前回(→こちら)の続き。
「普通の学生のように遊びたい」という、ささやかな野望を胸に、キャンパスライフに望んだ私。
そこで、数ある遊び系サークルの会合に出席して、飲み会やカラオケに参加することとなった。
そのノリは、さすが学生らしく、なかなかに軽薄なもので、一気飲みなどが社会問題になりながらも、まだ現場では頻繁に行われていたりしたものだ。
こういった話をすると、周囲からは「チャラいねえ」「やっぱ、学生はええなあ」などといった声が聞こえてきたものだが、当の私はといえば、そこでどう感じていたのかといえば、こうであった。
「なんか……全然楽しくない……」
何度か通ううちに、だんだんと苦痛になってきたのだ。
今のヤングたちのことはわからないが、私の20歳のころといえば、飲み会でやたらと流行っていたのが王様ゲームであった。
くじを引いて、「3番が5番のほっぺにキスする」とか、「2番と6番がタッグを組んで、猪木アミン組とセメントマッチを行う」とか、そういった命令をして遊ぶアレである。
興が乗ってくると、さらには「せんだみつおゲーム」とか、場が砕けてくると「ポッキーゲーム」(男女がポッキーの端と端から食べていく遊び)のような、どこのお茶屋さんやといった展開になったりして、こうなると、もうついていけない。
こういった空気が、とにかく全然合わないのだ。もとよりノリのいい子たちは、結構楽しんでいるようだが、自分はどうもダメである。
誰かが酔って「イエーイ」とはしゃいだり、勢いで流行りの一発ギャグを披露したりするにおよんでは、他人のことながらいたたまれない気持ちであった。
一言でいえば、軽い地獄である。
もうとにかく、あれだけ望んでやまなかったはずの「学生のノリ」がまったく楽しくないのである。
それでも、初期のころはまだ我慢はしていた。そういったノリに合わせられないのは、
「ノリの悪い自分がいけないのだろう」
と、感じていたからだ。
みなさんにも経験がないだろうか。
たとえば、「全米大ヒット」という映画を観てみたけど、ちっともおもしろくなくて、「しょうもなかったなあ」と言おうとしたら、隣で友だちや彼女が感動して泣いていて、しかも新聞雑誌ネットもこぞって、
「最高傑作、この作品がわからない奴は人の心がないクズ」
みたいに絶讃していたりすると、
「もしかして、この映画をつまらないと思うのは、オレに映画を見る目がないせいなのか?」
疑心暗鬼におちいるようなことが。
それと同じように、
「この状況を楽しめないのは、自分がおかしいんだ。なんたって、周囲の人は『楽しそう』『うらやましいなあ』って言ってるもの。こちらがなにかを改善すれば、きっと変わっていくはずだ」
などと悩んだりしたもの。
が、どこをどうひっくり返しても、飲み会で「イエーイ」は、ただひたすら「嗚呼、早く家に帰りたい」という、シベリアに抑留された日本兵のような、切なる願いしか生まないのである。
こうして、「学生のノリ」にほとほと疲れ果てた私は、時間が空くと、よく大学構内の奥にある丘に批難していた。
そこには、馬術部の練習場があり、馬術部員とお馬さん以外誰もいないという静かなところで、ひそかに秘密基地にしていた。
授業が休講になったときなど、図書館で本を仕入れて、よくこの丘に登った。
そこで木陰に入って読書をし、それに飽きるとボーッと馬たちが駆け回る様子を見学し、気がつけば眠っていたりする。
ふと目を覚ますと、よく馬がこっちを見ていることがあった。
馬術部員以外の人間がめずらしいのだろうか、不思議そうな視線をこちらに向けている。
そうやって目を合わせていると、なんだか馬が
「ま、よくわからんけど、そんな気にすることないんじゃね?」
といってくれているような気がした。
一人で本を読み、時折こうして馬と、らちもない会話していることに、しみじみした心の平安を感じていると唐突に、
「なるほど、そういうことか」
と、すべてが腑に落ち、いろいろと納得した私は、それ以降一度も遊び系のサークルに顔を出すことはなくなった。
