新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

沢庵お宅コメントへの自由びと記述

2021-04-04 10:59:39 | 日記

以下はコメント欄への沢庵お宅の記述だが…
己の妄想を現実の如く思い込んでのモノなので、
今回は敢えてこのような形式でアップする事にした。





>・コメントを書いた人
>沢庵



>・コメント
たしかに調べてみたなら小学校で補助員だとか支援員として働いている人間は公立学校から直接に採用されて給料を貰っているわけではなく、民間の株式会社に雇われて派遣されたりしているようですね。

↑~
私の市の場合は、一年契約の市職員扱いです。




>学校教員=聖職者という見解もある中でお宅の下層民そのものの言葉づかいや見識が不思議ではあったのですが納得がいきました。


「他人は自分を映す鏡」というの諺があるが…
「他人の言動は自分の心を映す鏡」とも理解している。


でも↑は「朱に交われば赤くなる」ですね。

私は、お宅に合わせての「お宅の下層民そのものの言葉づかい」なのかも…
だって、自分で鏡なく己の姿を見るのは不可能ですから…

「赤」を欲する者が「朱」と交わるなら問題はないが…
「青」を求める者が「朱」と交わるのは問題である。

それでも人は「青」を欲しても眼前に「藍」ない時、
「赤」の中に「青」を求めて「朱」と関わるのかも…




>ですが、出来ちゃった婚でやむおえず作った息子を育てるために仕方なくやってる小学校の補助員とはいえ、その仕事の社会的意味を考えたなら己れの言葉づかいや言動には注意したほうが宜しいでしょう。

↑~
妄想お宅でなければ、嘘つきお宅ですね、

私達夫婦は、結婚して数年後、
一人目は稽留流産で未生誕、その後、
二人目が切迫流産で入院後誕生、そして、
三人目は流産で未生誕……お・し・ま・い。  



>お宅が所属している学校や玄和会が馬鹿にされる元ですからな。


これは、見た事もない私、知りもしない私、全く赤の他人の私
そんな、私の事を熟知しているつもりお宅の妄想ですよ。

妄想を妄想だと自覚なく現実の如く強く思い込めるお宅…
誇大妄想お宅!精神病お宅!でなければ…ストカーお宅?
それは曇って、歪んで、割れてしまっている鏡お宅では?


そんな鏡だと自覚を持って関わっているならよいが…
それを素晴らしい鏡なんて思ったら大変な事だろう。







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「等身大の思想」について~

2021-04-03 16:07:05 | 想いのままに…
「等身大の思想」について~

先ほど…久しぶりに「等身大」という言葉に、
このブログのコメントの中で出会った。

そこで以下のような事を思った…

何故に南郷師範は、その御著書の中で、
「等身大の思想」を否定していたのか?

この「等身大」とは、身体・実体と同じ大きさ、という事である。
でも「思想」とは、身体・実体である脳でなくその機能である頭脳である。

人間の身体の大きさ=脳の機能である頭脳の大きさ、ではない。

人間の頭脳・認識には、無限大の宇宙さえも丸ごと入れられる程の可能性がある。
そんな機能である頭脳が描く「思想」を、身体の大きさに合わせて「等身大」で満足していたら…
それは、頭脳の無限大の可能性を身体の有限大に限定されてしてしまい…
結果的に、有限な頭脳で今しか生きられない人間にしてしまう、のだろう。


人間は、自力だけでは等身大の言動になるのだろう…
それでも、その己の言動に満足してしまう事なく、
他人の言動を、理想的な言動を、理想的な思想を…求め続けて~

等身大であっても、その等身大で終わる事無く、
時々に大きく・成長し続ける運動・変化・発展…を
求め続ける認識に合わせた「等身大」でありたいモノである。

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「自由」というモノについて…

2021-04-02 12:16:35 | 自由論
「自由」というモノについて…


「自由」を辞書で調べたら~以下であった…

初めに、

例解新国語辞典[第二版]三省堂
自由―他から制限されたり邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできること。


