「神武以来の天才」花開く 加藤一二三vs中原誠 1982年 第40期名人戦「十番勝負」

2020年07月31日 | 将棋・名局

 「中原と加藤の【名人戦十番勝負】みたいやな」

 というのは、今期の叡王戦を観戦していると、よく聞くセリフである。

 初戦の千日手から、2局連続の持将棋に、3局連続の200手越えなど、とにかく話題に事欠かない第5期叡王戦。

 このままもし、フルセットまでいけば、決着局は「第9局」ということになり、私の世代だと、

 

 「羽生さんが初タイトルを取った竜王戦は、持将棋入れて第8局までやってたなあ」

 

 なんて思い出すが、もう少し上のファンはやはり、中原と加藤の激戦を喚起されるのだ。

 そこで前回は羽生善治森内俊之の、平成ライバル物語を紹介したが(→こちら)、今回は昭和のそれを見ていただこう。

 

 1982年の第40期名人戦は、中原誠名人加藤一二三十段が挑戦した。

 名人9連覇中の「棋界の太陽」と「神武以来の天才」となれば、これはもう平成なら羽生善治谷川浩司

 今なら豊島将之渡辺明や、永瀬拓矢の決戦のようなゴールデンカードのようだが、この当時は、ちょっと微妙な反応だったらしい。

 ひとつは中原が、棋士人生初というほどの、深刻なスランプにおちいっていため。

 もうひとつは、

 「加藤はすでに、が過ぎているのでは?」

 という危惧があったことだ。

 加藤一二三といえば、藤井聡太棋聖のデビュー時話題になった「中学生棋士」のはしりであり、その後も

 

 「C級2組からA級までノンストップ昇級」

 「20歳で名人挑戦」

 

 という信じられないスピードで、出世街道を驀進。

 当時のナンバーワンといえば、大山康晴名人であったが、棋士やファンの間では、こう言われていたそうだ。

 

 「大山から名人を奪うのは二上達也(加藤も認める、8歳上の好敵手)だろう」

 「そして二上を倒すのは加藤で、その後は長い加藤の時代が続くはずだ」

 

 あの升田幸三九段も、その突出した才能に感嘆し、

 


 「二十歳で名人になるか、二十五、六歳でなるか。とにかく二十歳台で名人になるだろう」


 

 このころは、加藤一二三が名人になるだけでなく、「大加藤帝国」を築くことに、疑いを持つものなどいなかったことが、よくわかるセリフである。

 ところが加藤は、その後なかなか、期待に答える実績を出せない。

 初の檜舞台となった1960年の第19期名人戦では、大山相手に1勝4敗完敗を喫してしまう。

 しかも、決着局となった将棋では、一手で終わるところを、わざとトドメを刺さず盤上でおちょくられるという、ひどい屈辱を味わうハメに(その将棋は→こちら)。

 このダメージが効いたか、加藤はその後も大山の壁にはばまれ、タイトル戦でもことごとく敗れ、初タイトルの十段(今の竜王)獲得まで、なんと14年もかかってしまうことになるのだ。

 

 

 1968年、第8期十段戦の第4局。7時間(!)の大長考の末に発見した▲62歩が、加藤本人も自賛する好打。

 単に▲44角は△33角で切り返されるが、▲62歩、△同金が入っていれば、そこで▲62角成と取れる。本譜は△71金だが、この利かしが大きく加藤が勝利し初タイトルに前進。

 ただし、加藤は大山と実に8回もタイトル戦を戦い、勝ったのはわずかに1回のみだった。

 

 

 加藤にとって試練だったのは、このころ中原誠という、さらなる強敵があらわれたこと。

 棋才は加藤に優るとも劣らず、年下で追ってくる立場とあっては、ますますプレッシャーに。

 『ヒカルの碁』の倉田厚七段の言う通りなのだ。

 

 

 

 

 

 ましてや、「大山超え」をまだ果たしていない加藤からすると、上下からサンドイッチにされる形で苦戦はまぬがれない。

 事実、加藤は初対戦から、なんと対中原戦で1勝19敗と、とことんカモにされてしまうのだ。

 こういった戦歴を見て、当時の将棋界では

 

 「加藤はもう、名人になれない」

 

 そう悲観するファンも多かった。

 才能は折り紙つきだ。そこを疑う者など居はしない。

 だが、大山と中原に徹底的に叩かれ、また時間の使い方のアンバランスさなど、決して戦上手といえないタイプ(自身に逆転負けが多いことは加藤本人も認めている)とあっては、天下取りは難しいと。

 現に、中原とは1983年の第32期名人戦で戦っているが、このときも0ー4と一番も入らず一蹴されている。

 こういう「格付け」が決まるような結果が出てしまうと苦しい。

 現代でも、佐々木勇気増田康宏といった若手棋士が藤井聡太に一人勝ちをゆるしてしまっているのは、順位戦アベマトーナメントなど目立つところで喰らってしまい、

 

 「あー、彼らでも勝つのは難しいんだ。藤井聡太は別格なんだ」

 

 という空気感を作られてしまったことも、大きいのではあるまいか。

 谷川浩司森下卓佐藤康光といった大棋士も、羽生善治を相手にそこを悩まされた。

 プロテニスプレーヤーである関口周一選手を題材にした井山夏生さんの本『テニスプロはつらいよ  世界を飛び、超格差社会を闘う』によると(改行引用者)、

 


  そして、選手にとってもっとも怖いのは「あいつは弱い」と思われることだ。そうした認識や評判はあっという間に広まってしまう。

 そうなると、それまでなら諦めていた場面で相手が諦めなくなる。

 負けていても「もう少し頑張ってみようか」となる。

 もともと力の差なんてわずかだ。頑張られると逆転されることもある。

 すると「ほらやっぱりね。あいつは弱い」というレッテルを貼られてしまう。


 

 4タテを喰らった加藤一二三も、まさにそうだったのだろう。

 「中学生棋士」だった天才も、すでに40代で下り坂。さすがにもう無理では……。

 ということろから、まさかの逆襲がはじまるのだから、人生というのはわからないもの。

 当初、まったく勝てなかった中原相手にも、徐々に互角に戦えるようになってというか、

 

 「もともと力の差なんてわずか」

 

 なわけで、それを証明するかのごとく棋王戦王将戦十段戦などで勝利をおさめる。

 そして1982年の第40期A級順位戦を、8勝1敗の好成績で走り抜け、3度目の名人戦登場を果たすのだ。

 

 (続く→こちら

 

 

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「21歳名人」誕生 谷川浩司vs加藤一二三 1983年 第41期名人戦 第6局

2020年06月13日 | 将棋・名局

 前回(→こちら)の続き。

 1982年の名人戦挑戦者決定リーグ戦(今のA級順位戦)で7勝2敗の好成績をおさめ、中原誠十段とのプレーオフ制し挑戦権を獲得した、まだ20歳谷川浩司八段

 挑戦者の勢いは七番勝負でもおとろえず、また加藤一二三名人が前期の名人獲得から長く調子が上がってこないこともあって、一気の3連勝と早くも名人奪取に王手をかける。

 あとひとつ勝てば名人戦史上最年少「21歳の名人」(谷川の誕生日は4月なのでシリーズ開幕直前に21歳になった)。

 日本列島を巻きこんだ「谷川フィーバー」も、ここピークをむかえたのだった。

 ただ大記録を前に、さすがの谷川も平静ではいられなかったか、第4局第5局と加藤名人の逆襲をゆるしてしまう。

 それでもまだ3勝2敗と有利だが、気持ち的にはそうは思えまい。

 後年、やはり初の名人戦で米長邦雄名人相手に3連勝スタートを切った羽生善治四冠も、ちょっとしたゆるみから第4局を落とし、第5局では完敗を喫すると、そこから

 

 「将棋界初(当時)の3連勝から4連敗の大逆転」

 

 を喰らってしまうのかと、かなり追いつめられたそうだが、やはり谷川浩司もまた人の子であり、「まさか」の妄念にさいなまれることになる。

 先手番ということもあって「決め所」ともいえる第6局。谷川はタテ歩取りからの、ひねり飛車にすべてをたくす。

 今ではあまり見なくなったが、このころは居飛車の主力戦法であって、

 

 「先手必勝の戦型が実現するとすれば、それはひねり飛車ではないか」

 

 という意見もあったほどなのだ。

 谷川が6筋から仕掛け、飛車交換になって、むかえたこの局面。

 

 

 先手が▲55歩と突いたところ。

 自陣のをさばこうという、自然な駒運びに見えるが、ここが危険な局面だった。

 ここで後手から、△68と、という手があった。

 

 

 ▲54歩と金を取ると、△58と、▲同金に△66角と金を取って、▲同角に△26飛が王手角取り。

 

 

 

 △68と、に▲同角と取るのも、やはり△26飛と王手金取り。

 ▲27歩△66飛▲57角の切り返しに△55角と出るのが、金取り解除しながら飛車ヒモをつけてピッタリで、どちらにしても先手の銀損が必至なのだ。

 

 

 谷川にとって幸運だったのは、加藤もまた、なぜかこの順が見えておらず、素直に△55同金と取ってくれたこと。

 これなら▲84飛の十字飛車で、攻めがつながる。

 一瞬のエアポケットだが、加藤がどう応じてくるか、まさに寿命が削られるような時間だったろう。

 大ピンチを切り抜けた谷川だが、やはりここからは、プレッシャーと戦わなければならない。

 その苦悶は手順にあらわれていて、この▲32角という手がいまひとつだ。

 

 

 王手飛車がきびしそうだが、ここでは▲32桂成という軽妙手があった。

 

 

 

 △同玉と取らせて、▲21角とここから王手飛車に打てば、△22玉▲54角成から▲21飛の2枚飛車で終了だった。

 ▲32桂成▲32角をくらべると、「玉は下段に落とせ」の格言通り、前者の方が感触がいいのは一目瞭然。

 谷川自身も、なぜこれが見えなかったかと後にいぶかしんだが、こんな簡単な手(谷川レベルなら)が指せないという、苦しい時間帯だったのだ。

 ▲32角に△44玉と逃げて、「中段玉寄せにくし」で嫌な形。飛車を奪ってせまるも、△71底歩も強力だ。

 少し手こずっている感もあるが、このあたりから落ち着きを取り戻したか、徐々に「らしい」手が出てくるようになる。

 

