「旅に出たい病」は不治の病である その2

2016年09月28日 | 海外旅行
 「旅に出たい病」は不治の病である。

 そこで前回(→こちら)は「旅に出たくなったら観光映像がわりにファンタジー映画を見る」というしのぎ方を紹介したが、そもそものところ、なぜそんなにも外国へ行きたいのかといえば、病の根は人それぞれだろう。

 観光やグルメが楽しいという人もいれば、現地の人との交流が目的の人もいる。中には現実逃避とかいやしとか自分探しなんてケースもあろう。

 私の場合は、もちろんそれらの要素もあるけど、一番大きいと感じるのはこれかもしれない。

 「価値観の相対化の快感」

 人はどんな自由人であれ、自らの生まれた土地の文化に引きずられるもの。

 私の場合はもちろんのこと日本のそれであって、「和の心」をはじめとする「日本固有の文化」にどっぷりつかって暮らしている。

 まあ私も日本人の端くれなので、常時はそれに対してなんとも思わないのだが、根が安田均先生おっしゃられるところの「相対主義という絶対主義」の信望者なので、ふだん生活していてよく使われる、

 「当たり前だ」「常識だろ」「みんな言ってるよ」

 みたいな言葉を、ときおりどうにも、うさん臭く感じてしまうことがある。

 「当たり前とか常識とか、そりゃせいぜいがアンタの半径数メートルのもんやないんかいな。たまたま年上とか先輩とか上司とか『権力』があってそれを押しつけることができる立場か、周囲が大人で合わせてくれてるだけで、ホンマにみなが信じてるとはかぎらんぜ」

 みたいな気分になってしまうのだ。

 こういうとき、旅に出ると爽快である。

 世界には様々な国や民族があり、数え切れないほどの言語や文化があって、生活が営まれ、歴史や神話、芸術が存在する。

 そういった「半径数メートルのなにか」から完全にはく離した場所に立つと、「自分の中の相対主義」が、もうメチャクチャに満たされる。

 「世の中には『自分と違うもの』『理解できないもの』が山ほどあって、それにくらべたら私の信じる価値観なんてワン・オブ・ゼムにすぎない、いやそうですらない風の前の塵に同じ」

 この気分は、海外で感じるカルチャーショックの、もっとも根源的な部分であろう。

 「自分のなかで『絶対』と思いこんでるものなんて、外の世界に出たらへーこいてプー」

 その程度のものでしかない。

 その真理が、いかにも私を楽にさせてくれる。今ここで自分が死んでも、世界は何も変わらない。その身軽さといったら!

 こういう「相対化」というものを、けっこう嫌がるという人がいて、日本社会のキーワードである「同調圧力」こそが、まさにその「相対化への忌避感」のあらわれであろうけど、私にとっては快感だ。

 「当たり前だ」「常識だろ」「みんな言ってるよ」

 いや、そうでもないよ。

 案外と、そうでもない。

 「規則」「伝統」「しきたり」「慣習」なんていう「みんなやってる」系和の心な言葉に若干の息苦しさを感じている人は、ぜひ一度旅に出てみることをおススメする。

 自分たちとまったく違うことを「常識」として生きている人を山盛り観ると、そういう閉塞感を笑い飛ばせるようになるものですよ。


 
 (続く→こちら




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