大いなる助走 米長邦雄vs中原誠 1993年 第51期名人戦 第2局

2023年06月13日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回に続いて、30年後藤井聡太七冠が目指す「最年長名人」の話。

 1994年の第51期名人戦は、初戦で挑戦者の米長邦雄九段が、中原誠名人に大逆転で先勝。 

 続く第2局は、両者得意の「相矢倉」になったが、この将棋の米長が実にすばらしかった。

 先手のスズメ刺しに、後手は△22銀と引く「菊水矢倉」の形で受ける。

 これが中原が得意とする陣形で、なかなか突きくずすのはむずかしいのだが、米長はまず穴熊に組み替えて様子を見る。

 これが時代を先取った思想であり、平成の世でで幅を利かせる(そして令和ではやや見直しを迫られる)ことになる、とにかく固めて、その守備力にまかせてバリバリ攻めようという意図だ。

 中原はそうはさせじとから逆襲し、むかえたこの局面。

 

 

 

 

 ここで△13香と打つのがではおなじみの切り返しで、飛車が死んでいる。

 先手が困っているようだが「ニュースタイル」の米長邦雄にとって、それは待ち受けるところだった。

 

 

 

 

 

 ▲13同飛成、△同銀、▲45歩

 バッサリ飛車を切るのが気風のいい手。

 一瞬、飛車香交換で大損だが、自玉は無敵▲45も大きく、実は先手が指せるのだ。

 後手は△49飛と攻防に効かすが、銀を見捨てて▲44香とこじ開けに行く。

 △同金▲同歩△48飛成の局面はなんと飛車損だが、かまわず▲43金と打ちこんで、△同金▲同歩成△同竜▲44歩△同銀▲45歩とたたく。

 

 

 

 

 かなり細い攻めに見えるが、自陣が無敵なのだから、つながってさえしまえば、後はどうとでもなる。

 まさに「穴熊の暴力」であり、打たれっぱなしの後手からすれば陣形の差がいかんともしがたく、竜が責められる駒になっているのもツラい。

 平成の将棋で山ほど見る先手からの「固い攻めてる切れない」の「後手番ノーチャンス」な形で▲45歩△同銀▲同桂ではなく、一回▲44歩を入れてから、△同竜▲45桂と取るのが会心の手順。

 

 

 

 

 ▲45歩△同銀に単に▲同桂△同竜なら▲46香の田楽刺しが決まるが、あえて桂を取らずに△44銀が「桂頭の銀」の手筋でねばり強く、存外二の矢がない。

 

 

 その空間を埋める▲44歩のタタきが「敵の打ちたいところに打て」の良いリズムで、いつでも▲13角成の筋もあるなどで、この攻めは切れない。

 中原は泣きの涙で△43金と埋めるが、▲47香がきびしい追撃。

 △32銀と必死のねばりにも、そこで▲59角と引くのが気持ち良すぎるさばき。

 

 

 

 次に▲26角と出るのが、あまりにピッタリだ。

 後手は△35歩と抵抗するも、そこで▲46金が重厚な決め手。

 

 

 


 この重戦車による押しつぶしには、さしもの中原もたまらずダウン。

 このあたり「序盤研究」でリードを奪い、その差をキープから拡大して勝つという「ニュー米長邦雄」の強みが、これでもかと発揮されている。

 不利な将棋を「泥沼流」の終盤力でねじ伏せていた男が、ここまでスタイルを反転させるのも、めずらしいのではあるまいか。

 「本気で勝ちに行く」とは、つまるところ、こういうことなのであろう。

 以下、勝勢の局面でもじっくりと腰を落として、米長が快勝

 これで2-0となったが、雰囲気的には「米長奪取」が濃厚となっていた。

 もちろん、開幕2連勝から逆転するなどよくあるというか、なにを隠そう米長自身が名人戦で、中原相手に2度喰らっているが、今回はちと違うと思わせた。

 なんというか、今シリーズの米長邦雄は強い

 これまでのような、名人を意識しすぎておかしくなるようなこともなく、また自慢の研究も行き届いており、中原必殺の相掛かり矢倉を、完全に照準にとらえている感じなのだ。

 その通り、第3局ではまたも中原の相掛かり完勝

 これでリーチがかかり、いよいよ多くの人が待ち望んだ「米長邦雄名人」が決定的となってきたのだった。

 

 (続く

 

 

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All You Need Is Kill 米長邦雄vs中原誠 1993年 第51期名人戦 第1局

2023年06月12日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回に続いて、30年後藤井聡太七冠が目指す「最年長名人」の話。

 勢いの良い将棋でA級順位戦を制し、通算7度目名人挑戦を果たした1994年の米長邦雄九段

 七番勝負で待ち受けるのは、過去5度ここで敗れた中原誠名人

 おそらくはこの両者による最後の名人戦と周囲も感じており、その意味でも見ておきたい戦いだった。

 観戦者の多くが、

 

 「一度くらいは……」

 

 と感じており、その想いは今なら、なかなかタイトルを取れずに苦しんでいた木村一基九段の戦いぶりを観ているときの感覚に近かったろう。

 第1局。先手番になった中原が、得意の「中原流相掛かり」で挑む。

 中原の相掛かりは、指しこなすのがむずかしいせいかマネする人が少なく、主力にしているのは中座真七段岡崎洋七段くらいだが、これが本家が指すと無類の強さを発揮するという不思議な戦法。

 米長も当然この戦型攻略にマトをしぼっており、開口一番で登場したのは意外だったそうだが、研究を深めていた自信もあって、堂々と受けることに。

 

 

 

 ところがここでは、中原の経験値センスが上回っていたようで、▲56飛と展開し、▲77桂▲37桂と両の投げナイフをジャグリングしながら、中央に襲いかかろうとする。

 それを受ければ▲55飛と浮いて、▲77桂から▲85飛と軽やかに転換し交換をせまる。

 「中原囲い」は飛車に強いから、その要求はのめない。

 拒否するには、△83金と重い形を選ばざるを得ず、そこで今度は▲15歩、△同歩、▲13歩と、反対側のから手をつける。

 

 

 

 パッと見ただけでも、先手から軽快な小技が、次々ヒットしているのがわかる。

 元の戦型に横歩取りの感覚をミックスし、さらには「ひねり飛車」も取り入れて、空中戦なのにまで固いという、まさに

 

 「ぼくのかんがえた、さいきょうのあいがかり」

 

 そこからも1筋から3筋まで飛車をぶん回して、▲35香と打ったところでは早くも先手勝勢

 

 

 

 

 次に▲33飛成からのラッシュを見せ、それを受ければヒラリ▲14飛金銀田楽刺しになり「オワ」。

 なんという、あざやかな演舞なのか。

 のちに渡辺明九段も学んだ盤面を大きく使った発想で、中原会心の指し回しである。

 ここから順当にまとめていれば、この将棋は「中原流相掛かり」の傑作局になっただけでなく、この七番勝負の行方もまたちがったものになったろうが、なぜかここから失速してしまう。

 

 

 

 ここで▲41竜から追っていったが、▲63銀と打てば後手玉に受けはなく、先手が勝ちだった。

 問題は、銀打に△88飛成と取って、▲同銀△66桂と打って詰むかどうかだが、これには▲49玉と逃げて、△27角▲38飛と合駒すれば、きわどいながら詰みはない。

 

 

 米長の解説によると、△27角飛車の代わりにを合駒できれば、より安全に勝てるから、それを確保するために▲41竜としたのだろうということだが、ここから中原の寄せが迷走しはじめる。

 

 

 「王手は追う手」の典型的な形のようで、シロウトの私でも筋が悪い攻めなのがわかる。

 ここまで完璧だったパンチが、ここへ来てなぜか完全に急所をはずしており、玉を上部に脱出されては失敗の巻だ。

 

 

 

 最終盤、△26桂と打ったのが決め手で後手玉に寄りはなく、米長が開幕局を制する。

 名人からすればイヤな負け方だったが、まだ初戦だし、米長は名人戦となると意識しすぎてヨレてしまうことも多い。

 勝負はこれからだと思いきや、シリーズはここから急転直下で「新名人誕生」に進んでいくことになる。
 

 

 (続く

 

 

 

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バルバロッサ作戦 1993年 第51期A級順位戦 「史上最年長名人」への道 その4

2023年06月09日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回に続いて、30年後藤井聡太七冠が目指す「最年長名人」の話。

 「米長道場」で若手棋士と研鑽に励み、自身の弱点であった序盤戦術を磨くことによって、あざやかなモデルチェンジを果たした米長邦雄九段

 その果実が実ったのが1990年王将獲得で、1986年十段(今の竜王)以来のタイトルホルダーに返り咲きを果たした。

 そしてとうとう、1993年の第51期名人戦で、悲願だった名人獲得までダッシュを見せる。

 この期の米長は七番勝負だけでなく、その挑戦権を決めるA級リーグでも抜群の強さを見せたため、ここで少し取り上げてみたい。

 まず初戦の相手は谷川浩司棋聖王将で、相矢倉からむかえたこの局面。

 

 

 

 ▲45銀の特攻が第一感だが、敵がもっとも固めていることろをガリガリやっていくのは、少々率が悪く見える。

 ここで米長は「大人やなあ」と感嘆したくなる1手を見せてくれるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ジッと▲25歩と取るのが、いかにも強い人という落ち着いた1手。

 これで次に▲24歩と突き出せば、▲41角▲28飛で玉頭をねらい撃ちして寄り形。

 かといって△23歩と受けても、▲24歩、△同歩、▲25歩、△同歩、▲24歩ツギ歩攻めで受けになってない。

 

 

 また△69銀の反撃にも▲28飛が幸便。

 

 

