前回(→こちら)の続き。
1995年、セイコー・スーパーテニス決勝を見て、すっかりマイケル・チャンのファンになってしまった私。
この年は、フレンチ・オープンで2度目の決勝進出を果たすなど、チャンの飛躍の年になっていた。世界ランキングも、5位前後を安定してキープ。
96年も、その好調を維持。
年明け早々のオーストラリアン・オープンでは準決勝でライバル、アンドレ・アガシを破って決勝に進出。
3度目のグランドスラム決勝を戦うことになった。
相手はドイツの英雄ボリス・ベッカー。
ウィンブルドン3回。このオーストラリアン・オープンでも1991年に優勝している強敵である。
ベッカーは91年のウィンブルドン以降、四大大会での優勝がなかったが、この時期は非常に充実しており、第2の全盛期といえるほどにいいテニスを見せていた。
持ち前のパワーに円熟味が加わったベッカーはやはり手強く、2-6・4-6・6-2・2-6のスコアでグランドスラム2度目の優勝の夢ははばまれた。
ただ、チャンのテニスも悪くはなく、両者好調同士ということもあってか、スコア以上に内容の濃い試合であった。
敗れはしたものの、今期のこれからに充分期待が持てる決勝戦だったのだ。
実際その通り、1996年のチャンは充実著しかった。
チャンの弱点といえばサービスだとよくいわれていたが、このあたりから背の低さ(175センチということになってるが、たぶんもうちょっと小さい)をカバーするために、普通より少し長いラケットを使用。
これでサーブのスピードアップに成功。エースの数が飛躍的に増えた。
また、厳しいトレーニングで力負けしない強靱な肉体を作ることによって、トッププレーヤーのパワーテニスに対抗。
持ち前のフットワークとカウンターを組み合わせることによって、大型選手にも押されることが減っていった。
チャンといえばそのキャリアでまず語られるべきは、1989年のフレンチ・オープン。
ステファン・エドバーグを破って17歳3ヶ月の若さで優勝したことだろう。
これは、ボリス・ベッカーの17歳7ヶ月でウィンブルドン優勝の記録を塗り替える、四大大会優勝者の最年少記録である。
このときのチャンは、まだ体ができていないこともあって、明らかにテニスに力がなかった。
特にサービスなど野球でいうチェンジアップのようなゆるさで、今ならジュニアチャンピオンでも、もう少しマシなものを打ちそうなシロモノだった。
そんな貧弱な武器しか持たない少年時代のチャンは、まさに若さと精神力のみでエドバーグを粘り倒した。
おおよそ、大きな大会の決勝戦をモノにする選手は強靱なメンタルでもって戦うわけだが、武器が「ど根性」のみで栄冠を勝ち取ったのは、このときのチャンが白眉であったろう。
それとくらべると、95~96年シーズンのチャンは見違えるようにたくましくなった。
その最大の売りである足など、まるで丸太のような太さである。
着々と「完成型」を目指すチャンは、この年フレンチ・オープンとウィンブルドンこそ平凡な成績に終わったものの、他の大会では着々とポイントを重ね、ついには世界ランキング自己最高の2位をマーク。
とうとう、頂点が見える位置までやってきたのだ。
そうしてむかえたのが地元USオープン。
ここでもチャンは順調に勝ち上がり、準決勝でまたもアガシを沈めて決勝に進出。
3度目の正直。そして、この決勝はただ2度目のグランドスラムタイトルをねらえるというだけではない。
勝てばその瞬間、コンピューターランキングで初の1位になることが決定していたのである。
USオープンのトロフィーと世界一位。
それをかけた決勝の相手は、第1シードで世界ランキング1位の王者、ピート・サンプラス。
人生最大かもしれない大一番に、最強の壁が立ちはだかることになる。
(続く【→こちら】)