「ベテランの洗礼」
というのは、スポーツなどの世界でも、よく聞く話である。
今をときめく若手や旬のチームが、「まあ、問題ないだろう」と思われていた古参選手や伏兵チームに一発入れられて大苦戦を強いられる。
それは将棋の世界でもままあることで、前回は「永世七冠」をめぐる渡辺明と羽生善治による「100年に1度の大勝負」を語ったが(→こちら)、今回はベテランが順位戦で見せた、老練の味を紹介したい。
1991年、第50期B級2組順位戦の開幕戦。
関根茂九段と森下卓六段の一戦。
この年のB2は序盤から波乱含みで、まず昇級候補の大本命だった羽生善治棋王が、初戦で東和男六段に敗れるという、番狂わせからスタート。
となると、注目は2番手候補である森下に集まるわけだが、これがまた62歳の大ベテラン相手に、苦戦におちいっているというのだから、順位戦というのはわからないもの。
後手の関根が矢倉中飛車を選ぶと、仕掛けから華々しい戦いが続いて、むかえたのがこの局面。
△39飛成に、森下が▲79金と打って守ったところ。
形勢は馬の働きや、先に竜ができてる差があり、後手の関根が有利。
とはいえ、相手は谷川浩司、羽生善治に次ぐ格と見られていた森下卓である。
そう簡単に勝たせてくれるわけはないし、深夜の体力勝負に持ちこめば、25歳(若い!)と62歳という年齢差がジワジワとものをいってくる。
そこを計算に入れ、関根は次の手を選んだ。
△59金と打つのが、確実な攻め。
以下、△69金、△79金、△89金と横歩きしていけばいいのだから、なんとも話は分かりやすい。
『対局日誌』でこの将棋を採りあげたの河口俊彦八段も、
「六十歳を超えた関根が疲れていないはずがない。わかりやすくしようとするのは当然の心理」
「若いころの関根は、粘っこい指し方に特徴があった。△65馬と取るなど、複雑な指し方を選んでただろう」
局面をゴチャゴチャさせると、森下の体力と終盤力で、最後にうっちゃられる可能性が高いことを、考慮に入れての戦術というわけだ。
だが、この△59金というのも、度胸のいる手ではある。
なんといっても、この瞬間がなんでもないし、次に△69金と取った形も、先手玉が絶対に詰まない「ゼット」になっている。
森下はその2手の間、自陣を見ずフリーハンドで攻撃できるわけで、どんな特攻をくり出してくるか、わかったものではないのだから。
その通り、森下は▲62飛と反撃。
△31馬、▲52銀成に、一回手筋の△61歩を放ち、▲同飛成とさせて△69金。
森下はかまわず、▲41成銀。
△79金とくれば、その瞬間▲31成銀と馬を取って、△89金に▲97玉(馬が端に利いてない!)と逃げられるから逆転模様。
関根はノータイムで△21馬と逃げたが、これは逸機で、実は後手から必殺手があった。
△97銀が、相手の逃走路に捨駒をする、終盤の手筋で決まっていた。
控室の検討で、先崎学五段が発見した手だが、▲同桂でも▲同香でも、そこで△79金とすれば必至。
馬が端を押さえている一瞬に、放りこむのが技だったのだ。
大ピンチを危うく切り抜けた森下は、ここで▲69金と取る。
△同竜に、▲79金と打って先手を取ったのが、当然に見えて疑問だった。
ここでは▲66金と桂馬をはずして、「寄せてみろ!」とせまれば、先手にも十分チャンスはあったのだ。
難解な局面に誘導して手を渡し、相手のミスを誘発するのは終盤のテクニックのひとつだ。
とはいえ、自陣を固めながら手番を握れる、この金打は指したくなるのもわかる。
▲79金に△19竜、▲53桂成と進んで、この局面。
森下がこの順を選んだのは、続く寄せが見えていなかったから。
ここでふたたび、後手から妙手があったのだ。
△58桂成が、見事な決め手。
といわれても、なんだかボンヤリした手のようで、よくはわからない。
▲76馬とでも引いて、△69成桂なら、それが「ゼット」だから▲42成銀と引いて勝ち。
なんて私レベルなら、勝ったと小躍りでもしそうだが、もちろん関根がそんなヘマをやるわけはない。
▲76馬には、△79竜とスッパリ切る筋がある。
▲同玉に△98金(!)と捨てて、▲同香に△99銀と打てば、教科書に載ってる通りの、見事な必至のできあがりなのだ!
これはすごい手である。
さっきの△97銀も妙手だが、手筋だから、ひらめけば指せるかもしれないが、この△58桂成は利いているのかどうか、一瞬はかりかねるので、ちょっと思いつきにくい。
現に森下が見えなかったのだから、「62歳」関根茂の終盤力には恐れ入るしかない。
△58桂成以下、▲77歩と執念のがんばりを見せるが、△83香、▲76馬に△75銀と浴びせ倒しを喰らっては、いかな森下と言えども、いかんともしがたい。
▲同馬には△79竜、▲同玉、△87香成で、やはりお手本通りの必至がかかる。
大事な初戦を落とし、これで羽生、森下の大本命がレースから大きく後退。
その後、羽生は持ち直し8連勝で昇級を決めるが、森下は8回戦の羽生との直接対決にも敗れ(その将棋は→こちら)、まさかの1年足止めを食ってしまうのである。
(「光速の寄せ」を超えた「受ける青春」編に続く→こちら)