 ものすごく地味な手だが、「あー、強いなあ」と、ため息の出る指しまわしで、

 

 「今期の米長は行くかも」


 
 そう思わせるに十分な内容となっている。

 その予想通り、米長は難関であるA級リーグを快刀乱麻の勢いで突破していく。

 有吉道夫九段塚田泰明八段高橋道雄九段田丸昇八段田中寅彦八段といった面々をなで斬りにし、大山康晴十五世名人の死去による不戦勝もあって、7連勝と独走。

 これは全勝挑戦もあるかと注目を集めたが、勝てば早くも挑戦者決定という第8戦小林健二八段との一戦に敗れ、ちょっと雲行きが怪しくなる。

 それは最終戦で、2敗をキープし追走する南芳一九段との直接対決が待っているからで、そこを落とすと再度、南とプレーオフということになってしまう。

 その意味では痛い負けだったが、ただ米長から言わせるとこの将棋は

 


 「今期の順位戦の代表作である」


 

 それがこの図で、小林の四間飛車に米長は急戦で挑むも、ここでは先手がハッキリと苦しい。

 

 

 


 だが、ここで見せた踏ん張りが、

 


 「終生忘れられない一着であろう」


 

 と回想(米長はこういうとき大げさな言い回しをしがち)するものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ▲99飛が「最高傑作」と本人も自賛する自陣飛車。

 これ自体は苦しい手で、またここから形勢が好転するわけでもないのだが、小林が、

 


 「頭がおかしくなりました」


 

 というような、まさに「泥沼流」のねばりであった。

 敗れはしたが、たしかに「米長邦雄健在」という意志は示せたわけで、決して流れを失うような内容ではなかったことは大きかった。

 むかえた最終戦も、米長はそのままの勢いで、どんどん指し進める。

 

 

 

 

 双方、得意の相矢倉にガッチリと組み合うが、ここで飛び出すのが控室の評判も悪く、本人も「悪手」と認める指しすぎの手。

 

 

 

 

 △45歩と突くのが、おどろきの一着。

 まだ自陣の整備も完璧ではなく、むしろこの後は先手から▲45歩と仕掛けそうなところを、掟破りの逆バンジーで飛びこんでいく。

 筋はまったく通っていないが、その「非論理性」こそがこの手の、いや米長将棋の根幹をなす魅力でもあり、本人も言うよう、まさに「会心の悪手」であった。

 この将棋は終盤もお見事だった。

 

 

 

 

 図は▲64金を取ったところ。

 すでに後手勝勢だが、先手から▲11飛成をゆるすと逆転してしまう。

 そこで、次の手が決め手となるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 △17歩が、盤上この一手ともいえるトドメの一発。

 ▲17同銀とは死んでも取れないから(でも、たぶんそれが最善手)、▲同飛だが、△69銀、▲同玉、△67金必至

 小林戦のせいで、一瞬もたついたように見えたが、終わってみれば8勝1敗のぶっちぎりで挑戦権獲得

 スコアのみならず、内容的にも洗練度と「泥沼流」がうまく融合した、勢いある将棋に仕上がっており、いよいよ「Xデー」の予感も高まるが、相手はここで5度敗れている中原誠でもある。

 そんな簡単にいくのかと、何度も期待を裏切られてきたファンは感じたかもしれないが、意外なことにこのシリーズはあっけないほど偏ったものになってしまうのだった。

 

 (続く

 

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「横歩も取れない男に負けては、御先祖様に申し訳ない」 米長邦雄vs南芳一 1990年 第40期王将戦

2023年06月06日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回に続いて、30年後藤井聡太七冠が目指す「最年長名人」の話。

 年齢によるおとろえと、すでに名人を獲得している谷川浩司や、高橋道雄中村修といった「花の55年組」の若手を相手に、タイトル戦などで苦戦を強いられることに悩まされていた1980年代なかばの米長邦雄九段

 その対策として、まだ20歳くらいだった森下卓五段に「弟子入り」を画策し、なんとかゆるされることとなる。

 こうして、なんとか「若い血」に近づけた米長は、その後自宅の横に「米長道場」を作って、若手棋士たちと研鑽に励む。

 「塾長」森下をはじめ、羽生善治佐藤康光森内俊之に奨励会時代の郷田真隆も参加し、丸山忠久中川大輔藤井猛深浦康市行方尚史佐藤紳哉なども常連だったというから、まさに梁山泊のような場所。

 そこで米長は若手棋士たちと食事をし、その「帝王学」を伝授しながら、主に彼らが日々研究している序盤戦術を吸収していった。

 その成果が出たのが、1990年の第40期王将戦

 当時は高橋道雄と並んで「最強」と称された南芳一王将から、1勝3敗からの3連勝という逆転で奪取し、久しぶりのタイトル獲得を果たしたのだ。

 このシリーズは米長によるマイクパフォーマンスが有名で、開幕前に、

 


  「横歩も取れない男に負けては、ご先祖様に申し訳ない」


 

 「横歩も取れない男」とは当然、対戦相手ののことで、相矢倉を得意とする南に対して

 

 「横歩取りでやろうぜ!」

 

 と盤外から挑発

 これは単なるリップサービスではなく、このときの米長は南対策として、先手番なら「角換わり腰掛け銀」で戦うつもりだった。

 弟子であり「米長道場」の主要メンバーである中川大輔五段と徹底的に研究していたのだが、では後手番はどうしたものか。

 おそらく相矢倉は分が悪いと感じていたのだろう、ならなんとかの戦型、たとえば横歩取りなんかどうだろう。

 だが、南は横歩取りを指さない。なら、一発カマして無理にでも取らせてしまえということで、そこまで思慮に入れての「挑発」だったわけだ。

 南もおどろいたことだろうが、もっとおどろいたのが、南が本当に横歩を取ったこと。しかも2回も。

 

  

1990年の第40期王将戦七番勝負の第2局。
「横歩も取れない男」南芳一が「取れるっちゅうねん!」とやり返して空中戦に突入。
桂馬が4枚飛び交う乱戦で、こういう将棋は重厚な「地蔵流」には向かないとの米長のねらいだったろうが、熱戦を制したのは南だった。

 

 

 おとなしいタイプの南は、こんなスタンドプレイのようなやり取りなど無視するのかと思いきや、空気を読んだか、それともそもそも横歩取りも自信があったのか、果敢に▲34飛と取っていく。

 結果的にはこの戦型で1勝1敗となったが、腰が重く負かしにくい南を相手に、後手番を自分の土俵で戦えたという意味では成功と言っていいのではないか。

 また、第6局で見せた米長の指しまわしが、勢いのある好局でそちらでも話題をさらった。

 

 

 

 図は南が▲16角と打って、飛車をねらっていったところ。

 ここは△24飛とぶつけても後手充分だったが、そんな平凡な手では「ご先祖様」に申し訳なかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 △37飛成、▲同銀、△45桂が過激な踏みこみ。

 ここで飛車を切るのは正確には疑問手で、米長も当然それはわかっていたのだが、それでも行くのが「米長の将棋」。

 とにかくこの人は

 

 「ここはこう指してくれたら、盛り上がるのになあ」

 

 

 という手をことごとく選んでくれるのだから、そらみんな魅了されます。

 結果、この勢いが通ってフルセットに持ちこむことに成功。第7局も制して、見事に王将を獲得した。

 振り返ると、この王将戦は南リードのスコアと比べて、どこか終始、米長のペースで進んでいた印象がある。

 米長の弟子である先崎学五段によると、このシリーズは完全に米長の序盤研究が南より勝っており、終盤に行く前に決着がついてしまうケースが多々見られたという。

 その象徴のような将棋が最終局で、こちらの図。

 

 

 

 この▲29飛と引いたところで、専門的には後手が勝てない形だと。

 南の棒銀をねらい撃ちしたような陣形で、次に▲48玉と上がる姿が美しすぎるのだ。

 後手が攻めるなら△95歩からだが、まるで地球の裏側で起こったもめごとのようで、とても右辺まで火の手が回ってくるようには見えない。

 ちなみに米長は、先手番の角換わりを避けられたときの対策もしっかり用意してあったそうだから、米長道場のメンバーによる「南包囲網」は、おそろしいほどに仕上がっていた。

 見事な作戦勝ちで、まさしく「教えを請うた」ことがハッキリ良いほうに出たわけだが、ただこの局面を見て「うーん」と声を上げたオールドファンもいたよう。

 そう、たしかにこのシリーズの米長が見せた序盤戦術は、きれいにヒットした。

 だがそれは同時に、米長将棋の魅力を減速させてのものだったからだ。

 米長邦雄と言えば、「序盤の2ヘタ」と呼ばれるほど、大らかな序盤戦が特徴で、今でいえば広瀬章人八段のようなイメージか。

 それが、もうひとりの「ヘタ」である谷川浩司九段と同じく、そのちょっと不利くらいの局面から、独特の悪力や超人的な終盤力でまくりを決めてしまう。

 それこそ「泥沼流」が人気を呼んだ秘訣であり、そこは佐藤康光九段と同じく『米長の将棋』をバイブルとする私にも、共感できるところはある。

 実際、先崎も最終局の様子をこう書いている。

 


 「なんだか推理小説を読んでいて、途中で犯人が分かってしまった気分」


 

 応援している師匠が勝利という、結果が早くにわかってうれしい反面、「その過程」を楽しむことができなかったと。

 たしかに、その通りであり「序盤巧者」になるということは、「勝ちやすい」代わりに、こういう声とも向き合わなくてはならないのだ。

 それこそ、たとえば山崎隆之八段がその独自性を捨て、角換わりや相掛かりの最新型を駆使し「定跡型の将棋」にシフトしてタイトルを取ったら、

 

 「結果はうれしいけど、山ちゃん変わっちゃったなあ……」

 

