非モテ男子のリア充体験時代と、人はなぜリア充にあこがれてしまうのか問題について その4

2016年08月29日 | モテ活
 前回(→こちら)の続き。

 「リア充爆発しろ」。

 この言葉をめぐって、ここ数回私とリア充生活との関係性について語っている。

 前回まで、私があこがれていた「遊んでいる大学生」の生活は、ちっとも肌に合わなかったという話をしていたが、これは本当にそうであった。

 もともとノリが悪い方ということもあるが、それよりもやはり相性であろう。

 前回も言ったように、自分は飲み会でパーッとさわぐよりは、キャンパスのはずれにある丘の上で、馬をながめながら読書したり昼寝したりするほうが幸せを感じる、根っからの昼行燈なのだ。

 その思いにとどめをさした事件がもうひとつあって、食堂で昼飯を食っているときだった。

 新築されたばかりカフェ型の学食で、鶏唐丼などいただきながら本を読んでいると、隣に学生数人がすわったのである。

 男女6人くらいだった彼らは見た目もさわやかで、今でいう「リア充」そのもの。

 会話の内容も「おいしいイタリアン」や「オシャレなクラブ」などが取り上げられ、我々の話題のように「怪獣」「カルト宗教」「ロシア文学」などといった単語は出てくることもない(当たり前だ)。

 「さわやかな子らやなあ。こういうのが世間でいう『ふつうの学生』なんやろうなあ」

 と、クレイグ・ライス『眠りをむさぼりすぎた男』などといったマニアックなミステリを読みふけっていたのだが、そのうち彼らの話題が夏休みの予定になった。

 どうやらカナダ旅行を計画しているらしい。ツアーのパンフレットをながめながら、どこを観光しようとか、スキーがしたいとかロッキー山脈が見たいとか乗馬ができるらしいとかオーロラもいいねとか。

 そんなさわやか度120の会話を聞きながら、そこでポンと結論のようなものが出た気がしたのだ。

 「あー、オレってどう間違っても『あっちチーム』やないなあと」。

 『あっちチーム』という表現は、他にボキャブラリーがなかったからだが、もちろん今でいう『リア充』のこと。

 これやないなあと。

 これはもう、しみじみ、つくづく、感じましたね。

 あー、オレはちゃうわと。

 馬術部の丘ではもっとフワッとした感覚だったが、ここで具体的な形になった。

 これ以降、自分がどういう人生歩むにしても、絶対彼らのようにはなれないんやろうなあと。
 
 なぜななら「こっちチーム」と「あっちチーム」は、ちがうチームだから。

 ほとんど同義語反復だけど、実感としてはこう。
 
 当時この話をすると、周囲からものすごく不思議がられた。

 家族や友人(男女ともに)から、

 「なんでそう思うわけ?」

 「別に、やれるじゃん。その人たちみたいに」

 そう首をかしげられる。

 いや、そうなんである。別にできるよ。私だってカナダに行くだけなら、バイトして旅費稼いで、友達誘って行けばいいのだ。それくらい、できるけどさ。実際、旅行好きだし。

 でも、きっと、そういう問題ではないのだ。

 もし彼らと同じように男女数人で誘い合わせて楽しくカナダ旅行をしても、彼らのようにさわやかな感じにはならないし、楽しくもないし、おそらくはそもそも望んでもいない

 そう、決定的に「価値観」がちがう。そのことをハッキリと理解したのだ。

 さらにいえば、そのことを特に悲しくもさみしくも感じていないということも。

 これは当時、何度説明しても理解してもらえなかったが、今なら

 「いやあ、リア充なノリが苦手で」

 と頭をかけば通じるかなとも思う。

 ともかくも、この「カナダ旅行事件」でひとつの結論に達したのだ。

 「私はリア充ではない」。

 「けど、それはそれで特に問題でもない。だって、やってみたけど楽しくないものなあ」
 
 「ただ、それを世間に説明するのは、ものすごく大変。なぜなら『正義』は向こうにあるから」

 でもって、ついにはめんどくさくなって、

 「ま、別にいいか」

 もう、遊びたいとか損してるかもとか、そういう邪念がすべて、どうでもよくなったのである。

 たぶん私のような「リア充にコンプレックスが少ない」イケてない男子は、たいていこの「つきものが落ちる瞬間」というのがあるのではあるまいか。

 それが私の場合はこの「条件だけなら楽しくないわけないのに、きっと行っても充実感がないだろうと確信できたカナダ旅行」事件だ。

 これは単なる妄想ではない。

 後年「第2次リア充時代」を向かえたときに、どう考えても気のいい、さわやかな友たちとつるんでいて、何度も六甲山のバーベキュー大会に出かけたものだった。

 女の子もいて、どこをどうひねっても楽しいしか考えられないそのイベントだったけど、どうにもしっくりこなかった。

 同じく、彼ら彼女らとの鍋パーティーも、須磨海岸での海水浴も、カラオケも、手作りギョーザパーティーやクリスマスや。

 そういった「絶対楽しいに決まっている」イベントも、違和感をずっと感じていた。

 友人の家で朝まで飲み明かして目を覚ますと、女の子たちが楽しそうにキッチンでなにか焼いていたことがあった。

 なにをやっているのかと寝ぼけ眼で見ていると、目の前に「はい」と焼きたてのホットケーキが出てきたときには、「これは現実の光景か」と目を疑ったもの。

 こんな世界があるんやなあ、と。まぶしすぎて、まともに目を開けていられません。

 同時に、「こんな素敵すぎる週末やのに、それでも《嗚呼、これよりどっかの喫茶店でだれかと江戸川乱歩の話でもしてるほうが、よっぽど楽しいなあ》」と感じてしまったのだから、きっとカナダも同じだったろう。

 いや、わかってるねん。そこはどこをどう転んでも、人間椅子よりホットケーキやろうと。

 でもなあ、やっぱりどこまでいっても、帰りの電車で「あ、もう帰れるわ」って、ホッとした記憶しかないんだよなあ。

 これはもう、因果としか言いようがない。

 というわけで、自分とリア充との距離感みたいなものがよくわかったことを収穫に、以前のような地味な文化系生活に舞い戻ることとなったのである。


 (続く→こちら







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