ニコルソン・ベイカー『中二階』を読む。
朝起きたら虫のカフカ『変身』とか、気ちがい小説の代名詞である夢野久作『ドグラ・マグラ』。翻訳不可能といわれた怪作ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』などなど、
「ようこんなん、書こうと思いましたな」
そう感心する小説は枚挙にいとまがない。
そんな「変な小説」のひとつに、ニコルソン・ベイカー『中二階』は間違いなくあげることができる。
ストーリーは基本的にない。
建物の中二階にあるオフィスで働く主人公が、あれこれ考え事をしながらエスカレーターに乗って降りる。そんだけの話。
というと、なんやねんそれと言われそうだが、この小説のキモは「あれこれ考えながら」のこと。
これがアメリカのビジネスマンらしい「グローバル社会の矛盾」とか「世界経済の今後のゆくえ」なんてことではなく、
「炭酸飲料を飲むときに使うストローの遍歴」
「スーパーで渡される紙袋の用法」
「トイレにあるペーパータオルの使い勝手」
などなど、身近にある道具や機械などについて、あれこれと、らちもないことを思い浮かべるだけなのだ。
しかもこれが、膨大な「注釈」を入れて語る語る。
「ストローをコーラの缶に挿すと浮き上がってしまうが、これをどうすればうまく沈みこむようにできるか」
について約1ページ半におよぶ「注」で語りまくるのだ。
田中康夫の『なんとなくクリスタル』か! これを「変な小説」と言わずして、なにを変というのか。
でもって、この物語は約200ページ間、ずーっとこの調子。
「靴ひもの正しい結び方」
「耳栓へのこだわり」
「我いかに、トイレにある熱風乾燥器を認めていないか」
そんな「知らんがな」な考察が、これでもかと押し寄せてくる。とこのとんまで、どうでもいい話なのだ。
じゃあ、これがつまんないのかといえば、なぜかおもしろい。不思議な読ませ方をする。
なんなんだろうなあ。バカバカしいんだけど、
「こんなバカバカしいもん、頭いいヤツじゃないと絶対に書けないよな」
と思わせるんだよなあ。
この「どうでもいいこだわり」を書き連ねて読ませるスタイルって、だれかに似てるなあと思ったら、読んでる途中でハタとひざを打った。
これって、日本でいえば東海林さだおさんだ。
ショージ君もまた、その著書や連載の中で、
「あんぱんは、こしあんか粒あんか」
「味つけノリにしょうゆをつけるのは、ゴハンから見て表側か裏側か」
といった、日常の些末に対する論を展開することを得意とされているのだ。『中二階』には、
「トーストにバターを、どう塗るのがベストか」。
というくだりがあって、
「これこそまさにショージ君!」
我が視点のスルドサに、ひそかにニンマリしたものだ。
とにかくこの小説、全編この調子で「ホチキスをとめる音と爽快感」みたいな「どうでもいい」ことがあるだけです。
私のようにそのスットボケ感がくせになる人もいれば、「だから何?」と本を投げ出す人もいるかもしれない。
そういえば、東海林さんは味つけのりの話を書いたとき、
「そんなくだらんことより、天下国家のことを論じんか!」
といった、おしかりの手紙を受け取ったそうだが、ショージ君のように、
「天下国家のことはクダラナイが、味つけのりとしょうゆの話は楽しい」
そう感じる人には、ニコルソン・ベイカー『中二階』は、けっこうおススメです。