順位戦の大ポカ 先崎学vs岡崎洋 1995年 第53期C級2組順位戦

2021年10月02日 | 将棋・ポカ ウッカリ トン死

 将棋界で、もっともやりきれない「やらかし」は順位戦でのそれであろう。

 先日のA級順位戦で、山崎隆之八段が、ちょっと信じられない大ポカを披露して話題になったが、プロの世界でもまれに、そういうことが起こる。

 まあ、人間がやる以上どうしてもミスは出るもので、それ自体はしょうがないけど、時と場所によっては、取り返しのつかない陰惨さを醸し出すこともある。

 それが、順位戦の世界。

 

 

 今期のA級順位戦、佐藤康光九段と山崎隆之八段の一戦。

 △15角と銀取りに出た手に、▲36銀直と上がったのが、目を疑う一手。

 指された瞬間、佐藤は「ええ?」と盤をのぞきこみ、すぐ気づいたのであろう山崎も頭に手をやった。

 当然、次の手は△49馬で、▲同玉は頭金で詰み。

 ▲69玉と逃げても、そもそも金をボロっと取られてヒドイのに、△76馬と飛車まで抜かれるオマケつきで、どうしようもない。

 

 特に今回の山崎は開幕3連敗で、まだ初日が出てないとあっては、必勝を期していたはず。

 それが、まさかの「一手バッタリ」とは……。なんとも、きびしい結末だ。

 まだ山ちゃんの場合は、苦しいとはいえ残り5戦あるから、ここから巻き返す機会は残されているが、これが昇級や降級の一番だと、あまりにもやりきれない。

 それこそ昔の順位戦となれば、現在よりもっともっと偏った棋戦だった。

 給料対局料シード権から、その他連盟内の政治的立場まであらゆるところで、クラスの差がモノをいったという。

 有名な話では棋士総会で、ある棋士が意見を言おうとしたところ、

 

 「Cクラスの奴は黙ってろ!」

 

 そう一喝されたことがあるそうな。

 その棋士が言おうとしていた意見の妥当性と、将棋でどのクラスにいるかには、なんら関連性などないわけだが、アスリートによる「実力の世界」では、ときにこういう考え方が幅を利かしがちだ。

 なので、みな必死になって戦うわけだが、この制度はその風通しの悪さも手伝って、有望な棋士でも足を取られてしまうこと多々。

 そのひとりに先崎学九段がいて、C級2組を抜け出すのに相当苦労していた。

 前回は羽生善治九段のスピード感あふれる寄せを紹介したが(→こちら)、今回は将棋の泥臭い闇の部分を見ていただきたい。

 

 1995年の第53期C級2組順位戦。

 24歳だった先崎学六段は7回戦を終え、6勝1敗

 全勝三浦弘行四段深浦康市五段久保利明四段に続いての4位につけていた。

 他力とはいえキャンセル待ち1位にいるのは大きいが、後ろには、中川大輔六段平藤真吾四段佐藤秀司五段といった面々が1敗で追走しており、ひとつの負けもゆるされない情勢。 

 事実この期、深浦と佐藤秀司は1敗頭ハネを食らって上がれなかったという、ハイレベルを超えて不条理きわまりないという、レース展開になるほどだった。

 18歳でデビューし、NHK杯優勝竜王戦挑戦者決定戦まで行くなど、その実力は折り紙つきながら、すでに先崎のC2生活は7年目

 1敗頭ハネの悪夢も経験し、まさにどこまで続くぬかるみぞの恐ろしさだ。

 むかえた8回戦。

 相手はこの期デビューで、そのクールで表情の変わらないところから「マシン岡崎」と呼ばれる岡崎洋四段

 岡崎が先手で得意の相掛かりから、中原誠十六世名人の愛用する▲46銀型に誘導する。

 中盤戦、岡崎が▲64にいた角を▲46角と引いたところ。

 

 

 先手の飛車角が好位置だが、後手も玉が固く、桂馬も使えてるので、まだまだというところ。

 とりあえず、△64歩と打って飛車と角の成りを防いで、それから……と考えていたところ、うまそうな手が思い浮かんだ。

 

 

 

 

 △57桂成と飛びこむのが、先崎のひらめいた手。

 ▲同玉なら、△75角と打って間接的な王手飛車

 ▲同角なら、今度は△55角と飛車香両取りに打って、▲61飛成△19角成を取る。

 を作りながら、△54香田楽刺しがねらいの先手で、自分が指せると。

 ところが、これがとんだ勝手読みだった。

 プロがこんな簡単にうまくいく手を、ゆるすはずがなく、先崎本人も認める「うまい話には注意せよ」の典型のような形。

 △57桂成、▲同角、△55角▲61飛成と進んだこの局面を見てください。

 

 

 

 

 

