前回(→こちら)の続き。
「リア充爆発しろ」という言葉に、気持ちはわからんでもないが、そこまでの強い共感も感じない「特にリアルが充実しているわけでもない」私。
では、なぜリア充なるものにそんなこだわらず、「そんなん、どっちでもええやん」と思っているのかといえば、その理由は自分のリア充時代にある。
それは2回あったのだが、第一次は大学生になったばかりのこと。
私は1年浪人した末に大学生になったのだが、そのとき心に秘めていた野望というのがあった。それは、
「学生らしく遊んでみたい」
中学高校時代の私は、基本的に地味な生徒であった。
といっても、大槻ケンヂさんの『グミ・チョコレート・パイン』みたいな、
「イケてる連中は、全員燃やし尽くしてやるんだチェストー!」
といった、ルサンチマンの発露はなかった。
理由としてまずひとつは、やってたことは文学とか深夜ラジオとかマイナーだったし、学校はだるくてサボってばっかだったけど、部活はやっていたし、友だちもいたし、恋もしたりして、地味は地味なりにそこそこの学園生活を送っていからであること。
もうひとつは、もともとが能天気なのか子供のころから「よそはよそ、自分は自分」という意識が強く、あまり「他者からの承認」を必要としないタイプだった。
だから、そもそも人とくらべてどうとか、「イケてる、イケてない」で人を判断するという価値観もピンとこなかった。
大事なのは「自分がおもしろいと思うかどうか」。その意味で言えば「イケてるクラスメート」なんて、ノリがよくて流行りものにくわしいだけの、退屈な子たちにしか見えなかったものだ。
「スクールカースト」という言葉にいまひとつリアリティーを感じないのも、そのせいかもしれない。10代なんて今考えれば、自意識と体力だけはあるお子様だもの。
そんなせまい世界で、どっちが上とか下とか、ないやん、と。
そんなわけで、「イケてない生徒」であることに、たいして気にもならなかったのだ。
そんな私が、なぜ大学生になったら一転、「遊んでみたい」などと思ったのか。そこには、こんな思いがあったからだ。
「世間的に見た『遊んでいる若者』ではない自分は、損をしているのではないか」
この「損をしているのではないか」というのがキーワードである。
実際のところ、私も別に、遊んでモテモテになりたいとか、周囲から一目置かれたいとか、そういったことにはあんまり興味はなかった。
ただ、10代後半くらいから、わけもなく「そうしなければならない」という気になってしまったのだ。
「周囲の声とか聞いていると、なんか自分だけ置いていかれてる気がする」
と、不安になったのかもしれない。このままだと、「損をするぞ」と。
まあ、今考えれば、何をもって「損」なのかはよくわからなく、わからないからこそ「しなければ」となったのかもしれないが、なんとなく共感していただけるのではないだろうか。
いわゆる「リア充」の人でもそうだろう。
特に根拠はないけど、ハロウィンとかLINEとか流行りのパンケーキ屋とか、もちろん楽しくてやってるんだろうけど、そこにはどこか
「やらないと損するのでは」
という懸念がないか。
そういう肌感覚である。
その「損」を取り返すには、キャンパスライフというのは、これ以上ないお膳立てである。
イメージは原秀則さんの『冬物語』。はじけたとはいえバブルの残り香のあったわが青春時代は、若者というのはあのマンガのように遊ぶもの、いやむしろ「遊ばなければならない」という義務感すら感じたものだった。
そんな下地があったので、入学当初はよく、イベントサークルの会合に顔を出したものである。
同じ大学に入学した同志たちが、昔の志のままに「プロレス研究会」や「文芸部」「将棋部」「マン研」「映研」「SF研」といった場所の戸をたたく中、
「ここでお別れだな。諸君、来世で会おう」
とばかりに、チャラいサークルの飲み会に、何度か顔を出してみたのである。
そういった会合は、だいたいパターンが決まっていた。
まず、みんなで集まって、大学前通りにある居酒屋に行く。
そこで、最初は飲んで食べて自己紹介なんかもして、わーっと盛り上がったところで、2次会はたいていカラオケかボーリング。
そこからは終電で帰るもよし、仲良くなった女の子をお持ち帰りをするもよし。正体を失って道ばたで汚物まみれになって寝るも、各自の努力の結果と自己責任である。
このなんの変哲もない飲み会のノリこそ、まさに「味あわないと損をするのでは」と懸念していたものだ。
ドラマにもなった『部屋においでよ』そのまんまな世界。「リア充」な若者だ。探していたのはこれだ。
嗚呼、父さん、ラピュタは本当にあったんだ!