 

 

 △43角を殺されているのにかまわず、▲64歩と突き出すのが「前進流」の踏みこみ。

 △52銀▲72竜右と金を取って、△同歩に一転▲78金を殺して、大駒ゲットのお返し。

 やや強引だが、角が入れば、▲77角▲62角のような手で中段玉が照準に入ってくる。

 加藤も△57角成と食いちぎって、▲同歩に△89飛と攻め合う。これが、なにげに▲81もにらんでいて、油断のならない形。

 谷川は▲56歩と突いて、▲77角や▲66角をねらう。

 加藤は△55歩でそれを防ぎ、横腹が開いたのを見て先手も▲84竜と活用するが、そこで△73銀が、先の△89飛と連動して「勝負!」という受け。

 

 

 

 ▲同桂成なら、△84竜で先手のカナメ駒であるが抜ける。

 かといって、▲81竜のような手では、なにをやってるのかわからない。ここで谷川も気合負けしないとばかりに、▲同桂成と特攻。

 △84竜と取られても、▲63成桂とくっついて、攻めがつながっているという読みだ。このあたり、双方力の入った大熱戦である。

 

 

 

 

 クライマックスはこの局面だった。

 二転三転の戦いは、ここへきて、まだ難解という声が多かったそう。

 検討していた中原誠十段や、谷川をライバルと噛みつく田中寅彦六段なども、先手が勝ちそうだが、決め手が見つからないと頭を悩ませている。

 だが谷川は、少ない時間と激烈なプレッシャーの中、見事に正解を見つけるのだ。

 

 

 

 

 ▲71飛と打つのが、濃い霧をつらぬいて道を示す、一筋の光だった。

 次に▲72飛成とすれば、▲73馬からの詰めろで、ほとんど受けなしだが、かといってそれを止めるピッタリした手がない。

 検討陣も発見できなかった、これが「光速の寄せ」だ。

 加藤名人は△49と、と取り、▲72飛成△78飛と攻防に打ちおろすが、冷静に▲76歩と止められて逃げられない。

 

 

 

 ここで△62金が最後の抵抗だが、同時に形作りでもある。

 後手玉に詰みがあるからだ。

 

 

 

 ▲73馬と切って、△同金。ここまではよかった。が、ここで事件が起こる。

 谷川が次の手を指さないのだ。

 すでに将棋は終わっているのに、これはどういうわけか。

 信じられないことに、なんと谷川はここでもまだ、後手玉の詰みを発見できていなかった

 手の流れから、自分が勝ちであることはわかっている。

 でも、どうすればそこにたどり着けるのか、霧はまだ完全に晴れてはいなかった。

 手順にすれば、たったの9手詰

 寄せの問題として出されれば、落ち着いて考えればアマ初段クラスでも解けるレベル。

 ましてや、詰将棋に定評のある谷川浩司なら0、01秒で仕留められるはずなのだ。

 なのに、それがわからない。「光速の寄せ」の、まさかの大迷走

 このときの谷川は▲75銀、△55玉、▲66金まではわかっていたが、その次の手が見えず▲65金を取って、△43玉でハッキリしないと読んでいたそう。

 思考が堂々めぐりになり、あせりと重圧で苦しみに苦しみぬいたところで、ようやっと、今度こそ、最後の試練をクリアできた。

 詰みを発見したのだ。▲75銀、△55玉、▲66金、△54玉に▲44金と打ったところで加藤が投了。

 

 

 

 △同銀、▲52竜、△53合、▲43銀まで。

 谷川はこの▲44金が、盲点になっていたのだ。

 この瞬間、名人位が「苦節22年」43歳の加藤一二三から、まだ21歳の青年の元に移った。

 伝説が生まれる瞬間の様子を、直木賞作家である江國香織さんのお父様、江國滋氏が書いている(改行引用者)。

 


 ああ、という押し殺したような声とともに、挑戦者が不意に喘ぎはじめた。

 息苦しそうに顔を左右にはげしく動かし、手さぐりでひろいあげた純白のハンカチを急いで口元に押し当てながら、肩で大きな呼吸をくり返した。

 どう見ても嘔吐をこらえているとしか思えない苦悶の表情だった。

 荒い息づかいのまま、ハンカチを捨て、お茶をひと口すすり、メガネをはずし、おしぼりをぎゅっと両目に押し当てた。ああ、という声がおしぼりの陰から聞こえた。

 『最後の最後まで詰みが見つからなかった』(局後の第一声)という、その7五銀を見つけた瞬間の、これが谷川浩司新名人の反応だった。


 

 

 (加藤一二三「20歳の名人挑戦者」編に続く→こちら

 (「加藤一二三名人」誕生のシリーズは→こちら

 

 

 

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「史上最年少名人」への道 谷川浩司vs中原誠 1983年 第41期名人挑戦プレーオフ その2

2020年06月07日 | 将棋・名局
 前回(→こちら)の続き。
 
 藤井聡太七段が第91期棋聖戦で「史上最年少タイトル挑戦者」になった。
 
 これを受けて『りゅうおうのおしごと!』の著者である白鳥士郎さんは
 
 
 「28連勝」
 
 「史上最年少タイトル挑戦者」
 
 
 この二つを「絶対に破られない」記録として設定したのに……と呆然とされておられたが、ならついでに、この記録はどうだと挑んでもらいたいものが、谷川浩司のこれであろう。
 
 1983年、第41期名人戦の挑戦者決定プレーオフ
 
 前期の名人である中原誠十段と谷川浩司八段の決戦は、谷川先手で相矢倉に。
 
 
 
 
 
 ▲46角△64歩に、谷川の次の手が「マジか」とおどろく強手だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲75歩と打ったのが、ケンカ上等のすごい手。
 
 △同銀とされて、前進させてしまうが、続けて▲76歩
 
 後手は△86歩と突いて、▲同歩、△同銀、▲同銀、△同飛、▲87歩、△82飛
 
 
 
 
 
 この局面を見ると、先手の▲75歩はお手伝いのように見える。
 
 わざわざ一歩わたしたうえに、ゼロ手を進出させ、さらには飛車先銀交換もゆるし、その間、先手は有効な手を指していないどころか、歩切れにおちいっている。
 
 後手の棒銀を見事にさばかせてしまって、私がやれば「雑魚認定」の手順だが、もちろん谷川には、深い読みの裏づけがあってとのこと。
 
 強引に手にしたを、どう使うかだが……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲51銀と打つのが、ねらいの1手。
 
 △53角▲13桂成や、▲14歩、△同歩、▲同香一歩手に入れて、▲54歩と打つ。
 
 
 
 
 △71角▲64角王手飛車取り
 
 いきなり▲53同飛成、△同金に▲71角の強襲もありそうで、これも谷川の攻めが炸裂しそうだ。
 
 
 
 
 
 大技が決まったようだが、中原は△53銀と打ち、▲42銀成に、△同金寄として、駒損だが先手も歩切れとあって、存外むずかしい。
 
 
 
 
 
 
 このあたりの、中原のの深さもさすがである。
 
 谷川は▲65歩と突いて攻撃を継続。そこから激戦に突入。
 
 終盤、双方に勝ちの局面があったようだが、おたがいに逃す感じで、むかえたこの局面。
 
 
 
 
 
 先手は飛車が封じられ、▲24角と取るようでは、△23銀と味よく拠点を払われていけない。
 
 先手難局と思われたが、ここで谷川は中原をはじめ、だれも気がつかなかった妙手を披露し「フィーバー」を継続させるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲73銀と打つのが、すばらしい着眼点。
 
 パッと見、効いてるかどうかはかりかねるが、ねらいはすぐわかる。△92飛▲64銀成とし、△同金▲同角
 
 △35銀タダで取られるが、そこで▲66飛(!)がファンファーレの鳴りひびく活用劇。
 
 
 
 
 
 
 端に隠遁し、まったく活躍のめどが立っていなかった飛車が、一気に主役に躍り出た。
 
 ▲64が玉にねらいをつけ、▲23の存在もすさまじく、後手にまったく受ける形がない。
 
 まさに「景色が変わる」とはこのことではないか。
 
 こんな大一番で、歴史に残る名手を指せる谷川は、まさにスターだった。
 
 この若き谷川の進撃が、どれほどの衝撃だったかは、中原のその後の指し手を見れば伝わってくる。
 
 直撃弾を喰らってボロボロになりながらも、中原はひたすらに指し続ける。
 
 それはクソねばりにすらならない、ただ「投げきれない」という希望のない延命措置にすぎないが、名人9連覇(当時)や「五冠王」の実績のある大棋士が、そんなみじめな局面でも投げないところに、この将棋の重みがある。
 
 王者中原誠が、はじめて「下から追ってきた者」に抜かれる瞬間だからだ。
 
 河口俊彦八段の『対局日誌』によると、中原の宿命のライバルであり、名人位を取れず苦しんでいた米長邦雄王将棋王はこう言ったそうだ。
 
 

 「谷川くんが名人になったら、ワシャ気が狂うだろうね」
 
 
 祭は華やかだが、その舞台裏にも見えないドラマがある。
 
 棋聖戦で敗れた佐藤天彦永瀬拓矢は、ライバルと称されている佐々木勇気増田康宏は、いったいどんな気持ちだったのだろうか。
 
 そんな「神の子」谷川浩司の姿を見て、全国の少年たちが「名人」にあこがれ、奨励会に入ってくる。
 
 その中に、羽生善治をはじめ佐藤康光森内俊之村山聖郷田真隆といった面々がいて、またもうひとつのフィーバーを生み出すのだが、それはまだ少しばかり先の話である。
 
 
 (「谷川浩司名人」誕生の一局編に続く→こちら
 
 
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「史上最年少名人」への道 谷川浩司vs中原誠 1983年 第41期名人挑戦プレーオフ