 なんて複雑な気分になるにちがいない。

 このあたり、今のAIによる序盤研究の進化による反応とも似たようなところがあり、こればっかりは将棋に限らずなところもあって「まー、しゃーないわな」としか言いようがないのだろう。

 ただ、結果的に見ればこのモデルチェンジは功を奏し、ハッキリ言えばこうしなければ後の「米長名人」はなかったろう。

 「泥沼流」封印はさみしいが、

 

 「その批判を覚悟してでも勝ちに行く」

 

 という姿勢自体はプロフェッショナルとして賞賛すべきところでもあり、「結果を出す」というのは、単に努力だけでなく、もっといろいろなものを犠牲にしたところに成り立っていたりするのだなあ。

 

 (続く

 

 

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米長邦雄「大トガリ時代」の森下卓に弟子入りす 「史上最年長名人」への道 その2

2023年06月03日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回に続いて、30年後藤井聡太七冠が目指す「最年長名人」の話。

 過去6度名人戦に登場しながら、そのことごとくを敗れてきた米長邦雄九段

 

 「名人は神様に選ばれた者だけがなれる」

 

 という昭和将棋界の神話に、まさか自分が足を取られるとは思わず、単に勝てないだけでなく、

 

 「自分は選ばれし者ではないかもしれない」

 

 という苦悩にも、さいなまれることに。

 四冠王にまでなった男が「自分は凡人では」という妄想とも戦わなければならないのだから、勝負の世界というのはきびしいものだ。

 米長自身の筆によると、名人になれないこともさることながら、40歳近くになるころから、力がおとろえてきたことも悩みのタネだった。

 自分がずっと取れない名人21歳で獲得し「史上最年少名人」になった谷川浩司をはじめ、特に高橋道雄中村修南芳一といった「花の55年組」の若い感性が、棋界を席巻してきたのには危機感を感じたよう。

 そこで米長は対策として、さらに若い血を取りこもうと画策する。

 当時は羽生善治をはじめとする、佐藤康光森内俊之郷田真隆らがデビュー後すぐ暴れまわったり、まだ奨励会員でも、その評判がすでにとどろいたりしていたころだった。

 これには古参の棋士や評論家が困惑し、おどろくと同時に、

 

 「強いことは強いが、人間味がなくてつまらない」

 「彼らが勝つのは、将棋を【テレビゲーム感覚】で指しているからだ」

 「飲む打つ買うをやらないから、長く活躍できないだろう」

 

 などという、今見ればというか、当時からしてもトホホというか類型的すぎるというか、もうしわけないが

 

 「変化についていけず、新時代に取り残されることにおびえる人々」

 

 の分析が幅を利かしていた(の「評論家」もお気をつけあれ)。

 まあ人というのは

 

 「新しいものに自分の既得権が奪われる」

 

 というとき、ムキになっておかしなことを言い出すというのは歴史的パターンのひとつであり(学校で習った「ラッダイト運動」というやつですね)、それは将棋ソフトが登場したときも意味がないとか、価値がないとか、魂がないとか、ただの暗記ゲームとか、

 

 「人って、こうやって同じことをくり返していくんやなあ」

 

 とも感じたもので、もうしわけないが苦笑を禁じえなかった。

 もちろん、人はみな同じ穴のムジナだから、そこを責めるのはどこまで言っても「天に唾」だけど、年齢を重ねた今でも私が「大人の分析」というものが、いまひとつ信じられないのに、この昭和将棋界(今も?)の「醜態」を見たことは大きかった。

 そんな、自分の心を守る近視眼的「分析」に皆が血道を上げる中、米長邦雄の態度は少し違った。こう考えたのだ。

 今の若者は文句なく強い

 なら、自分が強くなるためには、教えを乞うべきではないか。

 米長ほどの大棋士が、どれだけの想いでそう結論付けたのかは不明だが、この意見は原則的にはたぶん「正しい」ものの感情的には「受け入れがたい」ものであることは想像できる。

 

 「プライド」「頭を下げる恥ずかしさ」「間違いや時代錯誤を認めたくない心理」

 

 こういったものが邪魔するせいで(わが身に照らし合わせても痛い記憶の数々が……)、人は愚かでなくとも「論理的」には考えられないし「正しい」行動はとれないのだ。

 現に、若手棋士の将棋に学ぼうという態度に、

 

 「ヨネさんは媚びている」

 「大御所のアンタがそんなんでは困る。ガツンと言ってやらんと、若いのが増長する」

 

 怒られたり、イヤミを言われたりしたそうだが、米長からすれば、

 

 「アンタら、そうやってイバってるけど現に若手と戦ったら、まったく歯が立たずにコロコロやられてますやん」

 

 それを「オレは先輩だ、尊敬して頭を下げろ。負けてるけど」なんて肩で風を切って歩くなど、滑稽きわまりないぞと。

 のちの「米長邦雄会長」と同一人物とは思えない明晰な態度で、自身の考えに間違いはないと確信した米長は、まず若手のリーダー格である森下卓五段に研究会に入れてくれるよう頼む。

 ここからは有名なエピソードだが、米長は当然のこと、二つ返事で参加OKがもらえると確信していた。

 これは決して傲慢ではない。米長はすでにタイトル17期でバリバリのA級棋士

 いわば「歴史に残る」ことが決定した、レジェンドなのである。

 そんなスターが「仲間に入りたそうにしている」なら普通はだれだって大歓迎

 それこそ今でいうなら「打倒藤井聡太」のために渡辺明九段伊藤匠五段の元にやってくるようなものだが、このときまだ20歳くらいだった森下の回答が振るっていた。

 


 「すぐには決定できません」


 

 まさかのいったん持ち帰りに、米長は「へ?」と動きも止まってしまった。

 そこに若き日の森下青年は、

 


 「研究会の参加には条件が2つあるからです。ひとつは自分たちより将棋が強いこと。もうひとつは、将棋に対して情熱があることです」


 

 今では「まっすー」こと増田康宏六段がデビューして間もないころ、

 


 「矢倉は終わった」

 「詰将棋は意味ない」



 
 などと発言して物議を醸していたが、その師匠の若いころは輪をかけて過激だった。

 いわば、新入社員が幹部クラスを「審査」すると。

 その勢いに感心すると同時に、「ヤベぇ、落ちるかも」とビビりもした米長は正面突破はむずかしいと、食事をおごるなど「からめ手」で攻めることに。

 この姿勢が「謙虚でいい」(!)ということで、なんとか入会をゆるされるが、森下のトガりっぷりがいっそさわやかで、私はこのエピソードが大好きである。

 単に態度が悪かったり失礼なだけなど論外だが、実力情熱に自信を持ち、先輩だろうがしっかり自分の意見を通す姿勢は将棋にかぎらず大事だろう。

 実際、別のA級経験もあるトップ棋士が、若手の研究会に入れてほしいと申し出たところ、

 

 「(われわれと)力のちがう人はちょっと……」

 

 マジで入会を断られたという、まことしやかな噂があったりしたのだから、まったく当時の若者の自意識実力はオソロシイものであった。

 

 (続く

 

 

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「史上最年長」名人への道 米長邦雄vs中原誠 1993年 第51期名人戦

2023年06月02日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 「藤井聡太名人」が誕生した。

 六冠目となった棋王戦に続いて、ここ名人戦でも渡辺明名人を破っての奪取劇。

 これで史上最年少の「名人」と「七冠王」の2枚抜きを決め、谷川浩司羽生善治の大記録をともに更新したのだから、もうただただ賞賛しかありません。

 こうなると前人未到の「八冠王」まで行ってほしいもので、あとは王座戦

 一発勝負の予選は100パーとは言えないけど、挑戦者になれば番勝負で彼に勝ち越すのは、まずムリゲーということで相当に有力であろう。

 あと、こうなると、関心はもう今の記録もさることながら、

 

 「今後、この強さがどこまで続くか」

 

 ということになってくる。

 通算勝利数は2000勝行ける? 「永世八冠」は? 歳を重ね、おとろえが見えたとき、彼はどんな将棋を指すのか。

 そこで今回から、ちょっと気は早いが、藤井聡太七冠王が30年後に挑むこととなるかもしれない「最年長名人」について語ってみることとしたい。

 


 

 「米長邦雄名人」が誕生したときほど、「悲願の」という言葉が似合う出来事はなかった。

 将棋にかぎらず勝負の世界には、実力はだれもが認めながら、なぜか「どうしても取れない」タイトルというのがある。
 
 私は将棋と同様にテニスが好きだが、かつてのチャンピオンであるイワンレンドル8個グランドスラムタイトルを取りながら、ついにウィンブルドンだけは取ることができなかった。

 ウィンブルドン5連覇ローランギャロス6回優勝ビヨンボルグUSオープン決勝4度敗れ、グランドスラム14勝ピートサンプラスもローラン・ギャロスでは優勝どころか決勝にも行けず。

 あのグランドスラム20勝ロジャーフェデラーですら、2009年にテニス史上最大と言われる大番狂わせラファエル・ナダルが消えていなかったら、おそらくローラン・ギャロスのタイトルだけは取れなかったのだ。

 そんな数ある「悲願」で将棋界のそれと言えば、米長邦雄の名人位に対する苦悩が、その想いの強さと「こじらせ度」において、もっともよく出ているのではあるまいか。

 米長邦雄永世棋聖

 中原誠十六世名人と並ぶ昭和の名棋士。通算1103勝、タイトル獲得19期、優勝16回、A級連続26期(名人1期ふくむ)。

 そんな米長は当然デビュー前から「名人候補」としてあつかわれたが、ライバル中原誠のが厚く、タイトル戦では初顔合わせからシリーズ7連敗と痛い目に合わされてしまう。

 ただ内容的には悪くないというか、1976年の第35期名人戦ではフルセットまで行く健闘を見せ、1979年の第37期名人戦でも開幕2連勝と好スタートを切る。

 このままいけば「米長名人」はここで誕生していたはずだが、2勝1敗リードでむかえた第4局で、勝ちに見える局面から「中原の▲57銀」という歴史的絶妙手を喰らって轟沈。

