「唯物的・観念的」の話
「観念論」って何?
「神の存在を信じる事」…
「物質ではなく観念が先にある論」…
「世界に物質・精神以外の何かがあれば…」
それって「不可思議論」?
物質とは、実際に存在する・確認可能なモノ?
精神とは、物質としての存在ではない人間の精神。
ただ人類が道具・五感を駆使しても、存在を確認不能な物質もありえるだろうに…
人類が存在を確認不能な物質は、物質と呼べ・言えるのだろうか?
認識不能なモノ論なら、不可思議論?!
神も幽霊もも妖怪も「不可思議論」?!
観念・精神は直接に確認不能でも…
ただ、人間の観念・精神は、その者の身体的な言動・表現として間接的に体感可能。
そこで、ここでは、「観念論・唯物論」ではなく、「観念的・唯物的」と表現した。
人間が自己の精神・観念を優先しての言動・行為は、「観念的」。
また、初めに観念・精神があって現実を優先した言動・行為なら「唯物的」。
例えば~
ブログ記事の「朝食用意時の話」の中で、
完成した「朝食」を見て違和感を感じて昨日までの「朝食のトータル像である擬き像」を優先して「茹で小豆」を加えたから「観念的」行動。
それは、満足していた筈の現実・現在の朝食に不服・不足を感じて現実を変えた!
では、少なくなっていた茹で小豆の補充の為に小豆を茹で始めたのは?
これは、不足・不服ではなく、失念・忘れていた事に、気付いての行動。
現実の未実行に気付いての行動…なので「唯物的」?
今日の「不足している茹で小豆」現実像と昨日の「不足している茹で小豆」もどき像の一致。
そこから、「今日(昨日の明日)小豆を茹でる」目的意識像の想起!
完成した朝食を、ココロ沈めて全体的にと見なければ、気付かなかった「違和感」。
違和感⇒何か不足観⇒茹で小豆の不足!
冷蔵庫の中身の見えないお椀を見て、直ぐ想起した「小豆の茹で行動」。
完成した全体を見て、もどき像と比較して気付いた「不一致」・「不足」・「補充」。
中身は見えず、見えない全体から「もどき像の」想起から「一致」・「茹で」行動。
足りないから「補充」、
茹でる事を失念していたから「茹で行動」
始めの「現実の完成朝食反映像」と「昨日までの朝食もどき像」は不一致。
次の「現実の不足している茹で小豆像」と「もどき像は一致」…
ただ、その「もどき像」には「不足したから茹でる像」が張いていた。
初めの、小豆の不足に、直ぐ気付けない朝食。
次の、お椀を見て、直ぐに気付けた「茹で行動」。
その理由の一つに、初めの完成した朝食には満足していた。
その理由は、途中で「茹で小豆を入れる事」像は実行しようとしたが…。
しかし、その目的が「生小豆を茹でる事」像で実行されてしまった。
結果的に、朝食の用意・意識の過程(小豆行動?)には不足はなかった。
従って、手順に過不足を感じなかったのだろうか…
~小休止~
ここまで書いて小休止(昼食に出た事)で…気付けた事がある。
もどき像にも、
初め・始まり・開始的像⇒ 途中・過程的像⇒ 結果的像。
↓
弁証法的な生々生成・発展・衰退・消滅…像。
「現実の朝食の完成像」と「もどき像的朝食の完成像」の比較から「茹で小豆の追加」。
「初め・開始像・現実・(不足した茹で小豆像)」から「茹でる小豆・過程もどき像」そして「茹で運動」。
この場合、観念論的とは「現実像のもどき像」の観念内での比較~問い掛け。
そこから「茹で小豆の追加」・「小豆の茹で行動」へ像。
「比較・問い掛けは観念的」であっても…その後の「行為・行動は唯物的」。
そもそも…そのような「もどき像」の形成は、
昨日までの現実の行為・行動の結果であり「唯物的」モノ。
これは…もどき像の形成は「唯物的」であっても
「その唯物的なもどき像」と「現実の反映像の比較」は「観念的になされる」。
そして、この比較の結果である駆使は「唯物的」であり、「その方法は観念的に思考・思惟される」モノ。
ここで問題が…
その思考結果の実行・行動…様式が、現実的・合理性に実行され得るなら「唯物的」
そこに、非合理性があり得れば「観念的」…
現実的に「非合理」であっても、当人の頭脳内でし「合理的」…それなら「観念的」or「唯物的」???
答えは~
主観的には「唯物的」でも客観的には「観念的」!