2020年06月06日 | 将棋・名局
 ついに「史上最年少タイトル挑戦者」の記録がぬりかえられることとなった。
 
 前回は昭和の豪傑「マキ割り流」佐藤大五郎九段の将棋を紹介したが(→こちら)、今回は最新のホットなニュースから。
 
 先日行われた第91期棋聖戦の挑戦者決定戦で、藤井聡太七段永瀬拓矢叡王王座を熱戦の末に破って、待ち望まれたタイトル戦への登場を決める。
 
 これにより、ここまでの最年少記録だった屋敷伸之四段17歳9か月24日1989年後期の第55期棋聖戦)を「4日」上回っての記録更新。
 
 これがいかにすごいことかといえば、将棋小説『りゅうおうのおしごと!』の作者である白鳥士郎さんのツイートを借りれば、
 
 
 私が『りゅうおうのおしごと!』を書き始めた頃、将棋界には「絶対に破られない」とされる記録が2つありました。
 
 1つは神谷先生の28連勝。
 
 もう1つが屋敷先生のタイトル挑戦最年少記録。
 
 ラノベなのでそのうちの1つを破らせた設定にしたんですが、現実さんは1人の少年に2つとも破らせちゃうとか…
 
 
 まだ28連勝の方は羽生善治九段の22連勝、丸山忠久九段の24連勝、山崎隆之八段の22連勝など
 
 「これ、ワンチャンあんじゃね?」
 
 なことも、ちょいちょいあったものだが、この「おばけ屋敷」(屋敷が当時呼ばれたのニックネーム)の記録だけは30年近く破られる気配もなく、ビクともしなかったのだから、今回の藤井七段の快挙が、いかに「はなれわざ」だったか、わかろうといものではないか。
 
 もちろん、次のねらいは「史上最年少タイトルホルダー」。
 
 相手が充実著しい渡辺明三冠となれば、そんな簡単ではないが、今の勢いなら期待は充分。
 
 私など気が早いタイプだから、こうなったらどこまで記録を塗り替えられるか早速、とらたぬで皮算用をしてみたくなる。
 
 「八冠王」「タイトル100期」「通算2000勝」
 
 は究極の目標として、やはり目立つところでは、1967年中原誠十六世名人による年間最高勝率(8割5分4厘)と、羽生善治九段が「いっぱい将棋を指したな、と」と振り返る年間最多対局(2000年の89局)かな。
 
 なんて楽しくデータベースをめぐっていたのだが、ここにひとつまた「絶対に破られない」とされる記録があることに思い至った。
 
 うーん、これもその時期が来れば、相当話題を呼びそうだ。
 
 それはまだ時代が昭和だったころ、ある天才棋士が「フィーバー」を起こした話で……。
 
 
 1982年、将棋界はかつていない「フィーバー」が巻き起こっていた。
 
 今の将棋ファンにとって「フィーバー」といえば言うまでもなく「藤井フィーバー」だし、われわれ世代だと羽生善治九段「七冠フィーバー」というのがあったが、その前となると、谷川浩司が起こした大旋風のことになる。
 
 1982年から83年にかけての第41期名人戦挑戦者決定リーグ戦(今のA級順位戦)で、谷川八段は7勝2敗の好成績をおさめ、プレーオフへと進出。
 
 ここで前名人である中原誠十段に勝って挑戦権を獲得し、加藤一二三名人を破れば名人戦史上最年少の「21歳名人」という、大記録を達成することになるのだ。
 
 将棋界のシステムでは、他の棋戦では原則デビュー1年目からタイトルホルダーになれる可能性があるが、こと名人戦だけは順位戦という制度があるため、挑戦者になるには最低でも5年かかってしまう。
 
 つまり、「21歳名人」になるには、デビューからほとんどノンストップで階段を駆けあがっていかなければならない。
 
 ましてやそれを越えようと試みるものなら、まず14歳の「中学生棋士」になったとしても、順位戦でC2からA級まですべて1期抜け」でクリアしなければならないことに(谷川はC2で1度足止めを喰らっている)。
 
 名人15期中原誠十六世名人の初戴冠が24歳、十九世名人の資格を持つ羽生善治九段(獲得9期)ですら23歳なのだから、まさに「光速」を凌駕するタキオンのパワーが必要となるのだ。
 
 制度的に、勢いやまぐれだけでは絶対に不可能な、まさに神業的快挙ではないか。
 
 私はこのとき、まだ将棋に興味を持ってなかったので、リアルタイムで体感してないが、この「谷川フィーバー」も、またすごかったという話はよく聞く。
 
 たしかに当時の写真などを見ると、対局室は報道陣でごったがえしており、テレビ中継も入っていたりして、その熱気は充分伝わってくるものがある。
 
 このあたりのことは私も何度も読み返した、中平邦彦さんの『名人 谷川浩司』という本にまとめられているので、ぜひ一読していただきたい。
 
 マスコミでごった返す中行われた名人挑戦プレーオフは、谷川先手で相矢倉に。
 
 
 
 
 
 ▲46角と出た手に、中原が△64歩ととめたところ。
 
 ここで「前進流」の激しい手が飛び出す。
 
 これが、いかにも谷川らしい強気、かつ強情な手で思わず笑みがこぼれるのだ。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
 
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「不思議流」と「受ける青春」 中村修vs鈴木輝彦 1983年 第14期新人王戦 その2

2020年05月25日 | 将棋・名局

 前回(→こちら)の続き。

 1983年新人王戦準決勝。

 中村修六段鈴木輝彦六段の一戦。

 鈴木の筋のよい攻めに、中村は受け一方に立たされる。

 

 

 

 からはと、と金が、タテからは飛車桂馬がせまっており、先手玉はいかにも危なく見える。

 なにか後手からいい手がありそうだが、その通り、この局面で鈴木は決め手を放つ。

 

 

 

 

 

 △79銀と打つのが、寄せのお手本のような手。

 △69銀△67銀打は「王手は追う手」の見本で、絶対やってはいけないが、この銀こそは、

 

 「玉はつつむように寄せよ」

 

 という見事な形。

 次、放置すれば△67銀成と飛びこんで、▲同玉は、△68銀成までの詰み。

 かといって、△67銀成▲87玉と逃げるようでは、△88銀成と金を取ってから△66成銀くらいで受けなし。

 △79銀▲同玉と取るのも、やはり△67銀成と入りこまれる。

 ▲78金くらいしかないが、△66成銀を取っておくくらいでも、次の△77歩が激痛で試合終了。

 鈴木輝彦も「間違いなく勝ち」と確信していたが、さもあろう。

 どう見たって、先手に受けがない。

 とりあえず▲75銀と出て、一回はしのぐが、これがいかにも力がない手というか、△67銀成からの詰みを、▲66に逃げられる形にして防いだだけ。

 策のない、ただの延命のように見える。鈴木は△67銀成と捨てて、▲同玉に△88銀成と取る。

 △57金の詰みを防いで、▲58飛と、と金を払うが、そこで△47歩成として、きれいな飛車角両取り。

 

 

 ▲88飛しかなく、△37と、とを取られて、これまたしょうがないと▲85金と桂をはずしてがんばる。

 

 

 

 この局面が、クライマックス。

 後手の鈴木が先行し、その間中村は、しょうがないしょうがないの連続で、ただただ受け続けただけだ。

 その間、鈴木にきらめくような妙手も飛び出し、中村はサンドバッグ状態。

 特に頑強な受けや、相手を惑わせる魔術めいた手もなかった。

 ところがなんと、この局面はすでに先手勝ちなのである。
 
 はえ? そんなことあるの?

 と信じられないところだが、これが本当に、中村勝ちは動かないのだ。

 後手からは、様々な攻め筋がある。

 本譜の△57金からはじまって、△56角△87歩△79角△66歩△56銀などなど。

 しかも、どれを選んでも勝てそうなのに、実際のところはどれを選んでも負け

 そう、中村は中盤から攻められまくって「しょうがない」という手を指さされていると見えたのは錯覚だった。

 それどころか、中村は

 

 「この攻めは受け切り勝ち」

 

 完全に見切っていたからこそ、あのサンドバッグ状態でも平気な顔をしていたのだ。

 とはいえ、それにしても、信じられないではないか。

 こんなもん寄らないはずはないと、控室ではあれこれ手をつくして攻めまくるが、すべてしのがれている。

 メンバーは当時、順位戦でノンストップ昇級を続けていた田中寅彦七段(この年A級にもあがる)や、あの佐藤康光九段にも大きな影響をあたえ、「控室の主」として君臨していた、室岡克彦四段など。

 今でいえば、近藤誠也青嶋未来のような、将来有望な若手ばかりだ。それがよってたかってつぶしにかかって、どうにもならない。

 みなムキになって、2時間以上つついたが、やはり先手がどうやっても勝つ。

 ついには、この将棋を取材していた河口俊彦八段が音をあげて、

 


 「将棋とはこんなにも受けが利くものかと、驚くより呆れてしまった」


 

 これには感嘆することしきり。

 これぞ、中村修将棋だ。

 「変な手をやってくる」

 と思っていたら、それが深い読みの入った手。

 「どう見ても寄ってる」

 という局面が、実はそうではない。

 では、どこが良くて、どこが悪かったのかといえば、これまたよくわからない

 でも、最後はちゃんと中村勝っている。

 なんという将棋の作りか。これこそが、「不思議流」「受ける青春」の真骨頂である。

 とはいえ、やっぱりこれは不思議な将棋である。

 攻められっぱなしの上、鈴木に悪手がないどころか、△79銀のような鋭手をくらい、反撃のターンすら一度も回ってこないのに、気がついたら必勝。

 中村と仲の良い先崎学九段は、中村将棋を
 
 

 「一度も攻めずにタイトルを取った男」

 

 と評したが、それも納得がいく。

 中村九段は「不思議流」というキャッチフレーズに、

 


 「思いついた普通の手を、指してるだけなんですけどねえ」


 

 納得いってないようだったが、なにかこういう将棋を見せられると、

 「問答無用で不思議」

 と言わざるを得ないではないか。

 

 

 (「マキ割り流」佐藤大五郎の悪力編に続く→こちら

 (中村修の喰らった大トン死編は→こちら

 