 

 

△49飛に▲48にいた銀を▲57にかわすのが、「升田の△35銀」と並ぶ昭和将棋の名場面。
△48飛成と銀を取る寄せを防ぎながら、△57同馬なら詰めろが解除される仕組み。
他の手で迫ってくれば駒が入るから、後手玉が詰むという見事なカウンター。

 


 このダメージが効いたか、翌年の第38期名人戦では1勝4敗完敗

 この後は棋聖や棋王のタイトルは保持しながらも、名人戦に出られない時期があり、1986年などはA級プレーオフで大山康晴十五世名人圧倒的有利の下馬評をくつがえされ圧敗するなど苦戦。

 それでもめげない米長は、翌1987年の第45期名人戦に見事復活。

 開幕2連勝のスタートダッシュを決め、周囲は「今度こそ」と確信し、嘘か誠か、

 

 「米長は祝勝会の会場をもう抑えたそうだ」

 

 そんな噂があがったりしたが、そこからまさかの4連敗でまたも大魚を逃す。

 

 

1987年第45期名人戦。米長の2勝1敗でむかえた第4局。
終盤のこの局面は米長が勝勢で、平凡に△48飛成でも△77角の妙手でも後手が勝ちだった。
勝てば3勝1敗で圧倒的有利だったはずだが、なぜか△44角としてしまい、まさかの逆転負けを食らう。

 

 

 

決着局となった第6局の終盤戦。
やはり米長が優勢進めていたが、▲84桂の王手に△82玉とかわしたのが「ココセ」(相手から「ここに指せ」と指令されたような大悪手のこと)という敗着。
▲55角成とゼロ手で馬を、それも盤面を制圧するド急所の位置に作られては、後手に勝てる道理がない。
ここは角筋を避けて△83玉なら後手がやれる戦いで、なぜこんな初歩的ともいえるミスをやってしまったのか、不可解としか言いようがない。 

 

 

 このときは米長のみならず中原も変調で、

 

 「今の2人は強くない」

 「これが名人の実力だと思われたら困る」

 

 相当にきびしいことを書かれており、後輩の谷川浩司九段にすら「ブランド力の喪失」と評されたほどだから、この時期の両雄は相当に迷走していたようではあった。

 その後、1989年の第47期名人戦にも登場。

 このときは相手が中原ではなく谷川浩司だったため、少し雰囲気も違うかもと期待されたが、結果はなんと0-4ストレート負け

 さらには1991年の第49期名人戦でも挑戦者になるが、このときは将棋に勢いもなく1勝4敗でまたも完敗。

 

 

1991年、第49期名人戦の第2局。
駒がきれいにさばけ、中央に築いた厚みも神々しく、米長の強さがこれでもかと発揮された局面。
もちろん先手必勝だが、ここから数手進んだところでは、逆に後手必勝になっていて腰が抜ける。
弟子の先崎学五段はこの敗戦に大きなショックを受け、映画館の暗闇の中で泣いた。

 

 

 このときは将棋の内容よりも観戦記を書いた先崎学五段が、師匠である米長に対する複雑な感情をふくんだ応援をしたため、筆禍事件(今でいう「炎上」)を起こしたほうが話題になったくらいだ。

 このように米長は「未来の名人」としてデビューしたはずが、なんと6度挑戦者になりながら、1度も名人になれないのだった。

 十段棋聖王将王位棋王のタイトルは何度も獲得し、一時期は中原をおさえ「四冠王」にも輝き

 

 「世界一将棋の強い男」

 

 と称されたにもかかわらず、名人戦だけは突破できないのは、どう考えてもおかしいではないか。

 このころよく語られたのが、

 

 「名人は将棋の神様に選ばれた者だけがなれる」

 

 という昔よく聞いた言葉。

 この神話により大内延介高橋道雄など幾多の名棋士があと一歩のところで涙をのんできたが、米長もまた、それに苦しんでいいるのだと。

 いわば中原誠は「モーツァルト」だが、米長邦雄は「サリエリ」にすぎない。

 事実、米長はピーターシェーファーの戯曲版『アマデウス』についてエッセイで書いたこともあるが、もう十数回も観賞し、ときに自分をモーツァルトに、ときにはサリエリに投影して観ていたそうだ。

 ただ興味深いのは、この「選ばれしもの」というセリフを最初に発したのは、実は米長邦雄であるという説があること。

 それが本当かどうかはわからないが、もしそうならその真意は、この神話の信者であり伝道者でもあった河口俊彦八段もいっているように、

 

 「名人には選ばれし者だけがなれる。そして、それはきっと中原とオレだろう」

 

 という意味に違いなかったはずなのだ。

 

 (続く

 

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星を継ぐもの 羽生善治vs米長邦雄 1994年 第52期名人戦 第6局 その2

2023年02月19日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 1994年の第52期名人戦

 米長邦雄名人羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)が挑んだ七番勝負も、いよいよ大詰めを迎えた。

 挑戦者の3連勝から、名人が意地で2番返しての第6局は、羽生が「遠見の角」と「バックの」という2つの名手を決めてリードを奪う。

 

 

 

 第4局を落としてから苦しんでいた羽生だったが、ここでは立て直したようで、一気に名人奪取か。

 と見えたが、羽生本人によると、この局面にできたことをよろこびすぎて、読みに精度を欠いてしまったというから、将棋に勝つというのは本当に大変な作業である。

 たとえば、△36歩と打つところでは一回△86歩の突き捨てを入れておくところで、それなら好機に△86飛と飛び出す筋がいつでもあり、より優位を確実にすることができていた。

 また、「勝てる!」となったところで精神面がグラつくのは将棋のお約束でもあり、羽生はこのとき名人位へのあまりのプレッシャーで、一人で煩悶し続けたと語っている。

 本人の筆によると(改行引用者)、

 


 △24同銀の局面で夕食休憩。最善は逸したが、それでもかなり形勢はいい。

 部屋に戻って局面を思い浮かべてみる。相当に優勢だ。この将棋を負けたら、勝つ将棋はないという感じである。

 そう考えたら、居ても立ってもいられなくなってきた。さっきまではちらちらしていた「名人」という言葉が、今度は頭の中でぐるぐると回り始めている。

 もちろん食事が喉を通るはずはない。将棋盤の前に戻りたいのだが、タイトル戦ではそれができない。

 夕食休憩の1時間が、これほど長く感じたのは初めてだ。


 

 また最終盤では、こんなことにも。

 


 「指が動かなくなったのはここからである。右手全体がしびれたような感じで、スムーズに動かない。とにかく必死になって駒を動かした」


 

 羽生が名人になったとき、それをあつかった記事などで、

 

 「名人になっても、特にプレッシャーを感じたり、感動した様子もなく淡々としている」

 

 なんて書かれていたのを読んだりしたけど、実はまったくそんなことはなかったわけだ。

 逆に言えば、羽生の真意を悟らせない心のコントロールが、絶妙だったのかもしれない。

 そう考えれば、順当に見える結果もまた、違う側面が見えてくるというものだ。

 優勢を自覚しながらも、過度の緊張△86歩を逃した後悔で、羽生の腰もなかなかすわらない。

 

 

 

 苦しい時間が続いたが、「やっとの思いで」発見したという次の手が、三手一組の決め手になった。

 

 

 

 

 

 △86歩▲同歩△88歩と打つのがトドメの一打。

 遅ればせながらの△86歩が好手で、△88歩のタタキに▲同金△48と▲同玉△86飛と走って、▲87歩△77歩成できれいに決まる。

 

 

 

 

 ▲同金△66飛

 ▲86歩△47金▲59玉△57成銀

 ▲同銀△47金▲59玉△57成銀▲69玉に、△36飛と回るのが気持ちの良い手順で、それぞれ寄っている。

 手が硬直するほど、精神的にさいなまれた羽生だったが、指し手のほうはしっかりしていて(それもスゴいけどネ……)、△77角まで先手が投了

 

 

 

 24歳で名人に到達した羽生は、その後「七冠王」になり、ここから気の遠くなるほど長い「羽生時代」が続いていくことになるのだ。

 

 

 (羽生善治「七冠王」への道はこちら

 (「永世七冠」への道はこちら

 (その他の将棋記事はこちらからどうぞ)

 

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百億の昼と千億の夜 羽生善治vs米長邦雄 1994年 第52期名人戦 第6局

2023年02月18日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 米長邦雄名人羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)が挑戦することとなった、1994年の第52期名人戦

 挑戦者の3連勝からスタートするも、名人も2つ返して第6局に突入。

 星の上では羽生がまだ有利だが、第4局を「浮ついていた」という気分で指して敗れ、第5局は勢いに押されて完敗と、流れは相当に悪くなっている。

 むかえてこの第6局を、羽生は必勝の気合で挑むことにする。

 もしこれを負けてもまだ最終局があるが、そうなったらとても勝てる気がしないだろう。

 ここを実質のファイナルセットと考えて角換わりを採用し、米長が右玉でいなそうとするのを「攻めよう」とだけ決意して、棒銀で打って出る。

 

 

 

 △35歩と突っかけたところで、羽生はとりあえずホッとしたという。

 形勢うんぬんという局面ではないが、ともかくも先に仕掛けることができたのが良かったというわけだ。

 少し進んで、△63角と打つのが△35歩からの継続手。

 

 

 

