歯医者に行かねばならなくなった。
もともとかなり前から、いろいろと歯に違和感を感じていたのだが、なかなか行く機会がなかったのである。
というと、なにやら私がドリルの音を恐れるチキン野郎であるとか、どこかから
「ピッチャーびびってる、ヘイヘイヘイ!」
という声も聞こえてきそうだが、誤解されては困る。
私も社会人として忙しい身でもあり、なかなか時間も取れない。
実際、今週も仕事がいそがしかったり雑用に追われたり、あとはトム・クルーズが新作映画のPRで「あつあつおでん」に挑戦する動画を見たりと多忙を極めるのだ。
それでも先月、なんとか時間をやりくりしてクリニックの目の前まではたどりついたのだが、こんなときにまた保険証を忘れていたことに気づき愕然としたりした。
なんとマヌケなと、ほくそえ……悄然としながら受付のお姉さんにその旨伝えると、
「大丈夫ですよ、次の診察に持ってきてくだされば」
とのことであったが、もちろんそんなわけにはいかない。
保険治療を受けるのに、保険証がないというのはこれ一種の不正である。
私もたいした人間ではないが、人生でズルだけはしたことがないという自負があり、これは親の強い教えでもあるのだ。
中古車販売会社の闇が暴かれ糾弾されている昨今、私もまた同じような悪に身を投じてもいいのか。
否! 断じて否である!
なので、
「本当に大丈夫ですよ。先生もすぐに来られますので」
そう伝えてくれるお姉さんの笑顔を断固と振り切って、結局その日も帰ることとなったのだ。
これには我ながら、胸にくるものがあった。
なんという気高き男なのか。
保険証なしでもいいという甘言をものともせず、正義を貫くために、その日の治療を泣く泣くあきらめる。
まさに男の中の男であり、現代の獅子心王。蒼き狼、鉄血宰相、マレーの虎、革命の大天使。
このように常に多忙で、またジャスティスをつらぬく心を持った私は、どうしても歯医者に行く時間が取れないのだ。
などと丁寧に説明していると、なんだそれは、やはりただビビっているだけではないか、という意見があがってくるかもしれないが、これぞまさに完全なる誹謗中傷である。
昨今はネット上でのネガティブコメントが問題になっており、識者も対策にいそしんでいるという。
私もまたそういう悪意には決して負けない男であり、とりあえずデントヘルスRを山盛り歯茎にぬりながら、悪には断固として、法的処置を……あいててて(泣)……取る所存である。
(続く)