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「不思議流」と「受ける青春」 中村修vs鈴木輝彦 1983年 第14期新人王戦

2020年05月24日 | 将棋・名局

 中村修の強さは、まさに「不思議」である。

 前回は先崎学九段による居飛車穴熊の戦い方を見たが(→こちら)、今回は真逆の「薄い」将棋を。

 中村修九段といえば高橋道雄九段南芳一九段塚田泰明九段島朗九段など、タイトルホルダーやA級棋士を多く輩出した「花の55年組」の一員で、若かりしころは、

 

 「不思議流」

 「受ける青春」

 

 と呼ばれる、独特のディフェンシブな将棋で、王将のタイトルを獲得したこともある。

 私が将棋をおぼえたころ、ちょうど中村王将は中原誠名人との防衛戦を戦っているころで、そのさわやかな風貌と、それに似合わぬ曲線的な指しまわしに、一気にファンになってしまったのだ。

 ただ中村修の将棋は、その強さと個性にもかかわらず、妙に説明しにくいところがあった。

 受けが強く、終盤力に定評があったことは事実だが、じゃあ具体的にどうすごいのか。

 そういわれると、ハテと首をかしげるところがある。

 終盤は強いが、藤井聡太七段のような、切れ味鋭い寄せという感じでもない。

 受けといっても木村一基王位のように力強いわけでも、デビュー時の永瀬拓矢叡王王座のように「受けつぶし」をねらうわけでもない。

 全体的にフワッとしてて、なんだかよくわからない手を指し、そのままメッタ打ちを食らって負けそうに見えるとこから、気がついたら勝っていたりする。

 で、なぜそうなったかわからず、みなが「なんで?」と首をかしげる。

 そのつかみどころのなさが「不思議流」のルーツになったが、その相手に急所をつかませないところこそ、中村将棋の強みだった。

 その様子をわかってもらうには、この将棋がいいかもしれない。

 

 1983年新人王戦の準決勝という大きな一番。

 相手は実力者である鈴木輝彦六段

 

 

 

 

 矢倉模様の戦いから鈴木が仕掛け、中村は手にのって中央から盛り上がり反撃するが、ここで手筋がある。

 

 

 


 

 

 △88歩と打つのが、筋中の筋。

 居飛車党の攻め将棋なら、もう自然に指がここに行くというものだろう。

 ▲同角△46歩だから、▲同金だが、になって▲88への脱出路をふさいでいるうえに、▲67浮き駒になってしまった。

 さすが、筋のよさで鳴らす本格派の鈴木だ。

 以下、△46歩▲同角に、△44銀と進出。

 ▲64銀と角道を遮断するも、無視して△45銀

 ▲37角△46歩と押さえ、▲73銀成を取って、△同桂▲54歩と取りこんだところで、△56銀打と浴びせ倒し。

 

 

 

 先手陣はバラバラで、飛車も使えておらず、攻め合いにもならない。

 なにか、後手が好きなように指しているようだが、これが中村は涼しい顔をしているというのだから、よくわからない。

 ▲77金寄とよろけ、△57歩にはヒョイと▲78玉と早逃げ。

 △58歩成と、「マムシのと金」ができて、ますますピンチに見えるが、すっと▲86歩と逃げ道を開けて耐える。

 

 

 

 右から追うと、玉を▲87から▲98に収納してがんばれるという読み。

 こうなると、手筋の△88歩が、逆に先手玉を固める手になって、逆用できる、と。

 そうはさせじと、後手は△85歩として、今度は上部から手をつける。

 ▲同歩△同桂と桂馬もさばけて、ますます好調に見えるが、中村は平気の平左で▲86金とあがる。

 

 

 

 むかえた、この局面。

 先手は攻めこまれているようで、なんなりと手をつくして受けまくる。

 なんとか一手空けば、▲64角とか▲42歩の反撃もあるが、鈴木はここで必殺の一手を用意していた。

 

 (続く→こちら

 

 

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「終盤の魔術師」見参! 森雞二vs二上達也 1982年 第40期棋聖戦 第1局

2020年05月12日 | 将棋・名局

 将棋の世界には「クソねばり」という言葉がある。

 形勢が不利になると、逆転をねらって「ねばる」というのは、当たり前の行為だが、中には



 「もうムリっしょ」

 「早く投げろよ」



 という声が多勢をしめるような局面にもかかわらず、それでも根性(もしくは投げきれなくて)で指し続ける場合があって、こういうのを少々下品な言葉だが「クソねばり」というのだ。

 前回は若手時代の羽生善治が、名人戦で森内俊之に見せた、神業的読みの深さを紹介したが(→こちら)、今回は実戦的で、泥臭い将棋を見ていただきたい。

 

 1982年、第40期棋聖戦第1局

 二上達也棋聖と、森雞二八段との一戦。

 先手の森が向かい飛車にして、▲86歩飛車交換をせまる仕掛けを見せるが、これが少々無理気味だったよう。

 二上のあざやかなカウンターを食らい、形勢を損ねてしまう。

 

 

 

 △88歩が痛打で、先手がシビれている。

 ▲同金△67歩成が、金銀両取りで終了。

 本譜▲77桂にも、△89歩成として、次に△88と、▲同金に△68飛金取りと、△67歩成が同時に受からず負け。

 △89歩成に、森は▲69歩と打ってねばる。

 

 

 

 いかにも、つらい手だが森いわく、

 

 「この手が一番長持ちするでしょ」

 

 たしかにそうかもしれないが、ただ長引かせるだけでジリ貧になる可能性も高い手だ。

 そこからあれこれあって、この局面。

 

 

 


 駒得のうえに、が手厚い後手とくらべ、先手の陣形は駒をベタベタと打ちつけて、いかにも「クソねばり」な雰囲気を醸し出している。

 当時の観戦記でも、一時よりマシになったが、それでもまだ後手が、かなり有利と衆目が一致。

 先手は1筋から攻められると、左辺の金銀になって逃げられないし、そもそもここで次に指す手すら、まったく見えない状況だ。

 だが、森はあきらめていなかった。

 圧敗必至のこの場面で、ふたたび驚愕の一手を指すのだ。




 

 ▲83歩と打ったのが、すごい手。

 ねらいとしては、もちろん、次に歩を成るということはわかるんだけど、こんな王様と反対の真空地帯に、と金を作って一体どうしようというのか。

 そもそも、ここで1手パスして▲82歩成としても、後手からすれば、なんのこともないではないか。

 ところがこれが、ここまで精緻をきわめた、二上棋聖の思考を乱すのだから、勝負というのはわからないもの。

 よく解説を担当するプロが、

 

 「中盤で差がつきすぎると、かえって指す手がむずかしい」

 「どうやっても勝ちという場面ほど、迷ってしまって結構あぶない」



 なんて言うものだが、これは本当で、この後の展開がまさにそうだった。

 また観戦してた米長邦雄棋王芹沢博文九段が、

 


 「二上さんは怒っている」


 
 
 そろって言ったように、美学派に分類され、華麗で美しい将棋を追求していく「北海の美剣士」二上達也にとって、この森の泥臭い指しまわしは、受け入れがたかったか。
 
 そのノイズが、少しずつ二上の読みを侵食していく。
 
 後手はねらい通り、を攻撃するが、その間に森は▲82歩成として、次に一回▲91と、と香車を補充する。

 1筋こそ突破されたものの、森もそこからなんやかやとアヤをつけ、さらにはその間隙をぬって、と金右側に寄せていく。

 ▲83歩▲82歩成▲91と▲81と▲71と▲61と……。

 書き写しているだけでもイライラする亀の歩みだが、これが
 

 「マムシのと金」

 「と金のおそはや」

 

 意外なほど、後手にプレッシャーをかけているようだ。

 二上が攻めあぐんでいるうちに、先手はいつの間にか、後手の飛車を召し上げてしまう。

 さらには、と金▲51と、と後手の守りの要である「底香」をさらい、ついに▲41と、とまでうばってしまうのだ!





 

 先手はいいタイミングで、▲59玉早逃げしたのが好手で、ここにきて将棋は完全に逆転

 ここで先手に、カッコイイ決め手がある。





 

 ▲15香と打つのが、玉の逃げ道をふさぎながら、▲31飛から詰めろという妙手。

 △同馬▲12飛で、王手馬取りが決まる。

 二上は△41玉とするが、そこで▲81竜と、遊び駒だったを使うのが気持ちのいい手。

 以下、森が、あざやかな寄せを見せて勝ちきった。

 その独特の雰囲気を持った逆転術を武器とし、森は「終盤の魔術師」と恐れられたが、その見本のような勝ち方。

 森はこれで勢いにのり、3連勝棋聖獲得。

 二上は勝てば「永世棋聖」の称号を得られたが、それはかなわなかった。

 森といえば、対局中に控室にあらわれ、検討用のモニターに映る対戦相手の姿に



 「間違えろ!」

 「悪手を指せ!」



 そう叫んでいたというが、まさにこの▲83歩からも、それが聞こえるようだ。

 名局とは言えないかもしれないが、「おもしろい将棋」とはこういう一局のことをいうのであろう。

 
 (先崎学の「穴熊の暴力」編に続く→こちら

 

 

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「史上最高」の戦い 羽生善治vs森内俊之 1996年 第54期名人戦 第5局

2020年05月06日 | 将棋・名局
 名人戦の黄金カードといえば様々である。
 
 大山康晴升田幸三中原誠米長邦雄谷川浩司の「21歳名人フィーバー」。
 
 など様々あるが、平成の名人戦といえば、やはり、羽生善治と森内俊之にとどめを刺す。
 
 前回は、2人の初顔合わせとなった名人戦の、第1局を紹介したが(→こちら)、今回も同じシリーズから。
 
 
 1996年、第54期名人戦は羽生善治名人が、挑戦者の森内俊之八段を相手に、3勝1敗とリードして第5局をむかえた。
 
 先手の羽生が相掛かりを選択し、押したり引いたりする難解な戦いに。
 
 両者、盤面全体をくまなく使った熱戦になったが、森内優勢の局面から羽生もアヤシイねばりで追いこんでいく。
 
 むかえたこの局面。
 
 森内が△69銀と打ったところ。
 
 
 
 
 
 ▲同玉△48成桂と引いて、簡単に詰み
 
 一方の後手玉に詰みはなく、▲53香成とでもすれば、△78銀成から、とても先手玉は助からない。
 
 藤井猛九段や、渡辺明三冠の口調を借りれば「考える気がしない」手順だ。
 
 控室の検討でも、「森内勝ち」ということ結論になっていたそうだが、ここで羽生が指した手が、目を疑う驚愕の一着だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 18分考えて、▲53香成と、自玉を放置して、後手玉に詰めろをかけたのだ。
 
 なんだ、これは?
 