 この遠見の角に、羽生はこの大一番のすべてを託す。

 ねらいはもちろん△36歩だが、シンプルな攻めなので受け止められると切れ筋におちいりそうだし、筋違いの自陣角が「スカタン」になる恐れもある。

 米長も、ここは踏ん張りどころと見て、▲45歩の突き捨てから▲56銀左と上がる。

 

 

 

 

 次になにもなければ、3筋4筋からグイグイ盛り上がって、逆に後手陣を圧迫していこうと。そうすれば、第4局と同じような勝ち方も望める。

 だが羽生はこの勝負所で、すばらしい構想力を見せつけるのだ。

 

 

 

 

 

 


 △46歩▲同銀△44歩が、佐藤康光竜王をして「新手筋発見」と感嘆せしめた組み立てだった。

 ここでねらいの△46歩▲同銀△36歩▲45桂と跳ねられてしまう。

 そこで歩を一回突き捨てたあと、桂跳ねを防ぐべく同じ筋にを打ってバックさせる。

 今期の王将戦第1局を自らのYouTubeチャンネルで解説した中村太地七段は、中盤戦の△76歩、▲同銀、△74歩という手順を見て(動画の17分目くらいからです)、

 


 「小さいころ本で読んだんだけど、羽生さんは昔こういう手を指したらしくて、《羽生の歩は下がることができる》って書いてあったのおぼえてますね」


 

 と言っていたが、それがなにを隠そうこの将棋なのだ。

 これが王将戦の第1局。中盤戦の戦い。

 

 

 

 先手が▲21成銀を補充したところだが、ここから△76歩▲同銀△74歩(!)。

 

 

 

 ▲74桂の痛打を防ぐためを「バック」させるのが、羽生の「開発」した手筋。

 観戦者が歓声を上げるのを、私のような古参ファンは「あー、あれで出たやつね」とニヤリなわけだが、この将棋はそこからも奮っていて、▲65歩△73銀▲64歩(!)。

 

 

 

 これがうまい突き捨てで、見ていてまたも歓声。

 △同銀に、▲66桂絶好打になる。

 

 

 

 これが▲66の地点のを消しながら、やはり次に▲74桂がねらいになるという、見事な切り返し。

 むこうが「バックの歩」なら、こちらは「消去の歩」。

 手品のような手順で、藤井王将もさすがと感動したものでした。

 少し話はそれたが、そんなにもつながる手筋がここで飛び出し、これが一級品の発想。

 これで先手は△36歩を受ける手がなく、桂損は必至なのだ。 

 ちなみに羽生は2008年の第66期A級順位戦で、木村一基八段相手に同じような形で△63角と打って快勝しているが、その発想のもとも、間違いなくこの名人戦であろう。

 

 

新A級の木村一基を一撃で粉砕した妙角。
後手は△86歩の交換から、△35歩、▲同歩、△36歩や、いきなり△35歩、▲同歩、△27銀(!)の強襲でまいる。
この銀打を▲同飛とは取れず、▲49玉など逃げても、△18銀不成(!)の追撃で飛車をいじめられて勝てない。

 

 

 △44歩の妙手に米長も▲47金と上がり、△36歩▲45桂というタダ捨ての勝負手をひねり出し、△同歩▲同銀直とくり出していくが、△66銀と自然に進軍させて駒得の後手が優勢。

 

 

 

 

 追いつめられながらも、土壇場で冴えを見せた羽生がリードを奪い、歓声を受けながらビクトリーロードを走っていく。

 米長も懸命にねばるが、後手に乱れはなくゴールに突き進んでいくのは、さすがの落ち着きぶりだ。

 ……と見えるのは、端の気楽な立場から見える景色で、対局者はそうではなかった。

 

 (続く

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さもなくば喪服を 羽生善治vs米長邦雄 1994年 第52期名人戦 第4局

2023年02月15日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 米長邦雄名人羽生善治四冠(棋聖・王位・棋王・王座)が挑戦することとなった、1994年の第52期名人戦

 27歳年下の挑戦者である羽生は、開幕から3連勝と一気呵成で、あっという間に米長名人をカド番に追いこんでしまう。

 特に第2局でハッキリと「読み勝った」ことは大きく、もう決着はついたと思いきや、勝負というのはわからないもので、次の第4局が米長の名局ともいえる将棋となる。

 この一番を米長は、

 


 「負けたら引退する」


 

 という覚悟でもってのぞんでいたという。

 悲壮な決意であるが、一時代を築いた大棋士の文字通り「命がけ」の戦いを見られるのは、ファン冥利に尽きるというものだ。

 そんなことを知る由もない羽生は、2手目に「△32金」とする奇策と迷った末に横歩取りを選択。

 昔のイメージでは横歩取りは若干先手有利という感じだったが、このころは徐々に盛り返し気味で、その原動力の一つである「中原囲い」を羽生も披露する。

 ただこの将棋は「中原流」という形のむずかしさと、羽生自身も認めるように、ほんのわずかだが「ゆるみ」もあって力を発揮できない将棋にしてしまう。

 

 

 

 

 図は△44角の飛車取りを、▲25飛とかわしたところ。

 羽生によると、この将棋のポイントはここだったという。

 指す手は2つしかなく、△36飛横歩を取るか、飛車をタテに逃げるか。

 羽生は△56歩と突っかけるときに2時間も考え、封じ手になってからもずっとこの局面のことを考えていたが、ここに落とし穴があった。

 羽生自身の言葉を借りると、

 


 「前日も、指しかけの夜も、この局面になってからもずいぶん考えたのだが、読んでいいるうちに、だんだんわけがわからなくなってきた」


 

 続けて、まさかというセリフが飛び出す。

 


 「というよりも、どちらでも良くなるような気がしてきたのだ」


 

 羽生もこの場面を振り返って(改行引用者)、

 

 


 「あとで考えたら、この精神状態がいけなかったのだ。

 冷静に考えると、飛車角だけの攻めで、そう簡単に後手が良くなるはずがない(中略)。

 明らかに気分が浮ついていたのだ」


 

 今からは想像しにくいが、あの百戦錬磨の羽生善治に「油断」という毒素が、いつの間にか注入されていた。

 

 

 

 

 そんなふらついた姿勢で指された△54飛が、結果的には「敗着」になる。

 次の手で、将棋は終わっているのだから。

 

 

 

 

 

 ▲67玉と上がるのが、崖っぷちに追いこまれた名人が魅せた「会心の」一手。

 まるで木村一基九段のような力強さだが、これで後手は手段に窮している。

 次に先手は▲46銀と上がり、▲55歩から飛車を追って、▲57銀上▲56銀と空中要塞を建造すれば不敗の体勢になる。

 一方の後手は、それを防ぐ有効な手段がなく、△74歩から△73桂のような反撃も、とても間に合わない。

 その間に先手は遊んでいる▲38を中央に活用して、見事な厚みを構築。

 

 

 

 何よりこの手は、羽生のを打ち砕いたのだ。

 


 「▲67玉を見た瞬間、激しい後悔の念に襲われた。

 この手を見落とした後悔。B図(△54飛以外の手の局面)を見送った後悔。

 そして何より、局面を甘く見た後悔」


 

 ふだん飄々とした羽生にはめずらしい、エモーショナルな文体だが、それほどに強烈な体験だったのだろう。

 落胆した羽生は、その後ほとんど抵抗できないまま、名人の軍門に下ることとなる。

 

 

 

 これが投了図なのだから、いかに羽生が自分の将棋にガッカリしたのか伝わってくる。

 まさかの圧敗で、観戦していた中原誠永世十段

 


 「中原流を使うなら、もっとうまく指してほしかった」


 

 とボヤかれたほど。

 この敗北は羽生に暗い影を落としたようで、本人もふがいないと感じたのか、

 


 「油断は恐ろしい。仮に、この名人戦で3連勝4連敗の大逆転が実現していたら、この数手のやり取りが全てだったということになるのだろう」


 

 第5局ではその揺れがモロに出てしまい、またもや米長の勢いある将棋に押されてしまう。

 

 

 


 △96歩と仕掛けたのが、元気いっぱいという若々しい手であり、駒損になるが、代償に作ったが手厚く後手が指せる形。

 

 

 

 


 下段香のピストン砲が強力この上なく、

 「どうだ、駒の勢いが違うだろ」

 米長の鼻高々な声が聞こえるようではないか。

 以下、羽生もねばりを欠いた手が出て、この一局も米長の快勝譜となる。

 この将棋を振り返って曰く、

 


 「米長先生の気合に負けたと認めざるを得ない」


 

 これで羽生から見て3勝2敗

 スコア的にはまだリードしているが、次は後手番だし、7番勝負の第6局7局を負けて逆転など、ざらにあること。

 羽生の妄念が、相当リアルに近づいてきたところで、もはや3連勝の余裕など消し飛んでしまったことだろう。

 ただおもしろいのは、この敗戦後の羽生の行動。

 


 「名人戦の重みを痛感した」

 「今まで経験したタイトル戦に比べて、エネルギーが倍以上いるという感じである」


 

 道の険しさを感じながらも、打ち上げ後に「部屋に帰ってごろごろ」していたところ、急激な空腹をおぼえる。

 記者室に行くと、おにぎりがあったのでラッキーとばかりにパクついたのだが、その数なんと4個

 私のみならず、これには周囲にいた人たちも、「よう、そんなに食えまんな!」とあきれるわけだが、羽生はケロリとしたもので、

 


 「自慢ではないが、立ち直りの早さには自信がある」


 

 精神的には剣が峰に立たされ、

 


 「第6局に負けたら、最終局も勝てないだろう」


 

 決意を新たにしながらも、この妙に力の抜けたところが羽生の味でもあり、充分に「自慢」すべき、強さの秘密なのではあるまいか。

 

