非モテ男子のリア充体験時代と、人はなぜリア充にあこがれてしまうのか問題について その3

2016年08月28日 | モテ活
 前回(→こちら)の続き。

 「普通の学生のように遊びたい」という、ささやかな野望を胸に、キャンパスライフに望んだ私。

 そこで、数ある遊び系サークルの会合に出席して、飲み会やカラオケに参加することとなった。

 そのノリは、さすが学生らしく、なかなかに軽薄なもので、一気飲みなどが社会問題になりながらも、まだ現場では頻繁に行われていたりしたものだ。
 
 こういった話をすると、周囲からは「チャラいねえ」「やっぱ、学生はええなあ」などといった声が聞こえてきたものだが、当の私はといえば、そこでどう感じていたのかといえば、こうであった。

 「なんか……全然楽しくない……

 何度か通ううちに、だんだんと苦痛になってきたのだ。

 今のヤングたちのことはわからないが、私の20歳のころといえば、飲み会でやたらと流行っていたのが王様ゲームであった。

 くじを引いて、「3番が5番のほっぺにキスする」とか、「2番と6番がタッグを組んで、猪木アミン組とセメントマッチを行う」とか、そういった命令をして遊ぶアレである。

 興が乗ってくると、さらには「せんだみつおゲーム」とか、場が砕けてくると「ポッキーゲーム」(男女がポッキーの端と端から食べていく遊び)のような、どこのお茶屋さんやといった展開になったりして、こうなると、もうついていけない。

 こういった空気が、とにかく全然合わないのだ。もとよりノリのいい子たちは、結構楽しんでいるようだが、自分はどうもダメである。

 誰かが酔って「イエーイ」とはしゃいだり、勢いで流行りの一発ギャグを披露したりするにおよんでは、他人のことながらいたたまれない気持ちであった。

 一言でいえば、軽い地獄である。

 もうとにかく、あれだけ望んでやまなかったはずの「学生のノリ」がまったく楽しくないのである。

 それでも、初期のころはまだ我慢はしていた。そういったノリに合わせられないのは、

 「ノリの悪い自分がいけないのだろう」

 と、感じていたからだ。

 みなさんにも経験がないだろうか。

 たとえば、「全米大ヒット」という映画を観てみたけど、ちっともおもしろくなくて、「しょうもなかったなあ」と言おうとしたら、隣で友だちや彼女が感動して泣いていて、しかも新聞雑誌ネットもこぞって、

 「最高傑作、この作品がわからない奴は人の心がないクズ」

 みたいに絶讃していたりすると、

 「もしかして、この映画をつまらないと思うのは、オレに映画を見る目がないせいなのか?」

 疑心暗鬼におちいるようなことが。

 それと同じように、

 「この状況を楽しめないのは、自分がおかしいんだ。なんたって、周囲の人は『楽しそう』『うらやましいなあ』って言ってるもの。こちらがなにかを改善すれば、きっと変わっていくはずだ」

 などと悩んだりしたもの。

 が、どこをどうひっくり返しても、飲み会で「イエーイ」は、ただひたすら「嗚呼、早く家に帰りたい」という、シベリアに抑留された日本兵のような、切なる願いしか生まないのである。

 こうして、「学生のノリ」にほとほと疲れ果てた私は、時間が空くと、よく大学構内の奥にある丘に批難していた。

 そこには、馬術部の練習場があり、馬術部員とお馬さん以外誰もいないという静かなところで、ひそかに秘密基地にしていた。

 授業が休講になったときなど、図書館で本を仕入れて、よくこの丘に登った。

 そこで木陰に入って読書をし、それに飽きるとボーッと馬たちが駆け回る様子を見学し、気がつけば眠っていたりする。

 ふと目を覚ますと、よく馬がこっちを見ていることがあった。

 馬術部員以外の人間がめずらしいのだろうか、不思議そうな視線をこちらに向けている。

 そうやって目を合わせていると、なんだか馬が

 「ま、よくわからんけど、そんな気にすることないんじゃね?」

 といってくれているような気がした。

 一人で本を読み、時折こうして馬と、らちもない会話していることに、しみじみした心の平安を感じていると唐突に、

 「なるほど、そういうことか」

 と、すべてが腑に落ち、いろいろと納得した私は、それ以降一度も遊び系のサークルに顔を出すことはなくなった。



 (続く→こちら







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