新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

臨済義玄お宅!両目を大きく見開いて確り読め!

2021-11-17 11:42:06 | 悟得びと語り
大嘘つきお宅!本性丸出しだ!
いいか大きく目を開き確り読め!

天寿堂氏の指導を受けたのは、私が入門して数日の時、
当時は、大学生以外の一般人の白帯は私だけ、
その為か…私の指導者は日替わりだった。

その時の私を指導した(私が天寿堂さとは知らない)長髪の指導者は
「指導局」と書かれた腕章を付け、手の指一本が欠損していた。


その事は、数十年後、初めて天寿堂へ鍼灸治療に伺った時に、
直接稲村さん本人に確認済みでの事実である。

いいか…よく聞け!
この私の精神世界で現実の私の事実を否定する事実・記述をするなら…

知りもしないのに知っているつもり…どころか!!!
お宅は、お宅の妄想…
それも赤の他人の私生活の妄想を、
恰も事実のように書ける妄想狂だ!

お前が天寿堂氏を知っているなら、
弁証法ゼミ内部情報の玄和スレ書き込み事件の真犯人は「お前だ!」

悲しい事に、天寿堂氏は、「犯人を流雲だ」と確信している、ようであるが…
そうそう…当時の私は「流雲」で、玄和スレでは「自由びと」は未使用でしたね。
天寿堂氏は「流雲=自由びと」を知らなかったのかも…

天寿堂氏の無知からの誤解ならば…許すが…
お宅の嘘の本当確信からの記述なら…
今後は、そんな狂人妄想お宅とは絶好だ!

全てのコメントは、そく消去・削除…
妄想癖なら…まだいいが…
狂人・妄想狂の相手はしんどく疲れるからね…
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悟得びと妄想の物語

2021-11-17 11:22:38 | 悟得びと語り
悟得びと妄想の物語

この「妄想の物語」の始まりは?

中学時代―事ある毎の「面倒くさい!」発言を繰り返し続けた不平不満の時期…
大学時代―父と母との諍いに巻き込まれて不安・寂しさの時代…
新社会人時代―エンジニアの道から大きく外れて教職に就いた事での不安いっぱいの時期…
母親を失った後…寂しく不安だった時期…
家内の両親から一方的に婚約破棄の手紙を受けた後の時期…
その後の季節ごと・数年ごとに続いた、眠れない状態の日々…
そして、一ヶ月前から続いている、夜中目覚めて眠れなく始めた妄想から…

さて…以下が、その妄想結果である。
今回の妄想の始まりは、一年ぶりに読み返した
全集版「武道の理論」→「武道の復権」→「武道学綱要」の現在中途中…
この途中に何故か?「玄和の将軍」と「玄和の血潮」のテープが無性に聞きたくなり始め…
それらを、繰り返し聞き続けたら以下の歌詞への問い掛けからが生まれた。

「悟得への道 辿るうち」
「将への道にめざめたり」

何故に南郷継正は「悟得の道から将への道にめざめたのか?」
この問いへの解答過程が以下である。

将=将軍⇒征夷大将軍…国家の指導者…動物の脳細胞…単細胞の核…
私が求めている「悟りとは私自身の自由を求めての認識・頭脳活動…」

分かった…
南郷氏は「個人的な悟得への道」から「玄和会・組織的な悟りへの道(生成・発展への総括・統括の道)」に到達したのだろう…
悟りへの道とは、悟りとは何かを識る道=「悟り技を創る道」
悟得への道は、識った悟りを人生で駆使できるようする「悟りの技化の道」
確か…南郷氏の著書のどこかで「学・国家学」という文字を見た覚えが…
確か国家とは、国家の外側、缶詰の缶のようなモノ…詰められた中身は社会…
ならば、缶詰が単細胞なら、缶は細胞膜、中身が細胞質、中心が(細胞)核…
細胞核は国家の政府、細胞膜が国境、細胞質は経済……(何て…妄想)


細胞核は現象、細胞質は構造、本質は細胞核…

さて…今これから始める「世界観の物語」

~世界観と「いのちの歴史」神の物語~
世界⇔自然(世界観なし)、サルの時代は、世界⇔本能=生活できている・できるだろう自然の世界…
世界⇔指導者(世界観なし)初期のヒトは、本能的な指導者が連れて行ける場所が世界…
世界⇔自然→神々の世界、人々がイメージした神々の世界が自然の世界(神々の暮らしが人間に影響)
世界⇔神が創った世界・人間、神が創造した自然世界・神が創造した人間と世界。