 先手玉は詰まされそうなのに、それを無視とはどういう了見か。
 
 私も見ながら、「だから、詰まされるゆーてるやん!」と、思わずテレビにつっこんでしまった。
 
 なにがなんだかサッパリわからないが、ここで攻めるということは、可能性はふたつしかない。
 
 ひとつは、負けを悟っての「形作り」。
 
 もうひとつは、先手玉が詰まないから。
 
 まあ、詰まないはありえないから、羽生も首を差し出したのだろう。それ以外ない。
 
 あとはちゃちゃっと王手して、第6局か。激戦やなあ。
 
 なんて、すっかり打ち上げ気分だったが、なんだか対局場の雰囲気は、おかしなことになっている。
 
 先手玉は詰むはずだ。それも、わりと簡単に。だからこそ、森内は△69銀と打ったのだ。
 
 これが一手スキでないなら、そもそも森内はこの手を選ばないし、だいたい深く考えなくても、こんなもん、どう見ても詰みではないか。
 
 ところが、森内は次の手を、すぐには指さない。
 
 このあたりで、だんだんと、おそろしい想念にとらわれはじめる。
 
 「どう見ても詰み」を、すぐ詰まさない。
 
 てことは、これって、もしかして不詰?
 
 いやまさか、そんなことあるわけがない。
 
 先手玉は「玉のからを打て」の手筋で、受けがない形。
 
 △78銀成と取って、▲同玉に△48竜とか。
 
 △69銀とか△79金とか、カッコつけて△97角と退路封鎖の王手とか、せまる筋は無数にあるのだから。
 
 そこを、悠々と▲53香成
 
 ふつうは「形作り」だけど、これを詰まないと読んで選んだとしたら、とんでもないこと。
 
 結論をいえば、先手玉は詰まない
 
 なんと、森内の指した△69銀は、一手スキなっていなかった!
 
 具体的に言うと、△78銀成、▲同玉に△69銀と王手する。
 
 以下、▲88玉、△48竜、▲97玉、△86金、▲同歩、△87金、▲同玉、△78角。
 
 
 
 
 
 ここで▲97玉△96角成と捨てて、▲同玉△95香と打てば、▲同玉△94歩以下ピッタリ。
 
 というのが森内と検討陣の共通した読みだったが、この変化は△78角のとき▲98玉(!)と逃げるのが妙防。
 
 
 
 
 
 あえて△89角成と取らせてから▲97玉と逃げれば、△96角成がなくなるので不詰。
 
 手順を追うと、みなが錯覚したのは理解できる。
 
 ふつうは、の利きに入る▲98玉では、簡単に詰みそうだから盲点になる。
 
 それをただひとりだけ、「詰みなし」と読み切っていた男がいた。
 
 あの▲53香成は「形作り」どころか、堂々の勝利宣言だった。
 
 その他にも、後手からは数え切れないほど王手の筋があるものの、すべて不詰
 
 その手順は勝又清和七段の著書『つみのない話』にくわしいが、とにかく変化がありえないほど膨大。
 
 まるで円周率の終わりを探すような作業で、検討していると気が狂いそうになる。
 
 その全部が詰まないのだ。信じられない、全部だよ、どうやっても、この先手玉は詰まないのだ!
 
 その超難題を、すべてクリアしてのことだから、まさに神ががりだ。
 
 結果的には、むしろ必殺のはずだった△69銀こそが「形作り」になってしまったということか。
 
 この手では△97銀と捨てるのが退路封鎖の手筋で、▲同香△99銀で必至だった。
 
 
 
 
 
 
 これなら森内が勝ちだった。
 
 でも、こんな形が詰まないとか、判断を誤ったとしても責められないよ……。
 
 震えるようなすごい見切りで、羽生が名人防衛を確定させた。
 
 以下、△78銀成、▲同玉、△48竜に、▲68金△69銀、▲同玉、△58金、▲78玉、△68金▲88玉△67金▲68歩で、遠く馬の利きが強力で詰みはない。
 
 
 
 
 
 
 こんな将棋を勝ってしまうなど、羽生の名人位は盤石であり、また羽生と森内の「格付け」も一度は決着したかに思われた。
 
 まさかその後、森内が先に「十八世名人」になるとは予想もできず、その意味では「今の評価」なんて今後どうなるかとか、案外わからないもんだとも思わされたのである。
 
 
 (「終盤の魔術師」森雞二の逆転術編に続く→こちら
 
 
 
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「史上最高」の戦い 羽生善治vs森内俊之 1996年 第54期名人戦

2020年04月30日 | 将棋・名局
 「名人戦」と聞いて出てくるワードは時代によって様々である。
 
 前回は羽生善治と久保利明の王座戦を紹介したが(→こちら)、今回取り上げるのは名人戦で、この話題となると、
 
 「そら、中原誠米長邦雄の《米中戦争》しかないやろ」
 
 「いやいや、《21歳名人》谷川浩司フィーバーを忘れてもろたら困る」
 
 「おいおい、大山康晴升田幸三の死闘を知らんとはド素人ばっかりやないか」
 
 などなど「名人の権威」という言葉が生きてた時代を知る、オールドファンの声が上がりそうだが、昭和に続く平成の名人戦といえばやはり、
 
 「羽生善治vs森内俊之
 
 このカードにとどめを刺すだろう。
 
 この2人は30代から40代はじめころにかけて、毎年のように名人戦を戦っていたが、初めて相まみえたのが1996年の第54期名人戦。
 
 これは森内にとって、最初のタイトル挑戦でもある。
 
 両者とも25歳という、フレッシュな組み合わせとなったこの七番勝負。
 
 結果こそ4勝1敗で羽生が防衛と、スコア的には差がついたが、内容面ではどれも非常に拮抗した戦いであり、そのレベルの高さから、
 
 
 「指し手の質では史上最高クラスでは」
 
 
 といった声も聞かれたほどだった。
 
 羽生の強さは今さらだが、敗れた森内評価もまた、大いに上がったのである。
 
 今回はその中から、開幕局を取り上げたい。
 
 羽生が先手で相矢倉になり、当時の将棋らしい、がっぷり四つの組み合い。
 
 むかえたこの局面。
 
 羽生が▲46角とのぞいたのに対し、森内が△62飛と、6筋に照準を合わせたところ。
 
 
 
 
 
 おたがい飛車先に戦力が集中しており、一気の攻め合いになりそうなところだが、ここで羽生が得意の「例のアレ」をくり出してくる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲94金と打って、攻め駒をここで責める。
 
 よく、▲83▲23の地点にを打って、相手の大駒を責める形を「羽生ゾーン」と呼ぶが、これもその一種。
 
 羽生はこういうB面攻撃を、ひそかに得意としているが、後手も△66歩から殺到するのが目に見えているから、怖いところ。
 
 下手するとをうまくさばかれて、この金が「スカタン」になる可能性もあるけど、攻め合うよりも、こうやってじっとプレッシャーをかける方がいいという判断か。
 
 行くしかない後手は△66歩と取りこんで、以下▲68金引△67歩成▲63歩△同飛▲64歩△68と、と激しい順に突入した。
 
 そこから、大きな駒の振り変わりがあって、この場面。
 
 
 
 
 
 
 後手の△58飛がきびしい手で、次に△87銀と打てればおしまい。
 
 かといって、▲86銀△68歩成で、受けがない。
 
 後手玉はあぶないけど、まだ詰みはないということで、森内優勢かに見えたが、ここで羽生の指したのがおどろきの手だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲98角と受けたのが、すごい手。
 
 たしかに大駒を玉の近くで受けに使うには、
 
 「飛車
 
 のイメージでとは言われるが、それでもこんな受け一方の角を打たされては、いかにも苦しげだ。
 
 デビュー当時の羽生は、敗勢になっても投げず、ねばりまくる根性で有名で、テレビを観ながら、
 
 
 「《羽生のクソねばり》を久しぶりに見たなあ」
 
 
 なんて感じ入ったものだが、ところがどっこい、これがそういうわけではないというのだから、将棋というのはむずかしいものである。
 
 「打たされた」感ありありのこの角だが、これで先手が、容易には負けないのだ。
 
 以下の手順を見ると、後手は当然の△57と、に▲69金と補強して、△48飛成▲66馬と引く。
 
 後手は△65銀と、かぶせてくる。
 
 
 
 
 
 今にも押しつぶされそうな先手陣だが、ここで▲57馬(!)と取るのが好手。
 
 攻防に利くカナメのと、と金の交換など、レートでいえば大損ぶっこき丸だが、駒を損しても急所のと金を払うのがいい判断。
 
 さらにはタテヨコに利いていたを、働きの弱い△57の地点に引きずりこむのも大きいのだ。
 
 △57同竜に、▲73金と取った形を見てほしい。
 
 
 
 
 
 あれだけ危険だった先手玉が、いつの間にか鉄壁になり、一方後手陣はスカスカなうえも中途半端で、有効な手がない。
 
 やむをえず△68金と打つも、一番固いところを攻める形で、不本意この上ない。
 
 ▲34桂とここで反撃し、△41歩に、▲43歩と攻めつけて先手が圧倒。
 
 羽生がまず初戦を飾ったのである。
 
 こうして見ると、▲98角と打ったところでは、すでに先手優勢だったことになり、ちょっと信じられないが、手順を見るとそういうことになる。
 
 うーん、あんな形から勝つ羽生はやはりすごいと感心してしまうが、この将棋にはまだ続きがあった。
 
 局後の検討によると、やはり、あの局面は後手が指せるらしいのだ。
 
 良くなかったのは△58飛で、自然に見えたが、ここはもっといい手があった。
 
 ちょっと盲点になる筋だが、あえて「アレ」をかけさせて……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 △48飛と、ここに打つのが好手。
 
