「リア充爆発しろ」。
山本弘さんのホラー小説『妖魔夜行』を読んでいたら、そんなセリフが出ていた。
リア充。
と最初に聞かされたときには、なんの略かよくわからず、ヤプール人が送りこんでくるテリブルモンスター的な何かかと思ったものだが、今ではすっかり日常語になった感がある。
ということで冒頭の言葉は、「リアルが充実していない人」が、「リアルが充実している人」に嫉妬して、
「いっそ爆発しろ」
とやつあたりをしているわけだ。その念が生んだ妖怪「バッドエンド」が暗躍するというのが、『妖魔夜行』のメインストーリーである。
そう説明してみると、
「なんだ、ただのイケてないヤツらのひがみかよ、しょうもね」
などとあきれる向きもあるかも知れないが、なかなかどうして、この「リア充爆発しろ」というワードは、あなどれない威力を持っている。
『妖魔夜行』でも、「バッドエンド」はラブラブなカップルや、幸せな家庭を築いている人を不幸にたたき落としていくのだが、そんなセコイところ以外でも、世界史の教科書をひもとけば、そこに様々な因果がある。
聖書の黙示録にフランス革命やロシア革命、ヒトラーの台頭に、真珠湾奇襲。
他にもポル・ポトに、文化大革命に、東欧の崩壊に、オウムに、9.11に、ISのテロなどなどあげていくとキリがないが、歴史上の大きな破壊行為の根幹にあるモチベーションというのは、この「リア充爆発しろ」なのである。
「ただのひがみ」となめると、大けがをする。コロンバイン高校とか映画『シザーハンズ』みたいに。これらは歴史の大カタストロフの学校版だ。
『シザーハンズ』で殺されたスポーツマンなんて、ジョニー・デップをいじめたのはひどいけど、そんな惨殺されるほど悪いことをしているとも思えない。
それをハサミでグサリ。しかも、監督のティム・バートンは「あれはちょっとヒドイんでね?」の質問に、
「そんなことないよ! あんなヤツは殺されて当然なんだ!」
とノー反省のブチ切れ。
まさにリアル「リア充爆発しろ!」。さすがは、
「ボクはスポーツマンが嫌いだ。彼らは笑いながらボクをドブにたたき落とした」
との名セリフを残したティムである。なにごとも、「やった」ほうは過去の記憶だが、「やられた」方は一生の傷なのだ。
でもって、これってフランス人が貴族たちを次々ギロチン台に送ったのと、たぶん同じなんですよね。オスカル様には悪いけど。
「あんなヤツは殺されて当然だ」と。
それを、どう見てもリア充の女の子が観て泣いたりする。『シザーハンズ』とは不思議にねじれた映画なのですね。
そんな、誰の心にも大なり小なり存在し、時にセコく、時には時代を揺るがすパワーボムにもなりうる「爆発しろ」であるが、では自分はどうなのかといえば、あまりこれがピンと来ないところがある。
もちろん私にも妬みやそねみというものは存在するし、調子の悪いときは、楽しそうな人を見ると「ケ!」なんて思うことも当然あるが、さすがに「爆発しろ」とは思わないなあ。
というと、
「なんだ、もしかしてお前もリア充チームかよ」
なんて怒られそうだが、もちろん全然そんなことはない。
特にモテるわけでも、金や権力があるわけでもない。どこにでもいるボンクラ男子だ。
それはそれなりに楽しく生きてはいるが、「爆発しろ」といわれるような、うらやましい人生でもあるまい。
となると、見栄を張って強がっているのかといえば、これまたそういうわけでもなく、まあ中立というか、あんまり自分がリア充かそうでないかなんてことは気にせずに、日々をのほほんと過ごしている。
ではなぜ私が「リア充」なるものにあまりこだわりがないのかと問うならば、それは、
「リア充というものに、過大な評価を抱いていない」
ぶっちゃけていえば、「リア充って、そんなに楽しいものなんかいな?」という疑問があるのだ。
理由は簡単で、私がかつて「リア充」と自他共に認める時期があったからであり(それも2回も)。そのときのことを思い返すと、自然とそうなる。
あのときって、楽しかったっけ? と。
そうかなあ、と。
そのときの体験が、この言葉に対するスタンスを決定づけたのであった。
ということで、これから数回、過去を振り返ることにより、私の中にある、
「リア充って、本当のところはどうなの?」
という疑問に解答を出していきたいと思う。
その過程で、世の「リア充爆発しろ」という暗い妄念に悩まされるヤング諸君の参考になる話もできれば、とも考えている。
次回に続きます(→こちら)。