(続く→こちら)
「普通の学生のように遊びたい」という、ささやかな野望を胸に、キャンパスライフに望んだ私。
そこで、数ある遊び系サークルの会合に出席して、飲み会やカラオケに参加することとなった。
そのノリは、さすが学生らしく、なかなかに軽薄なもので、一気飲みなどが社会問題になりながらも、まだ現場では頻繁に行われていたりしたものだ。
こういった話をすると、周囲からは「チャラいねえ」「やっぱ、学生はええなあ」などといった声が聞こえてきたものだが、当の私はといえば、そこでどう感じていたのかといえば、こうであった。
「なんか……全然楽しくない……」
何度か通ううちに、だんだんと苦痛になってきたのだ。
今のヤングたちのことはわからないが、私の20歳のころといえば、飲み会でやたらと流行っていたのが王様ゲームであった。
くじを引いて、「3番が5番のほっぺにキスする」とか、「2番と6番がタッグを組んで、猪木アミン組とセメントマッチを行う」とか、そういった命令をして遊ぶアレである。
興が乗ってくると、さらには「せんだみつおゲーム」とか、場が砕けてくると「ポッキーゲーム」(男女がポッキーの端と端から食べていく遊び)のような、どこのお茶屋さんやといった展開になったりして、こうなると、もうついていけない。
こういった空気が、とにかく全然合わないのだ。もとよりノリのいい子たちは、結構楽しんでいるようだが、自分はどうもダメである。
誰かが酔って「イエーイ」とはしゃいだり、勢いで流行りの一発ギャグを披露したりするにおよんでは、他人のことながらいたたまれない気持ちであった。
一言でいえば、軽い地獄である。
もうとにかく、あれだけ望んでやまなかったはずの「学生のノリ」がまったく楽しくないのである。
それでも、初期のころはまだ我慢はしていた。そういったノリに合わせられないのは、
「ノリの悪い自分がいけないのだろう」
と、感じていたからだ。
みなさんにも経験がないだろうか。
たとえば、「全米大ヒット」という映画を観てみたけど、ちっともおもしろくなくて、「しょうもなかったなあ」と言おうとしたら、隣で友だちや彼女が感動して泣いていて、しかも新聞雑誌ネットもこぞって、
「最高傑作、この作品がわからない奴は人の心がないクズ」
みたいに絶讃していたりすると、
「もしかして、この映画をつまらないと思うのは、オレに映画を見る目がないせいなのか?」
疑心暗鬼におちいるようなことが。
それと同じように、
「この状況を楽しめないのは、自分がおかしいんだ。なんたって、周囲の人は『楽しそう』『うらやましいなあ』って言ってるもの。こちらがなにかを改善すれば、きっと変わっていくはずだ」
などと悩んだりしたもの。
が、どこをどうひっくり返しても、飲み会で「イエーイ」は、ただひたすら「嗚呼、早く家に帰りたい」という、シベリアに抑留された日本兵のような、切なる願いしか生まないのである。
こうして、「学生のノリ」にほとほと疲れ果てた私は、時間が空くと、よく大学構内の奥にある丘に批難していた。
そこには、馬術部の練習場があり、馬術部員とお馬さん以外誰もいないという静かなところで、ひそかに秘密基地にしていた。
授業が休講になったときなど、図書館で本を仕入れて、よくこの丘に登った。
そこで木陰に入って読書をし、それに飽きるとボーッと馬たちが駆け回る様子を見学し、気がつけば眠っていたりする。
ふと目を覚ますと、よく馬がこっちを見ていることがあった。
馬術部員以外の人間がめずらしいのだろうか、不思議そうな視線をこちらに向けている。
そうやって目を合わせていると、なんだか馬が
「ま、よくわからんけど、そんな気にすることないんじゃね?」
といってくれているような気がした。
一人で本を読み、時折こうして馬と、らちもない会話していることに、しみじみした心の平安を感じていると唐突に、
「なるほど、そういうことか」
と、すべてが腑に落ち、いろいろと納得した私は、それ以降一度も遊び系のサークルに顔を出すことはなくなった。
(続く→こちら)