前回の続き。
歯医者で歯石を取ってもらってると、過去にあったある歯医者の都市伝説が思い出された。
それが、漫画家の桜玉吉さんも遭遇した
「おっぱい ぽよん歯科」
マルセル・プルーストは紅茶にひたしたマドレーヌの香りで、失われた時を求めて過去を思い出すが、私はフッ素のにおいで、もう20年近く前の記憶が喚起された。
現場であるモウル歯科(仮名)で、篠崎愛さんのようなグラマラスな衛生士さんに、フニフニと当てられながら歯を掃除してもらったのだが、これがなかなかオツなものだったのだ。
こんな経験はなかなかできないと、私は人生の勝利者として友人ヒゴバシ君にその話をすると、友は「ふーん」とつまらないように言うと、
「でもそれって、たぶん胸とちゃうんちゃう?」
突然のカウンター。
それ、ちゃうちゃうちゃうんちゃう? なにを言い出すのか、この男は。
あれは断じておっぱいである。一体、なにを根拠にそんなことを言い出すのかと問うならば、
「それって、胸やと思ってるだけで、実際はお腹とか腰が当たってるって聞いたことあるで。カン違いやないの?」
あれはおっぱいではなく「おなか」だった。
来たよ、困ったものである。
昨今、有名人に対する誹謗中傷が問題となっているが、このように世の「成功者」に対する風当たりが強いのは、いつの世も同じ。
「持てる者」にたいして「持たざる者」が憎しみを抱くというのは、人情としてわからなくもない。
カール・マルクスを代表とし、現代ではマイケル・サンデル教授など、そういった「格差」をなくすべく奔走するのは、人類普遍の課題と言ってもいいだろう。
だが、そういうときだからこそ、「自分はそこに加担しない」という意志の力が大事なのではないか。
世界は不公平である。だからこそ我々は、その矛盾に満ちた世界で、闇に落ちないよう踏ん張るべきなのだ。
「ミイラ取りがミイラ」。友がその罠に陥っているのが、私は哀しい。
そんな人の栄光をうらやむヒマがあったら、もっと自分を高める努力をしたらどうなのか。
「おっぱいぽよん」が妬ましいなら、グダグダ言う前に自らも広い世界に飛び出し、それを探す旅に出るべきではないのか。
などと熱く諭してみると友は、
「うーん、でもぶっちゃけ、シャロン君よりオレの方が5倍くらいモテてるし、別に歯医者でなくても、おっぱいには不自由してへんからなあ」
おまえよりモテている。
なんという言い草か。
いくら敗北がみじめだと言え、このような詭弁にすがるとは友もいよいよ重症ではないか。
友の体たらくに愕然とし、このような無礼に対して頑として反論するならば、それはまったくその通りである。
おお、敗北者は私であったか。
言われてみればヒゴバシ君は若いときから彼女が途切れないタイプで、しっかりと結婚もしており、今でも(以下、友の家庭の平安に関わるので略)という現役バリバリ男だ。
5倍どころか、私より5万倍はモテている。おっぱいに不自由していない男が、「ぽよん」に対して嫉妬するなどありえない。
それどころか。歯医者で「しか」それを味わえない私は、まさに負け犬一直線ではないのか。
中には、
「オレは口の中をいじられながら、女性の胸の感覚を味わうのが一番だね」
という人もいるかもしれないが、なかなかな少数民族であろう。店を探すのも大変そうだ。
え? ちょっと待って、それマジ?
人にはそれぞれ、人生の礎にすべき成功譚がいくつかあるはずだ。
部活で全国に出た、一流大学に受かった、すてきな恋人ができた、すばらしい青春時代を送った……エトセトラエトセトラ。
そういう、「あの喜びがあるから、つらいことだってがんばれる」という経験が、私にとっては「おっぱいぽよん」である。
それを失ったとしたら、果たして私は、これからなにを頼りに生きていけばいいというのか。
(続く)