ギリシャ時代から…神々の時代に「神の創出世界!」だけでは不満で、
「どのような神がどのような世界をとのように創出したか?」を問い始めた…
ローマ時代から…一人神=ローマ皇帝となれるような一神教へと…

神の存在を前提に世界を問うたのが哲学の「観念論」
哲学・観念論の完成形態が「⇔絶対精神⇔絶対概念⇔絶対理念⇔」の自己運動…
絶対精神の創出した世界・全体から部分・自然・社会・精神を考えるヘーゲル観念論。

現在の「唯物論」は、部分を唯物的・科学的に問うて部分から全体を考える。
世界観・絶対精神の世界がない「唯物論」…
南郷唯物論は、絶対精神の弁証法・自己運動性⇔自己の認識活動性へと求め…

モノ自体の運動性から実態かされたのが世界…
モノ自体の実態化世界を識る為に、個々の科学的知識・智慧を
「生々・生成・発展・衰退」な把握の為に、否定の否定、対立物の統一、相互浸透・量質転化…


南郷唯物論は、
南郷弁証法・重層弁証法を駆使して、
全ての科学的知識・智慧を総括・統括して、
過程的な世界像を己の観念内に構築し続けるモノ。

南郷世界観の始まりは、
モノ自体の運動性・弁証法の観念的な創出であり、
その時々の弁証法的な観念世界の創出である。

そこには
ヘーゲル絶対精神⇔モノ自体、
ヘーゲル絶対概念⇔自然・社会・精神の統括・統一的な南郷唯物論的絶対概念
ヘーゲル絶対理念⇔南郷唯物論的絶対概念の弁証法的変化・運動させた南郷唯物論的絶対理念。

悟りの構造―
宗教的な悟り―肉体・感情を刺激・通しての「心の悟り」
学問的な悟り―肉体・頭脳を刺激・通しての「頭の悟り」
南郷氏的な悟り―肉体・武道・空手を通しての「頭脳・身体的な悟得」

さてさて妄想もボチボチ限界であろうか…
そこで以下に私は、思う!考える!思惟!思索する事にした。

私の妄想に正当性がある…とするなら…もっとも…なくても以上のような
妄想可能な私はである私の妄想の根源的精神は、
今の私の生活・学校での子供・先生…達との関係性を非常に楽なモノにしている。
それは、私の気持ちが楽に…子供達も気持ちを崩さずに私の注意・話を聞いていてくれる。
また、他の先生達にも、以前よりずっと楽に話しかけられる私を感じる。

そうそう…私は、過去に南郷師範の御講義で四度質問している。

一度目は、東大生が師範にした脳についての質問・内容・論理が「腑に落ちなかった私」の質問。
結果は、師範の御怒りを頂戴して…
その場で「足が震えて」いる事を隣に座っていた仲間の私の足への視線で気付かされて。
師範に激怒され怒鳴られた~「お前の専門は何だ?」「そんな専門外の質問はするな!」

それ以後…日々頭に浮かぶ「問い掛け」を…師範に質問可能か否かの判断できず…悩みの日々であった。

二度目は、ある日ある時、ある場所の師範御講義で「技が軽いとは?」のような質問をしました。
その解答は、後で当時の練習ノートで確認。

三度目は、「人間は何故、人を好きになるのでしょうか?」
その時師範に「これは非常によい質問である」と言われた。

四度目は、
母親が亡くなって(当時は自覚不能な大きな不安)から…
忘れもしない…原稿用紙数枚に過去から現在まで書いて、
そして現在の私の状態(狂いそうな自分が怖い)になっている理由を問うたのです。
師範が一読後開口一番「え!~これ全部に答えるのか?」
私―「オス!最後の部分(本当に狂ってしまうの?)です。」
そして師範の答えは
「昔…父親の葬式であまり好きではなかった酒?を飲んで、好きになった…」(後で事実確認)
それは、何か大きな変化がある時、人は感情・好み…が激変する。
あと…「人が大志を抱いた時、体の感覚が変わる…」…そんなような事でした。
最後の方で「…人間は醜いモノ……」と言ったよう事を言われた。