山本弘さんのホラー小説『妖魔夜行』を読んでいたら、そんなセリフが出ていた。
リア充。
と最初に聞かされたときには、なんの略かよくわからず、ヤプール人が送りこんでくるテリブルモンスター的な何かかと思ったものだが、今ではすっかり日常語になった感がある。
ということで冒頭の言葉は、「リアルが充実していない人」が、「リアルが充実している人」に嫉妬して、
「いっそ爆発しろ」
とやつあたりをしているわけだ。その念が生んだ妖怪「バッドエンド」が暗躍するというのが、『妖魔夜行』のメインストーリーである。
そう説明してみると、
「なんだ、ただのイケてないヤツらのひがみかよ、しょうもね」
などとあきれる向きもあるかも知れないが、なかなかどうして、この「リア充爆発しろ」というワードは、あなどれない威力を持っている。
『妖魔夜行』でも、「バッドエンド」はラブラブなカップルや、幸せな家庭を築いている人を不幸にたたき落としていくのだが、そんなセコイところ以外でも、世界史の教科書をひもとけば、そこに様々な因果がある。
聖書の黙示録にフランス革命やロシア革命、ヒトラーの台頭に、真珠湾奇襲。
他にもポル・ポトに、文化大革命に、東欧の崩壊に、オウムに、9.11に、ISのテロなどなどあげていくとキリがないが、歴史上の大きな破壊行為の根幹にあるモチベーションというのは、この「リア充爆発しろ」なのである。
「ただのひがみ」となめると、大けがをする。コロンバイン高校とか映画『シザーハンズ』みたいに。これらは歴史の大カタストロフの学校版だ。
『シザーハンズ』で殺されたスポーツマンなんて、ジョニー・デップをいじめたのはひどいけど、そんな惨殺されるほど悪いことをしているとも思えない。
それをハサミでグサリ。しかも、監督のティム・バートンは「あれはちょっとヒドイんでね?」の質問に、
「そんなことないよ! あんなヤツは殺されて当然なんだ!」
とノー反省のブチ切れ。
まさにリアル「リア充爆発しろ!」。さすがは、
「ボクはスポーツマンが嫌いだ。彼らは笑いながらボクをドブにたたき落とした」
との名セリフを残したティムである。なにごとも、「やった」ほうは過去の記憶だが、「やられた」方は一生の傷なのだ。
でもって、これってフランス人が貴族たちを次々ギロチン台に送ったのと、たぶん同じなんですよね。オスカル様には悪いけど。
「あんなヤツは殺されて当然だ」と。
それを、どう見てもリア充の女の子が観て泣いたりする。『シザーハンズ』とは不思議にねじれた映画なのですね。
そんな、誰の心にも大なり小なり存在し、時にセコく、時には時代を揺るがすパワーボムにもなりうる「爆発しろ」であるが、では自分はどうなのかといえば、あまりこれがピンと来ないところがある。
もちろん私にも妬みやそねみというものは存在するし、調子の悪いときは、楽しそうな人を見ると「ケ!」なんて思うことも当然あるが、さすがに「爆発しろ」とは思わないなあ。
というと、
「なんだ、もしかしてお前もリア充チームかよ」
なんて怒られそうだが、もちろん全然そんなことはない。
特にモテるわけでも、金や権力があるわけでもない。どこにでもいるボンクラ男子だ。
それはそれなりに楽しく生きてはいるが、「爆発しろ」といわれるような、うらやましい人生でもあるまい。
となると、見栄を張って強がっているのかといえば、これまたそういうわけでもなく、まあ中立というか、あんまり自分がリア充かそうでないかなんてことは気にせずに、日々をのほほんと過ごしている。
ではなぜ私が「リア充」なるものにあまりこだわりがないのかと問うならば、それは、
「リア充というものに、過大な評価を抱いていない」
ぶっちゃけていえば、「リア充って、そんなに楽しいものなんかいな?」という疑問があるのだ。
理由は簡単で、私がかつて「リア充」と自他共に認める時期があったからであり(それも2回も)。そのときのことを思い返すと、自然とそうなる。
あのときって、楽しかったっけ? と。
そうかなあ、と。
そのときの体験が、この言葉に対するスタンスを決定づけたのであった。
ということで、これから数回、過去を振り返ることにより、私の中にある、
「リア充って、本当のところはどうなの?」
という疑問に解答を出していきたいと思う。
その過程で、世の「リア充爆発しろ」という暗い妄念に悩まされるヤング諸君の参考になる話もできれば、とも考えている。
次回に続きます(→こちら)。