Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§116「銃と十字架」(ペトロ岐部) 遠藤周作, 1979.

2021-05-14 | Book Reviews
 フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えてから約四半世紀を経た1580年、日本人神父の育成機関として設置された有馬セミナリヨ。

 日本人による日本人への布教を目的とした育成に期間を要したのは、イエズス会宣教師に日本人への共感と尊重の意識が芽生えたからに他なりません。

 天正遣欧少年使節(1582~1590年)として海を渡った有馬で学んだ者から日本人神父が誕生し、再び有馬でイエスの教えを伝えた日本人のなかに13才の少年がいました。

 その少年は、恵まれぬ人への共感と尊重を忘れぬイエスの生涯を辿り独りエルサレムヘ、そしてローマで神父になりました。

 しかしながら、盤石な支配を目指した江戸幕府は「西洋の東洋侵略と基督教布教との因果関係を阻むため、切支丹禁制に踏み切った」(p.122)ため帰国は死を意味しました。

「西欧教会の過失とイエスの教えとが何の関係もないことを、身をもって同胞に証明せねばならぬ」(p.158)

 ひょっとしたら、神父となったペトロ岐部はそう結論づけたのかもしれません。

初稿 2021/5/14
写真 光の十字架〜「海の教会」安藤忠雄, 1999.
撮影 2020/6/28(兵庫・淡路夢舞台)

§115「王国への道」(山田長政・ペトロ岐部) 遠藤周作, 1981.

2021-05-14 | Book Reviews
 江戸時代初頭にかけて、海を渡らざるを得ない日本人達がいました。戦乱で主君を失った武士は傭兵となって海外に戦の場を求めて、また禁教令によって国外追放を余儀なくされた信者は救いの地を求めて。

 タイ王国の南部、マレー半島にあるリゴール国王となった山田長政。そして、陸路を約三年かけてエルサレムからローマに渡り神父となったペトロ岐部。

「ただこの二人はたがいに気がつかなかったが一点においてよく似ていた。それは狭い日本にあくせくと生きず、おのれの生き方のために海をこえて新しい世界に突入したことだった。(p.286)」

 ふるさとに戻ることが許されない武士達や信者達の王国を築こうとした山田長政はタイ王国の政変に斃れ、迫害や弾圧に怯える信者に寄り添う為に命賭けでふるさとに戻ったペトロ岐部もまた斃れた。

 ひょっとしたら、自らの心の奥深くに秘めている「影」と向きあうことによって、自らのみならず誰をも救おうとする「自己」が芽生えた時に、その「王国」が垣間見られるような気がします。

初稿 2020/04/06
校正 2021/05/14(投稿履歴修正),2022/02/19
写真 本願寺 伝道院
撮影 2018/06/21(京都・五条)