以上の四つの質問を弁証法的論理で捉えると?…「今後の課題であろう」


もし仮に、以上のような私の妄想が正当であるなら…
その始まりは「武道の理論」を書き始めた南郷継正であり、
大学で松濤館空手をやっていた私と南郷継正の「武道の理論」との出会いであり、
悲しみ苦しんだ…大学時代以降の私の人生体験・経験であり、

南浦和・玄和会本部での実物の「南郷継正」との出会いであり…
中途挫折・退会で、出会った月刊「空手道」の誌面での「武道講義」との出会い…
あの時、強烈な想い「再び玄和会!南郷継正に!」…
しかし、実に不思議な事に、そんな中、突然のはがき、それは玄和会新宿支部へのお誘いである。

その時、思い出しました、大学時代に三一書房に「玄和会の場所を教えて」手紙を書いた事を。
でも…その返事が来なかったので、市谷の「東海堂?」に空手着を買いに行ったついで「玄和会の事を尋ねたら」確か…「岩?さんの電話番号」を教えてくれて南浦和道場へ入会した事…
そんな強烈な想いの時期に「新宿支部からのハガキ」…これって過去のあの手紙のお蔭…?


そんな玄和会も退会して何年経っただろう…
そろそろ…怖い現実社会での護身の為に、
再び「玄和会の武道・護身空手」を何て…想いを抱いているのだが…










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悟得びとが語る「絶対精神の物語」~

2021-11-15 19:09:18 | 悟得びと語り




絶対空間の中で、絶対精神は思った。
その絶対精神とは、絶対(概念理念)精神でもある。
「こんな絶対空間で一人じゃ寂しい!」…そして考えた。
「そうだ!肉体を持った仲間が欲しい!」
「みんなで絶対理念の世界を創ろう!」
そこで、絶対精神は、絶対理念に向かっての自己運動を開始する事にした。

先ずは、絶対精神の一部を実体化してモノ自体になった。
そこから、絶対自然概念となり、モノ自体を自然へと育てた。
更に、絶対社会概念で自然モノ自体を自然・社会モノ自体に育てた。
そこから、絶対精神を持った(絶対)精神ビトの誕生である。

この(絶対)精神ビトは、絶対・概念・理念…を知らない(唯の)絶対精神。


ここから始まる、
(絶対)精神ビト⇒絶対精神ビトへの道。
それは、(自分が絶対精神である事を識る道でもある


それは、絶対・精神・世界での生活の中で
(絶対)精神ビト⇒絶対精神ビト⇒

絶対・精神ビト⇒(自然の中)⇒絶対・自然概念精神ビト⇒絶対・自然理念精神ビト
絶対・自然理念・精神ビト⇒(社会の中)⇒絶対・自然社会概念・精神ビト⇒絶対・自然社会理念・精神ビト~
絶対・自然社会理念精神ビト(絶対精神の自己運動の中)⇒絶対・概念理念精神ビトへ~



(絶対)精神ビト⇒絶対精神ビト⇒絶対・自然社会理念精神ビト⇒絶対概念理念を内に秘めた=絶対精神人間~
やっと…ついに、絶対精神には、絶対精神と肉体を持った絶対精神人間・仲間ができた。
これは、言うなれば、絶対精神の絶対理念の実体化が人間であろう。

絶対精神ビトの絶対精神人間への道は、絶対精神⇒絶対概念⇒絶対理念への道。
絶対精神のヒトへの道は、絶対理念⇒絶対概念⇒絶対精神ビト。


ヘーゲル観念論・絶対精神の自己運動は、絶対理念⇒絶対概念⇒人間の精神
南郷学派の唯物論での人間の認識弁証法は、
自然⇒自然の絶対自然概念化⇒絶対自然理念へ…
社会⇒社会の絶対社会概念化⇒絶対社会理念へ…
精神⇒人間の認識の絶対精神概念化⇒認識の絶対精神理念へ…

この三つの対立物の統一が、人間・認識が絶対精神レベルの絶対理念となろう…





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悟得びとの語る「信じる」から始まる物語

2021-11-13 11:40:51 | 悟得びと語り
悟得びとの語る「信じる」から始まる物語


「信じる」の運動性とは、…

信じるとは「本当だと深く思い込む」(例解新国語辞書)…
これは、「本当か虚偽か」の確信(確かであるとかたく信じて疑わない事)がない。

さて…「信じる」の認識活動の始まりは、人間の頭脳・認識・観念内である。

文字で例えれば、今A氏とB氏がとC氏同じ「me」の文字を見て、
A氏は、「わたし」を「自分コト」を想像」し、
B氏は、「目」を想像し
C氏は、「わたし…誰の私?」「め・目・芽・女・雌…」?…何が何だか分からない!

