「旅に出たい病」は不治の病である その3

2016年09月29日 | 海外旅行
 「旅に出たい病」は不治の病である。

 そこで前回(→こちら)、旅に出る動機は「相対主義という絶対主義」を満たすためという話をしたが、今回はもうちょっと具体的な旅行の魅力について話したい。

 旅をしていて楽しいと思うときがいくつかある。

 魅力的な街をただぶらぶらと歩くことや、気さくな、私と同じ能天気な旅行者たちと仲良くなること。そしてもうひとつ、移動を終えて、明け方に新しい街へ着くとき。
 
 旅に出ると、朝起きるのが楽しみになる。

 ふだんは陽が落ちてから元気の出る宵っ張りだが、外国ではちがう。朝、目を覚まして

 「あ、今自分はいつもとちがう場所にいるのだ」

 と確認する瞬間が至福のとき。

 それは特に、目を覚ますと新しい街に入っているというケースに顕著で、夜行バスや夜行列車に乗って、まだ薄暗いころから起き出して、目をしょぼしょぼさせながら、まだ動き出してない街を車窓からながめるのがいい。

 まだ眠いにもかかわらず、生気がみなぎってくる。

 新しい街なのだから。

 その心の動きを見事にあらわした一文が、沢木耕太郎さんの名著『深夜特急』にある。

 主人公の「私」が、イランの首都テヘランをめざしてバスに乗っているときのこと。長くなるが、ここに引用する。


 「バスはまた走り出す。夜も更けていき、午前零時を過ぎ、ついにアフガニスタンとイランの国境を抜けてから三日目に突入してしまった。誰しも疲れ果て、ひとりずつ横になっていく。私も寝袋にくるまっているうちに、いつしか眠り込んでいた。


 (中略)


 後部の窓ガラスからは、もうもうたる土埃に霞んで前夜のような星空は見えなかった。だがしばらくして体を起こし、前方を見て驚いた。運転席のガラス越しに、とてつもない広い光の海が見えたのだ」


 その光景は、私にも見覚えがある。

 夜行列車などで次の街へ着くとき、なぜか不思議と到着の1時間前くらいに目が覚めてしまう。

 そこで、2度寝しようとしてうまくいかなかったり、それをあきらめて歯をみがきにいったり、たいていは固いシートなどで熟睡できていないから、何度も大あくびをしながら、窓の外からぼんやりと外の景色をながめていたりする。

 その光景が大好きだ。

 薄暗い、まだ朝ぼらけの中、半分眠っている頭が、新しい街を想像して少しずつ興奮していく。その感覚。

 その様子を、沢木さんはこう続ける。


 「ここは小高い丘の上らしく、一直線に下がっていく坂道の向こうに町の灯があったのだ。私がこれまでに通過してきたどこの町よりも広大であざやかなネオンが、秋の夜気を通してキラキラと輝いていた。その煌きに、私は心が震えた。

 何人かがまだ寝ずに起きていた。彼らの、喚声にうながされて、眠っていた者たちもひとりずつ起きはじめた。そして、息を呑んだ。

 それが光の海テヘランだった。」



 この文章を読んだとき、わかった。

 そうか、たまに突然おとずれる「旅に出たい病」の正体は、ここにあったのだ。

 私が時に熱望する旅への想いは、「バックパッカーとの交流」「相対化の快感」とともに、朝目を覚ましたときにそこにあらわれる、ここでないどこかの「光の海」が見たくなること。

 それこそが、一番の理由だったのだと。

 リブリャーナ、オラン、ドブロブニク、イスファハン、カルカッタ、グラスゴー、カトマンズ、メキシコシティー、ウルムチ、ヘルシンキ、サマルカンド、エレバン……。

 来年の夏あたりにそなえて、せっせと候補地をノートに書き出す。

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