 (続く

 


 

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オーバーロード作戦 羽生善治vs米長邦雄 1994年 第52期名人戦 第2局

2023年02月12日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 米長邦雄名人羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)が挑戦することとなった、1994年の第52期名人戦

 初戦は羽生が中飛車で快勝したが、米長のおとなしい様子を見ると、初回はまだ「球筋を見る」段階だったようで、第2局からは打って変わって激しく打ち合うことになる。

 戦型は角換わり棒銀から相矢倉模様に。

 羽生がを作って攻め駒を責めていけば、米長も▲55歩と筋の突き捨て、ヒモをつけながら中央から戦端を開いていく。

 

 

 

 先手の攻撃陣である飛角桂香が、目一杯働いている様が美しく、どう見ても熱戦必至ですばらしい。

 以下、△45馬に、▲15香△同香▲33歩△同桂▲54歩△同銀▲56金

 

 

 

 

 力の入ったねじり合いで、これで盛り上がらなけりゃあウソだ。

 この一戦は序盤、中盤、終盤ともれなくホットな戦いで、もう棋譜を並べているだけでも夢中になるが、たとえば▲14歩とタラしたこの局面。

 

 

 


 ここでは後手が△66銀不成飛車を取ったところだから、反射的に▲66同銀としてしまいそうだが、この一瞬にきわどく利かしを入れる。

 △77銀成取られると先手玉も相当うすくなってしまうが、そんなことはいってられんとギリギリの踏みこみ。

 羽生は△77を取るのは、▲同桂△21桂と受けたところで、1枚と手番を渡すから危険と判断し、単に△21桂と受ける。

 ここで襲いかかるのは駒不足だから、先手は▲66銀と取り返すが、ここで貴重な手番を手に入れた後手は△69銀から反撃。

 そこから双方、飛車を打ち合ってのスプリント勝負に突入したが、この局面がクライマックスだった。

 

 


 後手玉はまだ一手スキではないが、を渡すとその瞬間に詰まされても文句は言えない形。

 ただ攻撃陣は飛車角急所に設置されて、の持駒もあり、なにか寄せがありそう。

 どちらが読み勝っているか。まずは羽生が手筋を放つ。

 

 

 

 

 △86桂がこういう形で「筋中の筋」という一発。

 ▲同歩しかないが、△87の空間を開けたことが大きく、△69にあるの使い出が爆裂的に増した感じで、後手は△68金と追撃。

 

 

 

 これが詰めろできびしい手。

 ▲同金には△同飛成で、▲78合△87金

 

 

 

 ここに駒が使えるのが、△86桂の効果。

 ▲同玉に、△67竜の一間竜で詰み

 そこで米長は、サッと▲97玉と上がる。

 

 

 


 これも終盤の手筋で、それこそ羽生などはこういう手で身をかわすことによって、幾多の競り合いを制してきたが、ここは米長が魅せた。

 先手玉に詰みはなく、かといって△78金とせまると、▲同銀△同角成▲13銀で後手玉は詰み

 となると後手の攻撃陣は身動きが取れないことになり、先手が勝ちだと思いきや、ここで羽生が見事な寄せを展開する。

 

 

 

 

 

 


 △67金と、こっちの駒を取るのが妙着で、これを米長は見落としていた。

 ▲同金△88銀で詰み。

 かといって、後手玉に詰みはなく、本譜の▲13桂のように詰めろをかけても、やはり△88銀で詰んでいる。

 説明されれば簡単だが、ここは局面的にも手の流れ的にも、玉に近い▲78を取りたくなるところ。

 ましてや、終盤戦ではよりのほうが、詰みや必至などに使いやすいため、ここでヘリが旋回して、あえて銀を取るというのは相当に思いつきにくい。

 まさに「常識」「先入観」という壁にさえぎられた、その先にある宝を掘り当てることを、得意というより「使命」にしている羽生善治の面目躍如という一着だ。

 こういう負け方は応えるもので、とくに米長のような終盤力に定評のある棋士だと、その痛手も倍増。

 ▲97玉の早逃げがピッタリで勝ちのはずだったのに、その次の手が見えなかった。「読み負けた」ことは、ある意味敗北よりも、つらい事実だ。

 一局の結果は「時の運」だが、読み負けは「普遍的実力差」につながるからだ。

 こうなるとシリーズは完璧に羽生ペースで、第3局にも快勝し、あっという間の3連勝

 たしかに戦前の予想では、若き四冠王の羽生が有利だったが、それにしてもさすがの勢いである。

 正直、ここでは4タテもあるかなあ、なんて不穏なことも考えていたものだが、あにはからんや。

 「50歳名人」である米長邦雄も、

 「ここに来るまで、どんだけ苦労した思てるねん」

 とばかりに、最後の意地を見せ、逆に羽生を追いこんでいくのだ。

 

 (続く

 

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夏への扉 羽生善治vs米長邦雄 1994年 第52期名人戦 第1局 その2

2023年02月09日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 米長邦雄名人羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)が挑戦する第52期名人戦七番勝負は、開幕局で羽生が5筋位取り中飛車を選択

 今ではなんてことない話だし、それこそ藤井聡太五冠が名人戦で振り飛車を指したら、すんごい盛り上がると思うけど(見たいなあ)、当時は、

 

 「名人戦で中飛車など失礼極まりない」

 

 などという「常識」が存在したようで、ベテラン棋士などから批判されたりもしていた。

 

 「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」

 

 というアルベルトアインシュタインの言葉に頭をガツンとやられた経験のある私には、ただただトホホに感じたこの「失礼」という声だが、羽生にとってはおそらく、勝つための自然な選択に過ぎなかった。

 戦法に貴賤なんかない。その当たり前のことを、この名人戦にかぎらず、羽生は盤上で証明し続けていくことになる。

 この中飛車採用を評して勝又清和七段も『最新戦法の話』という本で、

 


 羽生は続く第3局で相掛かりに誘導し、引き飛車を採用します。相掛かりと言えばほとんど浮き飛車に構えていた時代のことです。

 つまり羽生は、中飛車にせよ相掛かりにせよ、現在流行している形を10年も前に先取りしていたわけです。

 「得意戦法は持たないほうがよい」

 「よい戦法なら棋風にこだわらず使うべきだ」

 という「羽生哲学」は徐々に浸透し、トップ棋士の戦法に対する考え方が変わってきます。


 

 実を言うと、羽生というのは優等生キャラに見えて、若手時代はベテラン棋士や評論家からは、あまりいいあつかいを受けないことも多かった。

 今思うとそれは、まさにこの「名人戦で中飛車」という旧来の「邪道」を、いつの間にか「ふつう」にしてしまいったこと。

 まさにそれを「常識」や、人によっては「美学」から、「中飛車はよくない」と怒ったり批判したりする者が、若手棋士や子供時代の私のような「新しいファン」からすれば、

 

 「古くさい考え」

 

 にしか思えなくなるよう、結果的に上書きしてしまった。

 つまりは、古き時代の価値観を持った人たちにとって羽生は、その意図するしないにかかわらず、自らの存在を否定する「革命家」であり、恐るべき「破壊者」であったのだ。

 そう考えると、彼らが本能的に羽生を警戒し、拒否したのは、ある意味当然と言えるかもしれない。

 少し前、将棋ソフトがプロ棋士を超えた超えないで盛り上がっていたとき、棋士やファンの中から、

 

 「ソフトの手からは魂が感じられない」

 「美学や哲学のない機械の手は、しょせん人を感動させることができない」

 「たとえどんなに強くても、AIの将棋など認めない」

 

 とかいう声もあったりしたけど、なんかシラけてしまうのは、上のセリフの主語を「ソフト」「AI」から「羽生」に代えれば、昔の「旧弊」な批判とまったく同じだからだ。

 人は同じことをくり返す。

 そもそも米長は『運を育てる』と言う本の中でも、一緒に研究会をやっていた森下卓八段など若手棋士のことを「先生」と呼んでいたエピソードを書いている。
 
 後輩格下でもある者たちにそう接するのは、別に先輩の冗談やノリではなく、本気であって、実際、ある棋士仲間から、
 
 


 「トップ棋士であるあなたが、若造相手に『先生』などと呼ぶと、彼らがつけあがってしまう。権威というものを、どう考えているのか」


 
 なんて苦言をいただいたほど。
 
 これに対して米長は、

 


 「将棋に真摯で結果も出し、技術的研究面でも秀でた者に将棋を教えていただくのだから、相手が若手でも《先生》なのである」

 「私自身、そう呼ぶことになんの抵抗もないし、彼らは先生と呼ばれても謙虚さを失うこともないのだから、問題があるとは思えない」


 

 といった内容のことを文庫本で2ページ近くにわたって力説しており、また伝説の「米長道場」で羽生ともしのぎを削った男が、


 
 「名人であるオレ様に、若造が先手中飛車とはなんたる無礼!」


 
 とか思わないでしょ、今さら
 
 てか、「先手中飛車は無礼」って、なかなかのパワーワードだよなあ。

 また、もうひとつ興味深いのが、羽生はこの将棋を振り返る自戦記で、米長の5手目△34歩が、わずか3分の消費時間だったことに注目し、こう書いている。

 


 米長先生は私の▲56歩を予想されていたのかもしれない。△34歩はかなり速い感じである。

 いうまでもなく、△54歩や△85歩も一局。△34歩は私の振り飛車を誘って指すつもりだったのだろう。


 

 このあたりの、駆け引きの妙もおもしろく、どうやらこの二人は、もう無礼がどうとか、そんなところで戦っていなかったらしい。

 羽生が「時代を変えた」のも、米長が名人になったのも、まさにこういう「権威」に縛られることに危機感を持って行動したからに他ならないのだから。

 なんて前置きが長くなったが、将棋の方は、ポイントとなったのが、この局面のよう。

 