 これで、▲69金が先手で打てないから、後手の攻めが一手速い。
 
 今度▲98角△57と馬取りになるので、後手の攻めが刺さっている。
 
 というと、
 
 「あれ? この飛車、取られちゃうんじゃね?」
 
 首をひねったあなたはなかなかスルドイ。
 
 ▲22馬と切って、△同玉に▲66角と打てば王手飛車なのだが、これがいわゆる「毒まんじゅう」。
 
 △33歩と合駒して、▲48角と取らせてから△69角と打てば、角も取り返せる形で後手優勢だった。
 
 
 
 
 
 △58に打って充分に見えるところを、あえて王手飛車をかけさせる超高等テクニックで、森内も感心していたという。
 
 この将棋に大いに満足した私は、これから二人が、名人戦だけでなく他の棋戦でも、どんどんおもしろい将棋を見せてくれるのだと、新時代の幕開けに胸を躍らせたものだった。
 
 
 (羽生と森内の名人戦第5局編に続く→こちら
 
 
 
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さばきのアーティスト ねばりもアーティスト 久保利明vs羽生善治 2007年 第55期王座戦

2020年04月24日 | 将棋・名局
 「さばきのアーティスト」久保利明は、ねばりも一級品である。
 
 振り飛車を得意とする棋士というのは、独特の粘着力のようなものを標準装備しているものだが、中でも久保利明九段のそれは、かなりのもの。
 
 前回は執念でもぎ取った深浦康市の初タイトルを紹介したが(→こちら)、今回は久保の強靭な足腰を見ていただきたい。
 
 
 2007年度の第55期王座戦
 
 羽生善治王座に挑戦したのは久保利明八段だった。
 
 羽生の2連勝でむかえた第3局
 
 先手になった久保の藤井システムに、羽生は△64銀型の急戦。
 
 攻め合いになるのを見越して、さっと米長玉にかまえた羽生の趣向が興味深い序盤戦だったが、仕掛けてからは一気に激しくなった。
 
 
 
 
 
 中盤戦。
 
 飛車の交換なうえにも取れそうで、振り飛車が大きな駒得だが、後手の攻めも先手陣の最急所にせまっている。
 
 もともと低い陣形の美濃囲いは△36コビンが弱点だが、そこに桂馬が跳んできているだけでなく、の援軍にのラインもあって、二重三重に圧がかかっている。
 
 受けがむずかしいどころか、すでに倒れていてもおかしくない局面だが、こういうところを持ちこたえるのが、振り飛車党の「腕の見せ所」だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲18金△57銀成▲37歩(!)。
 
 ▲18金はこれしかないが、△57銀成詰めろで飛びこむ筋があるから、無理だと捨ててしまいそうなところ、時間差▲37歩と穴をふさいで耐えている。
 
 ただ、見るからに危ない形で、「ホンマに受かってるん?」とドキドキしてしまう形だ。
 
 羽生は△58成銀と取って、▲同金に△57金とかぶせる。
 
 
 
 
 
 取れば言うまでもなく、△48銀で詰み。
 
 ▲47角成△58金、▲同馬、△48金、▲同馬、△同桂成、▲同玉に△68銀と打つのが、△66角からの詰めろ飛車取りで攻めが続く。
 
 こうなると、後手の米長玉が光って見える。これまた、どうやって守るのか1手も見えないが、久保はまたもギリギリでしのぐのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲36歩、△58金、▲49歩(!)。
 
 激しい空襲で屋根が吹っ飛んでいるが、この「掘っ立て美濃」のような形で、まだ寄りはない。
 
 飛車は取られるが、△69金ソッポに行ってくれると、先手は急に呼吸が楽になるので、▲41とのような手もまわってきそう。
 
 だが羽生もさるもので、次の手がなんと△68歩(!)。
 
 
 
 
 
 金がはなれては勝てないと見て、タダで取れる飛車を、わざわざ1手よけいにかけて確保しにいく。
 
 なんちゅう手なのか。
 
 そりゃ、意味を説明されればわからなくもないけど、それにしたってなかなか指せないよ。
 
 手番が来た久保は、ここで待望の▲41と
 
 歩を打たせたこのタイミングで、あえて飛車を逃げる手もあったが、勢いは金を取りたいところでもある。
 
 
 △69歩成に、▲37銀打と埋め、後手も△22銀といったん自陣に手を入れたところに▲16歩と天窓を開いて、まだまだ耐えられる。
 
 
 
 
 シビれるようなねじりあいで、こういうやり取りがたっぷり見られるから、羽生-久保戦というのは、一度味わったらやめられないのだ。
 
 そこからも超難解な終盤戦が続き、控室の検討では久保勝ちではという評判だったそうだが、いやそうでもないという声もあり、正直むずかしすぎてよくはわからない。
 
 ただ、最後に抜け出したのは羽生だった。
 
 途中、△25金△14歩といった、羽生らしいアヤシげな手が出るなど雰囲気が出まくる中、「詰めろのがれの詰めろ」をめぐるギリギリの切り返しが飛び交うとか、久保から最後に幻の絶妙手があったり、もうわけわかんないんだけど、とにかく勝負が決まったのはこの局面。
 
 
 
 
 久保は▲57角の王手から、最後の突撃をかける。
 
 もし詰みがなくても、どこかで▲48角と金をはずす手があって勝ちがありそうだが、ここで後手から「次の一手」のような決め手があった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 △46桂中合するのが、作ったようにきれいな手。
 
 ▲48角△38飛成で詰み。
 
 ▲46同角と取るしかないが、△35銀と打って詰みはなく先手玉は必至
 
 久保は▲35同角から王手ラッシュをかけるが、羽生は冷静に対処し、王座防衛で16連覇を達成したのだった。
 
 
 (羽生善治と森内俊之の名人戦編に続く→こちら
 
 (久保の軽やかな桂使いは→こちら
 
 
 
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幻の妙手を探せ! 深浦康市vs羽生善治 2007年 第48期王位戦 第7局 その2

2020年04月18日 | 将棋・名局
 前回(→こちら)の続き。
 
 羽生善治王位深浦康市八段で争われた、2007年の第48期王位戦
 
 最終局も、いよいよ大詰めをむかえた。
 
 
 
 
 
 先手玉は詰めろで、後手玉に詰みはないこの局面。
 
 ここで残り時間21分から、19分を投入し、ギリギリのところで深浦が指したのが、目をみはる一撃だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲77桂と跳んだのが、根性の男、深浦康市が見せた乾坤一擲の勝負手。
 
 意味としては角道をとめつつ、後手玉が△53の地点に逃げたときに、▲65桂をはずしながら、王手でせまる筋ができたということだ。
 
 じゃあ問題なのは、この▲77桂詰めろになっているのか。
 
 なっているなら、先手が勝てそう。
 
 深浦の自戦記によると、ここではもともと▲77歩と指すつもりで、△76桂と詰めろをかけても、▲62金△同角▲61竜から詰まして勝ちと読んでいた。
 
 ところがこの順は▲61竜に△82玉、▲62竜、△72銀、▲71角、△81玉、▲72竜、△同玉、▲62金、△81玉、▲82銀、△92玉。
 
 
 
 
 
 ここで▲93銀成までピッタリ詰みかと思いきや、なんと△93の地点には△66からの利きがあるではないか!
 
 最終盤でのまさかの読み抜けで、深浦は「天国を夢見、地獄へ落され」と自身でも語る転落劇に動揺するも、秒読みにせかされて桂を跳ねた。
 
 ここではまだ、後手玉が詰めろになっているかどうか読み切れていなかったそうだが、羽生の7分の考慮中になんとこれが「詰めろ逃れの詰めろ」という必殺手であることを理解する。
 
 そうなると、あとは羽生がどう対処するかだが、詰みなしと見たのだろう、△69銀不成と取ったが、これが敗着になった。
 
 ▲62金打として、△同角、▲同金、△同玉に▲53角と打って後手玉は詰んでいる。
 
 
 
 
 
 以下、△同玉、▲65桂、△同桂、▲51竜まで、羽生が投了
 
 これで、深浦新王位が誕生することとなった。
 
 フルセットを戦って、最後も大熱戦の中、すばらしい妙手を指して、しかも羽生からタイトルを奪ったのだから、深浦も最高の気分だったろう。
 
 ……と思いきや、実はこの将棋には、もうひとつドラマがかくされていた。
 
 結果はもう出てしまったが、そうなると気になるのは、△69銀不成が敗着なら、他の手はどうなの?
 
 実際のところ、羽生は自玉の一手スキが見えてなかった(本人は明言しないが、気づいていたら時間がなくなるまで返し技を考えたはずだ)、いわば、なかば「トン死」のような負け方をしたのだから、もしそれに気づいていたら、いい手があったのでは?
 
 答えは「あった」だ。
 
 なんとあの局面、▲77桂と跳んで勝ちのようで、本当はそうではなかった。
 
 ▲77桂には、やはり後手から△76桂と打つクロスカウンターがあった。
 
 
 
 
 
 
 この銀桂香のを、あざやかに飛び越える桂馬のベリーロールが、先手玉に対する詰めろになっている。
 
 と同時に、▲78に設置された、の利きをさえぎっているのがポイント。
 
 こうなっていると、先手が王手ラッシュをかけたときに、上部脱出の押さえ駒がないから詰まないのだ。
 
 一例をあげれば、本譜と同じように、▲53角まで進んだとして、以下△同玉、▲65桂、△同桂、▲51竜で、投了せずに△52歩と合駒する。
 
 ▲54飛、△63玉、▲52飛行成、△73玉、▲71竜△84玉の局面。
 
 
 
 
 
 
 もし、△76がいなければ、▲74竜でピッタリ詰んでいるが、香の利きが止まっているため、先手はこれ以上の手がない。
 
 つまり、▲77桂が「詰めろのがれの詰めろ」の絶妙手だとしたら、続く△76桂はそれを上回る、
 
 
 「詰めろのがれの詰めろのがれの詰めろ」
 
 
 という、劇的すぎるトリプルクロスカウンターなのだ!
 
