前回(→こちら)に続いて、デイヴィッド・ウィナー『オレンジの呪縛』を読む。
「オランダはPKを鍛えなあかんのや!」
愛するオランダ代表が「美しく負けること」に心底ウンザリしているユーリ・フェルゴウ氏は、PK軽視の傾向があるオラが村のチームに、強くそう主張する。
だが、ここに大きな齟齬が生じることとなる。
そう、英雄ヨハン・クライフの存在だ。
オランダ人は基本的にPKを不名誉なことだとみないしているし、そもそも興味もないことは前回も言った。
おまけに自分たちはテクニックがあるから、いつでも決められると、特に根拠もなく思いこんでいる。
そのことが、オランダの大舞台での成功をはばんでいることは間違いない。
そこに輪をかけるのがクライフ師匠である。
このスーパーヒーローはチームメイトにいいキッカーがいたため、PKを蹴ったことがなかった。
さらには、現役時代は幸運なことにPK戦の経験がなかった。
ゆえに、PKに対してむちゃくちゃにぞんざいなあつかいだったというのだ。
PK戦について、
「あんなものはくじ引きみたいなものだ」
というのは、選手のみならずファンからもよく聞く言葉だが、これはクライフのセリフであるらしい。
だかPK野郎のフェルゴウ氏はおさまらない。
「それは間違っていた」
と言い切る気っぷのよさ。
天下のクライフ師匠にまさかのダメ出し。
これは日本でいえば、長嶋茂雄にケンカを売るようなもんである。彼はタブーに挑戦したのだ。
フェルゴウ氏のPK論は、あくまで素人目ではあるが、理にかなっているように思える。
相手のクセはもちろんのこと、角度から助走の距離まで徹底分析。
心理的負担の軽減方から、メンバーの選び方まで(たとえば彼は、フランク・デ・ブールを「蹴ってはいけない」リストに入れていた。ユーロ2000で彼はPKを3本打って1本しか入らず、オランダは準決勝のPK戦で敗れたが、それすらも彼は予言していたのだ)多岐にわたり、筋も通っている。
少なくとも「くじ引きだ」と決めつけてロクに練習もしないよりは、やってみる価値はあるように思える。
だがやはり、フェルゴウ氏の嘆きは選手にも監督にも、ファンにすら届かない。
そこにはクライフ師匠の
「しょせん、くじ引きなんや」
という思想が蔓延してしまっている。いくらドン・キホーテが
「クライフはPKやPK戦のことをまったく理解していない。だからこのことについて、彼の意見に耳を傾けるのはやめよう!」
そう力説しても、この本にあるオチのように、アマチュアでプレーするカフェのウェイターにすら、
「でもやっぱり、PKなんて練習してもムダなんでしょ?」
と返され、スココココーン! とズッコケることになる。
なんだかもう、笑っていいのか泣いていいのか。
本書の結論としては、オランダがワールドカップやユーロで勝つには
「美しいサッカー」
にこだわるか、それとも結果を求めて捨て去るか、そのジレンマがオレンジ軍団を苦しめているという。
そこにはやはり、クライフをめぐる「神学論争」がある。
いくら現場の人間が
「もう、ぶっちゃけ3-4-3は時代遅れやねん」
とさけぼうとも、クライフ師匠が
「ワシは認めん!」
といってしまえば、すべてはご破算。
どんなにサッカーの風景が変わろうが、選手が変遷しようが、結局は振り出しに戻って、
「美しかったけど、おしかったね」
で大会を終えてしまう。じゃあ、どないせえというのか。
結局のところ、オランダ代表の問題はこの「クライフ越え」ができないこと。
そしてそれには、あの「トータル・フットボール」で勝てなかった、74年ワールドカップ決勝戦がある。
あれにもし順当に勝利していれば、おそらくはオランダも、ここまで美しさにこだわることもなかったろう。
まこと、民族的トラウマというのは業が深い。
しかも、その「クライフの呪縛」がPKにまでおよんで勝てないとなれば、いよいよである。
根が深すぎるぞ、オランダのサッカー。
ブラジル大会でも、コスタリカ戦で殻を破ったと思ったら、やっぱりお約束のように、アルゼンチンにPK戦で負けたし。
準決勝でPK戦負け。
嗚呼、なんてオランダらしいんや……。
ややこしいのは、話が戦術の善し悪しではなく、もはや
「クライフが今でも好きかどうか」
といった、ほとんどイデオロギーの問題であり、合理よりも感情が優先していることであろう。
私などアバウトで無責任だから、
「勝てないなら、システム変えればあ?」
とか、むちゃ適当に言いたくなるけど、そうもいかないようである。
こうして読んでいくと、オランダの世界制覇への道はますます険しそうに見える。
クライフに殉じて敗れ去るか、彼を捨てて、ののしられながらも勝ちにいくか。
もはや、オランダ人自身すら、どっちが正しいのかわからなくなっていることだろう。
結論が出ないなら、もういっそPK戦で決めてみればどうであろうか。