リー将軍の銅像の撤去をめぐる事件は痛ましいものだった。
すでに何度も報道されているが、アメリカ南部、バージニア州シャーロッツビルで、南北戦争における英雄であるロバート・エドワード・リー将軍像の撤去が決まった。
そこで、それに反対する白人至上主義者とそのカウンターの集会が衝突し、ついには死者まで出る悲劇となった。たのだ
昨今、この手の政治思想がからむニュースになると、いつも驚かされるのが、
「自分がレイシストである」
ということを、自ら表明する人がいるということ。
私は基本的に、人種差別が好きではない。
いやこれは人種にかぎらず、性別でも思想でも性癖でも趣味嗜好でもなんでも、
「自分と違う」
という者を、それだけで、のけものにしようとする発想が好みではない。
それは別に私が聖人というわけではなく、単に人と比較して、自分の優越性を誇示したり劣等感をなぐさめたりすることに
「なーんかそういうの、あんまり興味がないなあ」
というだけだが、それにしたってレイシストを自称する人には、
「そこを自分の売りにするって、すごいなあ」
とは思うものだ。
「勉強ができる」
「運動神経がいい」
「ケンカが強い」
とかなら、まあわかるけど、
「オレ、人種差別主義者」
って自己アピールするの、ムチャクチャにカッコ悪い気がするんスけど……。
とはいえ私も、差別自体を完全に否定できるわけではない。
人には多かれ少なかれ、他者に対する偏見や警戒心はあるし(たとえば私の場合は「暴力をふるう人」「権力を誇示する人」「自分の主義主張を押しつけてくる人」の第一印象は悪くなる)、生きるためには、
「自分や仲間、家族を守るための群れの選別」
をしなければいけないこともあるから、誤解を怖れずいえば、ある意味必要な本能のようなものでもあるかもしれない。
ただ、これは「本能」に近いのだから、人には「食欲」があるといっても、人の物を盗ってまでがっついたらいけないわけで。
楽してお金はほしいけど万引きや窃盗はしたらダメだし、「性欲」が繁殖に不可欠だからと言って痴漢やセクハラがゆるされるわけではない。
それみたいなもので、
「人には差別意識がある」
からといって、汚い蔑視の言葉を垂れ流しにするのは「みっともないな」くらいには感じるわけだ。
別に、だれかが異性や外国人や同性愛者を嫌っていても、それは自由だし、好悪の感情は止めようもないからそれもいいけど、理性ある大人なら、
「せめて黙ってればいいのに」
と感じてしまうわけなのだ。
『帰ってきたウルトラマン』に出てきたMATの伊吹隊長は、第31話「悪魔と天使の間に…」というエピソードの中でこんな言葉を残した。
「しょせんは人の腹から生まれた子だ。天使にはなれんよ」
そう、人の心は不完全で、決して負の感情からは逃れられない。
でも、いやだからこそ、聖人ではない自分の弱さや至らなさを自覚し、易きに流れ加害行動に走らないことを、無くすのは難しいにしても、
「できるだけ、最小に近づける」
という努力をしないといけないのではとか、思うわけなのだ。
われわれは自分と違うものを「愚か」「醜い」「秩序を乱す」と感じることはある。私もある。
それは、ある意味自然なことかもしれない。
けど、「自然だから」といって、指さして笑ったり、足蹴にしていいわけではない。
もちろん、こっちが笑われたり足蹴にされても、受け入れる必要もない。
なぜならそれって、あえてこの言葉を使うが「バカ」のすることだから。
賛否あるけど、ポリティカル・コレクトネスって、要するにそういうことなのでは。
PCのそもそもの精神って、
「悪意を持って、もしくは時に悪気なくとも無意識的に、相手を傷つけてしまう言葉や行動」
について、
「ちょっと気をつけようよ、おたがいにね」
ってことのはず。
行き過ぎた規制は私もめんどいし、それを錦の御旗にして人を否定しまくる人は論外だけど、基本的にはおかしなこととも思えない。
日本人も海外で「黄色い猿」とか「チノ」とか、バカにしたように目を吊り上げるパフォーマンスとか、
「原爆投下は正しかった」
みたいな発言とか、されたら怒ることもある。私だって腹が立つ。
だったら、自分も同じことやって、どないしますねんと。
あとこれはモラルとともに、「危機回避」の問題もからんでくるのではないだろうか。
よく、イジメ問題のとき、なぜか
「いじめられる方にも問題がある」
「ムカつくし、キモイから、やられてもしょうがないだろ」
みたいな加害者側を擁護する意見が出てくるけど、こういう人がいつも不思議なのは、
「自分がいじめられる側」
に立たされた時、どうするんだろうということだ。
(続く→こちら)