前回(→こちら)の続き。
林太郎も金之助も悪くないが、日本文学の最高峰は坂口安吾であると確信している。
安吾先生の魅力は、一言でいえば「パンク」である。
『日本文化私観』など、のっけからブルーノ・タウトが絶賛する桂離宮を「見たことがな」いとし、茶の湯や石庭よりも小菅刑務所やドライアイス工場を美しいと礼賛。
あまつさえ、
「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」
などとぶちあげる。
これには坂口ファンであると公言する作家や文化人すら、
「論旨が破綻している」
「そこまで日本古来の文化をあしざまにいう必要があるのか」
首をひねるが、もちろんのこと安吾先生だって、本当に寺をつぶして停車場を作れと言っているわけではあるまい。
この『日本文化私観』では、冒頭から「日本を愛する」ブルーノ・タウトという「偉い人」をもってくるところからして、そういう
「気取った文化人が語る日本文化」
にモノ申したいわけだ。
法隆寺や竜安寺の石庭が悪いのではない。
そういった「文化的」なものを
「権威があるから」
「えらい人がいいと言っているから」
などといった理由だけでほめたたえ、しまいにはその意見にくみしない人を見ると、
「おまえはわかってない」
「伝統文化なんだから敬えばいいんだ」
などと、権威ぶってカマす俗物。そういった連中の性根こそを、
「停車場にでもしたったらええねん!」
一撃食らわせているわけだ。
これには、なんと痛快なことであるかと溜飲が下がる思いだった。私も当時、無力な10代男子として、
「えー、これ流行ってるのに知らないのー?」
「我々には歴史と伝統がありますから」
「先生がそういってるんだから、だまってやればいいんだ」
などといった、意味不明の高圧的態度に、
「流行りって、ただの広告代理店の宣伝や! こっちを愚民あつかいして高笑いしとるやつらの流す情報なんぞ、知ってるほうが、おどれの知性と個性の欠如をあらわしとるんや!」
「歴史と伝統って、ただ古いだけやし、仮にそれに価値があるとしても、それでイバるお前は、『オレの兄ちゃんヤンキーやから、お前らのことシバいてもらうからな!』ってえらそうにしてる中学生と変わらん!」
「だまってやればいい。その通り! 日本の学校教育いうのは、アンタのやるような《奴隷根性の育成》ですからな。でも、そんな《ヨゴレ仕事》をやってるという罪悪感くらい持っても、バチは当たらへんのとちがいますか?」
「歴史と伝統って、ただ古いだけやし、仮にそれに価値があるとしても、それでイバるお前は、『オレの兄ちゃんヤンキーやから、お前らのことシバいてもらうからな!』ってえらそうにしてる中学生と変わらん!」
「だまってやればいい。その通り! 日本の学校教育いうのは、アンタのやるような《奴隷根性の育成》ですからな。でも、そんな《ヨゴレ仕事》をやってるという罪悪感くらい持っても、バチは当たらへんのとちがいますか?」
なんて、いちいち憤っていた私からすると(というか、今でも全然思ってますけど)、安吾先生の言いたいことは共感度400%なんである。
ようするにいいたいことは、人が「美」とか「歴史」とか「芸術」とか、そういったものと向き合うときに、審美眼や知性は必要だが、
「権威によっかかっただけの、えらそうな連中のご高説」
これがいらないということだ。「流行」? 知らん。「伝統文化」? 犬に食わせとけ。
そういった「上からの雑音」は本当に邪魔だ。マンガ家桜玉吉さんの名セリフを借りれば、
「自分の好きなものくらい、自分で決めるよ」
だから「日本文化」に安易によっかかる人に疑念の目を向ける。
日本文化が良いものであることは本当だろう。だがそれは、決して
「ブルーノがそう言ったから」
であってはならない。
大人を信じるな! ドント・トラスト・オーバーサーティー! これぞまさに、パンクではないか。
以上、これが「正解」かどうかはわからない私の勝手読みだが、「魂」の部分は共通しているのではあるまいか。
後年、パンク歌手で芥川賞作家の町田康さんの作品を読んだとき、
「あっりゃー、この人、絶対安吾チルドレンや」
と感じたものだが、調べてみるとやはりそうで、それどころか坂口安吾を特集した本では対談で、熱くその愛を語っておられた。
やっぱり、そうであった。私はパンクという魂を、イギー・ポップでもザ・クラッシュでもなく、坂口安吾から学んだのであった。peste!