 このあたりは、いろんな変化があってややこしいが、たしかに△76桂だと、後手玉が二枚飛車で追いかけまわされても、スルスル抜けてつかまらない。
 
 なんという手が、あったものか。
 
 幻に終わった逆転劇だが、もし△76桂が指されていたら、深浦康市はどうなっていただろう。
 
 彼ほどの男だから、仮にここで負けても、いつかはタイトルを取ったろう。
 
 ……と口ではだれでも言えるだろうけど、本当のところそれは、そんな簡単なことではないのは、多少将棋の世界を知っているものなら、わかることだ。
 
 この結果が逆だったら、もしかしたら今ごろ
 
 
 「なぜ深浦ほどの男が、まだ無冠なのか」
 
 
 と議論されていたかもしれず、まさにギリギリの栄冠だったのだ。
 
 
   (久保利明のねばり強さ編に続く→こちら
 
 
 
 
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幻の妙手を探せ! 深浦康市vs羽生善治 2007年 第48期王位戦 第7局

2020年04月17日 | 将棋・名局
 「幻の妙手」について語りたい。
 
 将棋の世界には、盤上にあったのに対局者が発見できないか、もしくは発見しても指し切れずに終わってしまった好手というのが存在する。
 
 前回は郷田真隆九段の指した妙手と、藤井猛九段が残念ながら発見できなかった、その返し技を紹介したが(→こちら)、今回は深浦康市九段と羽生善治九段の一戦から。
 
 
 先日、NHK杯優勝した深浦康市九段といえば、四段時代に全日本プロトーナメント(今の朝日杯)や早指し選手権優勝(決勝の相手はそれぞれ米長邦雄羽生善治)。
 
 その実力が一級品であることを見せつけたが、タイトル獲得やA級昇級が遅かった棋士である。
 
 順位戦の下のほうで苦労したことと(9-1での頭ハネ2回。この風通しの悪さには本当にウンザリする)、「羽生世代」の厚い壁が存在してたせいだが、そんな深浦に大きなチャンスが訪れたのが、2007年の第48期王位戦
 
 挑戦者決定戦で、渡辺明竜王を破って久しぶりに大舞台に登場した深浦は、羽生善治王位相手にもいい将棋を展開。
 
 3勝1敗とリードし、初のタイトル獲得に王手をかける。
 
 まあ、そこは天下の羽生のこと。簡単に勝たせてはくれず、カド番をふたつしのいでタイに押し戻し、勝負は最終局にもつれこむことに。
 
 この一番がまた、タイトル保持者を決めるにふさわしい大激闘になるのだ。
 
 たとえば、こんな手。
 
 
 
 
 
 ▲41角に、△62金打。
 
 △63を取って、▲53桂成とされる手を防いだわけだが、穴熊相手に固さ負けしないぞ、という気合を感じる。
 
 
 
 
 
 
 △71角の受けに、▲42銀がすごい手。
 
 まるで初心者のような筋の悪い攻めだが、これで存外食いついている。
 
 深浦流の、根性を感じる手だ。
 
 
 
 
 
 この△21を守る金打ちも、見たときはひっくり返ったもの。
 
 正直、いい手なのかどうか、私レベルではさっぱりわからないけど、熱戦の雰囲気は出ている。アツい。
 
 深浦はそれでも▲21馬と取って、△同金に▲55桂とせまる。
 
 羽生はもらった△66に設置し、ついに先手の穴熊を照準にとらえる。ド迫力の終盤戦だ。
 
 クライマックスはこの場面。
 
 先手が▲21飛成と金を取り、後手が△68銀と打ったところ。
 
 
 
 
 
 この局面、先手玉は△88角成からの簡単な詰めろで、後手玉はまだわずかに詰まない
 
 なにかひねり出さなければならない場面だが、ここで深浦が指したのが、この将棋を熱戦から王位戦の歴史に残る名局に格上げさせた、目をみはる一撃だった。
 
 
 (続く→こちら
 
 
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「ジメイ君」の米長哲学 村山慈明vs村田智弘 2007年 第65期C級2組順位戦

2020年03月29日 | 将棋・名局

 村山慈明はなにをやってるねん。

 というのが、前からずーっと引っかかっていることなのである。

 村山七段といえば奨励会のころから将来を嘱望されており、19歳でプロデビュー後も新人王戦優勝勝率一位賞獲得など、エリートコースを走っていた。

 ならば今ごろはAクラスに定着し、タイトルの5、6個も取っていておかしくないはずだが、まだ挑戦者決定戦の壁を破れず、順位戦もB級1組から、まさかの降級を喫してしまった。

 NHK杯優勝など大きな実績もあるが、そのポテンシャルからしては全然物足りないところで、ここからの巻き返しを期待したい棋士のひとりだ。

 前回は羽生善治森下卓の若手時代の将棋を紹介したが(→こちら)、今回は期待をこめて「ジメイ」君の絶妙手を見ていただこう。

 

 2007年、第65期C級2組順位戦の最終局。

 村山慈明四段は、村田智弘四段と対戦することとなった。

 この一番は、村田が勝てば、C1昇級が決まるという大勝負。

 一方の村山は、ラス前で競争相手の片上大輔五段に敗れて(片上はこの期9勝1敗の成績で昇級する)昇級戦戦から脱落している。

 村山は前期も、最終戦で勝てば昇級の一番を、川上猛六段に敗れ逃してしまった。

 今期も、もし片上戦に勝っていれば、この村田戦が、昇級をかけた直接対決の鬼勝負になるはずが、まさかの消化試合に。

 2年連続「あと一歩」で涙を飲み、これで競走相手に目の前で上がられた日には、もう踏んだり蹴ったりもはなはだしい。

 村田のみならず、村山にとっても、ここは絶対に負けられない一番なのだった。
 
 戦型は後手の村山が、横歩取りから、中座流△85飛車戦法にかまえると、村田は序盤で工夫を見せ力戦型に。

 むかえた中盤の、この局面。

 

 

 

 村山が△35桂と打ったところ。

 後手がを得しており、その桂馬が、先手陣の急所である▲27の地点と、▲47をねらっている。

 それだけ見ると苦しそうだが、先手は▲62にいるの存在が大きい。

 後手玉も、2枚のタレ歩が、ノド元に突きつけられていて相当に危なく、実戦的にはむずかしい局面なのだ。

 と、ここで

 「あれ? この桂馬ってタダなんじゃね?」

 と感じたアナタは、なかなかスルドイ。

 そう、ここで▲43歩成と成り捨てると、△同玉▲35馬で、打ったばかりのが抜かれてしまうのだ。

 本譜もそう進むが、もちろんこれはウッカリではない。

 村山は桂を犠牲にすることで、▲43歩成とド急所のタレ歩を捨てさせ、左辺の制海権を押さえている、も引き上げさせたのが主張だ。

 ▲35馬に、後手は△44金と打って、馬にアタックをかける。

 馬を逃げるようではドンドン押し戻されるから、村田は▲同馬と切りとばして、△同玉に▲56桂と寄せに行く。

 村山は△55玉

 「中段玉寄せにくし」

 かわしにかかるが、ここで▲67歩と打つのが好手だった。

 

 

 

 ▲66金までの詰めろだが、△同馬と取ると、▲45飛と取る。

 △66玉(△同玉は▲46金打から簡単な詰み)に▲57金打

 △同馬、▲同金、△同玉に▲47飛とされて、これは寄せられてしまう。

 

 

 

 

 村田智弘が、昇級に大きく近づいたかに見えたが、ここで村山が持ち前のしぶとさを発揮するのだ。

 

 

 

 

 

 まず△88角と打って、後ろ足で受ける。

 ▲66に勢力を足したい先手は、▲57金打として、△同桂成、▲同金。

 これが、▲47桂、△65玉、▲66金打の詰めろだが、そこで△77銀(!)。

 

 馬と角と銀がダンゴになってすごい形だが、なりふりかまわず、△66に利きを足す。

 これらの手は、将来△87飛成としたとき、の働きを邪魔してしまう。

 相当やりにくいところだが、ともかくも王様を詰まされたら負けなので、やるしかないと。

 後手玉は危険極まりなく、なにかあれば一発アウト。

 村田は▲44桂と跳ね、△65歩、▲32桂成、△45歩に▲56金と押し戻していく。

 そのままブルドーザーをグイグイ前進させ、今度こそ決まったかに見えたが、村山も土俵際でふんばってギリギリの最終盤。

 

 

 ここでは▲53銀と、俗に打っていけば先手が勝ちだったが、村田は▲73桂成と取り、△同玉に▲61金とせまる。

 

 

 

 この瞬間、無情にもC1行きの切符が、村田の手からスルリとすべり落ちた。

 ここで村山が、ねらっていた必殺の一手を発動させるからだ。

 遊んでいたあの駒たちが、まさかの……。

 

 

 

 

 △66銀成とするのが、見事な絶妙手

 あの、ただ△66の地点に利きを足しただけのが、こんなところで千金の輝きを見るとは、だれが予想したろうか。

 ▲同歩の一手に、△56馬とこれまた眠っていた馬で、王手飛車取り

 ▲47銀、△65馬、▲同歩に△87飛成とすれば、なんとこれで、邪魔駒が全部さばけてしまったことになる。

 

 

 

 しかも、これが、△47竜以下の詰めろ

 見違えるように景色が変わり、まさに「勝ち将棋、鬼のごとし」という形ではないか。

 村田は▲48歩と受けるが、これでは勝ち味がなく、以下村山の鋭い寄せの前に、いくばくもなく投了。

 土俵際でのしぶとい受け、最後は一瞬のスキを突いたあざやかな鋭手など、村山慈明の持ち味が存分に出た一局だった。

 見事な将棋で、昇級を阻止した村山は、次の年9勝1敗の好成績をあげ、4年目でC2脱出を果たすのである。

 

 (羽生善治と森内俊之の新人王戦編に続く)

 (村山の絶妙手編はこちら

 

