新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

1を10個足すと、10と書くのは?

2020-02-22 15:29:54 | 数学
全く分かっていないのはお宅です。

私の問い掛けは、私の個性・認識での問いかけて゛あって、
決して、お宅の認識・個性からの問いかけではありません。

なのに…
お宅は、私の問いかけを、お宅の個性で理解しました。
そして、その結論が、「全くとことん阿呆ですね。」なのです。

さて~
ここで問題です。
「全くの阿保」は私・お宅のどちらでしょう?


答えは、たぶん「両方です」と…
考えたら間違いないでしょうね。







数字は人間が創出した「数の体系」からなっています。

時を数字で表現するなら、
一秒→2秒…59秒→1分
1分、2分…59分→1時間
1時間→2時間→23時間→1日…

それらは、人類が創出しモノであるのは、当然の前提なのです。

問いを書き変えるなら、

1を10個足すと、何故に1に0を付けた「10」と表現するのか?
2を10個足すと、何故に2に0を付けた「20」と表現するのか?


この理由は当然に人類が、そのように決めた、ですが…
それは、分かっていて…
では、その「数の体系は?」と問うたのです。

その初めの答えが、「十進法という数の体系だから」、だったのです。

十進法も二進法も五進法…当然に、人類の創出物であり、そう決めたモノです。
これは、当然事であり、そこから始めたものです。

これらの創出過程が、
手のひら一つで指五本…五進法
一人の人間に、指が十本…十進法
一人の人間に腕が二本…二進法



1から2.、2から3…の変化と、
9から10への変化には違いがあります。

それは、位が一桁上がった事であり、
それは、表現としては、2と0の組み合わせたモノですが…
その意味・表現は、2でも0でもありません。

こうなる理由を初めは十進法だから、と考えました。
その理由は、二進法・五進法では、
1を10個足しても10とは書かないからです。


「十進法」だから、
9から1増えると10と書くから、
と考えたのですが…

しかし、結果的に、二進法でも、五進法でも、
「10」個増えれば、「10」と書くことが分かり、
初めの解答である「十進法だから」は否定されました。


因みに、くどいようですが…

「人間がそう決めた」という、
以下の前提は当然なのです。

十進法から、十個で「10」と書き、
十進法の10は「十個」だから、
十個で繰り上がり。

二進法なら、二個で「10」と書き、
二進法の10は「二個」で、
二個で繰り上がり。

五進法なら、五個で「10」と書くき、
それは、五進法の10は「五個」だから、

ように決めたのです。


なので、初めの解答である。
「十進法だから、1を10個たしたら、10になる」は誤答と分かったまです。


それを初めから、「そう決めた」では、何も始まりません。
「そう決めた」とは、「どうような体系を創り、どのように決めた」と考えるから、
そこに始まりが、生じるのです。


以前の中学の数学の教科書には、
二進法・五進法が書かれていました。
現在はなくなっているようですが…

そうそう以前に、どこに書かれていましたが…
アマゾンかどこかの奥地で
「1、2、たくさん…」と数を数えている原住民が発見された…と、

これなどは、三進法となります。

二進法は、1が10個で、1010、
五進法は、1が十個で、20、
どちらも一の位は「0」でしたが…

三進法だと、

3+3+3+1ですから、
10+10+10+1で、
101となり、一の位は、0になりません。












コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・論理・論理的~

2020-02-22 12:20:15 | 論理
コメント欄の「無」のコメントについて~

この「無」のコメントには、
少々無理がある、ように私には思える。

この「無理」とは、
この「記事の記述=記述者は阿保」であるが…


ここで、私は、論文を書こうとも、
作文を書こうとも思っていない。

ただただ、私の思っている・思っていた事を
私が読み返して、納得できる形で、
言葉でしようと書き続けているのである。

それを、「無」は以下のようにコメントしている。
>この文章を読んで端的に「作文と論文の違い」が分かると思います。

これは、私的には、笑止千万であり、
「無」の言葉で書くなら、
これこそが「阿保」丸出しコメントである。


そもそも…
この記事の表題は「論理・論理的について~」である。
確かに、書き始まめは十進法、二進法、五進法…の事からであり、

結論は、十進法を基準に数字を見ている多くの人々は、
「10」と書かれていれば、
普通に、1→2→3→4→5→6→7→8→9→「10」

十番目・十個と理解している、のが普通であり、
これを
1→「10」とか、1→2→3→4→「10」と理解するのは稀である、であるが…


でも、これを論理として、論理的に捉え返なら、

我々が時々に使用している個別の言葉に込められている、
その話し手の個人的感情・思い・認識…も、「10」と同様に、
必ずしも、聞き手が理解・感覚・認識した通りだとは限らない…

それは、大人が子供の言葉を理解したからといって、
その理解が、その子供の認識に合致しているとは限らない。
…といった事である。

……もっとも…子供の場合、
その子供が大人の理解・認識に合わせてしまう事もあり得るので、
結果的に合致してしまう事もあり得るが…




それは、「無」が、
この記事の記述・言葉から自由びとの真の認識を読み取れずに、
以下のような結論を出している事からも、事実的に証明・認識可能であろう。

>自由びとさんが先ず初めに為すことは己が阿呆だということを自覚し認めることでしょう。

仮に真に自由びとが阿保であったとしても、
その阿保には阿保の感情・認識・論理…があり、
それは、阿保な認識・言葉・感情・論理…表現・表記されている。

それらを、阿保・聡明・馬鹿・天才…
そんな立場を超越して俯瞰できたなら、
決して、己が阿保に思える、
その阿保な相手の事を阿保だとは、
思えなくなるだろうに…


もっとも~
以上のようには、書いているが、
あった事も無い見ず知らずの赤の他人の記述を、
こうも簡単に「阿保」呼ばわり可能な

この「無」は
ソクラテスであり、
正真正銘な真の超人的阿保マンであろう。

ここで以下の疑問が~
私が「阿保」だから、「無」の事を阿保だと思えるのか、
それとも、「無」が阿保だから、そう思えるのか…

この答えは以下であろう~
自由びとを「阿保」と思っている「無」だから、
そんな「無」だから「阿保」である。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする