今回は以下の「問い」「答え」から始めよう♪♪♪
問い?「人類に自由はあるか?」
答え!「自分の思い通りにできる<自由はある>!」
でも…「自分の思い通りの結果を必ず得る事ができる(とは限らないから)<自由はない>!」
そもそも、このように「自由を考察」するのに…
自分の思い通りに思考した自由(概念・意味)から考察するのではなく…
辞書での「自由の意味」確認から始めている事自体が「不自由」であろう。
人が、目的もなく、その結果も考えず…
その時々の自分の思い通りに生き続ける自由はある。
でも…その人に個人的な目的が無くても、人類という生命体の存在理由・目的はある。
それは、誕生した生命体の「生き続ける運命・宿命・使命・天命」であろう!
人類には、自殺・自死する自由がある。
それは、他の生命体にはないモノであろう。
そもそも…人類以外の生命体には「自分の思い」はない!
あるのは「その種の本能の働き・命令」!
自死・自殺の自由がある人類が、
生命体として強く思うべき事は~
とにもかくにも、生き続ける事。
生存の為に必要なモノを必死に求め続ける行為・行動…
最大限・最長限に生き続ける為の自由な行為・行動の発揮であろう。
そう~人類は、その命が続く限り、可能な限り最大限に、自由に生き続ける為に、
必死にその為の自由な選択肢を追い求め続けているのだろう。
人には、その時々の自分勝手な その思い通りに 「生きる事ができる自由」はある。
しかし、その自由な行動様式の選択結果が、「生命体としての死という不自由」ともなり得る可能性がある。
ならば…人・人類は、
このような不自由の可能性ある自由の中の不自由削除の為に…
どのような努力を続けきているのだろう。
ここでは、上記のような、自由か不自由・不自由な自由の克服為に…以下のよう考えた
他の人類・生命体の存続の為の自己抹殺という思いからの「自死」の場合。
「自分が死にたい」思いの実行が、も他の生命体の命の存続になり得る場合。…
という思考・思惟…で解決可能なのだろう…
私の「自由の考察」場合は、
自分から辞書を調べた思いから、調べた考察なら「自由」。
他人からの強制で、辞書を調べ、調べたなら「不自由」。
結論から言えば、初めに「自分の思いが(できる自由)」あり、「思い通りの結果ではない(不自由)」がある。
ならば、ある結果を不自由と感じたなら、初めの「自分の思いを変更」すれば「自由」
例えば、ある実験・実践の結果が、思って・求めているモノとは違っていたら…
それは「思い通りの結果が得られず不自由」。
しかし、「失敗は成功の母」という結果と捉えたなら、
「成功の為の過程的な結果」が得られた。
または、自分の思い通りではない(不自由)では、なくても、
それは自分の思い・結果への道の過程・道のり(未自由)、ともなり得る(考えられる・捉えられる)。
人類にとっての、自由も不自由は、全ては「その自分の思い方」次第でろう。
初めに「自分の思い」があり、そこから「自由・不自由」が始まる。
ブログ当初に感じていた
私の「窮屈いっぱいの現代社会」…「不自由」感…は
全て私の「自分の思い」を変える事で、不自由から自由へ変換可能なモノ…
ただ、その結果、その思い変換の結果のストレスで寿命を縮めたなら「不自由」なのだろうが…
ならば…どうする?!
それこそが人類の「学問・哲学・宗教」の存在理由であろう~
問い?「人類に自由はあるか?」
答え!「自分の思い通りにできる<自由はある>!」
でも…「自分の思い通りの結果を必ず得る事ができる(とは限らないから)<自由はない>!」
そもそも、このように「自由を考察」するのに…
自分の思い通りに思考した自由(概念・意味)から考察するのではなく…
辞書での「自由の意味」確認から始めている事自体が「不自由」であろう。
人が、目的もなく、その結果も考えず…
その時々の自分の思い通りに生き続ける自由はある。
でも…その人に個人的な目的が無くても、人類という生命体の存在理由・目的はある。
それは、誕生した生命体の「生き続ける運命・宿命・使命・天命」であろう!
人類には、自殺・自死する自由がある。
それは、他の生命体にはないモノであろう。
そもそも…人類以外の生命体には「自分の思い」はない!
あるのは「その種の本能の働き・命令」!
自死・自殺の自由がある人類が、
生命体として強く思うべき事は~
とにもかくにも、生き続ける事。
生存の為に必要なモノを必死に求め続ける行為・行動…
最大限・最長限に生き続ける為の自由な行為・行動の発揮であろう。
そう~人類は、その命が続く限り、可能な限り最大限に、自由に生き続ける為に、
必死にその為の自由な選択肢を追い求め続けているのだろう。
人には、その時々の自分勝手な その思い通りに 「生きる事ができる自由」はある。
しかし、その自由な行動様式の選択結果が、「生命体としての死という不自由」ともなり得る可能性がある。
ならば…人・人類は、
このような不自由の可能性ある自由の中の不自由削除の為に…
どのような努力を続けきているのだろう。
ここでは、上記のような、自由か不自由・不自由な自由の克服為に…以下のよう考えた
他の人類・生命体の存続の為の自己抹殺という思いからの「自死」の場合。
「自分が死にたい」思いの実行が、も他の生命体の命の存続になり得る場合。…
という思考・思惟…で解決可能なのだろう…
私の「自由の考察」場合は、
自分から辞書を調べた思いから、調べた考察なら「自由」。
他人からの強制で、辞書を調べ、調べたなら「不自由」。
結論から言えば、初めに「自分の思いが(できる自由)」あり、「思い通りの結果ではない(不自由)」がある。
ならば、ある結果を不自由と感じたなら、初めの「自分の思いを変更」すれば「自由」
例えば、ある実験・実践の結果が、思って・求めているモノとは違っていたら…
それは「思い通りの結果が得られず不自由」。
しかし、「失敗は成功の母」という結果と捉えたなら、
「成功の為の過程的な結果」が得られた。
または、自分の思い通りではない(不自由)では、なくても、
それは自分の思い・結果への道の過程・道のり(未自由)、ともなり得る(考えられる・捉えられる)。
人類にとっての、自由も不自由は、全ては「その自分の思い方」次第でろう。
初めに「自分の思い」があり、そこから「自由・不自由」が始まる。
ブログ当初に感じていた
私の「窮屈いっぱいの現代社会」…「不自由」感…は
全て私の「自分の思い」を変える事で、不自由から自由へ変換可能なモノ…
ただ、その結果、その思い変換の結果のストレスで寿命を縮めたなら「不自由」なのだろうが…
ならば…どうする?!
それこそが人類の「学問・哲学・宗教」の存在理由であろう~