ハンブルク1945 ウーヴェ・ティム『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』 

2017年11月01日 | 
 ウーヴェ・ティム『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』を読む。
 
 かつてドイツ語を勉強したことがあるせいか、ドイツ小説映画を見つけると、とりあえずチェックする、クセのようなものがある。
 
 中でも、1933年ヒトラー政権奪取の前後から、終戦までをあつかったものは、ドラマ的にもわかりやすいせいか、よく手に取ることになる。
 
 
 デイヴィッド・クレイ・ラージ『ベルリン・オリンピック』
 
 皆川博子『総統の子ら』
 
 須賀しのぶ『神の棘』
 
 クラウス・コルドンの『ベルリン三部作』
 
 
 映画なら
 
 
 『スターリングラード』
 
 『橋』
 
 『ドイツ零年』
 
 
 などで、その系列に、『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』も存在している。
 
 舞台となるのは第二次大戦末期、ドイツ降伏直前のハンブルク
 
 主人公であるレーナ・ブリュッカーは40代の中年女性。夫は去り、息子たちは戦地や勤労奉仕にかり出され、一人で暮らしている。
 
 なかば廃墟と化した街で、物資の不足に悩まされ、ジャガイモ入りの買い物袋を持って歩くドイツ軍大尉の姿を見て、
 
 
 「まちがいない。この戦争は負けだ」
 
 
 などと考えながらも、淡々と静かに銃後の日々を送っている。
 
 そんな彼女が、ひょんなことから出会ったのが、ヘルマン・ブレーマーという若者。
 
 脱走兵である彼をかくまっているうちに、つかの間の愛人関係におちいる。
 
 ドイツ降伏のニュースがもう流れていたにも関わらず、レーナはブレーマーを手放したくないばかりに、
 
 
 「戦争はまだ終わっていない」
 
 
 そうをついて、引き留める。
 
 まだ戦争が続いているなら、前線から逃げ出したブレーマーは、見つかれば即射殺だからだ。
 
 そうして、なし崩し的に、ふたりの少々ゆがんだ同棲生活はだらだらと続くのだが、やがてそれも突然に終わりを告げて……。
 
 そういう、まあ言ってしまえば戦争の悲哀もの。
 
 ただこの小説、設定はドラマチックに見えて、実のところかなり地味な物語である。
 
 戦争ものだがドンパチがあるわけでもなく、ナチと反体制分子の人間ドラマや、反戦メッセージも、うったえかけてはこない。
 
 悲哀ものと紹介したが、レーナとヘルマンのやりとりが、あまりにも淡々とし過ぎてて、胸の高鳴りを誘発しない。
 
 もちろん、レーナはレーナなりにヘルマンを「愛して」はいただろうが、あらすじから想像できるような「戦火のロマンス」があるかといえば、そういうことでもないのだ。
 
 作者の言葉を借りれば、これは
 
 
 「その物語には英雄はいない」
 
 
 だから、ことさら刺激的な展開や文句は存在しないのだ。
 
 ではこの本は退屈なものなのかといえば、もちろんそんなことはない。
 
 物語の根幹を支えるのは、おそらくはレーナの「強さ」だ。
 
 といっても、その「強さ」は
 
 
 「逆境にもめげない」
 
 「不条理と雄々しく戦う」
 
 「苦しくてもユーモアを失わない」
 
 
 などといった、たくましさを想起させるものではない。
 
 それはたとえば、夏目漱石の『坊ちゃん』における「」とか、『赤毛のアン』におけるマシュウ・カスバートのような、そういった普段はただ黙々と働くだけがとりえのような人だけど、にもかかわらずというか、だからこそというべきなのか、地に足の着いた確固たる存在とでもいうのか。
 
 『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』に出てくるレーナ・ブリュッカーは、そういった、あえて大仰に名付けるなら
 
 「聖なる生活者
 
 とでもいうような存在なのである。
 
 レーナは女性としても物語の主人公としても、さして魅力的ではない。
 
 訳者あとがきの言葉を借りれば、
 
 
 「無骨とさえいえる現実的で実直な人柄」
 
 「不器用だがしたたか、現実主義だが決定的なところで情にもろく、正義感が強いが決して聖女ではない」
 
 
 要するに、「どこの時代にでもよくいる、その辺のおばさん」なのである。
 
 だが、それこそが、この物語のキモだ。
 
 敗戦というマクロな衝撃や愛人に逃げられるという個人的な悲劇まで、わりとダイナミックな出来事にさらされている彼女なんだけど、案外と動じないのが、まさに「生活者」であるレーナの強み
 
 たとえ明日世界が滅ぶとしても、人は今日、口に入れるものを手に入れてこなければならない。
 
 こういう達観のようなものを持っている者は、少々のことでは崩れないのかもしれない。
 
 カレーソーセージがどこでにでもあり、簡単に作れるがゆえに、皆から軽く見られながらもすたれないように、歴史的事件も日常の悲しみも、地道に生きる彼女を束の間ゆるがしても、それはそれとして受け入れることもできる。
 
 だからこそ、物語の最後でベルリンから逃げてきた(おそらくそこでこの世の地獄を体験した)リーザが、カレーソーセージを食べて、感極まったように言うのだ。
 
 
 「これだよ、人間に必要なものはこれなんだ」
 
 
 きっと作者は、この一文が書きたいために、この物語を完成させたに違いない。
 
 レーナは主人公としては決定的に地味だ。だが、「人間に必要なもの」を作り出せる女性でもある。
 
 ただそれだけのことが「レーナの物語」であり、なにもドラマなど盛り上げないのに、私はこんなにも惹きつけられるのだ。
 
 
 

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