 

 

 「指す手がわからなかった」

 

 と言う米長は△63飛と浮いて手を渡したが、これが敗着に。

 ここでは△45歩と突っかける手が有力だった。

 ▲同銀なら、△同銀、▲同歩に△83銀と打って飛角両取り。

 ▲同歩なら△55銀と出て、▲同銀△同角▲46銀とはじき返されそうなところで、△64飛とぶつけるのがピッタリのカウンター。

 

 

 

 

 以下、▲同飛△同角で自陣にいた飛車と角がさばけて、これならいい勝負だった。

 開幕局は羽生がうまく指して快勝するが、この将棋の米長はさほど力が入っていないようにも見え、羽生自身も感じたように「様子見」という一面もあったよう。

 となると、第2局は大事ということになり、これが期待通りの大熱戦になり、

 「今期の名人戦はここからが本番

 という空気はビンビンに感じたのであった。

 

 (続く

 

 

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革命前夜 羽生善治vs米長邦雄 1994年 第52期名人戦 第1局

2023年02月08日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 挑戦者決定プレーオフで谷川浩司王将を倒し、ついに名人戦の挑戦権を得た羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)。

 七番勝負で待ち受けるのは昨年度、悲願の名人獲得を果たし、話題を振りまいた米長邦雄名人

 就位式で米長が、祝福の言葉を受けながら、

 

 「すぐに【あの男】がやってくる」

 

 と語った通り、期待に応えて出てくるのは、羽生もさすがのスター性だが、「50歳名人」として作家の団鬼六さんなど、オールドファンの熱い応援を受ける米長もまたヒーローであり、その注目度は否が応でも高まるのであった。

 そんな歴史に残ることが確定となった、1994年の第52期名人戦は、開幕局でいきなり波乱を呼ぶことになる。

 羽生が飛車を振ったからだ。

 

 

 

 

 先手になった羽生が▲76歩と突き、△84歩▲56歩△34歩▲58飛中飛車を選択。

 今の感覚だと、

 「先手中飛車って有力じゃん。それがどうかしたの?」

 くらいものもんであるが、当時のベテラン棋士評論家の中には、

 

 「名人戦で飛車を振るとはけしからん」

 「先輩相手に大舞台で中飛車など、失礼ではないのか」

 

 など眉をひそめたり、激怒したりする人がいたというのだ。

 そのころは

 「ホンマにそんな、おもしろ偏屈なこと言う人おるんかいな?」

 というシリーズを盛り上げるためのプロレス的「ネタ疑惑」を真剣に考えたものだが、これは勝又清和七段なども名著『最新戦法の話』の中で(改行引用者)、

 


 これは棋士の間でちょっとした論議になりました。

 名人戦という格式ある大舞台で、居飛車党が先手番で飛車を振るという作戦は、当時まったく考えられないことだったからです。

 ある高段棋士など、

 「名人戦で中飛車を使うとはなんたることか」

 と怒っていたことを覚えています。


 

 現在ではというか、当時でも私などサンドウィッチマンの漫才のごとく、

 「ちょっと、なにいってるかわからない」

 首をひねったものだが、なんかそうらしいんですね。

 意味不明なうえに、そもそも振り飛車という戦法と振り飛車党に失礼なんじゃねーの? とか、大山康晴十五世名人とか升田幸三九段は名人戦で振り飛車やってるし、中原誠名人」誕生の一局も中飛車だったけどなあ。

 とか、なんとか色々言いたいことはあるけど、ともかくも昭和の感覚では、

 

 「名人戦と言えば、相矢倉を中心とした居飛車で戦うのが王道」

 

 ということであり、開幕局で中飛車、それも先手番でなど邪道も邪道(そもそも「振り飛車自体が邪道」という人もいた)で、横綱にいきなり張り手をかますような、挑発行為にすら見えたのだった。

 私はこう言う伝統の名を借りたパワハラ的「縛り」が大嫌いなので(囲碁の「初手はかならず右上から打つ」とかも)、心の底から「知らんがな」だったけど、今から見ると、これってすごく羽生さんらしいなあとも感じる。

 かつて「羽生善治がついに無冠に」で話題になった、2018年の31期竜王戦を取り上げたドキュメンタリーで、羽生の盟友である先崎学九段が、

 


 「羽生さんのすごいところは、七冠王になったことでも、国民栄誉賞をもらったことでもないんです。結果でもって、将棋界そのものを変えてしまった。これが本当の功績なんです」


 

 羽生はおそらく、この開幕局でも「失礼」などという過去の因習などにこだわらず、それでいて「時代を変えてやる!」なんて肩ひじも張らず、古い考えを否定するわけでもなく、ただただ自然に中飛車を採用した。

 そのココロは、本人も開幕前言っていたように、

 

 「普通の定跡形は指さない」

 

 ということと(羽生将棋のキーワードである「好奇心」だ)、それこそ今のわれわれも言うような、

 

 「先手番の中飛車は、なかなか有力なんだよね」

 

 というシンプルな考えではないか。

 羽生はよく「常識が怖い」と言うが、まさにこのころ恐れたことは「失礼」であることや、そのことでゴチャゴチャ言われることよりも、

 

 「名人戦で振り飛車はよくない」

 

 という、意味のない不自由を強いられる、将棋界の「常識」に他ならなかったのだ。

 

 (続く

 

 

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ささやかだけれど、役にたつこと 米長邦雄vs羽生善治 1994年 第7期竜王戦

2023年02月02日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 1994年の第52期A級順位戦プレーオフで、谷川浩司王将を破って、初の名人挑戦権を獲得した羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)。

 迎え撃つのは、昨年度に7度目の挑戦で、ようやっと悲願の名人位に着いた米長邦雄名人

 23歳50歳の対決と言うことで、今の藤井聡太五冠と羽生善治九段の王将戦のように、

 「若くてノッテる方が有利」

 と予想したくなるが人情というもの。

 そういえば王将戦の方は、やはりというか、ここまでのところ藤井五冠の安定した強さが目立っている印象だが、私の勝手な皮算用では、

 

 「羽生九段が王将獲得でタイトル100期」→

 「藤井聡太四冠に後退するも、棋王名人を奪取して、その勢いで王座も獲得し【七冠王】に」→

 「王将戦でふたたび藤井七冠が挑戦者となり、羽生を破って八冠達成!」

 

 とかなってくれたら、これはもう将棋界的に最高な盛り上がりやねんけどなーとか妄想中。

 今の藤井君の勢いなら「七冠王」はなれそうだから、マジで今回の王将戦だけ羽生さんが勝てば、この

 

 「ぼくのかんがえた、さいきょうのはちかんおう」

 

 とか全然ありえるんでね? とか思うわけだが、どうなることでしょう。

 藤井君の先手番をブレークするのが、ほぼムリゲー状態では、なかなかむずかしいとは思うけど、そこは、

 

 「タイトル100期からの、羽生を破って藤井八冠王」

 

 とかいう流れになれば、ここから1年の盛り上がりがすごいことになるもんなあ。

 それにはやはり、羽生さんが先手番になる第4局がめちゃ大事ということで、熱戦を期待したい。

 とまあ話は少しそれたけど、今回も羽生と米長の「前哨戦」のお話。

 前回は大熱戦の末に羽生が絶妙手で勝利した将棋を取り上げたが、今回はベテラン米長が、七番勝負を前に「負けてないぞ」ところをアピールした一局を見ていただきたい。

 


 1994年竜王戦。羽生善治四冠(棋聖・王位・棋王・王座)と米長邦雄名人の一戦。

 このころ、「七冠ロード」を走っていた羽生だったが、佐藤康光竜王を取られて五冠から四冠に後退し、しばし一休みといったところ。

 ただ、このときはA級順位戦谷川浩司王将とのプレーオフに持ちこんでおり、「七冠ロードふたたび」な雰囲気はいつでも感じられた。

 「名人」として待つ米長としても、数か月後に七番勝負をやるかもしれない相手として、負けられないところで、事実この将棋は双方力を尽くした大熱戦になるのだ。

 相矢倉から、先手の米長が積極的に急戦を仕掛けていく。

 おたがい飛車先を詰め合って、むかえたこの局面。

 

 

 


 ここから両者が見せるの乱舞が、実に参考になる。

 

 

 

 

 

 

 ▲53歩が感触のよい手。

 たくさん取れる駒があるが、△同銀△同金▲55を出られたときに薄くなる。

 △同角も当たりが強くなるし、どこかで▲45桂目標になってしまう。

 羽生は△53同金と取るが、すかさず▲55銀左と前進。

 △同銀▲同銀△54歩▲46銀に、△47歩がイヤらしい反撃。

 

 

 

 △39銀から△48歩成を見せて、あせらせているが、米長の次の手がまた良い。

 

 

 

 

 

 ▲44歩が「筋中の筋」という突き出し。

 △同金▲52歩が、また見習いたい一着。

 

 

 

 なんて美しい手順なのか。

 強い人は、ホントにだけでこれだけの攻撃ができるのだ。

 以下、後手は待望の△39銀から△48歩成に、先手もかまわず▲45桂と攻め合い。

 そこから激しい駒のやり取りがあって、この場面。

 

 

 ▲41との詰めろが受けにくく、先手玉は飛車横利きもあって詰みはない。

 なら先手勝ちかといえば、強い人はここからが、まだまだしぶとい。

 

 

 

 

 