そこへ来た子供が「英語だよ」といい…
また、別の子が「ローマ字だよ」と言った。


「ある物事」を信じる・ようとする時、
そのには「その物事」に」対して、不信感・本当だと深く思い込めない思いがある。

例えば、
ある母親の目の中に入れても痛くない最愛の子供が死んだとする。
彼女は、一心同体的な子供に二度と会えない事が信じられない。
それは、一心同体なら、私が生きていて息子が生きていない…のは嘘だ。

『息子は私・私は息子』が事実だと確信していた母親は、
『息子のいない世界は、私の世界でない』的な想い・現実が信じられない不信感から…
『眼前の全ての現実・事実を虚偽!』と信じ(ようとして)・確信に至る…のだろう。


生命体の誕生前の生命現象状態では、
何が何だか分からない…モヤモヤ・モクモク感があろう。
それは、生誕直後の赤子が、
母親の子宮内で世界から現実世界へ産み落とされ、
『訳も分からない・訳も分からない事もわからない…』状態なのだろう…
「何が何だか分からないのに、その何が何だか分からない状態も分からない」状態、


以前にあった「自己啓発セミナー」では、
特定の個人への否定的なコメント・批判の攻撃で、
その人の自信・誇りを打ち砕いて、
「何か何だか分からない・自信・誇りを失った事が分からない」状態へ…
己の「自信・誇り」に確信がある者なら、
傷つけられた自信・誇りの再構築は可能。
しかし、その「己の自信・誇りの源」を知らない者…
悲しいかな・嬉しいかな…そこから洗脳が始まる、のだろう。

それは、自分の目的意識に基づいた洗脳であれば、嬉しい喜ばしい新たな自己の誕生だろうが…。
しかし、それが自己の目的意識に反する洗脳なら、悲しいかな…新たな奴隷化への道だろう…


私は今思っている…
昨日の私、そして今日の私は、全てを疑う私であり、現実の全てを疑う私であった。

ここ数日間の私「何が何だか分からないのに、
何が何だか分からない事も分かっていない」私であった…。


それでも、私が私でなくても、
昨日の学校での私は、
過去の私以上に、的確な子供への働きかけができていたように思える。
その根拠は、子供達が笑顔で私の注意・指導に従っていたから…である。



過去の私を振り返るなら、そこにも、
その時々の世界・場所での拠り所を突然消失した事で大きな不安に襲われた私がいた。
それは、「生命現象状態」であり、
「何が何だか分からないのに何が何だか分からない事も分かっていない」状態の私であった。

一昨日が昨日まで「弁証法」的に落ち着き始めていた私は、
無謀な事に、今度は「いのちの歴史」の物語的に考え始めてしまった。




そこでの誕生した仮説は、「光とは電子の原子間移動の際に発生するエネルギー」である。

その根拠は、電気を通す水溶液と通さない水溶液があり、
コロイド溶液は、光を当てると溶液の中に光の通路・筋が見えるモノ。

コロイド粒子には、原子数が100から1000000000個含まれ、
通路が見えない溶液の粒子の原子数は、多くても1000個程度…

この事から考えて、光の通り道が見えないのは、原子不在の空間を電子が通過した?(仮説)
人間が電子の移動を光として認識するのは、原子の中の電子に外から電子がぶつかった時、その衝突でエネルギーが発生するからであり、それを人は「光エネルギー」として認識している(仮説)。


更なる仮説を、原子が「原子核と電子」なら「電子にも電子核・素粒子」があり、
光エネルギーとは、電子同士の衝突で、電子の中の素粒子の衝突破壊によって発生する化学エネルギー(仮説)?

