?
それは、ヘーゲルが「過去の哲学者達の観念(哲学)」を起点に、自ら創出したモノだろう。

ならば、それら「過去の哲学者達の観念(哲学)」は、どのように生じたのだろうか?
人類が誕生した時点で、「観念」と言えるようなモノがあったのだろうか?

神が、人を創出したのであれば、当然に「観念」をも一緒だろうから…
「初めに言葉・観念ありき!」であろう。
でも、現代では、「人はサルみたいな動物から進化したモノ」が信じられているから…
人を創出した神を存在を認めないなら、「初めに観念なしき!」となる…

そう考えるなら、
「初めに観念論なしき!」となり、
「初めに唯物論の誕生ありき!」と考え得る。

もっとも…ヘーゲル哲学では、「初めに絶対精神ありき!」であるが…
それでも、人類に初めから絶対精神があっても、
それは「観念」ではない「(絶対)精神」である。

絶対精神を観念まで量質転化化する為の手段が、
現実との関わりであり、そこに「唯物論」の誕生があろう。

個々の事実から、多くの狭い範囲内での現象論を創り上げ、
それら多くの狭い現象論から少しずつ広い範囲の現象論へまとめて行ったのだろう。

狭い範囲の異質な現象論をまとめる過程で構造論が生じ、
そこからその範囲の実態論⇒実体論へと深化させたのだろう。

観念は、
現実・事実との飽くなき関り、
それを通しての裏の実態との関り、
それらの関り結果が、その関わった人の観念を創り上げる=精神の観念化であろう。

当然に、関わり方が狭い範囲に限定されていれば、狭い範囲の観念化であるし、
多くの狭い範囲を集め関わり続けて、結果的に広い範囲の関りとなり得れば、
それは広く深い観念となり得るのだろう。

ここで必要なのは、目標・全体をどのように捉えるか?である。
狭い範囲を目標・全体するか?
広い範囲目標・全体とするか?

南郷氏が書いている「人は一流を目指せ!」と…
この一流とは、大きな大志であり、
広く無限世界を目標として関われ、とも言えるのだろう。


スポーツ界で一流になるには、
世界の技術を知り研究し体得して、その先を目指すモノだろう。

その技術は、現象している技でもあるが、
その技を支えている理論・認識・観念をも含めている。

学問とは、学びて問うモノ、であるから…
一流の学問とは、全てを学び、全てについて問うモノだろう。

我々にとっての全てとは、現実・事実である。
現実・事実と関わらない人間は死人である。

人間にとっての全ての観念は事実・現実から発生したモノであろう。
それは、生まれたての赤子に観念といわれるような強いモノはない、だろうから。


本来は、哲学は唯物論が先であったのだろう。
その個々の唯物論から生じた観念を論じたから観念論となったのだろう。

過去の哲学者の事実との関りの結果の観念は、
当たり前すぎて誰も意識しなかった、のだろう。

当初・初期の学問?(と思えるモノ)は、全て唯物的な関りで生じた観念論であった筈…
そして、多くの個々の存在する観念論を集め、さらなる観念論を創出であろう。
そもそも、ここの観念論を集めるとは、存在する観念論を集める事であり、
それは「唯物論から創られた観念論」であろう。


ここから思う事は、
過去の唯物論とは、観念論へ至る過程の論であった。
唯物論も、観念化可能である。
観念化した唯物論は観念論とも言える。
ただし、その唯物論の範囲が狭く限定された結果の観念論なら、
それは真理足り得ない。

さて…ここでの
唯物論は、事実を起点とする。
観念論は、本質を起点とする。
という見解であるが…


本質を起点にする為には、他人の観念論・本質論を使うか、
または、自力で起点である本質論の創出が必要であろう。

他人の観念論・本質論の借用にしても、その観念論は存在する「本質論としての事実」である。
または、本質論の創出であっても、
それは存在する事実としての他人の本質論の使用だったり、現実・事実との関りだったりである。


本質を起点とする観念論の本質が事実であるなら、
それは存在する本質論としての事実が起点となる。

彼の見解である「観念論は、本質を起点とする」
と矛盾している。

彼のこの見解が矛盾しないた為の条件とは、
「人類本質という観念を持って生まれてきている」

その本質が「絶対精神」と、彼は主張するだろう…
しかし…残念な事に「絶対精神」の成長しない事には、本質・観念とはなり得ない。

なので、ヘーゲル哲学の絶対精神を借用した所で、
彼の「観念論は、本質を起点とする」は、

実例の「矛盾論」となり得ても…どんなに強弁した所で、
本当の「学問論」となり得ない~のだろう。


もっとも…彼は、絶対観念論者なので…
「観念」の概念も、観念的概念だろうから…

彼の絶対的観念論の立場からの見解としては、
「俺は絶対的に正しい!」となり得るだろうが…



でも…それでは~
個々の言葉の意味・概念が異なるモノ同士の討論・議論・反論…
それら、全てが無駄な取り組み・努力であろう。


言葉での相互理解には、相手の言葉の意味・概念の把握が絶対的前提である。
現実なら、その「言」だけでなく、その「動」の意味すら大きく異なっている事もあるのが事実。

南郷学派の言語概念と大きく異なっている概念で論じている、
今の愚案くんの南郷学派批判は、彼にとって全て無意味だと、
私には思えてしまう。

でも…今回の自由びとのように~
唯物論者・南郷継正的立場・見解を用いて、
愚案くんの見解の否定的に統一をするな…
それはそれで非常に有意義なモノであろうが…












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暇だったので…

2018-11-03 10:08:58 | 想いのままに…

コメント欄への書き込みを間違えて…



昨日は、少し体調が悪く、早寝をしたら、
今日は、余裕の早起きで時間があった。
そこで、久しぶりの全文に即しての言説。

>私のあの言葉って、どれを指しているんですか?

この「私のあの言葉」とは、自由びとの記述で、自由びとの言葉ですね!
ならば~それは…
……数十分経過後……
やっと発見しましたよ!です。
てっきり~コメント欄の自由びとコメントだと思い込んでいたら…
なんと…

<記事「禅問答」の回答編~>の中の言葉でした。

<>更に書くなら、
<>禅答とは、
<>考えてから答るのではなく、
<>感じて即答・即反応・即対応が正解である。
<>それも、全身での回答表現が理想であろう。
↑~
これって、あのブルー・リーの言葉を思い出しての…ものですよ。


どう~ですか?

「考えて…なく、」
「感じて…である。」

と書かれているでしょ!

お宅が、この言葉を記憶していないとは…
それって…「無意識的な盗用」ですね。
や~い!盗人野郎!

盗用でないなら、やっぱり「類は類を呼ぶ」=同類ですかね。
それは、映画「燃えよドラゴン」の中の事実の想起です。


>自由びとさんは私の利益になるような知見をわずか一つたりとも提出したことはありませんが?

事実発覚!
上記の~

<>更に書くなら、
<>禅答とは、
<>考えてから答るのではなく、
<>感じて即答・即反応・即対応が正解である。
<>それも、全身での回答表現が理想であろう。

を読んでいる筈だから…これは嘘になります。
もっとも…どうせ「読んでない!」と書くでしょうが…

それなら、「読まずに質問」している、
という事で、非礼者の暴露です。
お宅は、己の非礼を否定していますから…
それも嘘つき、です。

やっぱり嘘つき者!
息を吐くように自然に嘘を吐くソクラテスと同じだ!




>その代わりに繰り返し発言するのが「私(自由びと)のお陰で」という何か自分が指導者的な立場で実績を出しているかに装おうとするいかにも脆弱な強迫観念に囚われているかのセリフばかり…。

私の事実を知り得ていないお宅の、
この記述は、

「お宅の観念内の事実であっても」
「私の現実・事実ではありません」

お宅の本当の事は、私の虚偽の事なのですよ。
いい加減に分かりなさい!
お宅の想像する「自由びと」と私・自由びとの事実は、
全く異なっている事に~




>その脆弱さといったなら「私は玄和の指導局の人間だ。したがってお前の考えは全て解っている。なぜなら私は指導局の人間であるがゆえに会員が義務として強制的に提出させられる原稿を閲覧できるからであり、お前のことを深く理解しようと親身に関わったからではなく南郷尊師に近い間柄の人間だからである!」ぐらいの脆弱さですよ。

バカ!バカ!
妄想狂!妄想狂!
私が、一度でも入局した事実はありません。
お宅にとって都合の悪い事実は、全て玄和会繋がりですね。
それって、ブログ「心」の妄想狂と一緒ですよ!

もしかして…超ヤバかったりして…
自由びとは妄想狂と同類って事だったりして…?



