顕信の出家。
長和元(1012)年
彰子に顕信の出家を伝えます。事情を話す頼通。
明子は放心状態。「顕信にあたたかい衣をたくさん届けてくださいませ。」と俊賢に頼みます。
三条天皇は、妍子中宮にすると。
一月後、娍子 を皇后とすると。
道長が、かつて行った「一帝二后」をまねた格好です。
三条天皇の道長に対する反発精神は、なかなか凄いです。
道長の元にいつもの面々が集まります。
俊賢が、立后に中宮の内裏参入をぶつけ、帝と左大臣、どちらにつくか選ばせてはどうかと提案します。
帝は、同じ日のうち、昼と夜にわけると言い出します。
内裏参入は夜。立后は昼。
立后と内裏参入の様子は、全然違っていましたね。
どうしても、道長のことを誰もが考慮して、立后には、参加せず。
中宮の内裏参入は、大盛り上がり。
三条天皇は、妍子のもとには、なかなか渡りませんでした。
妍子が、宴をしているからという理由でしたが。
いわゆる悪循環です。
妍子と彰子、姉妹なのに、性格は全然違うようですね。
道長は、まひろに、「源氏物語は役にたたぬ。」と愚痴をこぼします。
「人は物語のようには、いきませぬ。」とまひろ。
まひろが書いた物には、「雲隠」と書かれています。
光源氏死すということなのでしょう。
体調を崩す道長。
まひろは帰宅。
双寿丸が、毎日来ているようです。
心配するいとに対して、まひろは、双寿丸に寛容の様子。
不思議な気がします。
道長が病に倒れます。
帝に辞表を提出。返すのが先例とか。
皇太后が、道長の元へ。
「皇太后様は、信じた道をいきなされ。」と穆子。まだ健在なのですね。当時の平均寿命を考えると驚きです。
道長の病をきっかけに、内裏には、怪文書が出回ります。
誰が発端だったのでしょう。
ききょうは、「人の心が、すさんでいるからでしょう。」「左大臣様のお命は、長くは、もちますまい。」
賢子は、まひろに、「母上は、もう書かないのですか。」
まひろは、「源氏物語は、終わったの。」
賢子は、「書かない母上は、母上ではないみたい。」
百舌彦が、まひろのところへ、道長のかげんが悪いことを伝えます。
まひろは、療養中の道長のところへ。
宇治の川辺で語り合う二人。
道長、元気なのでは?
「早めに終わった方が楽だというおまえの言葉がわかった。」と弱気発言。
「おまえは、俺より先に死んではならぬ。」
「なら、道長様も生きてくださいませ。」
まるで夫婦の会話のようです。お互いに思い合いながら、夫婦となれなかったからでしょうか。
まひろは、光る君がお隠れになったあとの物語を書きます。
源氏物語って、光源氏が亡き後も描かれるのでしたっけ?
古典のことは、すっかり忘れてしまい、どうだったのかも忘れてしまいました。
最初の方は、現代語訳を読んだのですが。
このドラマ、いつまでを描くのでしょうか。そのことが気になり始めています。
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