一冊では納得できないので、更に一冊~

例解学習国語辞典[第八版]小学館
自由―他から縛られないこと。思いのまま。


ついでにもう一冊~


新選漢和辞典[第五版]小学館
自由―①自分の思いどおり。勝手気まま。
    ②他に縛られない。
    ③法律が認めた範囲内で、自分が思い通りにできる。


初め辞書の「自由」は一つの意味。
次の辞書も一つ、でもその内容が違う。


そこで、もう一冊…
なんと、その意味は①、②、③、三通り…


これは大変興味深い…
そこで 広辞苑[第四版]岩波書店 を調べたら…

① 心のままであること。思い通り。自在。
② 一般的には、責任をもって何かをすること障害(束縛・強制など)がないこと。

自由は、このような条件から自由、何かへの自由であり、条件と目的によって様々である。
無条件的な絶対の自由は人間にない。
自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、
目的のために自然的・社会的条件を改革することも自由と呼ぶ場合がある。
この意味で自由は自然・社会の法則の認識を通じて実現される。


いや~流石は天下の岩波書店の広辞苑、
その書かれている内容が重くドッシリである。


上記のような辞書調べは、
今回は、私なりの「自由」像が認識内に形成されてから…であった。


この辞書調べの前には、
今日も塾のバイトへ出かけようとしている息子に
以下のような質問をした。

私―「○○は自由とは何だと思い?」
息子「真の自由はない!」
息子「オンライン授業の時は居眠り…」
ここで…私が口を挟んで
私―「真の自由とは?」
息子「何の縛りもない自由…」
私―「そう~人間には真の自由はない。」
私―「人間は肉体を持って生まれたから…」
私―「人間は心の自由のままに肉体で生きてはいけない…」


でも、息子との会話・辞書調べの前に、
私は私なりに「自由というモノ」について
以下のように考えてみた。



児童が先生に
「授業中に手を挙げず自由に発言したい!」と
お願いした場合どうなのだろう。


その理由は、
手を挙げると指名されない時がある。
手を挙げている間に言いたい事を忘れる事がある。
手を挙げてから話すのは不自由である。
手を挙げないで、もっと自由に話したい…

授業中の児童の発言は、
教師の発言に対する児童の反応・思い・理解…を知る為のモノ。
授業中の教師の発言は児童達の成長・教育の為の手段の一つである。

児童が手を挙げず自由に発言する事で授業がスムーズに進み、
教師の児童達への理解が深まるなら「自由な手を挙げず発言」も有効であろう。

しかし、ここで比べてみよう。
「手を挙げての発言」という縛りある場合と、
「縛りなく自由な発言OK」…と縛りを外した場合を…


「手を挙げて」とい決め事に縛られつつ「発言したい思い」…と
縛りの事を考えず自由に無意識的に口から出た発言…の違いを…

ならば、教師はどうすればよいのだろう。
「手を挙げて発言」という縛りを示しつつ、
時と場合・児童の発言内容…によって縛りの黙認をすべきであろう。
もし他の児童がその時「…手を挙げていない!」と指摘したなら、
「○○君、もう一度言ってみて!」とか、
「○○君とてもいい事言った、手を挙げてもう一度…」とか、

縛りを守らなかった言動の注意だけでなく、
良い・鋭い・的確な発言…は縛りに合わせて!という指導がベストなのだろう。

それは、自らの発言を、そこにある縛りに合わせて行う。
確かに、的確な瞬間的な思い・感想…は、直ぐに忘れてしまう事もありえる。
そんな時、それが授業の流れに沿ったモノなら言ってみる事もありだろう。


ここで問題がある。
それは授業中の教師の発言を聞きつつも、
自分勝手な事を思っている児童が、
教師の言葉から思いついた事を自由に発言した場合である。
しかも…それが案外鋭いモノと教師自身が感じてしまった場合。


教師の言葉と児童の言葉がかみ合っているように思えても、
実は、教師と児童は全く異なった認識・像を描いている場合である。

その時、教師はどう対応するのか?
どのように己の間違いを知り得る?
そのように対応された児童の今後は?



疲れた…今はここまでに…続きはまた…
歯みがきして顔あらって昼食にしよう~




コメント (7)
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