>闘いの中で一瞬でも考えたなら隙ができるというのは思考の時間と間合いとの関係が理解できていない人間なんでしょうね。

ハ・ハ・ハ!
ある日、突然、街中で、目の前に刃物を持った若者が現れた時、
『何なの?どうすればいい?』なんて考えたら、
即刺されて一巻の終わりてせしょう。

そこを、『危ない!=避ける!(闘う!)』と感じられ、
即に反応するば助かるかも?!です。

私の「闘いイメージ」とお宅とは、大きく異なっていますね。
だから、分かったつものお宅は幸福なのです。

ここでの、「危ない=避けるor闘う!」という意識は、
日頃からの「当たりそう⇒避けろor闘え」という意識と
その行為・行動の繰り返し練習の量質転化化の成果ですね。








>ショートレンジで何かを考えていたなら相手を攻めるのも遅れますし、相手からの攻撃に対応していくのも遅れてしまう。
>ですが一旦は距離をとって離れた間合いからなら次にどう行くかを考える余裕も出来るでしょうし、相手の動きも観察できる。

>特に玄和さんのように2メートルも3メートルも間合いを取って闘うスタイルだと考える余裕もあるでしょう。相手が攻めてくる姿を確>認してから右に行こうか左に行こうかを躊躇してから動き出す余裕がありますからね。

>「闘いの中で一瞬でも考えたなら」なんてことを漠然と言い切ることが出来るだけで実際にはやり合ったこと無いんじゃないの?なんて気がしてしまいますけどね。

>ボクサーなんかでも初めて闘う良く解らない相手の場合、いきなりは接近戦にはいかないで、離れた間合いからフェイントかけつつ相手のスピードだとか動きの特徴、癖なんかを観察しながら次の戦術を組み立てていくようですからね。

↑~


これは、
自由びとが、予想し得ない突然の闘いをイメージして「勝負論」から言説を
お宅は、試合・練習・自由組手…等をイメージして「上達論」から否定しているモノです。
なので、想定し得ない闘い以外の場合なら、
上記のお宅の記述に特に異論はありません。

玄和会の稽古の大きな課題に「恐怖心の克服」があります。
その練習の一つが、遠間からの突っ込みの繰り返しなのです。
まあ~お宅には、その真意の理解は不能でしょうが…






>それより何より、「私のお陰で」を繰り返す自由びとさんのような虚勢をはった態度が見苦しいと感じてしまう人間なんですね、私は。

それこそ!
この>「私のお陰で」という、
自由びとの>言葉ってどれを指しているんですか?<

私は、お宅の指摘に応えて数十分かけて探し出し書きました。

お宅も、嘘つき・弱虫でないなら、↑に答え書けるでしょうね…
もっとも、今回のコメントでお宅の
「嘘つき・妄想狂」が発覚したから無理なのかも…

私は、期待する、「嘘つき・妄想狂の」お宅だから答えない事を、
私は、期待する、「ただの普通の意地悪の」お宅だから答える事を、





>日本の武道を学ぶことは正義の精神が涵養されるというイメージがあるのですが、自由びとさんが学んだ流儀は子供に学ばせてはいけない見苦しい武道だという感じがしますね。

嘘つき・妄想狂のお宅が、「…正義の精神が涵養されるというイメージ…」なんて…

その正義とは、お宅の正義!
その精神とは、お宅の精神!
その滋養とは、お宅の滋養!

全宇宙が崩壊しても、
一般的に求められている正義・精神・滋養のイメージは無理でしょうね!


コメント欄への書き込みだったのに間違えた!


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真理?

2018-11-02 11:30:18 | ニュース



<先入観は不要>は真理か?


命題:<先入観は不要>は真理か?

解答①―「正しい」
解答②―「間違い」

そもそも「先入観」とは何の事か?

• デジタル大辞泉
前もっていだいている固定的な観念。それによって自由な思考が妨げられる場合にいう。先入見。先入主。「先入観にとらわれる」

• ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
実際の体験に先立って,ある特定の対象に対してもつ主観的価値判断。体験に先立つ歴史的,社会的,宗教的など種々の要素によって形...

• 大辞林 第三版
前もってつくられた固定的な観念。それが自由な思考を妨げるときにいう。思い込み。先入主。先入見。 「 -にとらわれる」


と理解して、上で命題を考えるなら、

解答①―「正しい」を真理とするなら、
「先入観は不要」が真理となり、
それは「先入観は不要」という先入観も不要である、となる。

という事は、
真理である命題そのものが、その命題を否定している事になる。


解答②―「間違い」を真理とするなら、
そもそも「先入観とは固定的観念」であるから、
「不要」だからと言って、そんな簡単に「固定観念」の否定は至難である。
従って「先入観は不要」は真理であっても、その真理の達成は至難である。



ならば、正しい命題しは何か?
それは、己の先入観の自覚であり、その先入観に囚われる事無く、
初体験対象の事実を観察・把握する事である。


もっとも…この己の先入観・固定観の自覚が至難であるのだ…


ならば、この命題は?
そして、真理とは?





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