前回(→こちら)の続きで、『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』という映画について。
タイトルの通り、かつてアメリカを二分し、今でもその歴史的影響いちじるしい南北戦争で、もし史実と反対に南軍が勝利していたらどうなっていたか。
そのパラレルワールドで制作された、CSA(南部が主導権を取ったアメリカ連合国)の歴史番組という体の、いわゆる
「フェイク・ドキュメンタリー」
というやつであって、架空の世界を描く歴史のifものであり、いわばSF映画なのだ。
なんといっても、つかみから先生と教え子の男の子が出てきて、こんなやりとりをする。
ナレーション「奴隷の価値は、今でいう高級車1台分。重要な資産なんです」
少年「(感嘆したように)アメリカには奴隷制度が不可欠なんですね!」
先生「(誇らしげに)だからこそ、南北戦争を戦ったのさ」
NHK教育番組のノリで、とんでもないことを言う。もう作り手の悪意がひしひしと(笑)。
そこからも、敗軍の将であるリンカーンが、「地下鉄道」(南部の黒人奴隷を北部に逃がす運動もしくはその経路)を使って逃亡するも、その際
「黒人に変装するのを嫌がって」
たいうトホホな理由で説教されたり。
またその醜態をD・W・グリフィス(『國民の創生』という映画でKKKを英雄的に描いて問題となった)が、『うそつきエイブの捜索』という映画にしたり(いやコレ、ふつうに全編見たいんだけど)。
そっからも、CSAは中南米を占領するわ、奴隷制度を有色人種全体に適用するわ、世界恐慌は奴隷貿易で乗り切るわ。
人種差別政策に同調してヒトラーと手を組むわ、太平洋から日本に奇襲攻撃(!)をしかけるわ、もうやりたい放題。
いやもう、作り手の意地悪、かつブラックユーモア効きまくりの(第二次大戦の黒人兵が「所有者からのリース品」とか)歴史パロディーがこれでもかとくり出されて、笑っていいのか頭をかかえていいのか。
ご丁寧にも、中に挿入されるCМもいちいちエグい内容で、掃除用品や歯みがき粉など「汚れを落として白くする」製品に黒人のキャラクターを使ったり、
「奴隷逃亡阻止のセンサー入り腕輪」
の通信販売とか、「この大きな口が目印です」とか、明るく宣伝されて、もう見てるほうはどうせえと。
他にも、「赤狩り」の標的が「共産主義者」ではなく「奴隷解放論者」とか、それを題材にした侵略SF映画『夫は奴隷解放論者』とか(『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』とか一連の「アカ怖い」作品ですね)、「綿花のカーテン」とか、とにかくもうメチャクチャによくできた、偽とは思えないドキュメンタリーなのだ。
これがねえ、すんごくおもしろくて、ためにもなる。私が南部人だったら、よう見ませんけど(笑)。
だってこれ、日本でいえば
『大日本帝国 もし大東亜戦争で日本が勝ったら?』
とかいうタイトルで、日本人がアジアとかでいばりちらしてる映像作るようなもん。
で、世界中の人から
「あるあるー」
「あいつら、いかにもやりそー」
とか言われてるの。
で、自分でも「そうやなあ」とか思てんの。そんなん、いくら思想的にゆるゆるの私でも笑えへんですわ。
この映画から、われわれがもっとも学べることは、
「自分たちもまた、CSAかもしれない」
という視点だろう。
歴史というのは勝者のものといわれるが、勝ち負けにかかわらず人は、それをスキあらば自分に心地よく書き換えたいという願望がある。
勝者はそれを(それこそこの映画のCSAのように)露骨にできるだけで、これは全人類どの民族、国家でも不変だろう。
日本も、あの国もこの民族も一緒。だから、他者のそれを笑うのは、どこまでいっても「同族嫌悪」の域を出ない。
かの「自虐史観」すら、
「オレ様はこんなに反省している。だから、昔の《愚かな人々》のやったことは、関係ないから一緒にしないで」
という欺瞞が、ないとは言えないと思うし。
そう、人はみな、この映画のCSAになる要素を持っている。
自分たちの自尊心を満たすためだけに、自覚なしに、だれかを傷つけているのかもしれない。
だから私は、この映画を観て「南部連合ヒドイ」と単純には思えなかった。むしろ、ゾッとした。
だって、あの中の架空のドキュメンタリー製作者は皆
「なんの悪気も悪意もなく」
あの作品を撮っているのだ。
ただただ素直に、「自分たちを誇っている」だけなのだ。
だったら、「自分はそうではない」と、いったい誰が言えるというのか。
物事の善悪や正誤なんて、時代や見方次第でいくらでも恣意的に変化する。
そもそも、CSAのやってることはUSAの「合わせ鏡」だ。
だったら、そのことを自覚し「オレも、もしかして?」と常に気を配ることこそが、この作品を通して「歴史に学ぶ」態度ではないだろうか。
☆映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』は→こちらから