 

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歩がいない僕は空を見た 羽生善治vs森下卓 1992年 第50期B級2組順位戦

2020年03月23日 | 将棋・名局
 「自陣飛車」というのは、上級者のワザっぽい。
 
 飛車というのはやはり、にして敵陣で暴れるのが、もっとも使いでがある。
 
 そこをあえて、自陣で生飛車のまま活用するというのは、強い人の発想という感じがする。
 
 前回は永瀬拓矢叡王王座の驚異的なねばりを見たが(→こちら)、今回は自陣飛車の、それも、するどい攻撃手を見ていただこう。
 
 
 1992年、第50期B級2組順位戦
 
 8回戦で、羽生善治棋王森下卓六段がぶつかった。
 
 羽生は順位上位で、6勝1敗首位を走っており、この強敵を倒せば、昇級は8割がた決まりというところ。
 
 森下は順位下位ですでに2敗しているが、この直接対決をものにすれば、まだ望みをつなげる。
 
 なにより、憎きライバルを足止めする、最大のチャンスでもあるのだ。
 
 星勘定でも、プライドでも、絶対に負けられない大一番は、羽生が先手で相矢倉に。
 
 ここまで羽生に、痛い目にあうことが多かった森下は意識しすぎたか、序盤で軽率な手を指してしまう。
 
 
 
 
 
 △24歩を取りにいったのが、らしくないミスで、平凡に▲33歩とたたかれて、先手の攻めがつながっている。
 
 森下の読みでは、強く△23金とかわして指せるはずが、そこに▲32歩成の軽手があるのを見落としていた。
 
 
 
 
 △同玉に▲35歩と打って、銀が死んでいる。
 
 タダで取りきるはずのが、守りのと交換になっては大失敗だ。
 
 やむを得ず△33同桂だが、▲24角とさばいて、△25桂▲42角成△同飛▲25歩で先手の調子がいい。
 
 ただ序盤で失点しても、そこでくずれないのが森下の強さ
 
 羽生が自然な手で攻めているようだが、意外とパンチが入らない。
 
 ▲24角では平凡に▲33同桂成と取って、△同角▲35歩△23銀と押さえてから▲36飛とすれば、ハッキリ優勢だったのだ。
 
 そのうち後手もを引きつけ、飛車を打ちこんでに味をつけるなど、なんだかいやらしい感じになってくる。
 
 
 
 
 
 図は一気の攻略はむずかしいとして、B面攻撃に方向転換したところ。
 
 相手の攻め駒を責めながら、上部を厚くする、いわゆる「羽生ゾーン」に銀を打ったのだ。
 
 △42飛と逃げれば、▲97香とイヤミを消し、金銀のスクラムを活かして、入玉模様で戦うというのが先手のプランだった。
 
 ところが、ここからの森下の対応がうまかった。
 
 
 
 
 
 
 
 △73歩と打ったのが、「羽生ゾーン」を逆用する好手。
 
 ▲84馬と逃げると、△72桂と打つ筋がある。
 
 
 
 
 ▲同銀成は、△84飛を取られる。
 
 △72桂▲82銀成なら、△84桂と取った形が、▲76の銀取りと、△96桂と跳ねる手の両ねらいで、後手がうまい。
 
 △73歩に対して、羽生は単に▲82銀成と飛車を取るが、△74歩と急所のを除去することに成功。
 
 ▲91成銀と、駒を補充しながら端の脅威を緩和させると、後手も△73桂と遊び駒を活用して好調子。
 
 
 
 
 
 流れるような手順で、森下がうまくやったようにも見えるが、実はそうでもなかった。
 
 要の馬を消され、成銀を僻地に追いやられても、先手から次の手がきびしかったからだ。
 
 
 
 
 
 
 
 ▲29飛が、後手陣の不備をつく、巧妙な自陣飛車。
 
 △28歩と打って簡単に止まりそうだが、それには▲39香(!)のクロスカウンターが激痛。
 
 △29歩成に、▲38香と取り返した形が、後手の歩切れを見事についている。
 
  歩が1枚でもあれば、△35歩でなんでもないところ。
 
 
 
 これで、を射抜くクロスボウの矢を、止める手段がない。
 
 この飛車打ちに、森下は△27桂(!)と、すごい中合を見せ、場をしのごうとする。
 
 
 
 
 
 
 これも好手で、▲同飛とつり上げてから△23歩とすれば、▲39香消えている仕組み。
 
 だが、今度は▲37香から打つ手があって、やはりどこまでも受けるがない。
 
 
 
 
 △35桂という、つらい受け方しかないが、▲46桂△45馬▲33歩とたたいて攻めがつながる形。
 
 以下、森下も力を出して大熱戦になったが、最後は猛追を振り切って、羽生が昇級に大きく前進する1勝を、手に入れることとなったのだ。
 
 結果もさることながら、この将棋は作りもすごいというか、えげつない。
 
 なんといっても、「駒得は裏切らない」をモットーにする森下を歩切れにさせて攻めたてるとは、羽生の組み立てには、おそろしいものがあるではないか。
 
 ライバルに勝利した羽生は、C級1組時代に続いて、ここでも森下を置き去りにして昇級を果たすのだ。
 
 
 (村山慈明の見せた「米長哲学」編に続く→こちら
 
 
 
 
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「負けない将棋」ここにあり! 永瀬拓矢vs渡辺明 2018年 第43期棋王戦 第1局 その2 

2020年03月16日 | 将棋・名局

 前回(→こちら)の続き。

 2018年、第43期棋王戦5番勝負の第1局

 渡辺明棋王永瀬拓矢七段の一戦は、渡辺がタイトルホルダーの貫禄を見せ、序中盤から挑戦者を押しに押しまくる

 

 

 

 ▲81飛成の局面では、駒をボロボロ取られそうというか、下手するとも捕獲されそうで、どうにも手のほどこしようがなく見える。

 だがここから、永瀬の驚異的な、ねばりがはじまるのだ。

 

 

 

 

 

 △43角と打つのが、しぶとい手。

 完全に温泉気分だった渡辺棋王だが、この手があって、まだ少し時間がかかりそうだと思い直す。

 とはいえ、これで形勢がどうなるわけでもなく、▲62歩成、△同金、▲64香、△52金、▲72竜

 駒得しながら攻めて、焼け石に水感がすごいが、そこでじっと△35歩と突くのが、渡辺ものけっぞた意表の手。

 

 

 

 ▲25桂や、▲36桂の攻めを防いだのはわかるが、棋王曰く、

 

 「ただ受けているだけの手って怖くないんですよ」

 

 相手にプレッシャーをあたえられない受けの手は、それだけで価値がないと切り捨てられるものなのだ。

 さらに棋王を驚愕させたのが、▲63香成、△42金右、▲73成香△39馬(!)。

 

 

 

 受け「だけ」の手、第3弾。

 これも次に▲75歩封鎖してから、▲83成香を殺されるのを避けたもの。

 なのだが、せめて飛車▲28にいて、△39馬先手になっているならまだしも、ここで手番を渡してしまうのが、ふつうは耐えられないのだ。

 

 「泣きの辛抱」「苦渋の一手」

 

 とでも表現されそうなものだが、永瀬は「仕方ない」とあっさりしたもの。


 
 「△35歩と△39馬ってすごい辛抱だよ」

 

 渡辺は驚愕を隠せないのだから、永瀬の感覚が、常人とは違うことがよくわかる。

 先手は▲26桂から攻撃を続行するが、後手は△33玉から上部脱出を見せ、▲71竜には△61桂と、まだまだ根性を見せる。

 

 

 

 

 そこから少し進んでの、この局面で、またも永瀬は渡辺の想定外の手を披露する。

 

 

 

 

 

 △25角が、棋王をして三度「すごい辛抱だなあ」と言わしめた手。

 指されて、あきれるのはわかる。

 これは▲44香から、を削っていくのを避けた手だが、上部脱出を急ぎたい後手は、なるたけ早く△25玉と上がりたいのだ。

 そのルートを自らの駒で、ふさいでしまうというのは、いかにも選びにくい。

 ロジカルな渡辺と、鈴木大介九段の言う「クセ」とが真向からぶつかり合い、それでいてまったく交わらないところが、おもしろすぎるではないか。

 その後も中段玉をめぐって、ゴチャゴチャと競り合いが続くが、先手が決め手を逃して、いよいよ闇試合に。

 その手こずりようは、ただ事ではなく、追いつめられた渡辺は、

 

 「この将棋を負けたら勝つ将棋がない。這いつくばってでも勝たなきゃいけないと思った」

 

 「全駒」で楽勝だったはずが、目立った悪手もないのにこんなことになるとは、棋王も悪夢を見ているようだったろう。

 最後の見せ場が、この場面。

 

 

 

 ▲27歩と打って、ようやっと渡辺は勝ったと思った。

 △同玉▲38金

 △同銀成▲15馬と取って、△同玉に▲14飛と打てば、△19にある飛車を抜くことができる。

 だが永瀬拓矢はまだ「負けない」のである。

 

 

 

 

 △36歩が驚嘆の一手。

 ▲26歩を取ると、△37歩成で、今度こそ逃げ切りが確定。

 △34がここで働いてきて、先手に強烈なプレッシャーをかけている。

 私だったら、もう勘弁してくださいと泣きを入れたくなるが、最後の最後で渡辺は冷静だった。

 銀をすぐには取らず、▲21飛と打つのが落ち着いた手で、以下△35金のさらなるがんばりに、▲38銀△37歩成▲29金と上部を押さえて、今度こそ寄せ切った。

 

 

 

 総手数189手の大激戦。

 すごい戦いだったが、敗れたとはいえ私同様、この将棋を見て、永瀬がいつかかならずタイトルを取れる、と確信したファンは多いのではあるまいか。

 このシリーズこそフルセットの末惜敗したが、その後は叡王王座の二冠に輝く。

 渡辺明、豊島将之に次ぐ「第三の男」として君臨することとなるのだ。

 

 (羽生と森下のB級2組順位戦編に続く→こちら

 (永瀬の新人王戦優勝の将棋は→こちら

 

 

 

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