 △23歩がひねり出してきた、アヤシイねばり。

 玉の逃げ道を開けながら、▲同歩成なら、△同金▲同飛成とさせ、飛車横利きの守備力をそいでから、先手玉にラッシュをかけようというのだ。

 △47角の王手があってはメチャクチャに危険だが、米長は堂々と▲同歩成と取る。

 △同金▲同飛成で、後手玉は必至

 羽生は△47角から詰ましにかかる。▲58玉△57歩成と捨てるのがうまい手で、先手玉はメチャクチャに危ない形。

 

 

 

 ▲同銀に△58角成から捕まってもおかしくなかったが、ここは米長が読み切りで、▲77玉△65桂▲66玉△57馬▲65玉△64歩

 

 

 

 詰まされても文句は言えない形だが、少し後手が足りないか。 

 ▲54玉△45銀と追うも、▲64玉△63歩▲同玉まで詰みはなく、後手が投了

 

 

 

 投了図も、もし後手の持駒に一歩でもあれば、△62金から、玉が▲74に逃げたときに△84飛とする筋があって、先手玉は詰んでしまう。

 文字通りの「一歩千金」で、最後までが主役となる、とてもおもしろい一局だった。

 

 (羽生と米長の名人戦に続く)

 (その他の将棋記事はこちらからどうぞ)

 

 

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鷲は舞い降りた 羽生善治vs米長邦雄 1993年 第43期王将戦 その2

2023年01月30日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 1993年王将リーグ

 羽生善治五冠(竜王・棋聖・棋王・王位・王座)と米長邦雄名人の一戦は、相矢倉から羽生が入玉を目指すのを、米長が角金銀損を甘受して押し返して大熱戦に。

 

 

 

 図は米長が△46飛としたところだが、これで一見、先手に受けがないように見える。

 △76飛を防いで▲77歩と打っても、△83銀と取って、これが△84桂からの詰めろで、ほとんど必至

 進退窮まったようだが、ここから羽生が次々と手を繰り出すのにご注目を。

 

 

 

 

 

 ▲66歩と打つのが軽妙な手。

 △同飛は「大駒は近づけて受けよ」の格言通り、▲77銀と先手で受けられる。

 ▲77銀に△67飛成など逃げれば、4筋に飛車の利きがなくなるので、▲41銀などの筋で攻守所を変える。

 後手は単に△83銀と成桂を取るが、▲73とと捨てて、△同金に▲65角と打つのが、また雰囲気の出た手。

 

 

 ▲76ヒモをつけながら、どこかで▲32角成の強襲もねらった攻防だが、時間もないのに、よくひねり出せるものである。

 米長は△84桂と打ち、▲同桂△同銀とせまる。

 

 

 

 先手玉は金縛りだが、後手はしかないため王手がかからない。

 一瞬のチャンスに、羽生は▲34桂と反撃。は渡しても自陣に響かない形だから、そこが頼みの綱である。

 △同銀▲同歩△84桂の効果で△66飛と王手されるも、そこで▲76角打(!)。

 

 

 嗚呼、かなしいかな。先手玉は一歩も動けず、飛車金銀香のどれかがあれば1手詰みなのに、頭の丸いだけではせまるのがむずかしい。

 こうなると大ピンチに見えて、反面読みやすい局面ともいえる。

 一手スキの連続でせまるか、そうでなくとも、角桂歩以外の駒を渡さず事を進めればいいのだ。

 それも容易というわけではないが、その勝利条件を羽生は見事にクリアしてしまう。

 後手は▲32角成を防いで△54歩と打つが、▲44銀△36飛▲41銀とラッシュ。

 

 

 

 

 以下、△34飛▲33香と打ちこんで、△44飛▲32香成△12玉▲22金△13玉▲23金△同玉

 

 

 この熱戦も、ついに結末が見えてきたようだ。

 ここからの3手で先手が勝ちになる。

 実戦で現れるには、あまりにもカッコイイ筋なので、みなさまも考えてみてください。

 

 

 

 

 

 ▲67角と引くのが妙手

 △同とと取らせて△56への利きを消してから、そこで▲56角と引くのが、すばらしい組み立て。

 

 

 2枚がヒラリと舞い降り、これが△34から△45の逃走ルートを封鎖して、先手勝ち。

 △24玉▲23飛

 ▲56角△45歩合駒しても、▲22飛と打って詰み。

 まるで江戸時代の古典詰将棋のような形で、泥仕合から最終盤は華麗な手で収束と、将棋のおもしろさのエッセンスが詰まったような一局でした。拍手、拍手。

 

 (続く

 (その他の将棋記事はこちらからどうぞ)

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空間X脱出 羽生善治vs米長邦雄 1993年 第43期王将戦

2023年01月29日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回の続き。

 1994年の第52期A級順位戦プレーオフ谷川浩司王将を破って、初の名人挑戦権を獲得した羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)。

 迎え撃つのは、昨年度に7度目の挑戦で、ようやっと悲願の名人位に着いた米長邦雄名人

 現役レジェンドと次期王者確定の若手となれば、まさに「新旧交代」の決戦であり、前期の名人就位式で米長が、

 

 「すぐに、【あの男】がやってくる」

 

 とスピーチした予言通りとなったこともあって、その注目度も高かった。

 戦前の予想は、当然と言っては米長に申し訳ないが、「羽生有利」となる。

 なんといっても、このころの羽生は前人未到の「七冠王」を目指して走っており、その勢いはとどまることを知らない。

 一方の米長は名人にこそなったものの、年齢はすでに50歳で、さすがに全盛期の力はない。

 いわば、今行われている藤井聡太五冠羽生善治九段王将戦のようなもので、「の方が勝つ」という世論の流れになっていたわけだ。

 ただ、当時の感覚では、羽生が勝つとは思ってはいても、それは決して確定的というほどでもなかった。

 まず、ネットAIの有無や、棋士のの厚さも関係しているのか、昔は加藤一二三九段有吉道夫九段などが50代A級をキープするなど、今よりもベテラン棋士の「現役感」が長かったこと。

 それともうひとつ、昭和を主戦場にしていた棋士にとって「名人」というのは、今とはくらべものにならないほど、特別なうえにも特別な存在だったから。

 そのモチベーション、いやそんなスマートな言葉よりも「執着」「怨念」とでもいうべきものを背負って戦うのが、名人戦という舞台なのだ。

 かつて、大山康晴十五世名人と「新旧対決」を戦った中原誠十六世名人は、他のタイトル戦では押していたのに、こと名人戦に関しては、

 

 「名人戦における大山先生の強さは別格だった」

 

 その「特別感」に大苦戦を強いられたのだ。

 もちろん、羽生にとっても名人は重要なタイトルだが、おそらく米長の持つドロドロした「因縁」を超えるほどではないのであるまいか。

 そのメンタル面を考慮に入れると、案外互角くらいなのではという気もするし、なにより力こそ落ちたとはいえ、「米長道場」で若手相手に最新の序盤戦術を吸収した「ニュータイプ」の米長邦雄は、その棋力の面でも、まだまだやれると評判でもあった。

 そこで今回は名人戦を前に、当時の両者に果たしてがあったのか、その「前哨戦」を見ていただきたい。

 

 1993年王将リーグ。羽生善治五冠(竜王・棋聖・棋王・王位・王座)と米長邦雄名人の一戦。

 この将棋は2人が、名人戦を戦う約4か月前に行われたもの。

 羽生はこの時点で、A級順位戦5連勝と快走しており、当然ながら名人挑戦の最有力であった(ちなみにこの数日後に竜王佐藤康光に奪われて四冠に後退する)。

 王将リーグもそれ自体大きな戦いだが、米長からすれば「本番」に向けて、ここでいっちょタタいておきたいという意識も強かったろう。

 実際、この一局は双方力を尽くした大熱戦になり、相矢倉から、双方が早々に上部開拓を目指す展開で、そのまま入玉模様に。

 

 

 

 図は入玉を果たした羽生が、▲83銀▲74ヒモをつけながら、上部を補強したところ。

 これで先手玉は安全になり、逃げきったように見えるが、ここからの攻防がすごい。

 

 

 

 

 △94銀と引っかけるのが、ちょっと思いつかない手。

 ▲同銀成と取って△同歩に再度の▲83銀は、空いたスペースに△93銀と打って先手玉にせまろうということか。

 この異筋の銀に、羽生も負けじと異筋の手で返していく。

 

 

 

 


 ▲95桂とつなぐのが、またもやおどろきの手。

 ムリヤリに銀にヒモをつけたわけだが、入玉形らしいルール無用の寝技である。

 この手順を見ただけで、この将棋の異様な熱気が伝わってくる。

 △95同銀は駒がソッポに行くから、先手玉が安全になり逃げ切りだが、ここから米長がまたも剛腕を発揮する。

 

 

 

 

 △83銀▲同桂成△74角成が鮮烈な勝負手。

 ▲82玉△92金みたいな手で危なすぎるから、本譜は▲同玉だが△63金打と強引にチャージをかける。

 

 

 

 

 ▲同歩成△同金角金損の攻めだが、

 「終盤は駒の損得よりスピード

 というように、入玉形の場合も損得より、とにかく入られないことが大事なのだ。

 ▲84玉にさらに△95銀と銀まで捨て、▲同玉△74金とせまる。

 

 

 

 なんとこれで、先手の入玉を阻止してしまった。

 後手の攻めも薄いが、先手玉は押し戻されたうえに、せまいに追いこまれて生きた心地がしない。

 △94歩からの詰みを防いで▲91と取るが、そこで△94銀と上部を押さえて、▲96玉△46飛と遊んでいた大駒を華麗に活用。

 

 

 

 次に△76飛と取られてはおしまいだが、▲77歩みたいな並みの受けでは△83銀と取った形が、△84桂からの詰めろで受けがない。

 絶対絶命にしか見えないが、今度はここから羽生が次々とワザを披露して、盤上を盛り上げてくれるのだ。

 

 (続く

 

 

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