斎藤美奈子『男性誌探訪』でわかる、「男って、ホントは女にこう思われてるよ」の恐怖 その3

2016年09月22日 | 
 前回(→こちら)の続き。

 斎藤美奈子さんのファンであり、その著作である『男性誌探訪』はたいそうおもしろい。

 これまで斎藤さんのすぐれた「悪口力」について語ってきたが、彼女のさらなる魅力は「自己の相対化」をうながす鐘の音だ。

 ここでは「男性誌」限定だが、斎藤さんは他にも「女性誌」(『あほらし屋の鐘が鳴る』)「ベストセラー」(『誤読日記』)「国語教育」(『文章読本さん江』)などなどにもキビしいつっこみを入れておられる。

 彼女のボキャブラリーを借りれば、
 
 「しょうもな。あほらし屋の鐘が鳴るわ、カーン!」

 である。

 斎藤本のキモは、まさにこの「カーン!」にある。

 彼女の本を読んでいると、下品なオヤジや頭の軽い女などとともに、我々読者自身もその批評により相対化される。

 斎藤流のつっこみに、「こいつらアホやなあ」「どんだけ勘違いしてるねん」と笑いながらも、時折ふと思うわけだ、

 「けど……もしかしたら、端から見たらオレかって……」

 なんとも恐ろしい疑問が頭をもたげてくるのだ。

 こうなると、思わず姿勢を正してしまう。果たして、自分に彼女が遡上にあげた対象を笑う資格があるのか。

 それはただの「目くそ鼻くそ」ではないのか。もしくは、あえて笑うことによって

 「こいつらとオレとは違うのだ。現にオレは今、客観的な視点でこいつらを嘲笑できているではないか。一緒にしないでくれ」

 と差別化をはかる、「近親憎悪」というやつではないのか。

 男が苦手なフェミニズム的言動も、斎藤さんにかかるとその巧みな文章力で、キツいけど興味深く読める。で、勉強になる。

 異論反論はあれど、「あー、こっちは当たり前と思って言うてることが、女側にはそう見えるのやー」という、言われてみれば当たり前のことに気づかされる。

 フェミ的言論に賛成反対は個人の考えだが、少なくとも「敵の情報」は知っておくべきだろう。そういった「よそさんの目」の役割をしてくれるのが、斎藤的つっこみのすぐれたところなのだ。

 かつて民俗学者の大月隆寛さんは、ナンシー関さんとの対談で、

 「こころにひとりのナンシーを」

 との名言を残した。

 野暮を承知で言語化すれば、自分がおごりたかぶったり勘違いしたりと「裸の王様」になりかかったときに、ふと出てくる

 「もうひとりの自分による冷静なつっこみ」

 でもって、それを抑制する働きのこと。

 この自分が「痛い」ことになりかけたときこそ、まさに大事なのが「あほらし屋の鐘」である。自意識過剰には、まさにあの「カーン!」の音が一番利くのだ。

 その意味では、男は(いや、女性でもいいけどさ)トチ狂いそうになったら斎藤美奈子を読んでいったんクールダウンするのがいいし、周囲でなにかに舞い上がっている人がいたら、彼女の本をそっとカバンに入れてあげるのが親切というもの。

 まさに「ガマの油」並に、鏡に映った自らの姿に大量の脂汗を流すこと請け合い。

 ナンシー関亡き後は、

 「心にひとりの斎藤美奈子を」。

 ともすれば、ただのネクタイのことを「センツァ・クラバッタ」とか言いたがる我々への、見事なセーフティ・ブレーキになってくれます。カーン!



 (続く→こちら



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