「名人戦」と聞いて出てくるワードは時代によって様々である。
前回は羽生善治と久保利明の王座戦を紹介したが(→こちら)、今回取り上げるのは名人戦で、この話題となると、
「そら、中原誠と米長邦雄の《米中戦争》しかないやろ」
「いやいや、《21歳名人》谷川浩司フィーバーを忘れてもろたら困る」
「おいおい、大山康晴と升田幸三の死闘を知らんとはド素人ばっかりやないか」
などなど「名人の権威」という言葉が生きてた時代を知る、オールドファンの声が上がりそうだが、昭和に続く平成の名人戦といえばやはり、
「羽生善治vs森内俊之」
このカードにとどめを刺すだろう。
この2人は30代から40代はじめころにかけて、毎年のように名人戦を戦っていたが、初めて相まみえたのが1996年の第54期名人戦。
これは森内にとって、最初のタイトル挑戦でもある。
両者とも25歳という、フレッシュな組み合わせとなったこの七番勝負。
結果こそ4勝1敗で羽生が防衛と、スコア的には差がついたが、内容面ではどれも非常に拮抗した戦いであり、そのレベルの高さから、
「指し手の質では史上最高クラスでは」
といった声も聞かれたほどだった。
羽生の強さは今さらだが、敗れた森内の評価もまた、大いに上がったのである。
今回はその中から、開幕局を取り上げたい。
羽生が先手で相矢倉になり、当時の将棋らしい、がっぷり四つの組み合い。
むかえたこの局面。
羽生が▲46角とのぞいたのに対し、森内が△62飛と、6筋に照準を合わせたところ。
おたがい飛車先に戦力が集中しており、一気の攻め合いになりそうなところだが、ここで羽生が得意の「例のアレ」をくり出してくる。
▲94金と打って、攻め駒をここで責める。
よく、▲83や▲23の地点に金や銀を打って、相手の大駒を責める形を「羽生ゾーン」と呼ぶが、これもその一種。
羽生はこういうB面攻撃を、ひそかに得意としているが、後手も△66歩から殺到するのが目に見えているから、怖いところ。
下手すると角をうまくさばかれて、この金が「スカタン」になる可能性もあるけど、攻め合うよりも、こうやってじっとプレッシャーをかける方がいいという判断か。
行くしかない後手は△66歩と取りこんで、以下▲68金引、△67歩成、▲63歩、△同飛、▲64歩、△68と、と激しい順に突入した。
そこから、大きな駒の振り変わりがあって、この場面。
後手の△58飛がきびしい手で、次に△87銀と打てればおしまい。
かといって、▲86銀は△68歩成で、受けがない。
後手玉はあぶないけど、まだ詰みはないということで、森内優勢かに見えたが、ここで羽生の指したのがおどろきの手だった。
▲98角と受けたのが、すごい手。
たしかに大駒を玉の近くで受けに使うには、
「角は銀、飛車は金」
のイメージでとは言われるが、それでもこんな受け一方の角を打たされては、いかにも苦しげだ。
デビュー当時の羽生は、敗勢になっても投げず、ねばりまくる根性で有名で、テレビを観ながら、
「《羽生のクソねばり》を久しぶりに見たなあ」
なんて感じ入ったものだが、ところがどっこい、これがそういうわけではないというのだから、将棋というのはむずかしいものである。
「打たされた」感ありありのこの角だが、これで先手が、容易には負けないのだ。
以下の手順を見ると、後手は当然の△57と、に▲69金と補強して、△48飛成に▲66馬と引く。
後手は△65銀と、かぶせてくる。
今にも押しつぶされそうな先手陣だが、ここで▲57馬(!)と取るのが好手。
攻防に利くカナメの馬と、と金の交換など、レートでいえば大損ぶっこき丸だが、駒を損しても急所のと金を払うのがいい判断。
さらにはタテヨコに利いていた竜を、働きの弱い△57の地点に引きずりこむのも大きいのだ。
△57同竜に、▲73金と取った形を見てほしい。
あれだけ危険だった先手玉が、いつの間にか鉄壁になり、一方後手陣はスカスカなうえ竜も中途半端で、有効な手がない。
やむをえず△68金と打つも、一番固いところを攻める形で、不本意この上ない。
▲34桂とここで反撃し、△41歩に、▲43歩と攻めつけて先手が圧倒。
羽生がまず初戦を飾ったのである。
こうして見ると、▲98角と打ったところでは、すでに先手が優勢だったことになり、ちょっと信じられないが、手順を見るとそういうことになる。
うーん、あんな形から勝つ羽生はやはりすごいと感心してしまうが、この将棋にはまだ続きがあった。
局後の検討によると、やはり、あの局面は後手が指せるらしいのだ。
良くなかったのは△58飛で、自然に見えたが、ここはもっといい手があった。
ちょっと盲点になる筋だが、あえて「アレ」をかけさせて……。
△48飛と、ここに打つのが好手。
これで、▲69金が先手で打てないから、後手の攻めが一手速い。
今度▲98角は△57とが馬取りになるので、後手の攻めが刺さっている。
というと、
「あれ? この飛車、取られちゃうんじゃね?」
首をひねったあなたはなかなかスルドイ。
▲22馬と切って、△同玉に▲66角と打てば王手飛車なのだが、これがいわゆる「毒まんじゅう」。
△33歩と合駒して、▲48角と取らせてから△69角と打てば、角も取り返せる形で後手優勢だった。
△58に打って充分に見えるところを、あえて王手飛車をかけさせる超高等テクニックで、森内も感心していたという。
この将棋に大いに満足した私は、これから二人が、名人戦だけでなく他の棋戦でも、どんどんおもしろい将棋を見せてくれるのだと、新時代の幕開けに胸を躍らせたものだった。
(羽生と森内の名人戦第5局編に続く→こちら)