人の指す将棋のおもしろさは「悪手」や「フルえ」にこそある。
前回(→こちら)の羽生善治竜王に続き、今回はそのライバルである谷川浩司九段に登場していただこう。
谷川といえば
「前進流」
「光速の寄せ」
を売り物にし、将棋の終盤のスピード感を変え、世界に変革をもたらした男。
その圧倒的かつ、クリエイティブな終盤力は、まさに「通常の3倍」の速さで敵の肺腑をえぐり取る。
よく西部劇のガンマンや、凄腕の剣豪をあつかった映画や小説に、
「気がついたら撃たれていた(斬られていた)」
という表現があるが、谷川の寄せはまさに、そういった「見えないところから飛んでくる」おそろしさがあるのだ。
だが反面、そういった「美しい攻め」を旗印にするものは、ときにその美学に裏切られることもある。
いわば、
「1-0で勝つよりも、3-4で負ける方が美しい」
と言い放った、「トータル・フットボール」のヨハン・クライフとオランダサッカーのように、その理想に殉じてしまい、勝率の面などで損をすることがあるのだ。
そんな谷川のポカは、当然攻める手にあらわれやすく、一番わかりやすいのは、
「寄せあり、と思って手堅く行けば安全勝ちのところ、あえて踏みこんだら、なんと寄らなかった」
というものだろうが、ここではもう一歩踏みこんで、
「詰みと思って踏みこんだら、全然詰まなくて、呆然としてたらなぜか詰んでしまって、勝ったんだけどもう全力で納得いってない谷川浩司」
という場面を紹介したい。
事件が起こったのは、1988年に行われた、第13期棋王戦5番勝負。
高橋道雄棋王との対戦でのことだ。
私が将棋ファンになったのは、ちょうど羽生さんが四段プロデビューしたころで(あらためて思うと、すごい前だな……)、当時のトップといえば谷川浩司だった。
特に名人戦での中原誠との激闘の印象が強く、藤井聡太七段からファンになった人にとって、「名人」といえば佐藤天彦だろうが、子供のころの私は「中原名人」と「谷川名人」のひびきがしっくりきたものだ。
そんな「羽生前夜」の将棋界を席巻していた谷川だが、それに対抗していたのに高橋道雄と南芳一がいた。
中でも高橋はその腰の重い棋風で、棋王戦では谷川を破り、王位と二冠を獲得するなど、
「一番強いのは高橋では」
という声もあったものだ。
このふたりは今でいえば、豊島棋聖vs菅井王位くらいのイメージであろうか。
そんな、次世代を担う谷川と高橋が相対したのが、またも棋王戦の舞台。
このころの谷川は、前年の棋王戦敗退で無冠になり、ややスランプ気味だったが、心境の変化などから復調の気配を見せる。
まず、痛い目にあわされた高橋から王位を奪い返し(奪取のドラマチックな一局は→こちら)、このシリーズも優位に展開する。
オープニングマッチを制し、続く第2局も右玉から後手の猛攻をしのいで、谷川が勝ちの局面をむかえた。
……と誰もが思った。
踏みこんでいった谷川はもとより、観戦していた面々も、対戦相手の高橋すらも。
だがこの谷川勝勢に見えた局面が、どうあがいても先手が負けになっていたという事実から、ドラマの幕が開くのだ。
(続く→こちら)