 そう、後手が読み筋通り△19角成と取ると、なんと▲84角飛車タダ。

 いやそれどころか、△54香と責めるはずの角を、先逃げされてしまうというヒドイ手なのだ。

 まさかだが、先崎は飛車を取られる手をウッカリしていたのだ。

 それもよりによって昇級圏内にいるはずの順位戦で、やらかしてしまった。

 あまりの大ポカに、先崎は投げようと思ったそうだ。いや、他の将棋なら、きっとそうしたろうと。

 だが、この一番だけは、投げるに投げられない。

 ここでの2敗目は、競走相手のレベルと人数を考えると致命的な一発になってしまうからだ。

 そこで先崎は、どうしたか。

 なんとそのまま席を立ち、まだ40分近くある持ち時間を捨て、残り2分になるまで帰ってこなかったのだ。

 理由としては、いきなり姿を消すことによって、相手を混乱させようという実戦的なかけひきがひとつ。

 もうひとつは、時間があると突発的に投げてしまうかもしれないが、秒に追われれば、とりあえずなにかは指すからという、折れないための苦肉の策。

 悲壮というか、本当にプラスになってるかもあやしい、非常手段中の非常手段。

 1分将棋にしなかったのは、トイレに行きたくなったとき用の保険。

 その間、岡崎は対戦相手のいない盤の前で、延々と記録係が、

 

 「40秒……残り8分です」

 

 とか読み続けるのを、聴いていたことになる。

 なんともシュールな光景で、どういう気持ちだったのだろうか。

 戻ってきた先崎が指したのが、△63歩

 

 

 

 結果的には、ただ無意味に桂馬を成り捨ててから、飛車成を受けたことになる。

 あまりにもミジメな土下座だが、投げないのなら、指すしかない。

 これがまさに、いにしえの言葉で言う「順位戦の手」というやつだ。

 プロレベルでは将棋はこれにて終了だが、大差がついた状態だと、リードしているが勝ち切るのに、なぜか苦労するというのはなんとも不思議な「将棋あるある」ではある。

 あまりに急激に良くなったせいか、岡崎は悪手こそ指さないものの、ちょっとずつ甘い手が続く。

 一方、居直った先崎は、その後すごい勢いで岡崎玉にせまり、差を詰める。

 

 

 

 △77角とぶちこんだところでは、後手も相当に見える。

 ここでバラバラにしてから、再度の△65桂おかわりに、△57銀で強引に王手飛車をかける。

 その腕力と終盤力は大したもので、実戦的には逆転かと思われたが、▲48角というのが冷静な合駒で、やはり後手が勝てない。

 

 

 

 

  これで銀にヒモがついて、△29飛成先手にならず、後手の攻めを受け止めている。

 いわゆる、「3枚の攻めは切れる」形で、△84にある飛車取りも残って、どうしても後手が足りない。

 以下、岡崎は玉を左辺に逃げ出し、入玉して勝った。

 怒涛の追いこみを食らっても、淡々と指し続けて逃げ切ったのは、まさに「マシン」の異名通りだった。

 こうして先崎は、またも昇り損なった。

 この翌年の8期目に、ようやっと昇級することとなるが、後に語ったところでは、

 

 「30歳までに上がれなかったら、棋士をやめて雀荘を経営しようと本気で思っていた」

 

 先崎はその後、これまで鬱憤を晴らすかのごとく、C1は2期、B2、B1は1期で抜けて、たった4年A級まで駆け上がる。

 その棋力のみならず、執筆や解説などでも、大いに将棋界に貢献した棋士が、ここまで追い詰められるとは……。 

 このあたりの心境は『フフフの歩』というエッセイ集の、「ここ数年のこと」という一遍にくわしく記されている。

 順位戦で苦労している、若手棋士の苦悩を知りたいという方は、ぜひ古本屋で探して読んでみてください。

 

 (「角不成」の絶妙手編に続く→こちら
 

 


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2 コメント

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Unknown (soborut)
2021-10-02 21:10:24
投稿お疲れ様です。今回も面白かったです。

>>「Cクラスの奴は黙ってろ!」
いやあ。酷いですねえ、ドン引きですねえ、最低ですねえ。今は駆逐されてるんでしょうか?周りの人がいてこその自分、という謙虚さは忘れちゃいかんです。

>>大差がついた状態だと、リードしているほうも勝ち切るのに苦労する
自分も角を歩と序盤に交換(笑)した将棋で勝った事があります。なんか開き直って、凄く集中出来たんです。あの勝利は良かった...。
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Unknown (シャロン)
2021-10-02 23:13:17
soborutさん、コメントありがとうございます。

「Cクラス」うんぬんは結構有名な話で、ヒドイ言い草ですが、団鬼六先生のように、

「その浮世離れしたところが将棋界のおもしろいところ。こんなところで一般社会の価値観なんか、見たくもない」

と「幼児性」に対する、あこがれを表明する人もいます。

「ひふみん」や「株主優待の桐谷さん」がウケたのは、その陽性版と言えるのでしょうね。

それこそ、今回の件の主役である先崎学九段の『将棋指しの腹のうち』でも、

>>本当に、パワハラの塊だったのだ。世の中全体が荒っぽかったんだ---という理屈もあるかもしれない。だが、それをふまえてなお、昔の将棋界は無茶苦茶だったのである。たとえば私は、棋士総会という公的な場においてすら、「下級者黙れ」とか「強いなら何をやってもいいのか。盤上にクソをしてもいいのか」というセリフを聞いたことがある。

と書いてますから、よっぽどだったんでしょう。

私は昭和の将棋も大好きで、大学の部室長屋のような、仲間だけで集まる「村」のパラダイスの心地よさも理解はできますが、こういうノリには正直ついていけませんねえ(苦笑)。
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