「観念論」って何?
「神の存在を信じる事」…
「物質ではなく観念が先にある論」…
「世界に物質・精神以外の何かがあれば…」
それって「不可思議論」?
物質とは、実際に存在する・確認可能なモノ?
精神とは、物質としての存在ではない人間の精神。
ただ人類が道具・五感を駆使しても、存在を確認不能な物質もありえるだろうに…
人類が存在を確認不能な物質は、物質と呼べ・言えるのだろうか?
認識不能なモノ論なら、不可思議論?!
神も幽霊もも妖怪も「不可思議論」?!
観念・精神は直接に確認不能でも…
ただ、人間の観念・精神は、その者の身体的な言動・表現として間接的に体感可能。
そこで、ここでは、「観念論・唯物論」ではなく、「観念的・唯物的」と表現した。
人間が自己の精神・観念を優先しての言動・行為は、「観念的」。
また、初めに観念・精神があって現実を優先した言動・行為なら「唯物的」。
例えば~
ブログ記事の「朝食用意時の話」の中で、
完成した「朝食」を見て違和感を感じて昨日までの「朝食のトータル像である擬き像」を優先して「茹で小豆」を加えたから「観念的」行動。
それは、満足していた筈の現実・現在の朝食に不服・不足を感じて現実を変えた!
では、少なくなっていた茹で小豆の補充の為に小豆を茹で始めたのは?
これは、不足・不服ではなく、失念・忘れていた事に、気付いての行動。
現実の未実行に気付いての行動…なので「唯物的」?
今日の「不足している茹で小豆」現実像と昨日の「不足している茹で小豆」もどき像の一致。
そこから、「今日(昨日の明日)小豆を茹でる」目的意識像の想起!
完成した朝食を、ココロ沈めて全体的にと見なければ、気付かなかった「違和感」。
違和感⇒何か不足観⇒茹で小豆の不足!
冷蔵庫の中身の見えないお椀を見て、直ぐ想起した「小豆の茹で行動」。
完成した全体を見て、もどき像と比較して気付いた「不一致」・「不足」・「補充」。
中身は見えず、見えない全体から「もどき像の」想起から「一致」・「茹で」行動。
足りないから「補充」、
茹でる事を失念していたから「茹で行動」
始めの「現実の完成朝食反映像」と「昨日までの朝食もどき像」は不一致。
次の「現実の不足している茹で小豆像」と「もどき像は一致」…
ただ、その「もどき像」には「不足したから茹でる像」が張いていた。
初めの、小豆の不足に、直ぐ気付けない朝食。
次の、お椀を見て、直ぐに気付けた「茹で行動」。
その理由の一つに、初めの完成した朝食には満足していた。
その理由は、途中で「茹で小豆を入れる事」像は実行しようとしたが…。
しかし、その目的が「生小豆を茹でる事」像で実行されてしまった。
結果的に、朝食の用意・意識の過程(小豆行動?)には不足はなかった。
従って、手順に過不足を感じなかったのだろうか…
~小休止~
ここまで書いて小休止(昼食に出た事)で…気付けた事がある。
もどき像にも、
初め・始まり・開始的像⇒ 途中・過程的像⇒ 結果的像。
↓
弁証法的な生々生成・発展・衰退・消滅…像。
「現実の朝食の完成像」と「もどき像的朝食の完成像」の比較から「茹で小豆の追加」。
「初め・開始像・現実・(不足した茹で小豆像)」から「茹でる小豆・過程もどき像」そして「茹で運動」。
この場合、観念論的とは「現実像のもどき像」の観念内での比較~問い掛け。
そこから「茹で小豆の追加」・「小豆の茹で行動」へ像。
「比較・問い掛けは観念的」であっても…その後の「行為・行動は唯物的」。
そもそも…そのような「もどき像」の形成は、
昨日までの現実の行為・行動の結果であり「唯物的」モノ。
これは…もどき像の形成は「唯物的」であっても
「その唯物的なもどき像」と「現実の反映像の比較」は「観念的になされる」。
そして、この比較の結果である駆使は「唯物的」であり、「その方法は観念的に思考・思惟される」モノ。
ここで問題が…
その思考結果の実行・行動…様式が、現実的・合理性に実行され得るなら「唯物的」
そこに、非合理性があり得れば「観念的」…
現実的に「非合理」であっても、当人の頭脳内でし「合理的」…それなら「観念的」or「唯物的」???
答えは~
主観的には「唯物的」でも客観的には「観念的」!