と、当初は大いなる満足を覚えていたのであるが、しばらくするうちに、どこか「おや?」と感じ始めた。
普通なら楽しいだけの行程である。どこからどう見ても完全無欠に「明るい若者」だ。そこに足を止める要素などあるはずもない。
にもかかわらず、酔った頭に「おや?」がよぎった。同時に「あれ?」も。そのうち心の中はクエスチョンマークで一杯になったのであり、私は困惑したのだった。
(続く→こちら)
「リア充爆発しろ」という言葉に、気持ちはわからんでもないが、そこまでの強い共感も感じない「特にリアルが充実しているわけでもない」私。
では、なぜリア充なるものにそんなこだわらず、「そんなん、どっちでもええやん」と思っているのかといえば、その理由は自分のリア充時代にある。
それは2回あったのだが、第一次は大学生になったばかりのこと。
私は1年浪人した末に大学生になったのだが、そのとき心に秘めていた野望というのがあった。それは、
「学生らしく遊んでみたい」
中学高校時代の私は、基本的に地味な生徒であった。
といっても、大槻ケンヂさんの『グミ・チョコレート・パイン』みたいな、
「イケてる連中は、全員燃やし尽くしてやるんだチェストー!」
といった、ルサンチマンの発露はなかった。
理由としてまずひとつは、やってたことは文学とか深夜ラジオとかマイナーだったし、学校はだるくてサボってばっかだったけど、部活はやっていたし、友だちもいたし、恋もしたりして、地味は地味なりにそこそこの学園生活を送っていからであること。
もうひとつは、もともとが能天気なのか子供のころから「よそはよそ、自分は自分」という意識が強く、あまり「他者からの承認」を必要としないタイプだった。
だから、そもそも人とくらべてどうとか、「イケてる、イケてない」で人を判断するという価値観もピンとこなかった。
大事なのは「自分がおもしろいと思うかどうか」。その意味で言えば「イケてるクラスメート」なんて、ノリがよくて流行りものにくわしいだけの、退屈な子たちにしか見えなかったものだ。
「スクールカースト」という言葉にいまひとつリアリティーを感じないのも、そのせいかもしれない。10代なんて今考えれば、自意識と体力だけはあるお子様だもの。
そんなせまい世界で、どっちが上とか下とか、ないやん、と。
そんなわけで、「イケてない生徒」であることに、たいして気にもならなかったのだ。
そんな私が、なぜ大学生になったら一転、「遊んでみたい」などと思ったのか。そこには、こんな思いがあったからだ。
「世間的に見た『遊んでいる若者』ではない自分は、損をしているのではないか」
この「損をしているのではないか」というのがキーワードである。
実際のところ、私も別に、遊んでモテモテになりたいとか、周囲から一目置かれたいとか、そういったことにはあんまり興味はなかった。
ただ、10代後半くらいから、わけもなく「そうしなければならない」という気になってしまったのだ。
「周囲の声とか聞いていると、なんか自分だけ置いていかれてる気がする」
と、不安になったのかもしれない。このままだと、「損をするぞ」と。
まあ、今考えれば、何をもって「損」なのかはよくわからなく、わからないからこそ「しなければ」となったのかもしれないが、なんとなく共感していただけるのではないだろうか。
いわゆる「リア充」の人でもそうだろう。
特に根拠はないけど、ハロウィンとかLINEとか流行りのパンケーキ屋とか、もちろん楽しくてやってるんだろうけど、そこにはどこか
「やらないと損するのでは」
という懸念がないか。
そういう肌感覚である。
その「損」を取り返すには、キャンパスライフというのは、これ以上ないお膳立てである。
イメージは原秀則さんの『冬物語』。はじけたとはいえバブルの残り香のあったわが青春時代は、若者というのはあのマンガのように遊ぶもの、いやむしろ「遊ばなければならない」という義務感すら感じたものだった。
そんな下地があったので、入学当初はよく、イベントサークルの会合に顔を出したものである。
同じ大学に入学した同志たちが、昔の志のままに「プロレス研究会」や「文芸部」「将棋部」「マン研」「映研」「SF研」といった場所の戸をたたく中、
「ここでお別れだな。諸君、来世で会おう」
とばかりに、チャラいサークルの飲み会に、何度か顔を出してみたのである。
そういった会合は、だいたいパターンが決まっていた。
まず、みんなで集まって、大学前通りにある居酒屋に行く。
そこで、最初は飲んで食べて自己紹介なんかもして、わーっと盛り上がったところで、2次会はたいていカラオケかボーリング。
そこからは終電で帰るもよし、仲良くなった女の子をお持ち帰りをするもよし。正体を失って道ばたで汚物まみれになって寝るも、各自の努力の結果と自己責任である。
このなんの変哲もない飲み会のノリこそ、まさに「味あわないと損をするのでは」と懸念していたものだ。
ドラマにもなった『部屋においでよ』そのまんまな世界。「リア充」な若者だ。探していたのはこれだ。
嗚呼、父さん、ラピュタは本当にあったんだ!
と、当初は大いなる満足を覚えていたのであるが、しばらくするうちに、どこか「おや?」と感じ始めた。
普通なら楽しいだけの行程である。どこからどう見ても完全無欠に「明るい若者」だ。そこに足を止める要素などあるはずもない。
にもかかわらず、酔った頭に「おや?」がよぎった。同時に「あれ?」も。そのうち心の中はクエスチョンマークで一杯になったのであり、私は困惑したのだった。
(続く→こちら)