猫が暗闇で見えるのは、人間に見えない素粒子の衝突エネルギーが見えるから?(仮説)
光の色は衝突した素粒子の違い?(仮説)

虹は七色…という事は、素粒子の衝突は数種類の衝突?(仮説)
電子は色々な素粒子が集まってできたモノ塊?(仮説)


猫が暗闇で見えるのは、人間に見えない素粒子の衝突エネルギーが見えるから?(仮説)
光の色は衝突した素粒子の違い?(仮説)


前仮説「光とは、電子の原子間移動の際に発生するエネルギー」である。
今仮説「光とは、原子内部電子とで外部電子の衝突で電子を構成している素粒子の衝突・破壊による発生するエネルギー」である。






上記のように認識・観念が弁証法的なり、頭脳が弁証法性を帯びると…
弁証法性とは、「生々・生成・発展・衰退・消滅」だから…
その時、その頭脳活動自体は「何が何だか分からない」状態である。
対象に対する頭脳活動は、「生々・生成・発展・衰退・消滅」だから…
その対象を自分自信の頭脳・活動・観念・認識に向けたら…
それが、ここ数日の私の頭脳活動である。

人の弁証法性は?と問えても…

弁証法自体を弁証法的に考えていた私の活動は、
「訳も分からないのに、その訳の分からない事が分からない」
「何が何だか分からない、その訳の分からない理由も分からない」

そこで、頭脳内で
「認識・観念的弁証法性像といのち歴史の認識・観念像」を
相互浸透的な対立物の統一の為に、
その場で目を閉じ深く・冷静に頭脳・観念像を生命現象的に活動させた結果、
非常に頭も心も落ち着き、今回の記述結果に到達した。

「我思う故に我あり」を、今私の言葉にするなら~
「私は、私を私だと信じ確信しようとする私の認識活動を信じている」

その方法として、
過去から現在まで、物心ついた子供時代から現在まで、常に殆ど、私は私と対話を続けている。
昨日も、私の独り言を家内に、それは「おかしい・変だ」と言われた。

その家内は、小声での私の独り言には、「何て言った?」と聞き返すのに、
私が家内に普通に話かけても、時々返事・反応しない…。

会話の筈が家内は無言で聞いている。
そんな時に私が「聞いていた?」と問うと、家内は「聞いていない!」と返答。
なら…「独り言と一緒じゃ!これも変?」と私が問うと~
家内は「相手がいるから変じゃない!」と返答。
そこで、私が「俺は俺に話している…だから相手がいて変じゃないじゃん!」…

家内の理屈・論理が「相手との対話は変じゃない」なら、
私の独り言は「私と俺の対話」であり…相手がいるから「変じゃない!」…


しかし…人前での大声の独り言は、常識的・普通に考えるなら「変な事」である。
その変な事が、普通の言動である。

一年生の児童は、突然に私に「○○…××…」と訳の分からない事を言ってくる。
聞き返してよく聞くと、その児童の思っていた事を傍の私に言ったのである。







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今日から俺は悟得びと!

2021-11-11 21:53:29 | 悟得びと語り
今日から俺は悟得びと!!!

今日は俺の悟り記念日!!!
今日は私の悟り記念日♪♪♪

今日から俺は悟りびと!!!
今日から私は悟りびと♪♪♪

今日から私は悟得びと♪♪♪


「悟り」とは~
心の弁証法・体の弁証法・頭の弁証法の重層弁証法…
心・体・頭の弁証法の三位一体的弁証法…

「悟得」とは~
心の弁証法・体の弁証法・頭の弁証法、三つの重層弁証法の駆使の連続状態。
心・体・頭の弁証法の三位一体的弁証法の駆使の連続状態。

「悟得びと」とは~
人間の性質を人間性とするなら、
「悟得びと」とは、その人間性の中身・内実が、
「心の弁証法・体の弁証法・頭の弁証法の重層弁証法の駆使の連続状態」化、
「心・体・頭の弁証法の三位一体的弁証法の駆使の連続状態」化したモノ…
この連続駆使に必要なのが「哲学」となろうか…

それは、法則の弁証法ではなく、モノ自体の性質である弁証法性が、
その人の頭の性質・心の性質・体の性質になった事であり、
人間性質を持った体である人間性体が弁証法性体化した状態と言えよう。


心の弁証法とは、心が、自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法を技化した…
体の弁証法とは、体が、自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法を技化した…
頭の弁証法とは、頭が、自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法を技化した…


「悟得びと」とは、
自然・社会・精神・心体・頭の弁証法の重層的一体的連続駆使的人間性を習得・修得・体得し得た「人間」
因みに、高校の数学では、「・」は「×(乗法)」と習いました(今・思い出しました)。


心の弁証法が、宗教的な悟り・悟得…
体・心の弁証法が、武道的な悟り・悟得…
頭・体の弁証法が、学問的な悟り・悟得…
頭・心・体の弁証法が、哲学的な悟り・悟得…






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