前回の続き。
2009年の第57期王座戦五番勝負。
その第2局で、ちょっとした「事件」が起こった。
羽生善治王座(名人・棋聖・王将)と山崎隆之七段との戦いは、難解な形勢のまま終盤戦に突入。
ところが、ここからまだまだ続くと思われた将棋が、山崎の見落としにより、あっという間もなく終わってしまった。
突然の終局に、羽生が激高。やおら立ち上がると山崎の胸倉をつかみ、そのまま地面に打ち倒す。
居合わせたスタッフが、あわてて止めようとするも、羽生はまだおさまらない。
「なぜ投げた、なぜ!」と山崎にストンピングの嵐をおみまいし、対局場は騒然となったのだった。
王座戦第2局終局後の様子。イメージ図でお送りしています。
この様子を間近で見ていた梅田望夫さんが表現したように、なぜ羽生が感情的になるような負け方を、山崎はしてしまったのか。
実際、棋譜をみればわかるが、山崎の手は冴えており、羽生が容易に勝てる内容ではなかったことは伝わってくる。
では差が棋力でなかったとしたら、勝敗を分けたのはなんだったのか。
問題となるのはこの局面で、羽生が▲71角と打ったところ。
山崎は△23歩と打ったが、ここでは△69銀と打って、△78銀成から△28竜の王手角取りで先手の攻め駒を取ってしまえば、山崎優勢のまま先は長かった。
だが、ここで頭をもたげてくるのが、梅田さんも書いていた「30分」問題だ。
「△37桂不成」という手を決断できず、時間を使ってしまった山崎は、▲71角の時点で、すでに1分将棋。
終盤の競り合いなら、時間がないのはまだ想定内だが、△69銀なら「中盤戦のやり直し」のような、おだやかな局面になってしまう。
羽生相手に、1分将棋の延長戦をノーミスで走り抜けるのは至難だ(羽生は8分残している)。
それなら切り合いに持って行って、時間のないことが不利にならない短期決戦を選ぶべきでは?
そう考えての△23歩だった。
考え方自体に、筋は通っている。
野球で言えば、リリーフピッチャーが残っていない。
サッカーで言えば、交代枠を使い切ってしまった。
その状態で「延長戦」に入っては物量差で苦しいから、9回裏に代打攻勢をかけたり、アディショナルタイムに、ギャンブル気味のロングボールをゴール前に送りこんだり。
山崎の言うことに、おかしなところはなく、見落としはともかくとして、戦略として充分説得力はあるところだ。
だが、ここにこそ、このシリーズのキモがあった。
時間のない終盤戦で、長い将棋に逆戻りしたときに、
「さあ、ここから大熱戦だ」
ワクワクして舌なめずりをしていた一方、その相手はこう思っていた。
「長期戦では勝てない。一撃で決めないと」
ここで思い出すのは、阿久津主税八段のある将棋。
その一局は入玉形になったが、駒数では阿久津がハッキリ有利。
このまま素直に駒を取っていき、入玉すれば、点数勝負で勝てそう。
仮に勝てなくても、自分の点数は十分に足りているから、指し直しになるだけ。
つまり「負けがない」状態になったわけなのだ。
ところが、ここで阿久津はアッサリと、
「指し直しにしましょう」
これには対戦相手も控室の検討陣も「ポカーン」であって、勝てるか、最低でも引き分けなのに、ここでドローにするなど意味がわからない。
NHKだったかアベマだったかの解説で、このときの話を振られたとき阿久津は、
「いや、駒の取り合いとか好きじゃないし。それだったら、とっとと指し直した方がいいでしょ」
みたいなクールな答えをしていて、やはりそこにあるのは、もちろん「点数勝負って何?」という気持ちもあろうが、それ以上に、
「さっさと指し直しましょ。どうせオレが勝つし」
という自信と余裕の賜物であろう。
このときの山崎と羽生も、同じだったろう。
長期戦になっても羽生は「苦しいが、まだこれから」と思い、山崎は「優勢でも、それはまずい」と思った。
もしここで、
「角を抜いとけば長期戦になるけど、最後はなんやかやで、オレ様が勝っちゃうんだよなー」
おそらくは他の棋士相手には、心のどこかでそう思っているよう、ふてぶてしくいられたら、きっとこの将棋は山崎がモノにしていたはず。
それを知っていたから、羽生は勝ちに納得できなかった。
なに腰引けとんねん。
こんないい将棋やのに、勝手に折れてんちゃうぞ、続きやらせろや!
ラブホテルの前で「帰る」と言われた男状態で、これが当時、話題になった「羽生ブチ切れ事件」である(←最低のたとえだよ、この人)。
もちろん、マジで胸倉をつかんだわけはなく、冒頭のやりとりは「こうあれかし」という私の妄想だが、観戦者がビビるくらいには憤っていた。
その理由は
「おもしろい将棋を中断されたから」
という、いかにも羽生善治らしい理由で、今だったら藤井聡太八冠も同じようなリアクションをするかもしれない。
鍋倉夫先生の将棋マンガ『リボーンの棋士』の1シーンで、かなり似たようなシチュエーション。
このときも、まだまだ「潜る」つもりだった安住さんについていけず、対戦相手の川井くんが息継ぎのために浮遊するシーンがある。
もしかしたら、このシーン自体のモデルが、この王座戦の第2局だったのかもしれない。
「一緒に行」けなかった山崎からすれば、ダメージの大きい負け方だったろう。
「つまらなさそうな顔」なんて、せんとってよ!
「よかった、勝てた……」
「ラッキーだった、危なかったよ」
みたいな顔してくれよ、と。勝ったんやからさ!
自分は苦しくて、それ以上は潜れなかった場所を相手は楽しんでいる。
思えば、羽生は意識してないにせよ、こういうケースを積み上げて対戦相手に、
「この人に勝つのは大変だ」
という負荷をかけてきた。
初陣の山崎はそれを乗り越えられるのかと、第3局へ突入。
(続く)