前回(→こちら)の続き。
斎藤美奈子さんのファンであり、その著作である『男性誌探訪』はたいそうおもしろい。
これまで斎藤さんのすぐれた「悪口力」について語ってきたが、彼女のさらなる魅力は「自己の相対化」をうながす鐘の音だ。
ここでは「男性誌」限定だが、斎藤さんは他にも「女性誌」(『あほらし屋の鐘が鳴る』)「ベストセラー」(『誤読日記』)「国語教育」(『文章読本さん江』)などなどにもキビしいつっこみを入れておられる。
彼女のボキャブラリーを借りれば、
「しょうもな。あほらし屋の鐘が鳴るわ、カーン!」
である。
斎藤本のキモは、まさにこの「カーン!」にある。
彼女の本を読んでいると、下品なオヤジや頭の軽い女などとともに、我々読者自身もその批評により相対化される。
斎藤流のつっこみに、「こいつらアホやなあ」「どんだけ勘違いしてるねん」と笑いながらも、時折ふと思うわけだ、
「けど……もしかしたら、端から見たらオレかって……」
なんとも恐ろしい疑問が頭をもたげてくるのだ。
こうなると、思わず姿勢を正してしまう。果たして、自分に彼女が遡上にあげた対象を笑う資格があるのか。
それはただの「目くそ鼻くそ」ではないのか。もしくは、あえて笑うことによって
「こいつらとオレとは違うのだ。現にオレは今、客観的な視点でこいつらを嘲笑できているではないか。一緒にしないでくれ」
と差別化をはかる、「近親憎悪」というやつではないのか。
男が苦手なフェミニズム的言動も、斎藤さんにかかるとその巧みな文章力で、キツいけど興味深く読める。で、勉強になる。
異論反論はあれど、「あー、こっちは当たり前と思って言うてることが、女側にはそう見えるのやー」という、言われてみれば当たり前のことに気づかされる。
フェミ的言論に賛成反対は個人の考えだが、少なくとも「敵の情報」は知っておくべきだろう。そういった「よそさんの目」の役割をしてくれるのが、斎藤的つっこみのすぐれたところなのだ。
かつて民俗学者の大月隆寛さんは、ナンシー関さんとの対談で、
「こころにひとりのナンシーを」
との名言を残した。
野暮を承知で言語化すれば、自分がおごりたかぶったり勘違いしたりと「裸の王様」になりかかったときに、ふと出てくる
「もうひとりの自分による冷静なつっこみ」
でもって、それを抑制する働きのこと。
この自分が「痛い」ことになりかけたときこそ、まさに大事なのが「あほらし屋の鐘」である。自意識過剰には、まさにあの「カーン!」の音が一番利くのだ。
その意味では、男は(いや、女性でもいいけどさ)トチ狂いそうになったら斎藤美奈子を読んでいったんクールダウンするのがいいし、周囲でなにかに舞い上がっている人がいたら、彼女の本をそっとカバンに入れてあげるのが親切というもの。
まさに「ガマの油」並に、鏡に映った自らの姿に大量の脂汗を流すこと請け合い。
ナンシー関亡き後は、
「心にひとりの斎藤美奈子を」。
ともすれば、ただのネクタイのことを「センツァ・クラバッタ」とか言いたがる我々への、見事なセーフティ・ブレーキになってくれます。カーン!
(続く→こちら)
斎藤美奈子さんのファンであり、その著作である『男性誌探訪』はたいそうおもしろい。
これまで斎藤さんのすぐれた「悪口力」について語ってきたが、彼女のさらなる魅力は「自己の相対化」をうながす鐘の音だ。
ここでは「男性誌」限定だが、斎藤さんは他にも「女性誌」(『あほらし屋の鐘が鳴る』)「ベストセラー」(『誤読日記』)「国語教育」(『文章読本さん江』)などなどにもキビしいつっこみを入れておられる。
彼女のボキャブラリーを借りれば、
「しょうもな。あほらし屋の鐘が鳴るわ、カーン!」
である。
斎藤本のキモは、まさにこの「カーン!」にある。
彼女の本を読んでいると、下品なオヤジや頭の軽い女などとともに、我々読者自身もその批評により相対化される。
斎藤流のつっこみに、「こいつらアホやなあ」「どんだけ勘違いしてるねん」と笑いながらも、時折ふと思うわけだ、
「けど……もしかしたら、端から見たらオレかって……」
なんとも恐ろしい疑問が頭をもたげてくるのだ。
こうなると、思わず姿勢を正してしまう。果たして、自分に彼女が遡上にあげた対象を笑う資格があるのか。
それはただの「目くそ鼻くそ」ではないのか。もしくは、あえて笑うことによって
「こいつらとオレとは違うのだ。現にオレは今、客観的な視点でこいつらを嘲笑できているではないか。一緒にしないでくれ」
と差別化をはかる、「近親憎悪」というやつではないのか。
男が苦手なフェミニズム的言動も、斎藤さんにかかるとその巧みな文章力で、キツいけど興味深く読める。で、勉強になる。
異論反論はあれど、「あー、こっちは当たり前と思って言うてることが、女側にはそう見えるのやー」という、言われてみれば当たり前のことに気づかされる。
フェミ的言論に賛成反対は個人の考えだが、少なくとも「敵の情報」は知っておくべきだろう。そういった「よそさんの目」の役割をしてくれるのが、斎藤的つっこみのすぐれたところなのだ。
かつて民俗学者の大月隆寛さんは、ナンシー関さんとの対談で、
「こころにひとりのナンシーを」
との名言を残した。
野暮を承知で言語化すれば、自分がおごりたかぶったり勘違いしたりと「裸の王様」になりかかったときに、ふと出てくる
「もうひとりの自分による冷静なつっこみ」
でもって、それを抑制する働きのこと。
この自分が「痛い」ことになりかけたときこそ、まさに大事なのが「あほらし屋の鐘」である。自意識過剰には、まさにあの「カーン!」の音が一番利くのだ。
その意味では、男は(いや、女性でもいいけどさ)トチ狂いそうになったら斎藤美奈子を読んでいったんクールダウンするのがいいし、周囲でなにかに舞い上がっている人がいたら、彼女の本をそっとカバンに入れてあげるのが親切というもの。
まさに「ガマの油」並に、鏡に映った自らの姿に大量の脂汗を流すこと請け合い。
ナンシー関亡き後は、
「心にひとりの斎藤美奈子を」。
ともすれば、ただのネクタイのことを「センツァ・クラバッタ」とか言いたがる我々への、見事なセーフティ・ブレーキになってくれます。カーン!
(続く→こちら)